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批評

東大全共闘が問うた三島由紀夫の自然観と、豊饒の海へのもう一つの道

先日(11月25日)は三島由紀夫の命日(三島事件の勃発日)とのことですが、数ヶ月前、彼と東大全共闘の討論を収録した映画を拝見しました。

冒頭で、三島由紀夫が人間の意思とエロティシズムの関係性を論じる一幕があり、そのあたりは言葉としても分かりやすく、それが三島文学の核心ではと感じていたこともあり、エロティシズムなんて言葉を聞いた懐かしさ(大学以来)もあって、聞いていて心地よい面がありました。

(要は、互いに相手を尊重し自由に生きたいはずの人間同士が、一方が他方を抑圧したり相手もそれを受け入れずにはいられない精神性を抱えており、そうした倒錯や奇形が出現する光景の中に潜む人間の心をゾクゾクと刺激し時には美しいとすら感じさせる得体の知れない何かを追求しているのが三島文学では、との理解によるものです)

反面、その次のパートで、「人間と自然との関係について論じて欲しい」という学生からの要望があったのですが、それに対する三島の回答は、「風光明媚な光景だけでなく都会のビル群もまた自然だ」「機動隊の制圧行為(のような人間の営み)も自然の姿の一つだ」などというもので、陳腐というか、はぐらかしているだけのような、聞いていてつまらないと感じるものでした。

そのため、東大全共闘側は、討論で打ち負かしたいとの気概で招聘したのでしょうから、ぜひ、このテーマ(自然観)を深掘りすることで三島を追い詰めて欲しかったのですが、上記の質問をした肝心の学生さんからはその後に発言がなく、そのテーマはそこで終わりとなったので、その点は残念でした。

その後は、全共闘随一の論客を自負する御仁が、いかにも当時流行りのマルクス主義的な用語を連発して別の議論を始めて、三島もそれに応戦して論客氏との難解(あるいは不毛・グダグダ)な討論が続いたので、パフォーマンスはともかく中身の面では感銘を受ける面は少なかったと思いました。

(論客氏はインタビューで現在も壮健な姿を披露されており、言説云々はさておき行動の面では三島と同じ「自分の看板で世間と闘う」人生を続けたのはこの方のみでしたので、その点は大いに感銘を受けましたが)

終盤の三島の天皇論は引き込まれるもので、学生側が内実ある応戦ができず独壇場となったことも含め、相応に見応えがありました。

ともあれ、作品を通じて最も感じたのは、人間や人の営み(国家など)の精神性に対する故人の洞察の深さ・感性の鋭さと、それと対をなす「人にあらざる存在への関心の低さ(のようなもの)」という点でした。

三島文学は、しばしば高度に技巧的であるとか、悪く言えば人工的で作り物のような印象を受けるなどと言われますが、そのことと、映画で受けた故人への印象には、通じる面があるように感じました。

それと共に、三島由紀夫が、いびつさ・厄介さを何らかの美意識と共に抱えずにはいられない人間の精神と、それらを包み込む「人にあらざる存在の世界」との関連性、後者が前者を包摂し、時に後者が前者を生み出し、苦しめ、救済し、或いは双方が互いを刺激し、新たな可能性を切り開くような光景にもっと着目していただければ、彼はあのような結末を迎えることなく、別の形で「豊饒の海」に辿り着くこともあり得たのではと感じる面がありました。

***

故人は最後に、私は諸君の熱情を信じます、これだけは信じます、と言い残して去って行きます。

この言葉が作品のハイライトでもあり、今もなお、様々な立場にかかわらず三島を思い、何かを語るという形で人々を共闘に導いているのだと思います。

十数年前、詩のボクシングという番組がTVで取り上げられていたのを見たことがありますが、本作はそれに類するように感じました。

東大全共闘は三島由紀夫と熱情をぶつけ合うことを通じ、多くの面々が当たり前の日常、真っ当な人生に回帰できた。その機会を得られなかった多くのロシア人は、プーチン達に言われるがまま今も悲惨な戦場に盲目的に赴いている。

この二つの落差を次の世代に伝えていくことも、我々に課された役割の一つなのかもしれません。

作品をご覧になった皆さんの心には、何が残りましたか?

 

芥川賞受賞作「影裏」の映画試写会の感想と、現代に甦る三島文学の世界?(改)

昨日、芥川賞受賞作を原作とする大友啓史監督の映画「影裏」の完成披露試写会が盛岡市内で行われ、とある事情により招待券をいただいたので、拝見してきました。司会の方によれば、一般向けの試写会はこれが初めてとのことです。
https://eiri-movie.com/

冒頭に主演のお二人と監督のご挨拶もあり、ご本人達のオーラもさることながら、職人気質の優等生的な綾野氏と不思議ちゃんキャラの龍平氏が対照的というか、作品とも通じる面があり、興味深く感じました。

作品の説明は省略しますが、純文学そのものという印象の原作を忠実に映画化した作品という感があり、(見たことがありませんので何となくですが)昔でいうところの小津映画のような作品なのだろうと思います。

言い換えれば、ブンガクの世界に浸ることができる人には見応えがあり、そうでない人にはとっつきにくい面はあるかもしれません。

ただ、(ネタバレは避けますが)冒頭の主人公の自宅の描写(映像)にやや面食らうところがあり(作品のテーマを暗示しているわけですが)、綾野氏ファンの方や「筋肉体操の方々よりも細身の男の生々しいカラダが見たい」という方(おばちゃんとか?)にとっては、必見の作品ということになるかもしれません。

全くそうではない私のような者には冒頭は少ししんどいですが、目のやり場に困ったときは、カルバンクラインの文字だけご覧ください。

この作品では主人公が抱えた特殊な事情が重要なテーマになっていますが(原作を読む前からWEB上で散々見ていたせいか、初稿では自明の話と思ってストレートに書きましたが、同行者から「それこそネタバレだ」とクレームを受けましたので、一応伏せることとしました)、小説よりもその点が生々しく描かれているというか、主人公のキャラクターや振る舞いは、流行りのアルファベットよりも、その点について日本で昔から使われている言葉に馴染むような気がしました。

と同時に、もう一つの軸は、震災というより、相方である龍平氏演じる男性の特異なキャラと生き様であり、それを一言で表現すれば、「虚無(又は滅びへの憧憬ないし回帰)」ということになるかと思われます(この点も書きたいことは山ほどありますが、一旦差し控えます)。

で、それらのテーマからは、かの三島由紀夫が思い浮かぶわけで、小説版ではその点を意識しませんでしたが(そもそも、私は三島作品を読んだことがほとんどありません)、映画の方が「三島文学ちっく」なものを感じました。

とりわけ、本作が「主人公たちが無邪気に楽しむ岩手の自然や街並みの風景」を美しく描くことにこだわっているだけに、「文学的な美」という観点も含めて、この映画は、意図的かそうでないか存じませんが、「生きにくさを抱えた美しいものたちと、それらが交錯する中で生まれる何か」といった?三島文学的な世界観を表現しようとしているのではないかと思う面はありました。

もちろん、「若者は、本当に好きな人とは結ばれず、折り合いがつく相手と一緒になるだけ」というオーソドックスな(ありふれた?)恋愛映画との見方も成り立つでしょうから、そうした感覚で気軽に楽しんでもよいのではと思います。

私は昨年に原作を読みましたので、原作との細かい異同を垣間見ながら拝見しましたが、同行者は全く原作を読んでおらず、「一回で理解しようとすると疲れる映画」と評していました。この御仁が「ここはカットしても(した方が)よい」と述べたシーンが幾つかあり、それが悉く原作にはない映画オリジナルのシーンでしたので、その点は、同行者の感性を含めて興味をそそられました。

個人的に1点だけ不満を感じた点を述べるとすれば、龍平氏(日浅)にとってのクライマックスシーンで、「あれ」を全面的に描かないのは、ストーリーの性質上やむを得ないとは思うのですが、できれば、直前ギリギリまで、言い換えれば、引き波が姿を現す光景までは、主人公の想像という形で構わないので、描いて欲しかったと思いました。

原作には、主人公が、日浅の根底にあるメンタリティ(倒木の場面で交わされた言葉と思索)を根拠に、日浅は「その瞬間を自らの目で見たいと思うはずだ」と語り、その瞬間を目にした(直に接したのかもしれない)日浅が浮かべたであろう恍惚の表情を想像したシーンがあったと記憶しています。

私は、巨大な虚無を抱えた日浅が圧倒的な光景の前で恍惚の表情を浮かべる光景(そこには虚無の救済という三島文学論で語られていたテーマが潜んでいるはずです)こそが本作のクライマックスではないかと思っていましたので、その点が映画の中でストレートに描かれていないように感じたことには、映像化に難しい面があるのだとしても、少し残念に思いました(日浅の思想自体は、映画のオリジナルシーンで、ある人物が代弁しています)。

とはいえ、「性的な面が意識的に描かれる主人公と、全く性の臭いを感じない日浅」という点も含め、作品全体を通じて不穏・不調和な雰囲気が漂う本作は、通常の社会内では品行方正に生きているのであろう主人公が抱えた「本当はこの社会が自分には居心地の悪い世界だということ」、そして、主人公にとっての平穏ないし救いもまた、社会の側(映画を見る側の多数派)にとって、どこか居心地が悪く感じるものなのだろうということを、主人公のコインの裏側のような存在であるもう一人の人物(本当は社会と不調和を起こしている主人公の代弁者のような役割を担っているように見えます)にとってのそれも含めて映像として描いている作品であることは間違いなく、大人向けの純文学の映画としては、十分に見応えがあるのではないかと思います。

ちなみに、この映画は、とある理由で、中央大学法学部のご出身の方には、ぜひご覧いただきたいと思っています。そして、この大学(学部)のカラーが「やるべきことを地味に地道に積み上げて、あるべき場所に辿り着く職人」だということを知っている人には、この映画のあるシーンを見たとき、敢えてウチの看板が使われたことの記号的意味に想像を巡らせながら、苦笑せざるを得ないものを感じるのではと思います。

原作では、大学名が出ず法学部政治学科とだけ書かれていましたが(映画では学科の表示があったか覚えていません)、それだけに、中央大学法学部政治学科卒で、しかも心に何らかの虚無を抱えて生きるのを余儀なくされている?ホンモノの岩手人としては、余計なことをあれこれ考えさせられる面があったように思います。

あと、せっかくなので、ご覧になる際は、エンドロールを最後の方まで目を凝らしてご覧くださいね、というのが当事務所からのお願いです。

余談ながら、試写会なるものに参加したのは初めてですが、終了時に関係者の方から「これで終了です。ご来場ありがとうございました」のアナウンスがあった方がよいのでは?と思いました(終了後も何かあるのか、そうでないのか分からず、帰って良いかそうでないのか判別しかねますし、試写会なので、最後に関係者の一言で皆で拍手する?といったやりとりもあった方がよいでしょうから)。

最後に、私の密かな野望である「大戦の戦渦からシンガポール植物園等を救った田中舘秀三教授の物語」の映画化は、いつになったら実現できるのやらという有様ですが、大きな代償と引き換えに?、某プロデューサーさんによれば、企画案自体は監督にも伝わったとのことです。願わくば、「男達の熱い物語」の作り手として現代日本に並ぶ者がないであろう大友監督の作品として、いつか世に出る日が来ればと、今も岩手の片隅で願っています。