北奥法律事務所

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2022年

東大全共闘が問うた三島由紀夫の自然観と、豊饒の海へのもう一つの道

先日(11月25日)は三島由紀夫の命日(三島事件の勃発日)とのことですが、数ヶ月前、彼と東大全共闘の討論を収録した映画を拝見しました。

冒頭で、三島由紀夫が人間の意思とエロティシズムの関係性を論じる一幕があり、そのあたりは言葉としても分かりやすく、それが三島文学の核心ではと感じていたこともあり、エロティシズムなんて言葉を聞いた懐かしさ(大学以来)もあって、聞いていて心地よい面がありました。

(要は、互いに相手を尊重し自由に生きたいはずの人間同士が、一方が他方を抑圧したり相手もそれを受け入れずにはいられない精神性を抱えており、そうした倒錯や奇形が出現する光景の中に潜む人間の心をゾクゾクと刺激し時には美しいとすら感じさせる得体の知れない何かを追求しているのが三島文学では、との理解によるものです)

反面、その次のパートで、「人間と自然との関係について論じて欲しい」という学生からの要望があったのですが、それに対する三島の回答は、「風光明媚な光景だけでなく都会のビル群もまた自然だ」「機動隊の制圧行為(のような人間の営み)も自然の姿の一つだ」などというもので、陳腐というか、はぐらかしているだけのような、聞いていてつまらないと感じるものでした。

そのため、東大全共闘側は、討論で打ち負かしたいとの気概で招聘したのでしょうから、ぜひ、このテーマ(自然観)を深掘りすることで三島を追い詰めて欲しかったのですが、上記の質問をした肝心の学生さんからはその後に発言がなく、そのテーマはそこで終わりとなったので、その点は残念でした。

その後は、全共闘随一の論客を自負する御仁が、いかにも当時流行りのマルクス主義的な用語を連発して別の議論を始めて、三島もそれに応戦して論客氏との難解(あるいは不毛・グダグダ)な討論が続いたので、パフォーマンスはともかく中身の面では感銘を受ける面は少なかったと思いました。

(論客氏はインタビューで現在も壮健な姿を披露されており、言説云々はさておき行動の面では三島と同じ「自分の看板で世間と闘う」人生を続けたのはこの方のみでしたので、その点は大いに感銘を受けましたが)

終盤の三島の天皇論は引き込まれるもので、学生側が内実ある応戦ができず独壇場となったことも含め、相応に見応えがありました。

ともあれ、作品を通じて最も感じたのは、人間や人の営み(国家など)の精神性に対する故人の洞察の深さ・感性の鋭さと、それと対をなす「人にあらざる存在への関心の低さ(のようなもの)」という点でした。

三島文学は、しばしば高度に技巧的であるとか、悪く言えば人工的で作り物のような印象を受けるなどと言われますが、そのことと、映画で受けた故人への印象には、通じる面があるように感じました。

それと共に、三島由紀夫が、いびつさ・厄介さを何らかの美意識と共に抱えずにはいられない人間の精神と、それらを包み込む「人にあらざる存在の世界」との関連性、後者が前者を包摂し、時に後者が前者を生み出し、苦しめ、救済し、或いは双方が互いを刺激し、新たな可能性を切り開くような光景にもっと着目していただければ、彼はあのような結末を迎えることなく、別の形で「豊饒の海」に辿り着くこともあり得たのではと感じる面がありました。

***

故人は最後に、私は諸君の熱情を信じます、これだけは信じます、と言い残して去って行きます。

この言葉が作品のハイライトでもあり、今もなお、様々な立場にかかわらず三島を思い、何かを語るという形で人々を共闘に導いているのだと思います。

十数年前、詩のボクシングという番組がTVで取り上げられていたのを見たことがありますが、本作はそれに類するように感じました。

東大全共闘は三島由紀夫と熱情をぶつけ合うことを通じ、多くの面々が当たり前の日常、真っ当な人生に回帰できた。その機会を得られなかった多くのロシア人は、プーチン達に言われるがまま今も悲惨な戦場に盲目的に赴いている。

この二つの落差を次の世代に伝えていくことも、我々に課された役割の一つなのかもしれません。

作品をご覧になった皆さんの心には、何が残りましたか?

 

廃墟ホテル解決策としての「ジブリ・蝦夷の隠れ里とイケメンの湯」

先日のモーニングショーで、花巻・台温泉の入口にある、数十年放置された廃墟ホテルが取り上げられていたそうです。番組自体は見逃しましたが、少し前に現地に赴いたことがあり、この廃墟をチラ見して残念に思っていました。

番組では例の如く解決困難で話が終わっていたようですが、一つ、大逆転の知恵が無いわけではありません。

キーワードは「蝦夷とジブリ」です。以下、詳細を述べます。

番組によれば、撤去には数億円が必要で、跡地を観光目的に利用するなら1億円まで補助が出るものの、行政(花巻市)には数億ものカネは無理で、利用法も良い知恵が出ない、とされています。

ところで、台温泉は、坂上田村麻呂と関わりがある温泉なのだそうで(岩手でも最古級の温泉でしょうか)、田村麻呂といえば阿弖流為=蝦夷、蝦夷といえば縄文の末裔、ということになりますが、岩手でも東北でも、蝦夷や縄文を前面に打ち出した観光施設的なものは、私の知る限り、ほぼありません。

ただ、いくら世界遺産云々とはいえ、縄文=地味そのもの、蝦夷なんて知名度も全然ないのに・・・と思っている貴方は、大事なコンテンツを忘れています。

もののけ姫のアシタカです。
あのイケメンのアシタカです。

彼は蝦夷の末裔の隠れ里の出身で、製鉄事業に起因して猪神に生じた呪いを浴びたせいで里を離れ、呪いを解くための旅に出て製鉄の里に辿り着き、そこで自然と文明の対立と超克というテーマに立ち向かうことになります。

このテーマは当然ながら現在も色あせたものではなく、むしろ深刻の度合いを深めていると言えるでしょう。

で、作品の性質上、「蝦夷の隠れ里」の推定所在地として、岩手が我こそはと立候補できる地域の一つであることは議論の余地がありません。

田村麻呂との繋がりという、誰も文句を言えない「候補者としての資格(ひいては責務)」が台温泉にはあると言ってよいでしょう。

そして、開園したばかりの「グッズ転売の里」ならぬ大盛況のジブリパークには、現時点では蝦夷の隠れ里はありません(但し後述)。そもそも、蝦夷の隠れ里を愛知県に設ける必然もありません。

そこで、「第2ジブリパーク」とまで銘打つかはさておき、この廃墟ホテルの跡地に蝦夷の隠れ里(ひいては縄文・蝦夷らしい生活空間)を再現し、本家ジブリパークとの何らかの連動性(コラボ云々)を目指せば、「解体費用のモトが取れる観光施設」も夢ではないように思われるのですが、どうでしょう。

温泉が出る場所なので、美人の湯ならぬ「君もアシタカになれる!イケメンの湯!」などと銘打った温泉ホテルを作って、朝晩は静謐なホンモノ感溢れる蝦夷の里の美しい景観を眺めながら贅沢なひとときを過ごせる・・などと構想すれば、もはや陳腐化したグランピングなどと異なる唯一無二の空間として、星のやグループなどの進出も得られるかもしれません。

ちなみに、現地(廃墟ホテル)は裏側に延々と低山が続いているので、ちょっとした開発なら困る要素はない(宅地取得のような苦労はない)ようにも思われます。

大規模な施設は無理でしょうが、北東北の縄文諸遺跡を活かすとか、「賢治と縄文」的な切り口も考えて適度に内部コンテンツの更新を行えば、永続的な集客力を備えることも、十分ありうるのではないでしょうか。

ただ、ジブリパークは第2期工事が予定されており、「もののけ」関連施設として蝦夷の隠れ里も候補になるのではと言われているようなので、そうしたこと(本家は製鉄村の方を作り、蝦夷はこっちに譲って貰う)も含め、ジブリ側との深い交渉が不可欠となります。

また、1億円までしか国の補助が出ないという現状の改善(補助額の増加)や各種カネ主との交渉に関しては、恐らく花巻市長だけでは手に余る話で、岩手県知事をはじめ様々な政治関係者・企業関係者の努力が必要になるでしょう。

で、ある意味、ここが本題?なのですが、来年の岩手県知事選で、この構想をぶち上げて推進を掲げる候補がおられれば、ぜひ応援してみたいように思うのですが、いかがでしょうか。

毎度の戯言として一笑に付されて終わりかもしれませんが、カネまみれ五輪の類よりも、よほど「縄文・蝦夷の末裔の地」たる岩手にとっては、地に足の付いた夢のある話であり、これに「廃墟ホテルで汚された大地を美しい姿に取り戻す」という、宮崎監督の好感触も得られそうな大義名分もありますので、ぜひ多くの方々に考えていただければ幸いです。

アシタカって誰とか、もう忘れたとか仰る残念な方々は、検索ですぐ出てくるこうしたサイトをどうぞ。

RC卓話とウクライナからのメッセージ

昨日は、盛岡北RCの卓話担当でした。

3日前(日曜)に岩手・宮城の全RCの大会があり、開催ホテルでは通常どおりの数百人規模の立食懇親会があったので、

スーパーなんとかの人がいて、巨大クラスター発生

なんてことになれば、例会当日に一斉発症
→例会中止に止まらず、各地RCでアビ叫喚
→後世で「ロータリー・クラスター(略称RCC)」と称される

という展開を密かに期待・・・もとい、危惧していたのですが、無用の心配だったようで、皆さん無事に参加されていました。

今回は、どのようなテーマを取り上げたらよいか悩んだ挙げ句、色々なネタをレジュメに書いて用意したのですが、結局、用意した話題の5分の1もお話しできずに終わってしまいました。

当クラブでは「ドタキャンが出たので卓話やって」という連絡が年に1~2回来るので、今回、消化不良となったネタは、再度、取り上げさせていただこうかと思っています。

レジュメの目次は、こんな感じです。

第1 改めて自己紹介
第2 これまでの卓話一覧
第3 法律相談きほんのき
第4 顧問契約・顧問弁護士について
第5 プラスチック災禍と「貴方は何かしますか」
第6 RC・当クラブについて思うこと

ところで、RCの地区大会では、民族楽器を用いて日本で歌手活動をされているウクライナの女性の方のミニコンサートがありました。

ウクライナ語の歌詞は全く分かりませんでしたが、第二の国歌と呼ばれる曲などを熱唱される姿の先に、これまで報道され、今も生じ続けている幾つもの残酷な光景が浮かんできて、胸が熱くならずにはいられませんでした。

この歌手の方は、チェルノブイリの間近にある都市(引用のドラマの舞台となった都市と思われます)のご出身とのことで、このドラマもご覧になれば、なおのこと、この方やウクライナの背負った苦難と闘いの歴史が、理解いただけるのかもしれません。
https://www.star-ch.jp/drama/chernobyl/

いじめ問題や学校事故に関する第三者機関と弁護士の役割

数年前、著名ないじめ事件の第三者委員会などに関与された先生の講演、報告などを内容とする勉強会が弁護士会で行われ、参加したことがあります。

私自身はいじめ絡みの問題に業務として関わったことはありませんが、関心の強いテーマでもあり、講師の先生が経験された様々な事柄について興味深く拝聴してきました。

「いじめ防止対策推進法」の制定により、いじめ問題で重大な事態が生じた場合には学校側に調査及び情報提供義務が課されたため(28条)、現在は設置されるのが通例となっているのではと思います。ただ、欲を言えば、重大事態の発生前の進行段階から、関係者のSOSや通報などに基づき、相応の事案では迅速かつ当事者にとって低コストで第三者が介入するような仕組みが設けられるべきではないかと思います。

この点については、講師の一人である仙台の先生から、第三者委員会の委員としての報告のほか、「宮城県内の学校の管理担当者の方々に講演する機会があり、未然防止のための早期介入の必要について提言し、弁護士会との連携などについて理解を得た」とのお話があり、羨ましく感じました。

ところで、いじめに限らず学校を巡って訴訟になるケース(いじめ、体罰、各種スポーツ事故、施設の問題に起因する事故など)は非常に増えており、最近の判例雑誌にも多数掲載され、私が作っている裁判例データベースでも多数の例を勉強し、入力しています。

これらの問題に関する裁判例を広く集めて賠償責任の当否に関する判断要素などを詳細にまとめた書籍も刊行されており、当方でも、例えば、引用の書籍などを購入しています。
青林書院|書籍詳細:学校事故 判例ハンドブック (seirin.co.jp)

著者の坂東先生は損保大手の顧問弁護士として高名な方で、学校を被保険者とする賠償責任保険などの関係で多数の裁判に従事された経験を踏まえて執筆されているのではないかと思われます。

学校を巡っては、生徒側が被害者となるケースだけでなく、教員側が被害者となる事案(生徒集団が起こした学校崩壊に起因するメンタル疾患や教員間のトラブル、いわゆるモンスターペアレント問題など)もあり、様々な論点があるほか、複数の問題・論点が混在してトラブルが一斉に吹き出すケースもあると思います。

そうした事案への対策も含め、学校を取り巻く各当事者が違法不当な取扱いを受けて長期間、苦しむことのないような、被害の未然防止や事後救済の仕組みが構築されるべきだと思いますし、私自身、そうしたものにお手伝いできる機会があればと願っています。

岩手でも滝沢市や矢巾町で残念な事件が生じたことがありますが、弁護士に限らず、教育現場・関係者に対し「一杯一杯の状態にある当事者」をさらに追い詰めたり足を引っ張るのでなく、適切にフォローできるような態様で支援できるようなシステムの構築や機会の増進にご尽力いただければと思っています。

 

もう一つの「寮生はどう生きるか」の物語と、黄昏の中で止まった時間

先日、函館ラ・サール学園の保護者向けの通信誌に寄稿する機会があり、思うところあって、私の昔話、それも、華やかな自慢の類とは真逆の、苦い思い出話を敢えて書くことにしました。

といっても、通信誌では、字数の制約もさることながら、言葉をかなり選んで書かなければならないでしょうから、踏み込んだ記載は避けて、かなりぼかした内容にしています。

ただ、現在も、何らかの形で寮生活に不適合を起こすなどして、気の滅入る暮らしを余儀なくされている生徒さんは一定程度いるのでしょうし、お子さんにそうした問題が生じた親御さん達も、辛い思いを余儀なくされているのだろうとお察しします。

私の経験やその後に辿った道は、そうした方々に何らかの参考になるかもしれないと思い、敢えて、具体的な事実関係を書くことにしました。

ちなみに、通信誌に寄稿したタイトルは、次のとおりです。

【落ち込むこともあったけど、盛岡支部はまだ元気です。たぶん。】

****

33年前、私は100人部屋にいました。
何かと美化されやすいこの空間が、希薄な人間関係の中で育った私は苦手でした。

自習室(2室。当時は計7室くらいありました)は40人ほどで、1年次の最後に室内(生徒達)で行った「何でも投票」があり、十数個の質問の中にあった「面白くない人」ランキングで、私は2位でした。

こんな投票(アンケート)を2室の人達が行った理由は、今も分かりません。
当時の私への評価自体には、異議はありませんが。

自習室の私の目の前には、爽やかという言葉のエッセンスを抽出して具現化すれば、こんな若者が造形されるのだろうと感じた、美しい心と容貌の持ち主のA君が座っていました。入寮当日に打ち解け、100人部屋時代は一番の仲良しだったと思います。

入寮から半年以上を経て4人部屋に移行する時期になりました。

この学校では、「メンバー決め」は原則として生徒の自主性(自助努力)に委ねられています。

号令が下された直後に、私とA君、次いで、飄々或いは泰然自若としたB君が組むことになりましたが、あと1人が決まりません。

やがて、顔役の同級生から、少し離れたエリア(他の自習室)で暮らすC君が、仲間を作れず困っているので入れてやって欲しいと頼まれ、3人とも快諾しました。

***

4人部屋の生活が始まり、最初は4人とも関係は良好で、消灯時間後も深夜まで談笑する日々が続きました。
が、間もなく、C君は何かにつけて、私1人を執拗に非難するようになりました。

私はC君が一年次に他の同級生から寮内で「いじめ未満」の被害を受けるのを垣間見たことがあり、人としての未熟さを色々と抱えた「面白くない人」の私が、人望のあるA君やB君と仲良く暮らす光景を、面白くないと感じていたのかもしれません。

C君の言動は、その種の経験に慣れた私には半ば平気なものでしたが、暖かい家族と暮らした優しいA君には、その光景が耐えられなかったようです。

ほどなくA君は3人だけの場で私やB君に愚痴を述べるようになり、仕舞いには自身の退寮希望まで仄めかすようになってしまいました。

私もB君も事態悪化を回避したく、A君を説得すると共にC君との調和に努めたつもりですが、状況はさらに深刻となり、我々3人で、C君と困難な協議をせざるを得なくなりました。

最初に切り出した瞬間以外は、誰が何を話したのか、覚えていないことも多いのですが、事実上のリーダー役となったA君が、君と一緒にやっていくのは難しいという趣旨のことをC君に述べたのだろうと思います。

結果、C君は「君達に迷惑はかけたくない」と言って下宿に移りました。

私の記憶では、我々3人がC君に退寮を求めたことはありません。
しかし、寮教諭に相談するなど「C君の退寮を避けるための方策」を何か講じたこともありませんでした。

今ならそうした幾つかの方法が思いつきますが、当時、そこまでの知恵がなかったか、私に当事者意識・責任感が欠けていたか、C君ひいてはA君の立場に立って考える姿勢が足りなかったか、全ては未熟さによるものとしか言いようがありません。

ともあれ、5月か6月の時点で、4人部屋は3人だけの部屋になりましたが、その後も部屋に笑顔が戻ることはありませんでした。

A君は、それ以来、その出来事に強い自責の念を抱くようになり、1~2ヶ月ほど鬱々とする生活を続けた後、寮生活の継続を望まず、自ら下宿に移っていきました。

***

夕暮れに沈んだ暗い室内で退寮の意思を告げたA君が、そのとき何と言ったのか覚えていません。

ただ、私やB君の慰留を寂しそうな笑顔で断ったA君が、C君の件で責任を取りたいとの気持ちだったことは、間違いないと思います。

しばらくして、多少とも明るさを取り戻したA君は、下宿生同士でもあるC君と行動を共にすることもあったようです。

私が事態の打開にできた・したことは何もなく、力不足を彼らや親御さんに申し訳ないと思いつつ、他人事のように状況を眺めることしかできませんでした。

私自身は、その後、高校時代に誰かと一緒に出かけるなどした記憶が基本的にありません。大学時代も、そうした経験はほとんどありませんでした。

高校1年生の頃、私はA君と一緒に出かけたり二人だけで時間を過ごしたことが何度かあり、そのことは、私にとっては、他の友人・同級生と過ごした時間とは何かが違う、眩しさを含む思い出になっています。

もしかすると、それは、映画「影裏」の光景に、ほんの少し通じるものがあるかもしれません。

***

残った私とB君は、2年次の後半は他の4人部屋で生じた不和のため行き場をなくしたD君を受け入れて欲しいと寮の先生に言われ、D君と3人で互いに干渉しない静かで淡々とした日々を過ごし、3年次には、新たな仲間を見つけたD君に代わり、B君のほか別の4人部屋から分かれたE君・F君と組みました。

北大医学部に現役合格したE君の勉強姿勢に強い感銘を受けることも多く、3年次には、この4人で一貫して良好な寮生活を過ごすことができました。

私は、入学直後から理系科目で断崖を乗り越えることができなかった影響もあり、大学入試では、この学校への進学を活かし切ったと言えるだけの十分な成果を出すことはできませんでした。

しかし、E君やB君(旭川医大現役合格)の背中から学んだことが、その後の司法試験で、当時の実力に照らし分不相応なスピードでの合格という形で、顕著に生きたことは間違いありません。

***

それから30年を経た今、田舎のしがない町弁の宿命として多数の赤字仕事に追われる日々を送っていますが、採算が取れなくとも人々の力になる真っ当な仕事をすることが、あの光景への、自分なりの贖罪かもしれないと思うことはあります。

もちろん、未熟な高校生同士の話ですし、C君やA君に対しては、誰かが一方的に悪いという構図は存在しないと思っていますが、C君やA君の親御さんに対しては、あのような事態になってしまい力不足で申し訳ありませんでしたとお詫びしたい気持ちを今も持ち続けています。

どうしてこんな昔話をダラダラ書くのか、だから、お前は「面白くない人」と言われるんだろうと、お叱りを受けるかもしれません。

今も昔も、この学校・寮で暮らす子供達は、多くの不安やストレスを抱えながら生きています。中学生なら、尚更だと思います。

私も、何か彼らの力になることができればとは思いつつ、希薄な人間関係に安住してきた報いなのか、意義のある役割は何一つ果たすことができていません。

ただ、人には歴史があります。

ここに書いていない事柄を含め、本校・寮で、決して楽しいとは言えない経験もしたのは、貴方だけではないこと、そして、そんな経験でも、いつか前向きに生かせるときが来るのではと伝えることで、私にも皆さんの役に立つことがあるかもしれません。

困難な問題を抱えた生徒さん達に対し、直に力になることはできないかもしれませんが、口先だけの励ましに代えて私の経験談をお伝えした次第です。

当事務所のブログには、他にも、ご迷惑にならない範囲?で本校や函館のことを書いています。気が向いた方は、そちらもご覧いただければ幸いです。

***

ちなみに、今回のタイトルは、本校ご出身の作家さんの作品にちなんだもので、私の手元にも1冊ありますが、まだ読めていません。そろそろと思ってはいますが・・

建築訴訟を巡る一国二制度と訴訟実務の行方

3年ほど前、最も苦労した事件の一つに、岩手県内のある住宅の新築工事の瑕疵を巡る訴訟があります。

施工業者側(瑕疵を理由とする賠償請求を受ける側)で依頼を受け、幾つかの工事項目で、住宅建築に関する細かいルールの抵触の有無が問題になりました。

が、依頼主たるご年配の施工業者の方は、「自分はフラット35(公庫仕様住宅)の仕事はしたことがない」と仰るなど、現在の建築基準法令やそれを取り巻く実務ルールの詳細にさほど明るくない(悪く言えば、昔の知識で仕事をしている)ように見受けられ、論点に関する説明(相手方の主張への反論)をお願いしても、得心できるご返事がなかなか得られませんでした。

幸い、現代にはインターネットという有り難い武器がありますので、自分なりに建築用語をあれこれ調べて「この点(工事項目)は瑕疵ではない=きちんとした工事だと貴方が仰っている理由は、要は、こういうことですか」と、私の方でそれなりに理屈をどうにか揃えて書面を作成し依頼主の確認を求める作業の繰り返しとなり、相手方の言い分(事実関係から法令等のルールまであれこれ)を理解するための作業も含め、他の訴訟の何倍も消耗を要する作業が続きました。

私は本格的な建築瑕疵訴訟を経験したことはほとんどないものの(工事代金を巡る業者間の紛争など工事絡みの訴訟は数多く経験しています)、東京時代に建築瑕疵が絡む訴訟は若干ながら関わったことがあります。

東京地裁では、建築系の訴訟は当時(平成14年前後)から、訴訟の早い段階で問答無用で調停手続に廻され、建築士の方の主導で技術的な論点に関する整理が行われています。私も当時、それをもとに早期に調停案が示されて合意し終了、という経験を1~2度しており、本件も、事案の性質や当事者の実情などから、調停手続に付していただいた方が良いのでは、と裁判所にも申し入れました。

しかし、その件の担当裁判官は、ご本人の口ぶりなどから建築紛争に豊富な知見をお持ちらしく、調停は必要ないとした上で、概ね当事者の主張立証を尽くさせた時点で、この論点は当方(被告)の主張を認めるが、この論点はダメ、などと口頭で結論を伝え、それを前提に和解勧告として特定の金額の提示をするという対応(訴訟指揮)をしてきました。

それまでの当事者とのやりとりなどから、「この論点は厳しいのでは」と薄々感じていた論点については特に異存はなかったのですが、中には、当該工事に関する技術的知見に精通する建築士の方の意見を伺いたかったという争点もありましたので、結論自体は恐らくやむを得ない範疇なのだろうとの印象は持ちつつも、生煮え感というか、納得という点では残念な面がありました。

といっても、建築調停(建築学などの知見が問われる場合に建築士を交えて、その知見を生かして争点整理や和解勧告を行う調停)を行わないという事象(訴訟指揮)は、この裁判官の方に限った話ではありません。

恐らくは、地方(小規模)の裁判所では、ごく当たり前のことである=言い換えれば、建築調停は、実際には十数年以上前から現在まで一貫して、大都市だけの制度になっていると思われます(そのような話を聞いたことは何度かあります)。

既述のとおり、この訴訟の担当裁判官の和解勧告(結論)自体は、両当事者にとってやむを得ない(受け入れざるを得ない)範疇のものと理解しているのですが、当方が提起した論点(ご本人のごく抽象的な説明を建築の素人である私があれこれ調べてまとめた論点であり瑕疵訴訟の一般的文献には全く記載のない、建築分野の固有の論点)について、結局は納得できる説明は得られなかったとの気持ちがあり、曲がりなりにも建築士の方が関与していれば、多少とも裁判所の判断を得心できたのにと、残念な感じがしてしまいます。

少し前の判例タイムズに、東京地裁が行っている建築瑕疵訴訟の審理モデルに関する論考が掲載されてましたが(1454号4頁)、相変わらず、東京地裁では建築瑕疵訴訟では調停手続を行うのが至極当然という書きぶりとなっており、「いつまで、こうした一国二制度状態を続けるのだろう、最高裁はその状態が続くことが平気なのか?」と思わざるを得ません。

もちろん、このような「大都市と地方の取扱(訴訟の審理方法)の違い」は国民一般に知られているものではなく、まして国民に支持されているものでもありません。

裁判員制度に関しては、曲がりなりにも各都道府県で一律の仕組み(サービス?)を用意している裁判所も、建築瑕疵紛争のほか幾つかの類型では、大都市と地方とで審理の仕方などが異なるという実情を放置しているように見受けられ、それで良いのだろうかと感じてしまいます。

医療訴訟や知財訴訟など専門特化が著しい領域では、裁判所(専門部)が要求する水準で直ちに仕事ができる弁護士自体が限られているため、相応にやむを得ない面があるのかもしれませんが、少なくとも建築関係訴訟には、そこまでの事情はないはずです。

どちらの手法が良いのかという点はさておくとしても、東京等で生じた建築瑕疵紛争と地方都市で生じたそれとで、「司法の手厚さ」が違うことが常態化するのであれば、それは国民とりわけ地方在住者の司法へ信頼を損なうことに他ならず、関係者には熟慮と行動をお願いしたいところです。

あらえびすと利き酒の旅

先日、花巻の台温泉に宿泊に行きました。というわけで、とりあえず一首。

利き酒と「美味い!」が恋しくなったなら
おでんせ岩手、湯気香る宿

南部美人もあるよ(by田中要次氏)

宿では、南部美人をはじめ合計7種類の日本酒を1杯ずつ振る舞う利き酒セットが提供されていました。

酒自体の味の違いもさることながら、食べ物により個々の酒との相性が全く違うので、種類の豊富な利き酒セットは大変ありがたく、このようなスタイルは全国の温泉宿にもぜひ普及させていただければと思いました。

岩手に戻って20年近くになりますが、家族と県内の宿に宿泊するのは初めて、宿泊自体、JC入会直後からご無沙汰で、たぶん、15年以上ぶり。

これが田舎のしがない町弁の現実です。

県民割の終了?前に一度はと思って来ましたが、長期の深刻な家庭内債務を抱えていますので(婚費や養育費ではありません。念のため)、次はいつになることやらです。

そういうわけで、囲炉裏に落とした陶板焼のタマネギも、シャリシャリジャリジャリと、美味しくいただきました。ケチでビンボーって、そういうことさ。

まあ、美味しさも砂を噛む思いも経験する人生となったのかもしれませんが。

***

帰路は雨天のため遠出を避け、野村胡堂・あらえびす記念館に立ち寄り、帰宅しました。

私が平成16年に当事務所の名称を決めたとき、もう一つの有力候補は

あらえびす法律事務所

でした。

が、諸々の理由のほか、野村胡堂作品を読んだことがなく、私にとっての必然さも薄いと感じ、採用することなく終わりました。

もし、あのとき岩手に戻らず東京で生きることにしたなら、偉大な先人にあやかり、都会で蝦夷精神を打ち立てるとのコンセプトで、この名称を掲げたかもしれません。

その場合、銭形平次などに親しんだ世代の都会の方々に広くご依頼いただけるなどということも、ありえたのかもしれませんね。事前に「捕物帖」を必死で読まなければならないでしょうが・・

記念館の展示自体は、故人の生涯や遺品などの解説が中心の真面目な内容ですが、できれば、ギネス級の長編といわれる著名な娯楽作品を世に送り出した方にふさわしい、遊び心ある設営もあって良いのではと思いました。

例えば、がらっパチが「親分、てぇへんだ!」と叫びかける形で、作品で取り上げられた事件を来場者に向かって説明し謎解きなどを促して、インチキなしで正解した人には何か特典が出るとか、何らかのエンタメ要素があれば良いかもしれません。

今どきの人々は、銭形平次そのものに馴染みがないので、モンキーパンチ氏の協力を得て、警部にも登場して貰ってよいのではと思いますし。

ともあれ、紫波エリアにお立ち寄りの方は、こちらにも足を運んでいただければ幸いです。

あと、花巻の羅須地人協会は、現在の状況ではウイルス禍は休業の理由にならないように思いますので、速やかに再開いただければ幸いです。

***

余談ながら、本日の「盛岡どんぱ」なる大曲系ミニ花火大会がありました。

帰宅した直後に花火は終了し
事務所バガスカ 音だけドンパ

・・・と思ったら、30分後になって突如、再開し、遠くから若干は拝見できました。

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

函館の屋台村放浪記~函館R1.10往訪編①~

3年前の話ですが、とある所用で函館に行きました。不本意ながら前日入りせざるを得ず、夜の到着後、折角だからということで風呂上がりに大門横丁(屋台村)に晩酌に行きました。

もともと軽く一杯だけで宿に戻りすぐに寝ようとしか考えていなかった上、目当てのお店が満席だったため、投げやり気分で、店員女性(若いおねえさん)が客引きしていたお店(屋台)に入りました。

すると、コの字型のカウンターのど真ん中に、ホスト風?の威勢の良いあんちゃんが陣取っており、私が入店するまで客引きしていた店員と大声で延々と軽口トークを繰り広げていました。

屋台は延々とその喧騒に包まれ、温泉上がりにしみじみしようとしていたのが台無しとなり、「こんなあんちゃんが占拠する店に入るんじゃなかった・・」と憤慨していたところ、あんちゃんは店員との薄口トークに飽きたのか、こちらにしきりに話しかけてきました。

私も若い頃に夜の山小屋で見知らぬ健脚の方と熱い山トークを繰り広げたことはあるものの、人里の盛り場に出入りするのはほぼ皆無で、上記の経緯からも酔っ払いには関わりたくないと思って、半ば聞こえないふりをしていました。

が、あんちゃんのお世辞トークに屈したのか、同行者が会話を始めたので、やむなくお付き合いすることにしました。

あんちゃん(自称29歳)は、ホストではなく全国規模の専門商社の営業マンで、函館には出張で週末だけ時々来ているとのことでしたが、そんな御仁がどうしてこの屋台の主のように振る舞っているのだろう・・と思いつつ、あんちゃんトークを聞き流していました。

すると、同行者の対応に気をよくしたあんちゃんは、突如、「どうすれば結婚できるんですか」などと、直球トークを繰り出してきました。

結局、あんちゃんトークを適当にやり過ごしているうちに盛会となり、ほどなく解散しました。

この年まで生きながらえると、「歴史は繰り返す」という言葉を体感することは何度もあります。

数年前、父が亡くなり私が駆けつけた直後、病院から戻ってきた父の枕元に来た母が「おつかれさまでした」と深く一礼したのを見ましたが、果たして、そうした光景もまた繰り返されるのか、あれこれ考えされられた夜になりました。

追憶の欧州とドイツ料理

高1の夏、入試の褒美として、母に「欧州中央(独墺瑞仏)10日間弾丸格安?ツアー」に連れて行って貰ったことがあります(私を口実に本人が欧州旅行をしたかっただけかもですが)。

当然ながら、成人前に海外に行ったのは後にも先にもそのときだけです。

最後に2日だけ滞在したパリも素晴らしかったですが、私は最初の3日間を過ごしたドイツの方が性格(民族気質)的に親近感があり、高校時代は「そこそこの外語系大学に進学→ドイツ留学→中堅商社の現地駐在員→日本と縁を切り独語圏に骨を埋める」という人生に憧れがありました。

残念ながら?憧れは幻に終わる人生になりましたが、そんな事情もあり、いずれはドイツ料理のお店で当時を懐かしむ時間が持てれば・・と思っていたものの、その機会に恵まれないまま、この歳になってしまいました。

というわけで、ゴー券の御利益もあり、先日、現在の盛岡では唯一と思われるドイツ料理のお店に初めて伺い、ようやく年来の希望を叶えることができました。

旅行の際は、中世の宝石箱とも言われるローテンブルグのレストランで昼にいただいた極太のソーセージなどが大変美味しかったことを覚えています。

可能なら、またドイツなど欧州方面に旅行できればと思いますが、時間云々もさることながら、これから十年ほどは「そんなの絶対無理」と感じる綱渡りのカネ負担の日々が続くので、夢のまた夢というのが残念な実情です。

余談ながら、訪問したお店は一皿あたりのボリュームが割と大きく、3~4人で伺うには丁度良いのですが、相応の年齢の夫婦2人だけだと種類をこなすのが厳しいと感じました。

可能なら、量も単価も控えめな小盛りメニューも作っていただければ幸いです。