北奥法律事務所

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03月

震災の日のこと~東北地方・太平洋沖地震(東日本大震災)の被災経験~

旧HPで掲載していた、震災の日(平成23年3月11~12日)に私が盛岡で経験した出来事などを記載した文章を再掲することにしました。盛岡は停電やガソリン問題を除けば大きな被害はなく、「被災経験」と題するのは大げさかもしれませんが・・

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昨日に発生した表記の大震災については、当事務所の存する盛岡市でも震度5強とされる大規模な地震に直面しました。

幸い、激しい揺れは経験したものの、私に限って言えば、家族・実家とも人的被害はなく、物損もごく僅かに止まりました。しかし、岩手ないし東北・東日本の被害という点から言えば、沿岸部を中心に甚大な人的・物的被害が発生してしまいました。現在も救助等の活動が行われており、可能な限り人命の救助や被害の拡大阻止が図れることを願ってやみません。

また、全国・全世界の皆さんには、犠牲者・被災者及びそのご家族のため、相当なご支援をお願いしたいと願っております。

個人的にご心配をいただいた方もおられるので、取り急ぎ、土曜夜までの私個人の体験談のみ簡潔に記載したいと思います。

まず、地震が発生した午後2時50分には、出勤中の事務局2名と共に事務所で書類仕事をしており、3人とも机に隠れましたが、幸い一部の食器が破損した程度の被害しかありませんでした。

ただ、激しい振動が続いた時間が非常に長く(実感として3~4分程度)事務局長に言わせれば、このままビルが倒壊してしまうかと思ったというほどのものでした。私も、机の下でNZの映像が脳裏をよぎっていました。

揺れが収まった後、一旦ビルの外に出て近くの広場に行きましたが、街中が完全に停電し、信号機も完全に消灯していたので、修習中に旅行したインドネシアの町(交通量が多いのに信号機がなく各人が勝手に渡っている)と同じような印象を受けました。

何度か震度4、5クラスの余震がありましたが、それ以上の余震が見られなかった上、金曜の4時にある事件の期日が予定されており、その際に来週早々の期日の準備書面なども持参するつもりであったので、多分、行っても無駄だろうとは思いつつ、自転車を駆って裁判所に行きました。

当事務所から裁判所までは自転車で10分程度ですが、歩道には普段の数倍の人が歩いており、完全停電も相まって、被災地そのものという印象でした。

裁判所に着くと、予想通り、職員が次々と帰宅していたため、急いで4階の書記官室に行き、まだ残っていた書記官の方に、事情を説明して休廷を確認し、訴状や準備書面だけ受け取って下さいとお願いして、事務所に戻りました。裁判所も人的・物的被害はほとんどない様子ではありましたが、完全停電のため、階段などは真っ暗でした。

余談ながら、4時の事件の相手方代理人は東京の弁護士の方で、電話会議とせずに出廷を予定していたため、恐らくは新幹線に乗車中に地震が発生したものと思われ、同情の念を禁じ得ませんでした。

その後、事務所に荷物を置いて家族と合流しましたが、巨大な余震があると不安とのことで、少し事務所で待機した後、歩いて帰宅しました。その日は完全停電でしたが、幸い、私のマンションは帰宅後21時まで給水ができた上、ガスが止まっていなかったので、お湯を沸かして夕食を取ることができました。

自宅にラジオと登山用のヘッドランプがあったので、最低限の対処ができましたが、何度も余震があり、不安を抱えながらの就寝でした。

翌12日は、盛岡の街は平穏そのもので、行きつけのスーパーに自転車で買い出しに行きましたが、店頭で菓子類や果物、レトルトカレーなど若干の品物を販売していただけで、それでも購入まで1時間半くらい並ばなければなりませんでした。

帰宅後、今夜も停電のままかと肩を落としながら家族で夕食をとって間もなく電気が復旧しました。文明社会に復帰できたことを喜びつつも、テレビ画面で過去に何度も足を運んだことがある沿岸方面の惨状を目の当たりにし、愕然とさせられた次第です。

沿岸部の皆さん、とりわけ沿岸部在住の知人・友人や当事務所に事件を依頼されていた皆様の安否が心配でなりません。自動車で2時間程度の距離に過ぎないのに、ガス欠その他の事情で現場に向かうこともできない自分が悔しく、情けない気持ちで一杯ですが、皆さんのご無事と一人でも多くの方の救出を心より祈っています。

ちなみに、地震発生の直前に、11日付で「16日予定のJCの知事選公開討論会のPR」の日記までを書き終えて事務局に掲載要請をしましたが、もはや、それどころではなくなってしまいました(既に、延期が決定されています。知事選そのものも特例法で延期になるようです)。

震災被害者の救済が最優先で図られるべきことは当然ですが、未曾有の震災により、沿岸部をはじめ県内全域で、数十年以上に亘り様々な負の影響が生じるであろうことも危惧されます。今後も様々なことに視野を向けながら、自分の立場でできること、すべきことに全力で取り組みたいと思っています。

あの日から5年、そしてfacebookから垣間見る2つの社会

昨日(3月11日)は震災から5年目で、あのときと同じ金曜日でした。この年になると年月があっという間に過ぎてゆく感覚がありますが、今も、地震発生から翌日夕方の電気復旧までの時間については多くのことを覚えています。

あれから5年。私にとっても本当に色々なことがありました。

ただ、私に関しては、震災支援で何かを成し遂げたという類のものはほとんどなく、何をしたかと言われれば、5年間、月1、2回の頻度で丸1日かけて沿岸被災地の無料相談等に赴くなどの繰り返しだったというのが実情だと思います。

もちろん、そうした活動などを通じ、色々な問題意識を持つことはありましたが、残念ながら、私の力量不足のせいか、問題意識を多くの方に共有いただき物事の大きな改善を図るとか、それを通じて社会を切り開くとか、そうした大それた話に関わることは全くできていません。

むしろ、震災前の頃の方が、若さゆえの愚かさのせいか、そうした可能性が多少は自分にあるのではと素朴に(無謀に)信じていたのではないかとすら思っています。

正直なところ、震災そのものより、その前後で激変した我が国(や岩手)の町弁業界の環境変化の方に翻弄されてきたというのが率直な心情であり、そのことも、震災にシンボリックな負のイメージを抱いてしまうきっかけになっているのかもしれません。

私は、facebookで多くの方と「友達」になっていますが、震災の日に関しては、例年、県内の方と県外の方ではFBフィード上に表示される投稿にはっきりと違いが出ます。

端的に言えば、岩手の「友達」は今も多くの方が震災について触れますが、遠方の「友達」の方々は震災を話題にすることはほとんどなく普段どおりの投稿をしており、その点は震災から1年後の3月11日のときからはっきりとした傾向としてありました。

私の場合、フィード上に表示される投稿の比率が、盛岡で開業してから県内で知り合った地元(大半が盛岡)の方が6~7割、高校・大学や修習中などに知り合った県外の方が3~4割という感じなので、この日に限っては、まるで二種類の民族が国内に存在するかのように、そうした「投稿の違い」がはっきりと出ます。

東京や西日本などの方にとっては関心はかなり薄れているのだろうと残念に感じる面がないわけではありませんが、5年を経た今も県内の方々の投稿が震災一色になるという光景にも、それはそれで若干の違和感というか、必ずしも共感というか一体化できない「もやもや」した思いを感じる部分もあります。

もちろん、いわゆる復興の遅れも震災の風化も望ましいことではありませんし、沿岸被災地では今も急激な人口減少をはじめ様々な課題に直面していることも申すまでもなく、そうしたことに触れながら社会批判や関心喚起を訴えている投稿そのものを批判したいのではありません。

そうではなく、「facebookで投稿や情報発信をするのを好む人々」という層が、3月11日には、震災に触れずにはいられない岩手(被災県)の方々と、まるで震災そのものが無かったかのように普段どおりの日常を投稿している遠方の方々に二分化する光景を見せつけられると、ある種の無力感であるとか、社会の断絶といったものを感じざるを得ないような気がして、そのことに気が滅入る面があるからではないかと思っています。

私には、職業柄?反安倍政権などをFB上で公言する同業などのFB「友達」もいれば、逆に、右寄りの傾向を感じさせる「友達」の方もいますが、双方が対話や討論(ひいては調和や弁証法的止揚)をすることなく相互に一方的な主張に関する投稿(論者の投稿への「いいね」を含め)を繰り返している光景を垣間見ては、日々残念に感じています。

こうした例えは失礼かもしれませんが、岩手の人々と遠方の人々の震災を巡る投稿傾向の違いにも、思想信条や社会的立場を異にする人々が互いに交わることなくご自身の縄張りで自己主張している光景と、どことなく似たようなものを感じてしまう面があります。

ただ、そのようなことを述べていると「お前こそ、双方の人々とFB「友達」になっているのだから、震災絡みであれ、それ以外であれ、そうした人々をつなぐ役割を果たすことがお前の仕事ではないのか。それなのに愚痴ばかり言ってどうするのか」とお叱りを受けてしまいそうです。

まさにそのとおりで、3月11日という日は、被災者の方々とは違った意味で、私にとって、何かが止まり今も取り残されているような気持ちにさせられる、そんな無力感を強いられる日になっているのかもしれません。

もちろん、そうした後ろ向きな心情を抱いていることこそが、前に進んでいくためには最も克服しなければならないのだと、自分を叱咤しなければならないことは当然ではありますが。

本日、とあるご縁で「地域の小学6年生の卒業を祝う会」的な集まりに参加させていただいたのですが、大人が前を向いて笑顔で進んでいかなければ子供達が笑顔で育っていくことはできないだろうと、そうした思いを新たにしました。

快晴の安比に潜む妖怪「わすれん帽」に今も昔も取り憑かれた男

去年の秋に安比に行く機会があり、リフト前売券を1枚だけ買っていたのですが、行く余力がないまま本日に至ったので、通常コンディションで滑れるのは今日が最後だろうと、腹を括って行くことにしました。

昔に比べると雪質は良いとは言えませんが、数日前の大雪後の晴天ということもあり、概ね問題ないコンディションでした(深夜3時まで事務所で仕事したせいか、寝坊して昼近くに着いたのが悔やまれます)。

やはり、快晴の日に来ると、「安比に行かない岩手の冬なんて」とか「こんな日に安比に来ないなんて、あなたそれでも岩手人?」などと、どこかで聞いた言葉をもじりたくなってしまいます。

ただ、好事魔多しといいますか、今日は驚くべき事態が発生してしまいました。帰宅して車の後部座席を見たところ、スキー板とストックを持ち帰るのを忘れてしまったのです。

愚かにも、自車にスキーを立てかけておきながら靴だけ履き替えてスキーを車内に入れるのを失念して出発するなどという、先日の最高裁判決が人ごととは思えない夢遊病級の失態をしてしまったようです。

幸い、スキー場に問い合わせたところ、ほどなく発見していただき、着払いで発送していただけることになりました。

ちなみに、このスキー板ですが、18年前に指導官(検察庁での修習生の監督役)だったO検事のご推薦により当時は大通商店街にあった石井スポーツにて購入したロシニョールの板で、ストックはO検事が「ストックを買い換えたから、古いやつを修習生の誰かが買わんか」と言われて購入したものでした。ちなみに、その際に「オマケにこれも付けてやる」とタダで頂戴した紫のフリース衣料を、今日もウェアの内側に着ていました。

修習生の頃は、中3(か高1)に購入したイケてないスキーウェアの上に、修習1年目の冬にインドネシア(ジャワ島のジョグジャカルタ)で購入した、寝具用と思われる「ちゃんちゃんこ」風のフード付き衣類を羽織って滑っており、誰からも「その格好はヤバいから止めろ」とストップが入らなかったので(実際、色合いなどは違和感ありませんでした)、何年も、そのスタイルで続けていました。

が、現在では家族から強硬なクレームが入り、今はやむなく普通のスキーウェアを買って着ています。

昔から、一般的にはスキー板や靴の寿命は5年程度と言われ、それ以上を過ぎるとプラスチックが割れると聞いていますが、今のところ、板にも靴にもヒビらしきものは見えません。まあ、2年前まで10年近くブランクがあったほか、修習後は年に3回程度しか行けてないことが、延命の理由かもしれませんが。

そんなわけで、いつ買い換えるべきかと悩みながら放置し続けてしまったのですが、こんな事件まで起きてしまったので、もう、滑走中に空中分解するくらいの事態が生じるまでは使い続けようかなと思っています。

そういえば、修習生のときも、買った直後の「メガネの曇り防止のためのファン付きゴーグル」を昼食後にザイラーレストランに忘れ、ゴンドラから滑り戻ったところ神隠しに遭っていた(しかも、電池を入れないとファンが回転せず曇り防止にならないことを修習生の誰かに食事中に指摘され、結局、曇り防止機能を一度も使うことなく昇天してしまった)という出来事があったことを思い出しました。

あの日も、安比の太陽がとても眩しかったような気もします・・

地方の町弁の身内が亡くなるとき~香典を巡る雑感~

先日、県内の某先生の親御さんが亡くなられたとの知らせが弁護士会からありました。その先生からは2年前の私の父の死去時に香典をいただいていたこともあり、ささやかながら香典をお届けしました。

ただ、私の場合、香典はすべて喪主である兄に渡したので「いただいたものをお返しする」という関係はあまり成り立っていません。さすがに兄に「私の関係で頂戴した香典は返せ」などと文句を言うわけにもいかず、ケチで貧乏な身の上には多少のトホホ感もないわけではありません。

反面、気楽な次男だからこんなことを言えるのだということも、私の実家のような「古い家」では、また真実なのでしょうが・・。

ちなみに、地方ではお身内が亡くなると岩手日報などに死亡広告を載せる方が多いと思いますが、岩手弁護士会の場合、会員(弁護士)についてそうしたものが載ると、問答無用(本人に確認なし)で、全会員にFAXが流れるようです(なお、ご本人が亡くなられた場合は、東北では6県の弁護士全員にFAX送信しています)。

少なくとも、私の父が亡くなったときは、兄の判断で私の名前も新聞の死亡広告に載せたため、私が知らぬ間に流れた弁護士会の通知を通じて、多くの同業の皆様から香典をいただいたのですが、上記の事情(喪主でなく香典をいただく立場ではない)から、私の名前は見なかったことにしていただきたかった(せめて、FAXの前にご一報いただきたかった)というのが正直なところではあります。

もちろん、弁護士会にロクに顔を出さない窓際会員の私にも多くの方々から香典をいただいたこと自体は、大変ありがたく、他の関係でいただいた皆様も含め、今も恐縮しているところではあるのですが・・

個人的には、直にお世話になったリアルな人間関係のある方が亡くなられた場合には、葬儀に出席するなどしなければとは思うのですが、お身内の方の葬儀等については、喪主の方との仕事上など特別な関わりがない限り、互いに気遣いをしなくともよいのでは(そうした文化は、昔はともかく現代では廃れていってよいのでは)と思っています。

さらに言えば、葬儀に多額の費用を投じたり香典などというお金のやりとりをすること自体が、文化として止めてもよいのでは(そんなことに金を使っても、今をときめく?葬儀業者の皆さんが喜ぶだけで、主役というべき遺族関係者にとっては面倒が増えるだけなのでは)というのが、曲がりなりにも葬儀というものを経験した「すれっからしの合理主義者」の率直な本音ではあります。

さらに余計なこと?を言えば、ご収入の多くないご年配の方で、冠婚葬祭の負担が多くて家計がおかしくなったという債務整理絡みのご相談を受けた記憶もあるように思います。

仕事柄、相続に関する紛争についてご相談を受けることは日常的にありますが、時には、葬儀費用を巡る紛争であるとか、葬儀の際に遺族などに口論が生じて紛糾したというお話を伺うこともあります。

そうした場合には香典は喪主に帰属すると判断するのが裁判所の通例であるとか、葬儀費用に赤字が出れば喪主が自己負担せず相続財産から負担する方向で協議することが多いので、そうしたことも斟酌して協議するのが望ましいなどとお伝えすることにしていますが、そもそも、高額な金のやりとりがなければ、そうした問題も起きないのにと感じることも少なくありません。

私自身は長寿には関心はないものの、可能なら意識だけが幽体離脱するようなものも含めて人類の最期まで見届けたいという願望だけはあり、結論として、リアルな関係のある方がすべて亡くなられるまでしぶとく生きて、その代わり、死亡時は往時の私を知る人が誰もいないので、葬儀等は一切せず後始末を担当するどなたかが荼毘に付して終わり、というのが一番望ましいのではと思っています。

冬季事故渋滞の巣・住田町荷沢峠と改善策など~被災支援の地元弁護士の一コマ~

本日は法テラス気仙の相談担当日のため朝から大船渡に向かい、いつもどおり宮守ICから遠野の小友町経由で住田町の荷沢峠を下るルートをとりましたが、峠の下り坂に入って間もないところで突如、渋滞に遭いました。

この峠は冬季は凍結等によるスリップ事故の多発地帯で、震災に伴い大船渡や陸前高田の相談を担当するようになってから、この時期は何度も脇道に乗り上げた車両などを見かけています。

ですので、今回も恐らく同様と思われますが、事故で道路全体が塞がれてしまったのか延々と停車状態が続き、30分以上待っても動く気配がなく、どこで事故がおきたのか(現在の位置が渋滞の始点から何㎞地点なのか)も全く分からず、どれだけ待てば解消されるかも目処が立たなかったので、やむなくUターンし、宮守ICに戻って遠野IC→仙人峠道路入口→住田町という遠回りルートで大船渡に行きました。

そのため、ただでさえ盛岡・大船渡間で片道2時間を要するというのに、これに加えてトータルで2時間近くもロスし、午前中の相談予約の方は、やむなく午後に変更して対応いただきました(幸い、午後の予約が少なく、その点は助かりました)。

で、法テラス気仙に来てから事故情報が出ていないかネット検索したところ、今回の渋滞のニュースは見つけることができませんでしたが、その代わりに、過去の同じ時期に荷沢峠で生じた事故で渋滞被害に遭った沢山の方の怨嗟の声が見つかりました。

釜石道は、先般、遠野ICまで延伸されたものの、大船渡・陸前高田方面に向かう人にとっては、今後も荷沢峠方面が主要ルートであり続ける可能性が高いでしょうから、国道管理の関係者や「復興支援」としての道路対策を掲げている方々などにおかれては、事故渋滞対策を真剣に検討いただきたいものです。

さすがに、原資(税金)を考えると、釜石道から分岐した高規格道路というのは無理なのでしょうけど、峠の坂道のうち上りルートを登坂車線を含めて2車線化すれば、下り側の車両にとっても道幅が広くなり、事故渋滞のリスクはかなり減るのではと思われます。

ただ、事故そのものは撲滅困難でしょうし、道路の拡幅などもすぐにできることではないでしょうから、直ちにできる策として、この道路を通って気仙方面に向かう方(逆を含め)に、事故直後から事故による通行不能の情報を早急に伝えて別ルート(遠野IC廻り)を促す仕組みの強化が必要ではと感じます。

例えば、釜石道に事故情報を表示するなら今でもできることでしょうが、宮守ICと荷沢峠は片道20分程度は離れており、高速道路の管理者側の対応の問題なども含めれば、迅速な対応は難しいでしょうし、見落としの問題などもあり、対策としての実効性はあまりないと思います。

それよりは、事故渋滞などの情報が、なるべく事故直後の時点で、走行中の車両のカーナビ(や携帯電話)に警察や国道の管理事務所からダイレクトに送信され、画面にはっきりと表示されるような仕組みがあれば、とても有り難いように思います。

携帯電話であれば、すぐにできそうに思うのですが、まだそうしたサービスは提供されていないのでしょうか?或いは、信頼できる民間業者が情報提供の全般を担当しサービスの質などで行政と競争するとか、行政は情報の把握や公開だけを担当し、これを利用者に届けるサービスは民間が行うなどの仕組みもあってよいと思います。

とにかく、一定の時間までに目的地に着かなければならない長距離ドライバーの立場からすれば、「迂回路」が近くにはない山間部の国道の事故渋滞のような「分かった時点では進むも退くも地獄」という事態は非常に困りますので、渋滞地点に到着するよりも遥かに早い走行中の段階で事故渋滞の情報(復旧予定時刻に関する見通しなども含め)を提供いただき、他の迂回路を早めに選択できるよう、「ICT革命」を起こしていただきたいと願っています。

ちなみに、本日の法テラス気仙の相談内容は、「お子さんがいない高齢の方の相続のあり方が主たる課題であるもの」が多く寄せられ、現時点で相続が生じた場合の見通しのほか、お住まい(借地)の原状回復の問題や養子など、関連する様々な論点や選択肢を説明し、まずはご自身や承継者となりうる方と協議して、どのような相続などの形を望むのか(目的)をはっきりさせてください、現行法のどのような制度を利用できるかという話はその後のことですよ、と毎度ながら説明しました。

こうしたケースでは、兄弟姉妹も高齢のため、甥姪などに後事を託さざるを得ないものの、問題の所在や対処のあり方などについて認識の共有や協議がなされておらず、そうした方(事後対応のメイン人材)の同席がないことがとても残念と言わざるを得ないことが通例という現実があります。

いつも書いていることですが、福祉的なものや地域のつながりなども含め、高齢者の方のご相談は、お一人ではなく適切なつながりのある方とご一緒にお願いしたいと繰り返し述べざるを得ません。