北奥法律事務所

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弥生と縄文

縄文と弥生の数奇で幸運な出逢いとしてのフラガール

今回(昨年)のいわき方面への旅行は、スパリゾート・ハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)に家族を一度は連れて行こうと考えたのが発端になっており、「丸一日プールに入りたい」という同行者の強硬な要求もあって、2泊3日の旅の締めくくりに、この日は朝からハワイアンズに向かいました。

駐車場には、太陽光発電の装置が大規模に設置されていましたが、天候次第では発電以外の面でも有り難いように思われ、現在のコストのことは分かりませんが、もっと普及して良いのではと思いました。

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施設の入口では、中毒性のあるメロディで「連れてって連れてって連れてって~」というテーマソングが延々と流れており、それに倣って、

連れてって連れてって、いわきの駐車場~
日除けと雨除け、発電も兼ねちゃってってって~
ハワイア~ンズ もとい、家族サービス部。

などと歌いたくなりました。
https://www.youtube.com/watch?v=cAvOmmH9Edc

それはさておき、私自身は、旅行では名所旧跡や各種施設を時間の限り訪ね尽くす弾丸志向型で、リゾートとかプールなどという過ごし方は性に合いませんので、ご家族の皆さんお好きにどうぞ状態で同行者に任せたというのが正直なところです。

ただ、以前に映画「フラガール」は観ていましたので、フラ・ミュージアムはきちんと見ておきたいと思って、そこだけは一人で見に行きました。
http://www.hawaiians.co.jp/show/hulamuseum.html

展示は、「フラガールのあらすじ=ハワイアンズ成立の基礎となった常磐炭鉱の閉山と生き残りを巡る人々の闘いの物語」と「フラの本場たるハワイやタヒチ(ポリネシア人)のフラ文化の紹介」の2本立てとなっており、後者ではフラが宗教的・祝祭的な儀式であることなどが説明されています。

このブログでは「縄文の継承者としての東北」という視点を繰り返し強調していますが、ポリネシア人(ハワイやタヒチなどの南方系)と縄文人(北方系)は人種的に同系(古モンゴロイド)とされているのだそうで、常磐炭鉱の人々が起死回生のシンボルとしてフラを選んだ背景には、指導者の知見だけでなく、「底に流れる人種の血」といった観点も考えてもよいのかもしれません。

ただ、常磐炭鉱は「一山一家」を標榜し、ハワイアンセンターの開設(フラガールの物語)も炭坑の人々がそうした一体感を守るために始めた営みとして描かれ、特定の個人の特異な力量ではなく関係者一人一人の役割意識や団結などが重視されているわけで、そうした光景は縄文文化(個人主義)よりも弥生文化(集団主義)に当てはまるもののように思われます。

弥生人は漢民族や朝鮮民族などと同じ新モンゴロイドという人種なのだそうで、縄文人の末裔の一つである蝦夷集団(各部族)が国家と呼べるだけの社会を形成できなかったように、日本という国(ヤマト国家とその前史)はクニという巨大組織を作る力に長けた彼らが大陸から渡ってきたときから始まったと言ってよいのではと思われますし、以前に沖縄に行った際も「琉球王国は土着の縄文人ではなく渡来の弥生人が土着の民を取り込む形で作ったのではないか」と書いたことがあります。

前回述べたとおり、かつて大和国家の最北端(最前線)の役割を担ったいわきの地には縄文と弥生の結合を図る文化があり、それがフラという縄文に似た文化を活かす方法で地域の存続を図る努力が人々により営まれた底流にあるのでは、という見方もできるように思います。

そのことは「フラの本場」であるハワイの民が米国(西欧人=コーカソイド)の侵略に抗しきれずに民族としての主権を失い米国に同化する道を辿った光景や、タヒチはもちろんインドネシアなど他のポリネシア系の民族を見ても、彼らが近世・近代に国家としての強靱さを持たない状況下で西欧の侵略などに晒され苦難の道を辿ったことなどにも視野を広げると、色々と考えさせられる面があります。

ハワイアンズの宣伝によれば「フラの博物館」は世界でここだけなのだそうですが、以上に述べた観点を踏まえれば、いわきの人々がフラ(ポリネシア人の文化)を継承ないし保護振興する姿は、我々が考える以上に意味や価値のあることなのかもしれません。

そんなわけで、激しいフラの踊りの先に、失われた人類の多様な過去、そして禍々しい要塞のような原発に依存することのない未来も垣間見ることができればなどと思って一首。

誇らしく一心不乱に舞う汗は 岩城も穿つ ひとしずくかな

ただ、私自身は同行者の「目当てはプール。ショーは興味なし」との専断的決定のせいで前夜も含めフラのショーをほとんど見ることができず、トホホ感を抱いたまま立ち去ることを余儀なくされましたので、またいつの日か再訪し、改めてフラのショーなどを拝見できればと思います。

妖怪ウォッチの新作映画とガンライザーの異同を踏まえて「あるべき次回作のシナリオ」を論ぜよ

当方では毎冬に映画接待を求める強硬な要求がなされるため、不本意ながら?これまで妖怪ウォッチの映画は全て引率せざるを得ず、今年は大至急の仕事がさほど多くなかったこともあり、公開初日に拝見しました。
http://www.eiga-yokai.jp/index.php

ただ、このシリーズは、毎回「かぞくやともだち(自分と価値観を共有する内輪社会)との意思疎通をだいじにしよう(だから、そんな大切な人々を困らせる悪い奴は倒そう)」以上のメッセージを読み取ることができず、つまらないなどと安易に申すつもりはありませんが、早送りさせて欲しいなぁと感じる面はあります。

今どき、毒気というか、子供から大人社会への風刺や異議申立などを含んだ(かつ、家族向けの売れるエンタメとして仕上がっている)作品というのは、なかなか世には出ないんでしょうかね・・

本作品と同様に「鬼と人との対決」をテーマとする「岩手のヒーロー」ことガンライザーは、鬼=縄文人、人=弥生人という暗喩があり「人が鬼を歴史の彼方に追いやったので、鬼が世界を取り戻すため攻めてくる。両者の血を引くガンライザーが、人と鬼の調和を伴う新たな世界の創造のため、時に迷い苦しみながら闘っている」というメッセージが見え隠れするので、その点では、多少は見応えがあります。

大人の立場からは「身内を守るため相手を撃滅する闘い」ばかり描くのではなく、主人公が異質な他者が自分達と衝突せざるを得ない背景にあるものを見抜いて撲滅以外の解決のあり方を模索するような物語も見せてやっていただければ、と思わないでもありません。

まあ、そんな話は昔だってウルトラセブンくらいで、後は似たような勧善懲悪話ばかりだったじゃないかと言われそうですが。

そもそも、鬼や妖怪=弥生人(現代日本人)との闘争に敗れて歴史に消えた古い縄文人の暗喩という発想は岩手の専売特許ではなく、鬼太郎こと水木しげる氏の出身地である山陰など、縄文文化の歴史が息づくとされる地方では、よく言われていることではないかと思います。

「妖怪ウォッチ」が数年前に社会現象になるほど爆発的にヒットした背景にも、弥生的な同質社会の行き詰まりというか「社会の向こう側」に潜む多様な異界の存在との接触を欲するようなメンタリティが社会内(子供達)に存する(存した)ことの表れとみるべきかもしれません。

そうであればこそ、妖怪ウォッチには、「異質な他者が織りなす世界との接触による現実世界の再構成」というコンセプトがあってよいのではと思いますが、これまでの映画を拝見する限り「自分達の社会の平和を乱す悪い妖怪を倒す」という弥生的世界観ばかりが目に付くように感じ、残念に思います。

そもそも「僕達を苦しめる悪い妖怪や鬼」を描くなら、それに匹敵する「悪い人間」も登場させないと、妖怪達にとって不公平だと思わざるを得ません。

そこで、これまでの映画の一貫したパターンである「主人公ら+善良な妖怪vs悪い妖怪」という構図ではなく、敵側に人間も含め、しかも「敵側にもそれなりの事情があり、その事情の解決も物語の課題に含まれる」という味付けもすれば、大人にも見応えのある作品が作れるのでは、と思ったりします。

例えば、来年に予定される次回作は、こんなストーリーでやってみてはどうでしょう。

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主人公ナツメの住む街で先日当選した若い市長Aは、市内の様々な問題を矢継ぎ早に解決して多くの市民から熱狂的な支持を受け、間もなく国政に進出し将来は国の指導者になるのではと目されていた。

しかし、Aには裏の顔があり、多くの人の心を操り秘密組織や特殊な装置を作って人類を草木などに変え太古の自然と妖怪の世界に戻すことを計画しており、その背後には強大な妖怪BがAに力を与えて協力し、それに賛同する妖怪達も多くいた。

やがて、Aの正体に気づいたナツメは仲間と共にAの野望を砕くため立ち上がり、妖怪達も双方の勢力に分かれて闘うことになった。すると、Aが子供時代は善良な心の持主で、善良な妖怪と心を通わせていたが、悪い人間のエゴでその妖怪が無残な目に遭い、人間に絶望して滅びを望んだこと、その善良な妖怪が人間への恨みの果てに姿を変えたのがBであることが分かった。

激しい闘いの最後にBは倒されて闇の世界に消え、善良な心を取り戻したAが残った。Aは「Bを救わなければ」との思いで、闇の世界に向かおうとする。それを某大物妖怪がサポートを買って出て、Aと一緒にBを救うための旅に出た。

ナツメ達はAやBのような者を再び生み出さないよう人と妖怪が互いに幸せに暮らせる善良な社会を作っていく決意を新たにするのであった・・

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まあ、そんな戯言の類はさておき、今回の主人公が過去に救助されたことがあるとの下りは、あまりにも某作品の「そのまんま」過ぎというか、M監督から抗議が来ないのだろうか?と余計なことを思いました。

以上、あれこれ書きましたが、私の読解力の問題もありそうですので、同じ接待業務に従事された方がおられれば、異なる視点などもご教示いただければ幸いです。

ピアニート公爵vs異議アルルカン軍曹、そして芸術は太古の杜の深くから

家族から、「ピアニート公爵」と称されているピアニスト・森下唯氏の演奏会のため仙台に連れて行けとの出動命令が下ったため、やむなく丸一日を潰して仙台まで行きました。
http://sencla.com/artist/3160
http://www.morishitayui.jp/

本人は、森下氏の演奏が聴ければ後は用なしという感じで、出発も遅くなりましたが、それだけのため仙台に行って帰るのは私が納得できませんので、会場近くの「地底の森ミュージアム」に立ち寄ることにしました。

この施設は、仙台市太白区の長町小学校を建設する際の地盤調査で発見された、2万年前の森のあと(枯木)が膨大な水と土砂で封じ込められたため(缶詰のようなものだそうです)、そのままの状態で保存、発見されたもので、世界的にも唯一といって良いものだそうです。

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施設内では、当時(2万年前)の現地が、北海道の大雪山系にある湿地帯と気候・風土がよく似ているとの紹介があり、その場所を舞台に「旧石器時代の人間が、この地を訪れ、焚き火をして去って行く姿」を撮影したミニ映像が写され、その姿を今に残しているのがこの場所なんです、とスタッフの方の説明を受けることができますので、旧石器時代の日本(人の暮らし)に関心のある方にはぜひ訪れていただきたいところです。

ところで、私は、「日本の文化・社会は、縄文と弥生の混血(基本的に後者が優勢)で、それが現代にも多大な影響を及ぼしている」と感じており、このブログでも度々触れているのですが、縄文以前=旧石器時代(先土器時代)については、私自身の知識・理解の希薄さもさることながら、その時代の精神文化(メンタリティ=当時の人々が何に価値を感じ、敬い、畏れ、時に侮るなど、喜怒哀楽の対象をどのように形成してきたのか)がほとんど知られていない(解明されていない?)こともあり、「その時代の魂、精神が現代まで息づいていること」を全くといって良いほど意識することができていません。

しかし、一般的には、この時代(の日本人)が縄文時代(の日本人)と連続性がある(絶滅や人種の交代などの事情はない)と考えられているでしょうから、日本人のメンタリティというものを考える上で、旧石器時代とは人々にどのような精神性が形成された時代だったのかという視点は、持っておくべきではないかと思います。

そうしたことも考えつつ、公爵こと森下氏の演奏会場に向かい、演奏を拝聴してきたのですが、今回の企画は様々な奏者(プログラム)の組み合わせになっているせいか、演奏曲数はアンコールを含めて4曲のみ、時間も1時間弱という感じでしたので、あっという間に終わりました。

家族が「4月は君の嘘」という漫画・アニメ作品を気に入り、アニメ番組の最終回でのピアノ演奏(ショパンの「バラード第1番」)を自宅で繰り返し聞かせられていたため、その曲の演奏は一番楽しめたと思います。

あと、この公爵さんですが、演奏の合間のトークの際(正面)はさほど風采があがらない方との印象(ニートかはともかく、ちょっとオタクっぽい感じ)を受けたのですが、演奏中(横顔)は表情がガラッと変わり、誰かに似ていると思って思い返したところ、私の純個人的なランキングで「男の色気のある弁護士・堂々の全国1位」であるK野君(52期の盛岡修習仲間)に表情がよく似ている感じ(K野君と堺雅人氏を足して2で割った印象。ちなみに私を含めて3人とも同い年です)がしたので、その点は(K野君をはじめ)一流の人は横顔にも通じるものがあるのだろうと、妙に感心しました。

ところで、3曲目に取り上げられた「ガンバスター幻想曲」は、庵野監督が20年以上も前に制作した「トップをねらえ」というアニメ作品で使われた楽曲群をアレンジしたもので、「公爵」の代表作なのだそうです。

このアニメ作品は、私も15年以上前にビデオで借りて見たことがありますが、制作責任者が「おたく」文化の巨頭である岡田斗司夫氏(ガイナックス社)のせいか、作品中にも若干ながら「おたく」好みの描写もあった(ので、見たことを人様に公言できる作品とは言い難い面もあった)ような気もします。

が、森下氏の会場でのトークやWeb上での発言などを拝見すると、作品の物語に強い感銘を受け、相応の理念と誇りをもって、こうした作品を題材とする二次創作(アレンジ)に真摯に取り組んでおられるものとお見受けしましたので、そうであれば、前回の投稿のように人知れず替え歌づくりを趣味?にしている根暗な私とも通じるところがあるのではないかと、勝手なことを思わないでもありませんでした。

そんなわけで、いっそ、私も対抗して「覆面ブロガー弁護士・異議アルルカン軍曹」などと称して、「妖怪ウォッチ」の替え歌など、実名では投稿できない文章を密かに投稿してみたいなどと思ったりもします(ちなみに、「アルルカン」とは、フランス語で即興喜劇に登場する仮面の道化役者(トリックスター)を指す言葉で、ピカソやセザンヌの絵にも描かれたことがあります)。

ただ、うかうかしていると、私の預かり知らぬところで、お笑い芸人「売れない覆面弁護士こと異議アルルカン軍曹」と称する芸能人が出現しないとも限りませんので?今のうちに商標登録した方が賢明かもしれません。

日本ではまだ見つかっていないかもしれませんが、旧石器時代と言えば、人類が世界中で壁画など芸術的な営みを表現していたことがよく知られており、そうした意味で、芸術の発祥というべき石器時代の太古の森が残されていた「杜の都」仙台・長町の地で行われた演奏会を拝聴したことには、時間と空間、二つの観点から魂の底にあるものに心を向ける契機とするという点で、大いに意義があったのではと思います。

余談ながら、演奏会のあと、夕方ギリギリに「仙台うみの杜水族館」を初めて訪れて駆け足で拝見し、帰宅時には折角の機会なので、数年ぶりに塩竃市に行き、地元の寿司を美味しくいただいて帰りました。

本当は怖い?「サツキとメイの家」と縄文圏から吹く風~愛知編③~

愛知旅行編のラストです。毎度ながら大長文ですいません。

もともと、今回の旅行は、数年前に家族が「トトロ」をDVDで繰り返し見ている時間があったので、当時から一度はサツキとメイの家を見に行った方がよいのではという考えがあったからでした。

そして、同施設が保存されている「愛・地球博記念公園」に行き、実際に訪れたところ、幸い事前にコンビニでチケットを購入しなくとも無事に入館でき、最初の15分ほどを建物内、次の15分ほどを敷地周辺を巡る形で、つつがなく観覧を終了できました。

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私自身は「トトロ」ファンではありませんので(子供の頃はナウシカとラピュタは何度も見ましたが、トトロは女の子の見るものという偏見があり、大人になるまで見ませんでした)、淡々と中を拝見していましたが、お父さんの部屋の書棚を見ていると、不思議な光景に気付きました。

書棚には各県の民俗史や通史、考古学業界?関係の雑誌などが積み上がっていたのですが、埼玉県や同県などの市町村の歴史をまとめた本(自治体が編纂、出版しているもの)が並んでいる一角がありました。

で、そのコーナーを見ると、蕨市、大宮市や武蔵野市、武蔵村山市(旧・村山町)といった埼玉又は東京北部の自治体の史書が置いてあり、一般的にはこのエリア(狭義には狭山丘陵)が「トトロ」の舞台=本物の草壁家の所在地と言われていますので、そうしたことを考慮して選定されたものであろうことは、誰にでも分かることだと思います。

が、どういうわけか、その中に「北上市史」という本が含まれているのに気づきました。現在の埼玉県や東京都に「北上市」が存在しないことはもちろん、私の知る限り、このエリアにかつて北上市という自治体があったという話も聞いたことがなく、「北上市」とは、あの北上市、すなわち岩手県北上市しか思い当たりません。

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wikiで検索した限りでも、他に「北上市」という自治体は無いようですし、作品内でも北上市が何らかの関わりを持ったこともないはずですので、この棚の作り手(宮崎吾朗氏でしょうか)が、何らかの事情で東京・埼玉の自治体群の市史に混ぜる形で北上市の市史を差し込んだと考えるのが自然ではないかと思います。

誰がどのような理由でそれを決めたのか、私には分かりませんし、ネットで「サツキとメイの家 お父さんの本棚 北上市史」などと検索しても何の手がかりも見つけられませんでしたので、ここから先は完全に私の想像になりますが、私は、宮崎駿監督又は同氏の思想に共鳴する方が、次のような確固たる理由をもって意図的に北上市史を差し込んだものと考えます。

まず、「トトロ」は日本に昔から存在(居住)する化物(神)を指しているところ、このような異形の神を信奉する観念は、弥生文化(人間中心主義、科学的合理主義)ではなく縄文文化(アニミズム=自然崇拝)に属するものと理解しています。

そして、西から興り古代日本を制圧した大和朝廷は弥生文化を信奉する王朝であり、これと対峙した「蝦夷」の社会は、国家として統合されることなく集落(部族)ごとに集団生活を営むのを原則とするなど縄文文化の痕跡を色濃く残していた社会だと一般的には考えられていると思います。

また、日本書紀などでは大和朝廷に征服される以前の多くの蝦夷らの部族によって形成されていた社会を、総体として「日高見国」と呼んでおり、この日高見国(の本拠地)がどこにあったのかという歴史論争も過去にはあったように聞いたことがありますが、少なくともヤマトタケルの時代であれば、大和朝廷と戦っていた蝦夷の本拠地は、まさに武蔵国のあたりになるのではないかと思います。

このように考えると、あの本棚の制作者はトトロの棲家たる狭山丘陵周辺を「トトロを神として敬ってきた蝦夷のクニ(日高見国)の本拠地」と考え、その思想を表現するため、日高見国の名を継ぐ唯一の自治体である北上市の市史を敢えて本棚に差し込んだのではないかというのが、私なりの想像です。

ちなみに、北上にも、三内丸山や大湯環状列石ほどメジャーではありませんが、樺山遺跡という縄文時代の面影を残すエリアがあり、なかなか良い味わいがあります。
http://www.kitakami-kanko.jp/kanko.php?itemid=193

なお、wikiによれば、トトロの元ネタは宮沢賢治の「どんぐりと山猫」なのだそうで、その線も考えられなくもないのですが、そうであれば、賢治自身とほとんど関わりの無い北上市ではなく花巻市史か盛岡市史を差し込んだはずで、やはり「日高見国」がキーワードではないかと考えます。

もちろん、以上は私の想像に過ぎませんので、本当の理由をズバリご存知の方がおられれば、ぜひご教示いただければ幸いです。

ところで、縄文文化に光を当てた芸術家といえば何と言っても岡本太郎氏が有名ですし、私自身は、宮崎監督の作品群からはアニミズム(縄文的な感性)との親和性を感じ、岡本氏と同じ系譜に属する方ではないかと思っています。

そうした「縄文的な感性」を今に伝える巨匠が現在もいるのか(誰か)と考えると、ちょっと思い当たりません(先日に投稿した「シン・ゴジラ」考で述べた印象からは、庵野監督はこの系譜とは少し違うような気がしています。庵野監督がこの系譜に属する方なのであれば、次回作ではゴジラに変わる現代の異形の怪物を造形していただければと願わないでもありません)。

考えすぎかもしれませんが、縄文文化(アニミズム)の精神を現代に伝える巨匠の不在が続くと、やがては我国における縄文文化(多様性や異形の存在への畏敬)と弥生文化(社会・人民の統合と科学的姿勢)のバランスを危うくし、後者が勝ちすぎた挙げ句、仕舞いには画一的、統制的で驕慢な社会を生み出すことに繋がらないかという危惧がないわけではありません。

「トトロ」に関しては物語の内容をホラー的に解説する都市伝説を拝見することもありますが、上記のような文化的衰退が生じることこそが本当の意味での「恐ろしさ」というべきで、そのような事態にならないよう、現代人としての気概が求められるというべきではないかと思っています。

そんなことを考えつつ、サツキとメイの家の周辺の森を散策しながら一首。

巨匠らの夢に宿りし いにしえの森と風の精 いまはいずこに

その日の午後は、名古屋港水族館に行きました。凄まじい大混雑で、じっくりと生物を見ることができませんでしたが、沢山の魚介類などに混じって、ザラブ星人とケムール人を思わせる方々を発見しました(未見の方のネタバレ防止のため、写真の引用はしませんが、知りたい方は「名古屋港水族館 怖い」などと検索してお調べになって下さい)。

そんなわけで、愛知の旅を無事に終えることができましたが、今回の旅は、これまで述べてきたとおり、最初の東京編も含め、サツキとメイの家(古代)、犬山城(中世)、明治村(近代)、ジブリ展(現代)といった形で、様々な時代を幅広くかつバランスよく感じながら進めることができたように思います。

非日常の体験を通じて様々な時代に思いを馳せつつ現代人としての生き方を考える機会を与えられるということこそ旅の醍醐味でしょうから、同行する家族に感謝しつつ、今後も、こうした経験を享受できるよう、まずは日々の軍資金づくりに地道に勤しみたいと思います。

ポスト震災時代を代表する日本映画「シン・ゴジラ」が描く「弥生的行政国家ニッポン」の強さと弱さ

前田有一氏の「超・映画批評」での激賞に釣られて、「シン・ゴジラ」を見に行ってきました。私は、平成9年の司法試験の合格発表日=合格を知る直前に新宿の映画館で「エヴァンゲリオン」の最終話を見ましたが、庵野監督の映画を見るのはそれ以来で、何となく特別な感慨があります。
http://movie.maeda-y.com/movie/02100.htm

それはさておき、前評判どおり大変興味深く拝見し、娯楽作品として大いに楽しむと共に色々と考えさせられ、大満足の一作でした。

以下、ネタバレを極力避けつつ、強く印象に残ったことを少し書きます。

1 稲田防衛相vsシン・ゴジラたち

まず、前半の「突然の災禍に右往左往する日本政府の面々の姿」については超映画批評で述べられているとおりですが、その中で、防衛大臣として気丈に総理の決断を求める女性の言動などが、現防衛相たる稲田大臣とイメージが重なると共に、映画の製作時には現実(公開時)の人選まで予測するのは困難でしょうから、ある種、神がかり的なものを感じました。

特に、米軍機が活躍したある場面で、この女性(防衛相)が全く嬉しそうにしていない一幕があったのですが、この瞬間は、安倍首相が心中望んでいるであろう?対米自立路線の後継者と目される稲田大臣の姿が特に思い浮かび、もし同氏が演じられた場合にはどのような表情になるのだろうと想像せずにはいられませんでした。

総理や官房長官の言動なども、どなたをイメージするかはさておき、現実の政治家の方々に近いものを感じたという方もおられるかもしれません。

2 震災をバネにして作られた、最初?の名作

次に、私がこの作品で特に感じたのは、この映画は東日本大震災津波を明らかに意識している、仮にそうでなくとも、あの震災がなければ、これほどのリアリティを感じさせる力作は生まれなかったのではないかということと、同時に、この作品は震災(被災者)を冒涜することなく、むしろ、震災以後、日本国内の「作り手」の全てに与えられた「震災を題材(誤解を恐れずに言えば「ネタ」)とつつ、被災者に顔向けできるだけの質の高いメッセージ性を持った作品を作る」という宿題に、真っ向から取り組んだ作品ではないかという点でした。

この臨場感は映画館でぜひ見ていただきたいのですが、とりわけ前半部分(やラストシーンあたり)で、あのときの災禍の最中や津波が去った後の光景として国内であまた流れた映像を強く意識した場面(報道の伝え方などを含め)が非常に多く出てきます。こうした「デジャヴ感」は、震災に限らず、冒頭で生じる地下道内の自動車事故のシーンは、数年前に我が国で生じた某重大事故を想起させるものがあります。

だからこそ、それら災害への関わりが近かった人ほど、これらの映像を見ていると、心揺さぶられるものがあることは間違いありません。

他方、誤解を恐れずに言えば、私はこれらの映像を見て、よくぞこれを映像化してくれたという奇妙?な感覚を抱かずにはいられないものがありました。

というのは、震災からしばらくした頃から「震災は未曾有の災禍だが、そこから人間は多くのものを学ぶなどしている(学ぶべきでもある)のだから、震災を題材に、現代や人間の様々な課題の解決を大衆に問うような芸術作品や娯楽作品などが作られるべきだと思っていました。

が、私の勉強不足かもしれませんが、「震災を題材にしたメジャーな作品」と呼べるものは、みんなで歌って涙する(した)「花は咲く」くらいのもので、被災者の尊厳を害しない形で震災の災禍を再現しつつ、より高次のテーマを提示するような作品というのは、ほとんど見られなかったのではないかと思います。

それだけに、様々な重要テーマを社会に広く伝えている本作において震災を強く想起させるシーンが繰り返し使われたことは、特別の意義があるのではないかと感じています。

3 「核や放射能の災禍への抗議(と克服)」という主題と庵野監督の集大成

超映画批評では、日本社会の組織の特性やその弱さ、強さの表現こそが本作の重要なテーマであるという趣旨の説明がなされており、大いに首肯するところはあるのですが、他方で、世間で言われるゴジラのテーマは、「核や放射能の災禍への抗議」という点ではないかと思います。

本作でも、この点は、中盤の最重要シーン(ゴジラが大きな災禍を表現する場面)で強く強調されていたのではないかと思いますし、その災禍が、誰のせいで発動したのか、或いは誰に向けられてなされたものであるか、そして、それを発端として日本人・日本社会が甚大な被害を受けたという、あの場面の描き方は、それを引き寄せた日本政府側の対応を含めて、核や放射能の惨禍への抗議を伝えることを目的としたと言われている初作の忠実な再現という点では、真骨頂と言えるシーンではないかと感じました。

また、本作ではあまり踏み込んだ表現はなされていないものの、震災(原発事故)以来、誰もが夢にみてきたであろう「放射線被害の抜本的解決策」という論点も提示され、そうしたことも含め、日本が描く現代版ゴジラとしての面目躍如だと感じました。

恥ずかしながら私自身は初作をはじめゴジラシリーズをほぼ全く見たことがなく、すぐにでもゴジラ初作を借りて見たくなりました。

また、この「ゴジラの大暴れシーン」は、我々の世代なら多くの方が巨神兵をイメージしたでしょうし、ある意味、ゴジラと巨神兵(数年前にTVで放映されていた「巨神兵東京にあらわる」を含め)とエヴァンゲリオンの3つを「だんご三兄弟」のように力技で統合した(一括りにまとめた)名場面だと感じ、それが核の恐怖による支配という現代社会への抗議との見方ができることと相まって、怖さより感動?で目頭が熱くなるものがありました。

4 現代日本が「大久保利通が江藤新平を惨殺して作った国」であること

ところで、本作には、弁護士はもちろん裁判官も検察官も、法務大臣すらも含めて「司法」の関係者が全く登場しません。映画の登場人物は、逃げ惑う大衆を別とすれば、名前があるのは自衛隊などの現業部門から大臣まで、ほぼ全て「行政」の関係者で、立法部門も与党政治家が少しばかり登場する程度になっています。国会議員であろう主人公らも、国民との直接のつながりを感じさせる場面がなく、「官」の一員としての面を色濃くしています。

震災の発生時や直後に現実の司法業界の存在感が希薄だったのと同様、「生の暴力」が出現する場面では出番が生じにくいのかもしれませんが、作品前半は法律(対処法令)に関する話が矢継ぎ早にでてくるだけに、ゴジラ(社会の存立脅かす存在)と総力戦で対決するニッポンという光景に狭義の法律家には出番が与えられていないことには、一抹の寂しさを禁じ得ません。

前田氏の言葉をお借りすれば、この作品の主要テーマが「日本という国家の強靭さ、しぶとさ」であるだけに、改めて、我が国における司法部の存在感のなさを印象づける作品だなぁと感じる面はあります。

ただ、そうした「国家というイメージの中での司法部の存在感のなさ」は今に始まったことではありません。

司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」には、現代日本の礎をなした明治の創生期に日本の政治体制の路線選択を巡って大きな政争があり、「行政官僚が国家の設計図を描いて主導し、国民はそれに従う代わりに行政に保護される」道を重視した大久保利通と、「国民の人権・自由を広く保護し、国民が議会を通じて権利・利益の実現と国の舵取りを図ることで社会を発展させると共に、ルール違反があれば徹底的に取り締まる」道を求めた江藤新平との争いがあり、江藤があまりにも無残な形で大久保に負けて悲惨な殺され方をしたことと、それが我が国における体制選択の大きな岐路であったことが詳細に描かれており、この点は、最近刊行された「逆説の日本史」の最新刊にも若干ながら触れられています。

この政争などで大久保が勝利し現在まで続く強固な官僚制度を構築したことが明治政府の運営を決定づけたことは巷間よく言われていることではないかと思いますし、「ニッポン国家のしぶとさ」をテーマとする本作において司法の出番がないことの根源を考えると、ここに行き着くのではないかと感じます。

その上で、一見すると基本的人権や国民主権などという江藤の理想が実現したようにも見える現代日本においても、「ニッポンを守護するのは行政官僚群による国家堅持の知恵と国民保護の情熱だ」として説得的に描かれていることに、この問題のある種の根の深さを感じずにはいられないところがあります。

余談ながら、大学生が憲法を勉強する際に最初に学ぶことの一つに「司法消極主義と付随的違憲審査制」がありますが、私は、これらの淵源は米国ではなく、司法部の利害を最初に担った江藤新平があまりにも悲惨な負け方、死に方をし、これに伴い戦前社会で司法が行政に仕えるものと位置づけられてきたことが、日本の司法消極主義の根底にあるのではと思っています。

ちなみに、ご存じのとおり、大久保利通も西南戦争の直後に非業の死を遂げるわけですが、その後、彼の遺志を継ぐ人々により「行政国家・大日本帝国」が建設されていったことを考えると、「次のリーダーがすぐに決まるのが強みだな」という作中のセリフも、また違った深みや課題を感じさせてくれる面があるように思います。

5 描かれた「弥生国家ニッポン」と「縄文の道(或いは、サツキとメイ)」の不存在の寂しさ

もう一つ、本作の特徴として感じたのが、ゴジラと向き合う人々の姿勢が、撃滅であれ他の道であれ、ゴジラを人間にとってコントロール可能な(コントロールすべき)存在として認識しており、こうした超絶的な存在を、人間を超越した存在(神)として崇め奉ろうとする(そうした観点から共存の道を図ろうとする)人が誰も出てこなかったという点でした(この点は、ややネタバレになってすいません)。

昔の日本映画なら、「八つ墓村」で登場するヒステリックな老婆のように、新興宗教まがいの扮装で、ゴジラと戦うな、畏れ敬えなどと叫んで大衆に呼びかけるエセ宗教家のような御仁が登場することがあったと思いますし、そうしたパロディ的な話ではなく、真剣にゴジラとの共存の道、或いは、物語の結末とは違う方で、ゴジラから人類が物事を学ぶような道もあり得ると思うのですが、そうした「ゴジラと向き合うもう一つの選択肢」は全く議論などされることがなかったという点は、「尺」(放映時間)の問題もあったのかもしれませんが、正直なところ寂しく感じました。

それと共に、後半部分のゴジラとの対決計画を着々と練り上げ、組織として粛々と遂行していく登場人物達の姿を見ていると、「神(異界の超越的存在)なき世界」を描いているように見え、縄文的(自然界に潜む超越的な存在を畏敬しながらその恩寵に与るという思想)ではなく弥生的(自然界の惨禍を人間の努力で克服し、それを前提に自然の恩恵を受けるという思想)な世界観を強く感じました。

この点は「となりのトトロ」など宮崎駿監督の作品と対比すれば分かりやすいのではと思いますが、「トトロ」では、超越的な存在であるトトロと少女達が親しくなり、子供なりの畏敬を交えてトトロの奇跡を楽しんだり助けられながら共存していく姿が描かれていますが、同じ「異界の存在」でありながら、本作のゴジラと人々との間には、そうした光景ないし端緒は描かれていません。

それだけに、仮に、宮崎監督がゴジラ作品に携わることがあれば、そうした「人とゴジラとの共存」をテーマにした、本作とも全くコンセプトの異なるゴジラ作品を練り上げてくるのではないか、また、それ(人間の超越的存在への向き合い方)こそが、宮崎監督と庵野監督との分水嶺なのかもしれないなどと感じました。

また、超映画批評では石原さとみ氏の熱演について「崩壊一歩手前のおバカ演技をみせる素っ頓狂なキャラクター」と評されていますが、現代ニッポンに「天上」から様々なお達しをしてくる某国を「今どきの神サマ」と考えるのであれば(本作でも、某国の要求が自分勝手だ(が逆らえない)と首相らが愚痴をこぼす場面が頻出します)、さとみ氏がエキセントリックに熱演する女性の役回りは、某国の代理人としてその言葉を伝えると共に、某国と日本政府を仲介し、主人公をはじめ日本の指導者の進む道を決定づける点など、まるで現代の卑弥呼そのものと言うことができます。

そうしたことも含めた「縄文vs弥生」という伝統的な日本文化の観点も交えて本作のディテールを解釈してみるのも、面白いのではないかと思ったりします。

6 おまけ

極私的な感想で恐縮ですが、個人的には、「八重の桜」で山川浩の姉を演じていた市川実日子氏の熱演が印象に残りました。私自身が、目が大きくて細身で気が強くて頭の回転が速く早口で異端児の女性に惹かれる類の人間だからかもしれません。

そうした観点から当方家族の過去と現在を思うと・・・
おっと、コマさんタクシーとおぼろ入道華雄が来たようだ。