南部跡目戦争を「九戸一揆」と呼ぶ方々への異議申立(前編)と蝦夷の魂
岩手県立図書館で、県内に点在する著名な城跡を特集する企画展が行われているとの記事を拝見したところ、二戸人としては異議申立をせざるを得ない「九戸一揆」なる言葉を見つけました。
県立図書館で「岩手の城跡」がテーマの展示 図書館が持つ貴重資料も知って – 盛岡経済新聞
九戸戦役(いわゆる九戸政実の乱)は、南部一族(本家)の断絶に伴う跡目争い(中央権力=大軍勢を味方に付けた側が勝利した戦争)であり、九戸側が事前に中央権力(秀吉)に服属した事実もありませんので、反乱ではありません。
よって、反乱(立場が下の者からの異議申立)を意味する「一揆」を用いるのは明らかに不適切です。
結論として、「九戸戦役」とでも呼ぶのが、地元側の意識としては正しい。
関ヶ原は実質的に主家を打倒した戦争ですが、だからといって徳川一揆と呼ぶ人はいないでしょう(家康が負ければ、そのように言われたかもしれませんが)。戊辰もまた然り。
或いは、服属していなくとも北東北の地元小勢力なんて反乱みたいなもんだ、と言いたいのなら、それこそ華夷思想に基づく差別主義だと糾弾されるべきでしょう。
こうした言葉遣いが軽々しく用いられるのは、結局のところ、どんなに時代が変わっても、勝てば官軍・負ければ賊軍=長いものには巻かれりゃいいさ史観(事大主義)に取り憑かれた無責任な人ばかり世間には溢れているのでしょうというほかなく、力こそ正義の隣国達やどこぞの大統領を笑えません。
どうやら、記事が勝手に一揆と称しているのではなく企画展の主催者側(現在の「いわての正史」を策定している方々?)がそのように用いているようで、なおのこと残念です。
華夷思想への異議申立こそ当地のアイデンティティではないのかと、アテルイらも草葉の陰で泣いていることでしょう。
まあ、ヘソ曲がりな言い方をすれば、それ=信直史観こそが、盛岡という街を支える思想なのかもしれませんが・・(そういえば、紛争は政見の異同に過ぎぬと仰った当地ご出身の偉人もおられますね。偉大な故人にご意見を伺ってみたいものです)
二戸市役所・市民や南部武将隊の皆さん?には、この種の「誤った言葉遣い」に迎合することなく抗議の声をあげていただければと、通りすがりの二戸人としては、四百数十年後を経た盛岡の片隅で願っています。
・・・とまあケチばかり付けましたが、展示そのものは時間を見つけて拝見してみたいと思います。皆さんもご都合がつけば、ぜひ。
(後編へ続く)