北奥法律事務所

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鎌倉殿の13人

鎌倉殿の14番目の秘密と「禍々しい陽光」の正体

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が今度で最終回とのことで、先日は、オープニング映像に様々な仕掛けが含まれていることを説明した特集番組が放送されていました。

ただ、この映像の核心の一つである「主人公(北条義時)を指すのであろう、佇立する武士の背後から巨大な太陽?が照らす光景(冒頭部分)」については何も説明がなく、その点は不思議に思いました。

この部分は、少し検索すれば「これから武士の時代が到来することを陽光で表現しているのだ」といった評釈を見かけますが、私は、そのような見方をすることに違和感を抱いていました。

というのは、太陽が大きすぎ、陽光が強すぎる感じがする上に、照らされる武士も生身ではなく石像という「異様さ」もあって、なんとなく怖いというか気味が悪い感じがして「さぁ、俺たちの時代だ!」的な明るさがなく、むしろ否定的な印象を受けていたからです。

そのため、このオープニング映像や主題曲が(初見で気に入った「麒麟が来る」などと比べて)最初はあまり好きではありませんでした。

が、最近になって、これは意図的に「異様で嫌な感じのする強すぎる太陽」にしたのではないかと感じるようになり、今では映像も音楽も気に入っています。

ご承知のとおり、本作は、平家を倒し天下を取ってハッピーになったはずの鎌倉武士団が、主君(源氏嫡流)殺しをはじめとする陰惨な内部抗争に明け暮れる光景を描いた作品です。

その上、主人公は若い頃から様々な汚れ仕事を担わされた末、自分は社会のため誰よりもそれを引き受けざるを得ない存在だとの境地に至り、そして、最もなすべきこと(かつて朝廷・貴族=旧支配者に隷属を強いられた存在としての武士が、立場をひっくり返した出来事)を終えた直後に退場する人生となっています。

こうした骨格を踏まえると、この物語は「新たな時代を切り開いた武士達が、栄光の代償として激しい光に焼け尽くされる姿を描いた物語」であり、武士を照らす強すぎる光は、映像の最後に石像群が滅んでいく光景と相俟って、それまで田舎で安閑と暮らしていた関東武士達(や頼朝ら)が社会の中心に躍り出るのと引き替えに強烈な試練に晒される禍々しさを意味しているのではないかと感じるのです。

ただ、そのように「旧勢力から権力を奪取し新たな時代を劇的に切り開いた人々が、強烈な試練に晒され次々に命を落としていく光景」は源平時代に限った話ではなく、幕末維新期はもちろん、戦国時代も含め、日本の歴史の中では時折みられる話だと思われますし、それだけに、生身の殺し合い云々はさておき、社会では相応に普遍性のある事柄のようにも思われます。

そんな物語を送り出した三谷氏の意図は、現代社会にあっても、旧勢力(既得権益)を打破して新たな時代を切り開きたいなら、様々な汚れ仕事や恐るべき試練に己が焼け尽くされる覚悟と深慮遠謀をもって立ち向かえ、というメッセージを若者達に届けることなのかもしれません。

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ところで、冒頭で紹介した「オープニング映像の解説番組」では、コーラスを担当しているのがハンガリーの方々だ(作曲家の判断で決まった)と説明する一幕がありましたが、ハンガリーと言えばフン族の末裔であり、フン族といえば「ゲルマン民族大移動とローマ帝国崩壊を引き起こしたアッティラ帝国」であり、謎に包まれた?フン族の正体は、モンゴル民族の祖先というべき匈奴だと推定する説が有力と言われています。

そうしたことを想起すれば、武士の時代を切り開いた主人公達と繋がる面があるように思われ(人種的にも、モンゴル人と日本人は近いと言われます)、ハンガリー人のコーラスが起用されたことが、そこまでの意図があったとは思えないだけに、不思議なものを感じざるを得ませんでした。

私自身は「天下の闘争の渦中に飛び込み汚れ仕事に明け暮れる」こととは無縁な、身近な社会(弁護士会とかJCとか)ですら権力闘争に関わることなく末端で小さくなっている「安閑と暮らすだけの村はずれの奇人」で終わる人生となりました。

せめて、こうしたドラマを拝見しつつ、次の時代を担う方々に何らかの役に立てるような最後のご奉公ができればと願うばかりです。

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ところで、ここまで書いてきて、武士達を焼き尽くす「強烈な太陽」とは何を意味しているのか、取り上げるのを失念したことに気づきました。

ただ、この点は、皆さんも薄々感じているはずです。

日本国の存立に必要不可欠な存在と考えられる一方、近づき過ぎると(権威を笠に着て専横しようとすれば)身を滅ぼすことになりかねず、敬して遠ざけるのが賢明と考えられ、現に幾つもの武家政権などにはそのように扱われてきた存在。

「日出づる処の天子」こと天皇ないし天皇制という仕組みそのものが、もしかすると、今は野に埋もれている人々に、チャンスと強烈な試練を与え、世を作り替える原動力となる一方、そうした時代の転換を受け入れることができなければ、主要な担い手(後鳥羽上皇など)であっても転落を強いる、そうした側面を持っているのかもしれません。

菅田義経に与えられるべき「アイヌ王」の物語と、八重と清衡を巡る圧倒的なまでの共通点

話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も中盤となり、先日は義経の最期が描かれていました(後述のとおり、私はまだ見れてません)。

今回の義経は、性格に難があるものの天才的な軍略家として描かれていたので、どうせなら北行伝説を仄めかすシーンがあればよかったのに、と思っているところです。

この点については、以前にブログで

この時代の北方世界(北海道からサハリン広域)では、当時のアイヌ民族(擦文人)が勃興して大陸まで暴れ回っており、北の元寇と呼ばれる大戦争もあった。いっそ、義経はその指導者になって暴れ回っていたという物語を作った方がよいのでは

と書いたことがあり、今回の菅田義経には、その物語を与えてあげたかったように感じています。
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ところで、主人公・北条義時の妻として登場するガッキーこと八重は、史実では不明な点が多い御仁ですが、ドラマでは、最初の夫(頼朝)との間の子を実父(伊藤祐親)に殺され、実父や実兄も夫に殺された後、義時と結ばれ、嫡子・北条泰時を授かっています。

この八重の人生を見ていると、平泉の創始者こと藤原清衡に似ているのでは?という印象を強く受けます。

ご承知のとおり、清衡は幼少期に父(藤原経清)を殺され、母は父を殺した勢力(清原氏)に再嫁を強いられ、やがて、父違いの弟(清原家衡)との対決を余儀なくされ、その弟に本拠地を衝かれて妻子を殺され、最終的には弟(家衡)を倒し、東北に平和をもたらしました。

父・経清や父が属した勢力(安倍氏)を滅ぼしたのが源氏の棟梁・源頼義であり、当初は安倍氏の方が源氏(頼義)を圧倒していたのに、現地勢力たる清原氏(いわば北条氏ら反平家の板東武者)の力で逆転した点も、共通しています。

今作で描かれる頼朝の非情・非道さは、経清が頼義に残虐な方法で殺されたこととも通じるものがあるように見えます。

他にも、

・自分の身内の大半を殺されただけでなく、殺した側が源氏の棟梁又はその協力者であること、

・その後、源氏と入れ替わる大勢力(清原氏=北条氏)の主(の妻・母)となったこと、

・その大勢力は、源氏と正面から喧嘩せず、源氏と協力しながら現地を乗っ取ったような面があること、

・そして、後継者は相当の長期に亘り、平和な時代を築いた(が、遙か後年になって、新たな天下の主に滅ぼされた)こと

など、八重と清衡(或いはその母)を巡る物語に、あまりにも共通点が多いことに驚かされます。

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ただ、ここまで考えると、この二人(八重・清衡)とよく似た人生を余儀なくされた超大物が、もう一人いることに気づきます。

他ならぬ、源頼朝です。

言うまでもなく、頼朝こそ、幼くして父(源義朝)や兄など身内勢力を仇敵(清盛)に殺され(滅ぼされ)、若くして授かった我が子(八重との子)を、敵勢力(伊東祐親)に殺され、長じては身内(義経ら)と不和になり、いわば殺し合いを余儀なくされています。

また、親の敵を討つと共に、(その地域では)新たな時代の主となったという点も、三者共通すると言えるでしょう。

(清衡は源氏を倒したわけではないものの、直接の仇敵たる清原氏を倒すと共に、朝廷との政治交渉を通じて源氏を東北から追い出していますし、八重の家族としての北条氏が源氏を事実上滅ぼしたことは言うまでもありません)。

他方、清衡が築いた楽土(藤原四代)は、頼朝に滅ぼされるまで100年ほど続き、八重?の子孫たる鎌倉北条氏は、(同じく源氏の傍流たる)足利氏らに滅ぼされるまで、150年続いたのに対し、「頼朝の天下」は、事実上、彼一代(それも、ほんの数年)か、せいぜい二代(殺された2名の子)までしか続きませんでした。

頼朝が身内(同族)を次々と殺した(殺さざるを得なかった?)報いだからなのか、それに止まらない「業の深さ」が本人や源氏一門などにあったのか、軽々に申せませんが、この陰陽の鮮やかさもまた、色々と考えさせられる面があります。

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余談ながら、当家では、当初、歴史学習の意欲のカケラもないガッカリ同居家族が珍しく一緒に視聴していたものの、「上総介がかわいそうだ、もうイヤだ」などと、子供みたいなことを言い出して放棄したため深夜視聴が後回しになり、まだ屋島で録画が溜まっています。

急を要する書類仕事に一区切りがついたので、そろそろ深夜に消化をと思っているのですが、大物起案が一つ控えているほか、既存の仕事も益少なくして労多しの追加仕事が次々見えてきて、ため息の日々が続くばかりです。