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権威と権力の分立

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第4回)

安倍首相の国葬について、前例との違いや天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の最終回であり、今回の国葬実施の背景に天皇制(現行憲法スキーム)の存続に関する国民の不安があり、それがオルタナティブな権威の渇望という形で具現化されたのでは、という仮説を述べて締めくくっています。

5 それでも今回、国葬が大過なく実施できた、もう一つの理由

今回、国葬が決定された理由は、死去直後には衝撃的な事件内容を理由に、自民党・政権中枢や支持者からの強い希望があり、その時点では統一教会を巡る一連の問題への世論の批判もさほど大きくなく、国民の支持が得られると岸田首相が判断したためとされています。

そして、その後、統一教会問題を巡る膨大な報道を通じて批判・反対の声が強くなりましたが、国民的な反対運動や倒閣運動などが生じることはなく、国葬の実施後、国民の関心も急速に萎んだと思います。

要するに、国民一般の多数派は「安倍首相への哀悼自体は当然でも、今回の件で国葬をするのは違和感あり」と感じつつ、「それは国家・国民への重大な背信とまでは言えない(政治家が行う数多の失策?の一つに過ぎない)」という感覚なのだろうと思います。

ただ、相応の反対の声が出た一方で、つつがなく国葬が行われ、批判の声が続いているわけでもない、という現象を見ると、国民の多くは、国葬に違和感を持ちつつも、敢えて、それを許容せざるを得ない理由・事情も感じているのではないか、という気もするのです。

それも、安倍政権への評価や統一協会問題などという、今回だけの、誤解を恐れずに言えば表層的な話だけではなく、国葬という儀式・制度・システムの本質に関わる問題として、天皇以外の存在への国葬を模索せざるを得ないと感じる国民が一定程度存在するのではないか、そのことが違和感を感じながらも今回の国葬を国民が受け入れたもう一つの理由なのではないか、というのが本項の主題です。

すなわち、皇室の権威力(国民統合を実現する力)が以前より弱まり、天皇家・天皇制自体の継続の危機すらも語られるようになった社会で、国民の側も、国体存続への不安から天皇に代わりうる国民統合の象徴的存在(大統領など)を無意識下?で模索する希望があるのではないか、そのことも、本来なら国葬の対象にならなかったかもしれない安倍首相を「国葬される地位」=権威的存在に押し上げた理由の一つではないか、というのが私の見解です。

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既述のとおり、国葬には、対象者を特別な存在・みだりに批判すべきでない偉い存在として祀るための儀式・装置たる機能があります。戦前のような「軍神○○神社」が創建されるかはともかく、被葬者は一般の国民とは違う特別な存在(身分)なのだと位置づける機能があることは否定し難いはずです。

それは、本来の対象者たる天皇が、まさに特別な存在(現人神=神の依代)だと認識されていることに基づくもので、日本では、上記3=連載第2回の第2・第3類型としての国葬は、本来は天皇に対して行われる儀式(第1類型たる国葬)に連なる儀式を特別に付与するもので、いわば、天皇が独占する国家の権威を多少とも対象者に分けてあげるような性質を持つと言えます(だからこそ、国葬の濫用は、天皇に専属する国家の権威の濫用に該当することになります)。

ただ、肝心の天皇の権威(国民の統合力)そのものが低下した場合はどうか。

国家(という人民の統合装置)を存続させるために、天皇の代わりになる新たな権威(統合の象徴的存在)を求める動きが生じるはずであり、すでにそれは「現行天皇家が皇統を引き継げなくなった場合の旧皇族の皇籍復帰(養子ほか)の議論」などの形で、すでに始まっていると言えます。

今上天皇陛下の人徳や権威力(国民統合の力)に対し疑義を挟む国民はほとんどいないでしょうが、次世代の天皇家はどうなってしまうのだろう、という不安もまた、女性・女系天皇などを巡る議論の賛否に関係なく、多くの国民が感じていることは否定できないでしょう。

今上天皇の即位式の実況中継を拝見した際、天皇とは現人神(神の依代)であり、敢えて誤解を恐れずに言えば人柱でもあるのだろうと、神々しさと気の毒さを強く感じましたが、日本国民が、そのような存在としての天皇を必要としなくなる(天皇に頼らなくとも国家としてやっていける)には、まだ数百年以上の時間を必要とするのでは?と感じないでもありません。

私自身は、天皇承継などを巡る議論に関しては、現行天皇家(現皇室一門)の方々の気持ちや尊厳がなるべく尊重されるべきとのスタンスですが、ともあれ、仮に、現皇室一門で天皇制を維持することが困難となり皇籍離脱した旧皇族が養子などの方法で新たな天皇・皇族を形成する展開になった場合には、果たしてその方々が「国民統合の象徴」の認知を国民から受けることができるか等、天皇制ひいては国家体制の存続に重大な危機が生じることは間違いありません。

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仮に、天皇制が継続できないのであれば(天皇の担い手が現れず、或いは旧皇族を含めた一族全体が国家運営からの総撤退を希望する事態になれば)、大統領制などの検討もしなければならないのでしょうが、それこそ二千年も続いた国家体制の抜本的変更になり、国民的議論などという生易しいものではない、長期内乱や国家消滅(他国併呑)なども含む、凄まじいリスクが避けて通れないでしょう。

そのため、これからの数十年間の日本では、大きな変化・動きが生じるのに先立ち、天皇など権威部門(国民統合部門)に関する、幾つかの実験的な試みが生じるかもしれないと感じています。

大統領制はさておき、例えば、首相公選制に関する議論は復活するかもしれませんし、議院内閣制や国会など統治機構の主要部門も、一定の影響を受けて改革すべきとの議論も力を持ちそうな気もします。

今回の安倍首相の事件で、国葬の議論を最初に目にしたとき私が抱いた感想は「国葬って大統領に対して行うもんじゃないのか、それって天皇制をとる日本では大丈夫なのか」というものでした。

安倍首相に「国葬」という儀式が選ばれたのは、或いは、現皇室(天皇制も?)終焉の可能性を人々が感じているから、それに代わる権威を求める国家・国民の不安感や依存心が、安倍首相の国葬(国家の威光を用いた顕彰)へと人々(支持者)を駆り立てた面もあるのでは(今回の国葬は、ある種の実験だったのでは)と述べたら、それは言い過ぎでしょうか。

私は、生前の安倍首相を一部の「ネトウヨ」などが礼賛する光景は彼らの政治家への依存心のようなもので、それを引き受けていた安倍首相・自民党側にも共依存のような関係性があると感じていました。

が、国家(人民統合装置)自体への依存心は、天皇であれ五輪やW杯などの類であれ、私を含む他の人々も、さほど違いはないのかもしれません。

6 天皇制(権威・権力分立社会)の終わりの始まりか、再構築の入口か

安倍首相の「国葬」は、最高権力者であった同氏に国家による権威を付与するという意味で、あたかも大統領に祭り上げるような面があります。皇室の藩屏という役割がなくなった戦後日本では、なおのこと、国葬を通じた有力政治家の権威化は大統領制に通じる道というニュアンスを帯びそうな気がします。

権威と権力を分立する社会を望むなら、権力者の権威化は避ける(天皇の名のもとですらない国葬はしない)のでしょうし、権威と権力が一体化となる社会(戦前日本や大統領制)では、権力者の権威化(それに国民が信服し統合=団結させる)装置としての国葬は活用されやすい、と言えます。

このような「権威と権力を分立させる社会・させない社会」という視点で今回の国葬問題を語る視点・議論は、あって良いのではと思います。

ともあれ「国葬とは原則として天皇にしか許されないというのが戦後日本人の感覚ではないか」との私の見解(推論)からは、有力政治家の国葬が多用され、それを国民が支持するようになった場合、天皇に専属していたはずの国家の権威者たる地位が分散・分属されるようになり、やがて天皇制の終焉(国民が天皇を必要としない社会)にも繋がりうるのではないか、という印象を受けます。

別な観点で言えば、現行皇室の(男系?血筋)が存続できず、国民が直ちに権威を認めることが難しいかもしれない皇籍離脱者などが「新たな天皇家」になった場合、国民は、有力な首相などを天皇(国民統合の象徴)の代替として権威化しようと欲するのではと思いますし、その傾向が強くなると、やがて国家組織(国民統合装置)としての天皇制の不要論に行き着くこともありうるように思います。

そして、象徴天皇を奉じつつ有力政治家などにも国家存立・統合のシンボルとしての権威性を認めていく社会になれば、それは権威の分属・分立であり、それこそ内乱の火種になるか、そうでなくとも日本の国家制度・統治機構のあり方を大きく変える端緒になりうるような気がします。

日本国は、天皇のもと権威と権力が分立する社会を続けるのか、続けることができるのか。それとも、双方の分立(役割分担)を定めた天皇制を廃し、国家の権威と権力の双方を具有する大統領を国民の支持などにより擁立する社会に切り替えるのか。

それとも、第三の道があるのか。それは良好な道か、悲惨な道か。

今回の安倍首相の国葬は、いつの日か、そのプロローグとして歴史家に語られる日もあるかもしれません。

 

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第3回)

安倍首相の国葬について、各種前例との異同や天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の第3回目であり、今回は、主として戦後日本のスキーム(象徴天皇制や現行憲法に基づく「権威と権力の分立」)との関係性について述べます。

4 現代日本で国葬が行いにくい(盛り上がらない)固有の原因

ともあれ、今回の国葬は粛々と行われ、当日は故人を慕う多くの人々の参集もあったようですが、国民全体として見れば、国葬への社会的支持は乏しく、「盛り上がらない国葬」「自民党や支持者・関係者の人々だけの国葬」という面は否めなかったと思います。

ただ、吉田首相の国葬の実施状況を巡るWeb記事によれば、吉田首相の国葬もさほど盛り上がらず、尻すぼみに終わった(ので、その後、国葬が慣行として行われない状態が延々続いた)のだそうです。

そのため、現在の日本社会では、国葬という儀式そのものが、国民の支持を受けることが難しいのではないかと感じる面があります。

その原因は、国葬という手続が、性質上、被葬者を何らかの形で権威化する(死後も国家・社会を支えるものとしての権威ある存在、批判を避けるべき存在として祀る)ことを目的とすることに由来しているように感じます。

そのため、そのような儀式(国葬)は、現代日本(戦後日本)では、国家を代表する者・国家が掲げる価値観などの体現者だと国家・国民が認めることができる者(存在)=国葬を通じてその者を「権威ある=一般国民とは身分が違う特別な存在」と位置づけるのが許される唯一の存在である、天皇(及びそれに準ずる皇族)にしか認められるべきではないという国民感情が、社会の底流にあるのではないか。

これが、安倍首相であれ吉田首相であれ、現代日本で国葬が盛り上がらない根本的な理由ではないか、というのが私の見解です。

言い換えれば、誰であれ天皇と特別な皇族以外の者を「国葬」という形で祭る=権威化するのを、現行憲法・社会は想定していないのかもしれません。

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そもそも、象徴天皇制とは、天皇に一切の権力を認めない代わり国民統合のための権威としての役割・機能を徹底的に認めるものと言えます。裏を返せば、権力機関たる三権の長などには権威者(批判を許さない存在)としての役割を認めず、権威の機能は天皇に独占させることが予定されています。

権威者たる天皇は、権力を持たないからこそ国家運営(権力行使)に携わることがなく、それゆえ国家運営の失敗に責任を取ることがありません(天皇の無答責)。

国家機構の一部門という観点からは、この無答責(退位など、責任をとる制度がないこと)こそが、他の国家部門と比べた天皇の最大の特色と言ってよいと思われます(裁判官にも強力な身分保障がありますが、定年と熾烈な能力審査のほか、再任審査も一応あります)。

戦前=明治憲法でも天皇の無答責が定められていましたが、それは、天皇が神聖=無謬=誤るはずのない存在との前提に立っていたからで、前提自体はひっくり返りましたが(憲法学では、8月革命などと呼びます)、無答責という結論自体は全く変わりません。

そして、理屈(前提)のひっくり返りこそあれ、戦前も戦後も、国家運営に失敗があれば、天皇はその責任を負わず、権力機構の運営者≒政治家が負う(べきとされている)点は同じと言えます。

言い換えれば、日本の政治家には権威がないからこそ責任を迅速に取らせることが可能であり、戦前・前後問わず日本の首相の大半が短命なのは、「権威がないので地位の継続性の担保が弱く、世間の不満に伴う責任を取らされやすい=地位を追われやすい」ことが根底にあると思います。

ともあれ、戦後日本の国家体制は、天皇から一切の権力を剥奪した上で権威の頂点(拮抗する権威者がいないという点では唯一無二の権威)とし、それと対をなすように、権力を行使する国家組織(立法・行政・司法の三権=議会とお役所)は、国民に対する権威(威光・信頼)という点で、天皇に遠く及びません。

司法(裁判官)は、政治部門に比べて一定の信頼はされているでしょうが、それと同時、或いはそれ以上に、畏怖・嫌悪されている面があります。

司法には一定の権威が認められていますが、その権威は、情ではなく理屈を基盤とし、「この理屈(裁判官の判断)が通じない奴、言うこと聞かぬ奴は黙って従え」という高圧的な面(エリート支配の負の側面)も見え隠れするため、「国民との感情的な信頼関係・共感(天皇家が「国民の本家」のようなイエ意識)」を存立の基盤とする天皇の権威とは、かなり性質が異なるように思います。

もちろん、今の社会で最高裁長官その他の司法関係者を国葬したいなどと言い出す人は誰もいないでしょう。

結局、象徴天皇制を基礎とする現在の社会体制が盤石なものとして永続する限り、「この国では国葬とは天皇に行われるべきものだ。それ以外の人間の特別扱いは不要だ」という天皇のもとの平等思想が国民の総意として今後も存続し、よほどの事情がない限り、国葬をやろうとする人は出て来ないのではと思われます。

(井沢元彦氏の「逆説の日本史」でも、天皇が平等化推進体としての役割を果たしてきたとの視点が述べられており、これは日本の社会思想史ではよく語られていることだと認識しています)。

(以下、次号)