北奥法律事務所

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渋民

玉山区渋民に作る道の駅を「もりおか」と命名してよいのか

先日、国道4号線渋民バイパスに2年後に開業する道の駅の名称が「道の駅もりおか(仮称)」となっているとの報道を拝見しました。
https://www.navitabi.jp/article/4086
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/tamayama_office/oshirase/1018577/1028793/index.html

しかし、建設予定地は旧渋民村であって本来の意味(地名)の盛岡(不来方)とは遠く離れています。本来の盛岡とは、盛岡バイパスと北上川に囲まれた、盛岡城を中心とする地域を指すと理解しており、この地に建設する道の駅に相応しい名称ではありません

これまで盛岡市に道の駅が存在せず記念すべき第一号だから、というのが命名の理由なのでしょうが、これでは、千葉県所在の東京ディズニーランドや東京ドイツ村の劣化コピーと言うほかありません。

民営企業ならまだしも行政主導でそうした名称が選択されたのでは、多くの旧玉山村民の郷土愛を傷つけるのではと危惧します。

とりわけ、この道の駅は旧玉山村では主要な公共施設の一つになるでしょうから、その名称が地域固有の地名ではなく合併相手である都市名が付されること自体、植民地化を見せつけられているような印象を受けます。

旧玉山村は、合併直後から岩手町との境に遙か遠く離れた盛岡城を象る境界標識が設けられ、それまで玉山牛と呼ばれていた特産牛が「もりおか短角牛」と呼ばれるようになるなど、合併以来、地域のアイデンティティの育成よりも喪失を来すような同化政策が進んでいるように感じます

日本弁護士連合会・公害対策環境保全委員会では、数年前から「広域合併により過疎地域の衰退が激化した」と警鐘を鳴らしていますが、両市村の合併も、その一例と見るべき余地があるのかもしれません。

近年の盛岡市の観光政策は、県民統合の象徴とも言える城址公園を筆頭に、様々な事柄に「もりおか」と名付けることを「ブランド化」として推進しているようにも感じますが、生物多様性ならぬ「個別地域ごとの様々な物語」を大切にして世間に問う方が、結果的に「大・盛岡市」の発展に繋がるのではと残念に思います。

仮称はさておき新施設の正式名称は「道の駅しぶたみ」又は、岩手町に倣い「啄木望郷の丘」などと名付けた方がよいのではと思いますし、地元の方々にこそ、そのような声を挙げていただければと願うところです。

広域合併論議が盛んなりし頃、当時の滝沢村や矢巾町も選択の岐路に立っていたと思いますが、こうした光景を目にする都度「やっぱり合併しなくて良かった、自分達の名前を失わずに済んだ」と感じているのかもしれません。

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仮に、関東や西日本など遙か遠くの方々に新施設の認知度を獲得することを新たな道の駅の目的とするなら、盛岡の名称を何らかの形で用いるべきとの意見は、相応に正しいことになるのだろうと思います。

その考え方からは、折衷案で「道の駅もりおか渋民」などという落としどころになりそうな気もします。

正式名称は、いっそ

道の駅もりおか渋民
啄木の今もなつかし故郷の丘

などと、日本一長い?名称を付していただいても良いかもしれません。

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ともあれ、合併前の玉山村民・旧盛岡市民に限らず、県民など新施設の所在地の基本的な地名を理解している人からすれば、なんでココが盛岡、という違和感はあるところで、どちらを重視するかは価値観の違いが出そうな気がします(さすがに「道の駅もりおか」があるので、そこが中心部だと勘違いして来ました、という人はいないかもしれませんが)。

少なくとも、あの場所を「もりおか」とするのは、道の駅区界高原や「やまびこ館」を、合併を理由に「道の駅宮古第二・第三に改称しました」と言うようなもので、それって誰のためにもならんのじゃないか、と感じます。

また「道の駅もりおか」を作りたいなら盛岡バイパス付近にこそ作って欲しいですし、盛岡市民にとっては、その場所のためにこそ「大切にとっておくべき名称」だと思います。

ご承知のとおり、盛岡バイパス南側(455線以東南)や岩山周辺は、他エリアと比較しても極端に飲食施設などが少なく「まち」としても残念な(再開発があって良い)エリアだと思いますので、可能なら岩山直下の山林エリア(附属中と新庄浄水場の間)または旧市営球場などを候補地として開発するというのも、考えてよいのではと思います。

前者なら、すぐそばにある休眠中の旧橋本美術館の再始動などに繋がりそうな気もしますし。

 

啄木の未完の志とふるさとへの宿題

今年のGWは遠出ができなかったので、せめてものということで啄木記念館に行ってきました。

館内は啄木の生涯を簡潔に説明しつつ関連する様々な資料や写真を展示しており、啄木に対する一定以上の事前知識や関心の深い人にとっては相応に見応えがあるのでしょうが、「啄木とは、どのような人間で、社会に対してどのように意義のある関わり(貢献)をしたのか」についての一般向けの説明をほとんど見かけません。

そのため「ほとんど何の予備知識もなく啄木の名前と歌人であること程度しか知らない人」にとっては、見ても何だかよく分からないものばかり展示しているだけの施設という印象しか受けないのではと感じました。

私の理解では、啄木の意義(功績)は、明治という曲がりなりにも四民平等(身分制とそれに伴う様々な社会的桎梏からの解放)の理念が掲げられた社会において、一般の人々が自分自身の様々な感情(心象風景)を自分の言葉で伝えることの意義・価値を社会に広めた、言い換えれば、そのような営みを、皆がしていこうじゃないかと働きかけたという点だと考えます。

そして、啄木の歌が今なお多くの人に愛されているとおり、啄木が、平易でありながらセンスのよい言葉(言い回し)を用いた短歌を多く残したことは、聞き手に対し、そのような言葉(表現)の心地よさを感じさせ「自分の言葉で自分の気持ちを語る」ことの意義や価値(人々の心の解放)を、社会に浸透させてきたと言えるのではないかと思います。

現代は短歌という文化自体は当時より廃れたかもしれませんが「自分の気持ちを平易な言葉でセンス良く語る」という文化は、この100年以上の期間においてポップミュージックの気の利いた歌詞など様々な形で社会に浸透したとも言えるわけで、そのような意味では、啄木の歌はそれらの源流の一つと位置づけても過言ではないのではと思われます。

記念館の敷地内には与謝野晶子の歌碑もあったのですが、現代人の感覚からみれば、いかにも古めかしいというか、啄木の歌ほどの「現代人から見てもセンスがいい感じ」を受けず、そうした意味でも「100年以上先に残る仕事」を啄木がしたことは間違いないと思います。

このように考えているのは私だけでなく、以前に少し調べたところ、NHK盛岡放送局が同趣旨のことを述べた番組を放送していたようです(引用の記事は、現在は閲覧できない状態になっており、NHKは引用記事を復活させて記念館に掲示するよう働きかけていただきたいものです)。
http://www.nhk.or.jp/morioka/obandesu/newsnohatena/130430/index.html

しかし、以上に述べたようなことを伝える掲示などはこの記念館には全く見受けられません。それゆえ、意地の悪いことを申せば、この施設を運営する人々(お役所?)は、啄木の意義や価値を社会に伝えよう、多くの人に知って貰おうという考えを本当に持っているのだろうかと疑念を感じざるを得ません。

振り返ると、啄木の人生自体、金田一京助や宮崎郁雨など幾人かの理解者に恵まれたものの、自身や父の生活上の至らなさもあって?故郷の人々に「石もて追はるる」ように渋民を去り流浪の人生を送ったわけで、その本質的な意義が地域の大多数の人々に理解されない状態にあるのは、今も昔も同じということなのかもしれません。

先駆者であると共に成功の果実に接することなく貧困の中で無念の死を遂げた啄木は、渋民そして盛岡に余人には代え難い不朽の香気を遺しつつ、自身は「100年後に生まれたかった、そうすればイケメンの俺様はポップアーティスト(シンガーソングライター)として財を築くこともできたのに」などと不満を述べているかもしれません。そんなことを思いつつ一首。

ふるさとの桜となりし啄木鳥は 春を告げるも春生きられず

ご承知のとおり、私はこのブログで「短歌(や川柳)のまがいものらしきもの」を時々作って掲載しています。これは、静岡県富士市の「ふじのくに田子の浦みなと公園」で山部赤人の歌碑を見て、蝦夷の末裔として返歌を作ってみたくなったというのがきっかけなのですが、「岩手の県北に生まれて、盛岡・函館・東京の3ヶ所を転々とした人間」の一人として、前述した啄木の意義・価値を、私なりの悪あがきで現代の人々に問い続けたいという気持ちの表れかもしれません。

私が訪問したときは、記念館では啄木が「一握の砂」の中で執筆した「林中の譚」と題された寓話をもとに作られた紙芝居が上映されていました。

土木文明に狂奔し乱開発による富貴自慢に明け暮れる人類をサルが嘲笑うという類の話で、現代人にとってはさほどの新鮮味はありませんが、当時そうした問題意識を持っていたのは足尾鉱山事件に関わった田中正造くらいでしょうから、晩年に見られた人民主権的(自由尊重)的な政治姿勢も含め、当時なら先駆的な知見ということになるのではと思われます。

と同時に、そのこと(自然尊重と畏敬)は、北東北の片田舎で育った我々にとっては当たり前の事柄でもあり、そうであればこそ、それらの根底にあるもの=縄文あるいは蝦夷のアイデンティティを何らかの形で再興させていく責任を我々は負っているのではと思わずにはいられませんでした。