北奥法律事務所

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2022年

いじめ問題や学校事故に関する第三者機関と弁護士の役割

数年前、著名ないじめ事件の第三者委員会などに関与された先生の講演、報告などを内容とする勉強会が弁護士会で行われ、参加したことがあります。

私自身はいじめ絡みの問題に業務として関わったことはありませんが、関心の強いテーマでもあり、講師の先生が経験された様々な事柄について興味深く拝聴してきました。

「いじめ防止対策推進法」の制定により、いじめ問題で重大な事態が生じた場合には学校側に調査及び情報提供義務が課されたため(28条)、現在は設置されるのが通例となっているのではと思います。ただ、欲を言えば、重大事態の発生前の進行段階から、関係者のSOSや通報などに基づき、相応の事案では迅速かつ当事者にとって低コストで第三者が介入するような仕組みが設けられるべきではないかと思います。

この点については、講師の一人である仙台の先生から、第三者委員会の委員としての報告のほか、「宮城県内の学校の管理担当者の方々に講演する機会があり、未然防止のための早期介入の必要について提言し、弁護士会との連携などについて理解を得た」とのお話があり、羨ましく感じました。

ところで、いじめに限らず学校を巡って訴訟になるケース(いじめ、体罰、各種スポーツ事故、施設の問題に起因する事故など)は非常に増えており、最近の判例雑誌にも多数掲載され、私が作っている裁判例データベースでも多数の例を勉強し、入力しています。

これらの問題に関する裁判例を広く集めて賠償責任の当否に関する判断要素などを詳細にまとめた書籍も刊行されており、当方でも、例えば、引用の書籍などを購入しています。
青林書院|書籍詳細:学校事故 判例ハンドブック (seirin.co.jp)

著者の坂東先生は損保大手の顧問弁護士として高名な方で、学校を被保険者とする賠償責任保険などの関係で多数の裁判に従事された経験を踏まえて執筆されているのではないかと思われます。

学校を巡っては、生徒側が被害者となるケースだけでなく、教員側が被害者となる事案(生徒集団が起こした学校崩壊に起因するメンタル疾患や教員間のトラブル、いわゆるモンスターペアレント問題など)もあり、様々な論点があるほか、複数の問題・論点が混在してトラブルが一斉に吹き出すケースもあると思います。

そうした事案への対策も含め、学校を取り巻く各当事者が違法不当な取扱いを受けて長期間、苦しむことのないような、被害の未然防止や事後救済の仕組みが構築されるべきだと思いますし、私自身、そうしたものにお手伝いできる機会があればと願っています。

岩手でも滝沢市や矢巾町で残念な事件が生じたことがありますが、弁護士に限らず、教育現場・関係者に対し「一杯一杯の状態にある当事者」をさらに追い詰めたり足を引っ張るのでなく、適切にフォローできるような態様で支援できるようなシステムの構築や機会の増進にご尽力いただければと思っています。

 

もう一つの「寮生はどう生きるか」の物語と、黄昏の中で止まった時間

先日、函館ラ・サール学園の保護者向けの通信誌に寄稿する機会があり、思うところあって、私の昔話、それも、華やかな自慢の類とは真逆の、苦い思い出話を敢えて書くことにしました。

といっても、通信誌では、字数の制約もさることながら、言葉をかなり選んで書かなければならないでしょうから、踏み込んだ記載は避けて、かなりぼかした内容にしています。

ただ、現在も、何らかの形で寮生活に不適合を起こすなどして、気の滅入る暮らしを余儀なくされている生徒さんは一定程度いるのでしょうし、お子さんにそうした問題が生じた親御さん達も、辛い思いを余儀なくされているのだろうとお察しします。

私の経験やその後に辿った道は、そうした方々に何らかの参考になるかもしれないと思い、敢えて、具体的な事実関係を書くことにしました。

ちなみに、通信誌に寄稿したタイトルは、次のとおりです。

【落ち込むこともあったけど、盛岡支部はまだ元気です。たぶん。】

****

33年前、私は100人部屋にいました。
何かと美化されやすいこの空間が、希薄な人間関係の中で育った私は苦手でした。

自習室(2室。当時は計7室くらいありました)は40人ほどで、1年次の最後に室内(生徒達)で行った「何でも投票」があり、十数個の質問の中にあった「面白くない人」ランキングで、私は2位でした。

こんな投票(アンケート)を2室の人達が行った理由は、今も分かりません。
当時の私への評価自体には、異議はありませんが。

自習室の私の目の前には、爽やかという言葉のエッセンスを抽出して具現化すれば、こんな若者が造形されるのだろうと感じた、美しい心と容貌の持ち主のA君が座っていました。入寮当日に打ち解け、100人部屋時代は一番の仲良しだったと思います。

入寮から半年以上を経て4人部屋に移行する時期になりました。

この学校では、「メンバー決め」は原則として生徒の自主性(自助努力)に委ねられています。

号令が下された直後に、私とA君、次いで、飄々或いは泰然自若としたB君が組むことになりましたが、あと1人が決まりません。

やがて、顔役の同級生から、少し離れたエリア(他の自習室)で暮らすC君が、仲間を作れず困っているので入れてやって欲しいと頼まれ、3人とも快諾しました。

***

4人部屋の生活が始まり、最初は4人とも関係は良好で、消灯時間後も深夜まで談笑する日々が続きました。
が、間もなく、C君は何かにつけて、私1人を執拗に非難するようになりました。

私はC君が一年次に他の同級生から寮内で「いじめ未満」の被害を受けるのを垣間見たことがあり、人としての未熟さを色々と抱えた「面白くない人」の私が、人望のあるA君やB君と仲良く暮らす光景を、面白くないと感じていたのかもしれません。

C君の言動は、その種の経験に慣れた私には半ば平気なものでしたが、暖かい家族と暮らした優しいA君には、その光景が耐えられなかったようです。

ほどなくA君は3人だけの場で私やB君に愚痴を述べるようになり、仕舞いには自身の退寮希望まで仄めかすようになってしまいました。

私もB君も事態悪化を回避したく、A君を説得すると共にC君との調和に努めたつもりですが、状況はさらに深刻となり、我々3人で、C君と困難な協議をせざるを得なくなりました。

最初に切り出した瞬間以外は、誰が何を話したのか、覚えていないことも多いのですが、事実上のリーダー役となったA君が、君と一緒にやっていくのは難しいという趣旨のことをC君に述べたのだろうと思います。

結果、C君は「君達に迷惑はかけたくない」と言って下宿に移りました。

私の記憶では、我々3人がC君に退寮を求めたことはありません。
しかし、寮教諭に相談するなど「C君の退寮を避けるための方策」を何か講じたこともありませんでした。

今ならそうした幾つかの方法が思いつきますが、当時、そこまでの知恵がなかったか、私に当事者意識・責任感が欠けていたか、C君ひいてはA君の立場に立って考える姿勢が足りなかったか、全ては未熟さによるものとしか言いようがありません。

ともあれ、5月か6月の時点で、4人部屋は3人だけの部屋になりましたが、その後も部屋に笑顔が戻ることはありませんでした。

A君は、それ以来、その出来事に強い自責の念を抱くようになり、1~2ヶ月ほど鬱々とする生活を続けた後、寮生活の継続を望まず、自ら下宿に移っていきました。

***

夕暮れに沈んだ暗い室内で退寮の意思を告げたA君が、そのとき何と言ったのか覚えていません。

ただ、私やB君の慰留を寂しそうな笑顔で断ったA君が、C君の件で責任を取りたいとの気持ちだったことは、間違いないと思います。

しばらくして、多少とも明るさを取り戻したA君は、下宿生同士でもあるC君と行動を共にすることもあったようです。

私が事態の打開にできた・したことは何もなく、力不足を彼らや親御さんに申し訳ないと思いつつ、他人事のように状況を眺めることしかできませんでした。

私自身は、その後、高校時代に誰かと一緒に出かけるなどした記憶が基本的にありません。大学時代も、そうした経験はほとんどありませんでした。

高校1年生の頃、私はA君と一緒に出かけたり二人だけで時間を過ごしたことが何度かあり、そのことは、私にとっては、他の友人・同級生と過ごした時間とは何かが違う、眩しさを含む思い出になっています。

もしかすると、それは、映画「影裏」の光景に、ほんの少し通じるものがあるかもしれません。

***

残った私とB君は、2年次の後半は他の4人部屋で生じた不和のため行き場をなくしたD君を受け入れて欲しいと寮の先生に言われ、D君と3人で互いに干渉しない静かで淡々とした日々を過ごし、3年次には、新たな仲間を見つけたD君に代わり、B君のほか別の4人部屋から分かれたE君・F君と組みました。

北大医学部に現役合格したE君の勉強姿勢に強い感銘を受けることも多く、3年次には、この4人で一貫して良好な寮生活を過ごすことができました。

私は、入学直後から理系科目で断崖を乗り越えることができなかった影響もあり、大学入試では、この学校への進学を活かし切ったと言えるだけの十分な成果を出すことはできませんでした。

しかし、E君やB君(旭川医大現役合格)の背中から学んだことが、その後の司法試験で、当時の実力に照らし分不相応なスピードでの合格という形で、顕著に生きたことは間違いありません。

***

それから30年を経た今、田舎のしがない町弁の宿命として多数の赤字仕事に追われる日々を送っていますが、採算が取れなくとも人々の力になる真っ当な仕事をすることが、あの光景への、自分なりの贖罪かもしれないと思うことはあります。

もちろん、未熟な高校生同士の話ですし、C君やA君に対しては、誰かが一方的に悪いという構図は存在しないと思っていますが、C君やA君の親御さんに対しては、あのような事態になってしまい力不足で申し訳ありませんでしたとお詫びしたい気持ちを今も持ち続けています。

どうしてこんな昔話をダラダラ書くのか、だから、お前は「面白くない人」と言われるんだろうと、お叱りを受けるかもしれません。

今も昔も、この学校・寮で暮らす子供達は、多くの不安やストレスを抱えながら生きています。中学生なら、尚更だと思います。

私も、何か彼らの力になることができればとは思いつつ、希薄な人間関係に安住してきた報いなのか、意義のある役割は何一つ果たすことができていません。

ただ、人には歴史があります。

ここに書いていない事柄を含め、本校・寮で、決して楽しいとは言えない経験もしたのは、貴方だけではないこと、そして、そんな経験でも、いつか前向きに生かせるときが来るのではと伝えることで、私にも皆さんの役に立つことがあるかもしれません。

困難な問題を抱えた生徒さん達に対し、直に力になることはできないかもしれませんが、口先だけの励ましに代えて私の経験談をお伝えした次第です。

当事務所のブログには、他にも、ご迷惑にならない範囲?で本校や函館のことを書いています。気が向いた方は、そちらもご覧いただければ幸いです。

***

ちなみに、今回のタイトルは、本校ご出身の作家さんの作品にちなんだもので、私の手元にも1冊ありますが、まだ読めていません。そろそろと思ってはいますが・・

建築訴訟を巡る一国二制度と訴訟実務の行方

3年ほど前、最も苦労した事件の一つに、岩手県内のある住宅の新築工事の瑕疵を巡る訴訟があります。

施工業者側(瑕疵を理由とする賠償請求を受ける側)で依頼を受け、幾つかの工事項目で、住宅建築に関する細かいルールの抵触の有無が問題になりました。

が、依頼主たるご年配の施工業者の方は、「自分はフラット35(公庫仕様住宅)の仕事はしたことがない」と仰るなど、現在の建築基準法令やそれを取り巻く実務ルールの詳細にさほど明るくない(悪く言えば、昔の知識で仕事をしている)ように見受けられ、論点に関する説明(相手方の主張への反論)をお願いしても、得心できるご返事がなかなか得られませんでした。

幸い、現代にはインターネットという有り難い武器がありますので、自分なりに建築用語をあれこれ調べて「この点(工事項目)は瑕疵ではない=きちんとした工事だと貴方が仰っている理由は、要は、こういうことですか」と、私の方でそれなりに理屈をどうにか揃えて書面を作成し依頼主の確認を求める作業の繰り返しとなり、相手方の言い分(事実関係から法令等のルールまであれこれ)を理解するための作業も含め、他の訴訟の何倍も消耗を要する作業が続きました。

私は本格的な建築瑕疵訴訟を経験したことはほとんどないものの(工事代金を巡る業者間の紛争など工事絡みの訴訟は数多く経験しています)、東京時代に建築瑕疵が絡む訴訟は若干ながら関わったことがあります。

東京地裁では、建築系の訴訟は当時(平成14年前後)から、訴訟の早い段階で問答無用で調停手続に廻され、建築士の方の主導で技術的な論点に関する整理が行われています。私も当時、それをもとに早期に調停案が示されて合意し終了、という経験を1~2度しており、本件も、事案の性質や当事者の実情などから、調停手続に付していただいた方が良いのでは、と裁判所にも申し入れました。

しかし、その件の担当裁判官は、ご本人の口ぶりなどから建築紛争に豊富な知見をお持ちらしく、調停は必要ないとした上で、概ね当事者の主張立証を尽くさせた時点で、この論点は当方(被告)の主張を認めるが、この論点はダメ、などと口頭で結論を伝え、それを前提に和解勧告として特定の金額の提示をするという対応(訴訟指揮)をしてきました。

それまでの当事者とのやりとりなどから、「この論点は厳しいのでは」と薄々感じていた論点については特に異存はなかったのですが、中には、当該工事に関する技術的知見に精通する建築士の方の意見を伺いたかったという争点もありましたので、結論自体は恐らくやむを得ない範疇なのだろうとの印象は持ちつつも、生煮え感というか、納得という点では残念な面がありました。

といっても、建築調停(建築学などの知見が問われる場合に建築士を交えて、その知見を生かして争点整理や和解勧告を行う調停)を行わないという事象(訴訟指揮)は、この裁判官の方に限った話ではありません。

恐らくは、地方(小規模)の裁判所では、ごく当たり前のことである=言い換えれば、建築調停は、実際には十数年以上前から現在まで一貫して、大都市だけの制度になっていると思われます(そのような話を聞いたことは何度かあります)。

既述のとおり、この訴訟の担当裁判官の和解勧告(結論)自体は、両当事者にとってやむを得ない(受け入れざるを得ない)範疇のものと理解しているのですが、当方が提起した論点(ご本人のごく抽象的な説明を建築の素人である私があれこれ調べてまとめた論点であり瑕疵訴訟の一般的文献には全く記載のない、建築分野の固有の論点)について、結局は納得できる説明は得られなかったとの気持ちがあり、曲がりなりにも建築士の方が関与していれば、多少とも裁判所の判断を得心できたのにと、残念な感じがしてしまいます。

少し前の判例タイムズに、東京地裁が行っている建築瑕疵訴訟の審理モデルに関する論考が掲載されてましたが(1454号4頁)、相変わらず、東京地裁では建築瑕疵訴訟では調停手続を行うのが至極当然という書きぶりとなっており、「いつまで、こうした一国二制度状態を続けるのだろう、最高裁はその状態が続くことが平気なのか?」と思わざるを得ません。

もちろん、このような「大都市と地方の取扱(訴訟の審理方法)の違い」は国民一般に知られているものではなく、まして国民に支持されているものでもありません。

裁判員制度に関しては、曲がりなりにも各都道府県で一律の仕組み(サービス?)を用意している裁判所も、建築瑕疵紛争のほか幾つかの類型では、大都市と地方とで審理の仕方などが異なるという実情を放置しているように見受けられ、それで良いのだろうかと感じてしまいます。

医療訴訟や知財訴訟など専門特化が著しい領域では、裁判所(専門部)が要求する水準で直ちに仕事ができる弁護士自体が限られているため、相応にやむを得ない面があるのかもしれませんが、少なくとも建築関係訴訟には、そこまでの事情はないはずです。

どちらの手法が良いのかという点はさておくとしても、東京等で生じた建築瑕疵紛争と地方都市で生じたそれとで、「司法の手厚さ」が違うことが常態化するのであれば、それは国民とりわけ地方在住者の司法へ信頼を損なうことに他ならず、関係者には熟慮と行動をお願いしたいところです。

あらえびすと利き酒の旅

先日、花巻の台温泉に宿泊に行きました。というわけで、とりあえず一首。

利き酒と「美味い!」が恋しくなったなら
おでんせ岩手、湯気香る宿

南部美人もあるよ(by田中要次氏)

宿では、南部美人をはじめ合計7種類の日本酒を1杯ずつ振る舞う利き酒セットが提供されていました。

酒自体の味の違いもさることながら、食べ物により個々の酒との相性が全く違うので、種類の豊富な利き酒セットは大変ありがたく、このようなスタイルは全国の温泉宿にもぜひ普及させていただければと思いました。

岩手に戻って20年近くになりますが、家族と県内の宿に宿泊するのは初めて、宿泊自体、JC入会直後からご無沙汰で、たぶん、15年以上ぶり。

これが田舎のしがない町弁の現実です。

県民割の終了?前に一度はと思って来ましたが、長期の深刻な家庭内債務を抱えていますので(婚費や養育費ではありません。念のため)、次はいつになることやらです。

そういうわけで、囲炉裏に落とした陶板焼のタマネギも、シャリシャリジャリジャリと、美味しくいただきました。ケチでビンボーって、そういうことさ。

まあ、美味しさも砂を噛む思いも経験する人生となったのかもしれませんが。

***

帰路は雨天のため遠出を避け、野村胡堂・あらえびす記念館に立ち寄り、帰宅しました。

私が平成16年に当事務所の名称を決めたとき、もう一つの有力候補は

あらえびす法律事務所

でした。

が、諸々の理由のほか、野村胡堂作品を読んだことがなく、私にとっての必然さも薄いと感じ、採用することなく終わりました。

もし、あのとき岩手に戻らず東京で生きることにしたなら、偉大な先人にあやかり、都会で蝦夷精神を打ち立てるとのコンセプトで、この名称を掲げたかもしれません。

その場合、銭形平次などに親しんだ世代の都会の方々に広くご依頼いただけるなどということも、ありえたのかもしれませんね。事前に「捕物帖」を必死で読まなければならないでしょうが・・

記念館の展示自体は、故人の生涯や遺品などの解説が中心の真面目な内容ですが、できれば、ギネス級の長編といわれる著名な娯楽作品を世に送り出した方にふさわしい、遊び心ある設営もあって良いのではと思いました。

例えば、がらっパチが「親分、てぇへんだ!」と叫びかける形で、作品で取り上げられた事件を来場者に向かって説明し謎解きなどを促して、インチキなしで正解した人には何か特典が出るとか、何らかのエンタメ要素があれば良いかもしれません。

今どきの人々は、銭形平次そのものに馴染みがないので、モンキーパンチ氏の協力を得て、警部にも登場して貰ってよいのではと思いますし。

ともあれ、紫波エリアにお立ち寄りの方は、こちらにも足を運んでいただければ幸いです。

あと、花巻の羅須地人協会は、現在の状況ではウイルス禍は休業の理由にならないように思いますので、速やかに再開いただければ幸いです。

***

余談ながら、本日の「盛岡どんぱ」なる大曲系ミニ花火大会がありました。

帰宅した直後に花火は終了し
事務所バガスカ 音だけドンパ

・・・と思ったら、30分後になって突如、再開し、遠くから若干は拝見できました。

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

なお、お店や食事の写真は撮り損ねたため、代わりに、翌日に赴いた快晴の城岱牧場から望む函館弯・函館山の風景をご堪能下さい。バスク地方にも、似たような景色がありそうですし。

函館の屋台村放浪記~函館R1.10往訪編①~

3年前の話ですが、とある所用で函館に行きました。不本意ながら前日入りせざるを得ず、夜の到着後、折角だからということで風呂上がりに大門横丁(屋台村)に晩酌に行きました。

もともと軽く一杯だけで宿に戻りすぐに寝ようとしか考えていなかった上、目当てのお店が満席だったため、投げやり気分で、店員女性(若いおねえさん)が客引きしていたお店(屋台)に入りました。

すると、コの字型のカウンターのど真ん中に、ホスト風?の威勢の良いあんちゃんが陣取っており、私が入店するまで客引きしていた店員と大声で延々と軽口トークを繰り広げていました。

屋台は延々とその喧騒に包まれ、温泉上がりにしみじみしようとしていたのが台無しとなり、「こんなあんちゃんが占拠する店に入るんじゃなかった・・」と憤慨していたところ、あんちゃんは店員との薄口トークに飽きたのか、こちらにしきりに話しかけてきました。

私も若い頃に夜の山小屋で見知らぬ健脚の方と熱い山トークを繰り広げたことはあるものの、人里の盛り場に出入りするのはほぼ皆無で、上記の経緯からも酔っ払いには関わりたくないと思って、半ば聞こえないふりをしていました。

が、あんちゃんのお世辞トークに屈したのか、同行者が会話を始めたので、やむなくお付き合いすることにしました。

あんちゃん(自称29歳)は、ホストではなく全国規模の専門商社の営業マンで、函館には出張で週末だけ時々来ているとのことでしたが、そんな御仁が、どうしてこの屋台の主のように振る舞っているのだろう・・と思いつつ、あんちゃんトークを聞き流していました。

すると、同行者の対応に気をよくしたあんちゃんは、突如、「どうすれば結婚できるんですか」などと、直球トークを繰り出してきました。

結局、あんちゃんトークを適当にやり過ごしているうちに盛会となり、ほどなく解散しました。

両親にも私自身にも、良くも悪くも様々な物語があり、この年まで生きながらえると、「歴史は繰り返す」という言葉を否応なく体感せずにいられないことは何度もあり、今もそうした日々を良くも悪くも余儀なくされています。

数年前、父が亡くなり私が駆けつけた直後、病院から戻ってきた父の枕元に来た母が「おつかれさまでした」と深く一礼したのを見ましたが、果たして、そうした光景もまた繰り返されるのか、あれこれ考えされられた夜になりました。

追憶の欧州とドイツ料理

高1の夏、入試の褒美として、母に「欧州中央(独墺瑞仏)10日間弾丸格安?ツアー」に連れて行って貰ったことがあります(私を口実に本人が欧州旅行をしたかっただけかもですが)。

当然ながら、成人前に海外に行ったのは後にも先にもそのときだけです。

最後に2日だけ滞在したパリも素晴らしかったですが、私は最初の3日間を過ごしたドイツの方が性格(民族気質)的に親近感があり、高校時代は「そこそこの外語系大学に進学→ドイツ留学→中堅商社の現地駐在員→日本と縁を切り独語圏に骨を埋める」という人生に憧れがありました。

残念ながら?憧れは幻に終わる人生になりましたが、そんな事情もあり、いずれはドイツ料理のお店で当時を懐かしむ時間が持てれば・・と思っていたものの、その機会に恵まれないまま、この歳になってしまいました。

というわけで、ゴー券の御利益もあり、先日、現在の盛岡では唯一と思われるドイツ料理のお店に初めて伺い、ようやく年来の希望を叶えることができました。

旅行の際は、中世の宝石箱とも言われるローテンブルグのレストランで昼にいただいた極太のソーセージなどが大変美味しかったことを覚えています。

可能なら、またドイツなど欧州方面に旅行できればと思いますが、時間云々もさることながら、これから十年ほどは「そんなの絶対無理」と感じる綱渡りのカネ負担の日々が続くので、夢のまた夢というのが残念な実情です。

余談ながら、訪問したお店は一皿あたりのボリュームが割と大きく、3~4人で伺うには丁度良いのですが、相応の年齢の夫婦2人だけだと種類をこなすのが厳しいと感じました。

可能なら、量も単価も控えめな小盛りメニューも作っていただければ幸いです。

盛岡北RCと岩手女子高IAとの懇談会と「RCのきほんのき」

以前にも投稿したことがありますが、私が所属する盛岡北ロータリークラブは「インターアクトクラブ(IA)」という形で岩手女子高のJRCクラブさんと協力関係にあります。

ただ、詳細は存じないものの、私が入会した10年近く前の時点で、すでに相互の交流は希薄になっており、毎年12月の当クラブのクリスマス会に部員さんと顧問の先生をご招待して手話を用いた歌唱を披露いただくこと以外には、特段の関わりはない状態が続いています(今は、ウィルス禍のせいで、それも絶えています)。

私は3年ほど前に2年間だけIA等の担当委員長を務めましたが、そうした経緯や私自身の多忙さもあり、名ばかりの状態が続きました。

ただ、何もしないのもどうかということで(ある年の会長さんから、活性化を促されていたこともあり)、一度、IAにアンケート調査を行うと共に、その結果を踏まえて会員5名ほどで岩手女子高にお邪魔し懇談会を行ったことがあります。

その際にIA(高校生)向けに作成、配布したレジュメを、折角なので本ブログでも載せることにしました。

うわべだけの綺麗事は好みませんので、「どうしてロータリーには金持ちが多いのか」「バブル崩壊で人数が減った」など、敢えて「本音トーク」的なものも書いていますが、反面、ロータリーの本部?から「こいつは問題児だから懲らしめろ」などというお達しが出ないか、少し不安に思わないこともありません(笑?)。

当日は、敢えてレジュメの棒読みはせず、「宮澤賢治の思想とロータリー運動との関係」について話をしたのですが、それよりも、当方の会長さんが紹介した海外留学支援の説明の方が好評を博していました。

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(目次)
第1 ロータリーとは何か、どのような活動をしているか
第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

※ 本レジュメには、ロータリーなどの「公式見解」ではない個人的な見解が多数含まれていますので、取扱にはご注意ください。

第1 ロータリー(RC)とは何か、どのような活動をしているか
 1 RCの発祥と発展など

1905年に米国シカゴ(ミシガン湖畔の大都市)で執務するポール・ハリス氏(弁護士)が、仕事上の付き合いのある友人同士の相互交流(親睦グループ)として計4人で結成したのが発祥。

その後、1920年代頃から「単なる親睦ではなく、団体または構成員個人として社会への奉仕を実践すべき」と掲げたことが契機になって賛同者が増えて戦前戦後の米国の躍進なども相俟って世界中に広がり、現在は200カ国以上の国々に3万以上のクラブが存在し、120万人以上の会員が所属している。

 2 国際RC(世界全体)や各地RCの活動や実情

RCは、会員内部の懇親や相互扶助(クラブ奉仕)のほか、対外的な活動として、地域社会や青少年、国際社会などへの奉仕を理念に掲げ、その一貫として様々な活動を行っている。

典型的な例では、地域の若者(高校生など)の海外留学を支援(費用補助)したり海外の有為な若者の留学を支援するなどの活動を行うほか「大がかりではないが地域の美観・景観などを良くするための小規模な設備」などの設置(北上河畔の花壇など)といったものを行っている。

国際RCが世界的に行っている取り組みとしては、かつて深刻な難病として数十年前の日本をはじめ世界中に蔓延していた「ポリオ(小児麻痺)」の撲滅のための活動などが行われている。

 3 日本のRCの活動や実情(どうしてロータリーは「お金持ち」が多いのか)

もともとRCは事業活動を行う者同士の親睦を目的として始まったが、日本で最初にRCの結成を提唱したのが三井物産(日本を代表する総合商社の一つ)の経営者(米山梅吉氏)であり、地域を代表する大物経営者(要するに、お金持ち)を中心に広がったことに基づく。

そのため、現在も日本のRCは、企業経営者や高度専門家(医師等)、地域内の大企業の幹部社員など、いわゆる地元の名士さんが会員となっていることが多く、一般庶民(私を含む)から見れば、敷居の高さを感じる面がないとは言えない。

しかし、これは世界共通のこと(RCが前提としていること)では全くなく、海外では、ごく普通の企業のごく普通の立場の従業者が、男女を問わず会員として多く参加する例も多いそうであり、日本のRCのあり方が「当たり前」と考えるのは正しいことではない。

そうしたことも含めて、RCのあり方は次世代に託されている面がある。

第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
 1 盛岡北RCの発祥と現状など

盛岡では、1939年(昭和14年)に盛岡ロータリークラブが結成され、1958年(昭和33年)に盛岡RCの一部会員が脱退(分裂?)するなどの形で盛岡北RCが結成された。

その後も、数十年間は、盛岡RCや盛岡北RCから分かれる形で新たなRCが幾つか結成され、現在、市内(盛岡広域圏内)で計8個のRCが存在している。

なお、喧嘩別れ等の話は特には聞いておらず、親睦団体という性質上、1個の大規模団体よりは、親しい仲間が個別に結成する複数のRCが地域内に並立する方が望ましいとの考え方がとられたものと思われる(ちなみに、東京に3つの弁護士会が存在するのは会長選挙を巡って昔々に喧嘩別れしたからと言われている)。

盛岡北RCは最盛期(平成元年頃?)には80名以上?の会員がいたものの、現在(5年ほど前頃から)は36名前後(40名弱)の会員数に止まっている。

これは全国的な傾向であり、30年前は、バブル経済などの影響で地域の有力・著名企業の経営者や役員などがこぞって加入したものの、バブル崩壊後にそれらが撤退したため、本気でRCが好きな人達(とバブル崩壊後も会費支払が可能だった人達)が残ったという面は強い。

ともあれ、盛岡北RCでは、より多くの会員の加入を望んでいる状態である。なお、現在の会員は各種の事業を営む会社の経営者や幹部社員、専門職(医師など)が多い状態である。

 2 盛岡北RCの「奉仕活動」について

盛岡北RCでは平成18年頃から令和元年頃まで、盛岡市のこども科学館の近くにあった原野(市有地)を借りて「どんぐりの森」と称する植樹・整備事業を行った。

これは、「盛岡は市内に緑が少なく、子供達が地域で自然に触れあう機会が乏しいので、そのきっかけ作りにしたい」などという理念のもと行われた事業であった。

「どんぐりの森」は令和元年頃に終了し市に返還され、一部が現在も活用されている。

第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
 1 インターアクトクラブとは何か、インターアクトとローターアクト

RCでは、「ロータリーの理念(社会奉仕など)を若い世代に伝え、理解を得ると共に将来のRC或いは社会全般の担い手として育成する」ことを目的に、各地RCに、若年者を構成員とする関連団体を設置することを推奨している。

インターアクトクラブは、そのうち12~18歳まで(中高生)を対象とするもので、他に18~30歳までを対象とする「ローターアクトクラブ(の制度)」も存在する。

ローターアクトは、将来のRC会員候補になりうる社会人との親睦を深めることが目的とされやすいが、インターアクトクラブは「奉仕活動を目的とする活動を行っている生徒(学校のクラブ等)の支援」を目的に結成されることが多いようである。

 2 岩手女子高インターアクトクラブについて(掲載は割愛)

 3 日本各地(及び、岩手・宮城地区)のインターアクトクラブの活動など

回覧資料のとおり、①子供やお年寄り、留学生などとの交流・支援事業(RC側も設営等で協力)、②各種の募金活動(同?)、③その他、地域内の様々な慈善活動(同?)、などが行われている(ようである)。

 4 ライラ(RYLA)について

ライラは、RCの各地区(盛岡の場合、岩手・宮城のRC全部で構成される地区)ごとに年1回の頻度で行う「インターアクトクラブ及びローターアクトクラブのための1泊2日の研修大会」であり、岩手又は宮城県内の研修施設を借りて行っている。講演を聴いてグループ討論などをすることなどを内容とし、交流行事(身体を動かすもの。スポーツ的な?)も行われるようである。

岩手・宮城のRC内に、「IA・RAに特に力を入れているクラブ」が幾つかあり、そうしたクラブが中心となって運営がなされている(ようである)。

第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

既述のとおり、インターアクトクラブには、ロータリークラブという資源を生かした様々な活動を行う可能性がありうるところではあるが、現時点でそれがなされていると言えるとは必ずしも言い難い。

学業優先など、時間の確保に困難が伴うことはやむを得ないところではあるが、ぜひ、この機会・資源を生かして「関わってよかった、自分ひいては社会のためになることができた」と思える何かに繋げていただければ幸いである。(以上)

 

「街もりおか」から田中舘秀三教授の顕彰と映画化を目指して

先般、盛岡市のタウン誌「街もりおか」(2022年9月号)に、下記の文章を掲載いただきました。

数年前にも寄稿したことがありますが、一度、田中舘秀三教授の物語で投稿できればと思って運営の方に相談したところ、快諾をいただいた次第です。

このテーマで文章を書くのも最後の機会になるかもしれず、関心のある方はご覧いただければ幸いです。

【忘れられた盛岡出身の偉人・田中舘秀三の顕彰と映画化を目指して】

皆さんは、明治初めに二戸で生まれ、旧制盛岡中学を経て東京帝大に進み、大戦前後に地理学などの分野で活躍した田中舘秀三・東北帝大教授のことは知っていますか。

ミマツダイヤグラムで世界に名を轟かせた三松正夫氏に火山観測の方法などを指南し、昭和新山の名付け親になった学者さんと言えば、ご存知の方もおられるかもしれません。

しかし、秀三氏が歴史に果たした役割はそれだけに止まらず、太平洋戦争の開戦直後、旧日本軍の侵攻により陥落したシンガポールに突如、単身で現れ、大英帝国が長期に亘り築いた貴重な学術資産や当時の先端的産業研究施設としての植物園(同国唯一の世界遺産である、現在のシンガポール植物園)などを戦争の混乱に伴う散逸や消失の危機から守り抜いた功績があることは、一部の歴史愛好家を除いて、ほとんど知られていません。

この物語は、同国到着直後の秀三氏が、欠かすべからざる相棒として軍に直談判し釈放させ、秀三氏と共に奔走した英国人研究者(コーナー博士)が執筆した、「思い出の昭南博物館」(中公新書)にも詳しく描かれています。

私は平成29年に3日だけ同国に旅行したことがありますが、その少し前に偶然その話を知り、この功績は多くの人々に知られるべきと感じるようになりました。そして、何を血迷ったか?帰国便の中で、突如、「顕彰のための物語を作って映画化を目指したい」と思い立ち、長文のあらすじ案を作成して、当事務所のブログで連載しました。

もちろん、中公新書の内容をなぞっても仕方ありませんので、公知の史実と反しない限度?で壮大感動巨編に仕上げるべく、様々な工夫をしています。

例えば、シンガポール華人大虐殺を行った張本人であり、旧軍の「悪の?カリスマ」としても名高い辻政信参謀との対決や、若きリー・クアンユー(建国の父)との邂逅など、幾つかの見せ場を考えました。また、他作品の真似と言われそうですが、導入部では現代パートを設けて、主人公が秀三氏の物語を偶然知り・・・という展開にしています。

今も、あらすじ案は事務所ブログに載せていますので、興味のある方は、「田中舘秀三物語」などと検索してみて下さい。また、ご希望の方は当事務所Webサイトからメールを送信いただければ、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

といっても、「田舎の町弁として地域社会と人々に全力で尽くす」との旗印?のもと、多数の赤字仕事に追われ事務所の運転資金を稼ぐのに汲々とした日々を送る私には、小説を執筆する能力も余力もありませんので、作成したものは「映画化を目指すあらすじ案」に過ぎませんし、残念ながら、5年を経た現在もWebの片隅に埋もれるだけの有様です。

可能でしたら、読者諸氏や本誌の発行などに携わっておられる本職の方々に本格小説を執筆いただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
                    
弁護士・北奥法律事務所代表 小保内義和

【備考】

掲載された文章には、秀三教授のお名前に「しゅうぞう」というフリガナが振られていますが、一般的な読み方は「ひでぞう」と思われますので、ご留意下さい。

 

庄内から善政の光景と庶民の魂を考える(象潟・庄内編4)

鶴岡の藩校致道館は、庄内藩の降伏協議の舞台にもなった重要な施設ですが、すぐ隣には、近未来的な外観を備えた鶴岡市民文化会館(荘銀タクト鶴岡)が聳えており、双方が並び立つ光景は、江戸と現代が鋭く交錯しているように見えます。

このような光景は、岩手・盛岡では見たことがなく、稀有なものであると共に、若い世代への教育的な効果という点でも、意義が大きいと感じました。

大戦争で連戦連勝を経て天下に降伏し、城下も藩も保全された庄内藩。
一進一退の中で降伏し、責任者は斬首され多くの辛酸を嘗めた南部藩。
城の包囲戦では負けることなく天下に降伏し、何もかも失った九戸城。

何が三者の運命を分けたのか。
本間家の財や最新の軍備、名将・鬼玄蕃、そして西郷隆盛の有無だけか。

答えの一つは、藩主が領民から強く支持されていた(根底に、善政で領民も相応に豊かに暮らしていた?)ことにあるかもしれません。

その企画展が、致道博物館で行われていました。

藩の転封を反対し既存の藩政を求める大規模な領民運動などというものは、飢饉と一揆が繰り返された南部藩では到底考えられません。

そうした事情も、庄内藩の戊辰の健闘を支える力になったのでしょう。

明治以後も領主(酒井公)が領民により神格化され祀られている荘内神社(鶴岡城址)も、その現れかもしれません。

酒井家よりも遙かに長い歴史を持つ南部藩(南部本家)には、藩主一門を領民が崇敬する思想はついに生じなかったと思います。

盛岡城址の桜山神社も信直公らを祭神としており、「四柱を祀る」という形式の共通性を含め、荘内神社に相当する施設と言えますが、住民の総意で創建されたと強調する荘内神社サイトの紹介文と桜山神社サイトの創建経緯に関する文章を見ると、住民との結びつきに温度差があるように感じます。

「よそ者」の酒井家は地の利(西回り航路)を活かし人の和(地元の豪商や藩士・領民の協力)を得て、天の時(戊辰戦争)にも屈指の足跡を残しました。

その姿は、数百年も北東北に君臨した南部家を擁しながら、平泉以後は、天下に轟く逸話に縁の薄い歴史を続けた岩手の民にとって、眩しく見える面はあるかもしれません。

反面、明治後、庄内からは天下を動かす政治家等がほとんど生じておらず(唯一の例外が石原莞爾でしょうか)、これに対し岩手は宰相など多くの人物を輩出してもいるわけで、そうした対比も興味深いものと言えるでしょう。

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これまで数回に亘り、象潟・鳥海の自然と酒田・鶴岡の栄華や軌跡について、取り上げてきました。

ただ、庄内は、貧困や苦難に生きた「おしん」の舞台でもあります。

私は、弁護士登録直前の平成12年3月、リマの街角で、地元の沢山のペルー人達と一台のテレビを囲んで、「おしん」の最終回を見ていました。

きっと、私の弁護士人生も試練の連続になるのだろうと思いました。

酒田随一のオサレ施設となった山居倉庫内には、今もあの曲が流れています。

私はおしんのテーマ曲を聴くと、身震いがして泣きそうになり、1週間以上、延々と口笛を吹きたくなる症状が生じます。

重度の「おしん病」患者であることは間違いないでしょう。

皆さんも象潟・鳥海や庄内(酒田・鶴岡など)に旅してはいかがでしょうか。

霊峰の麓には、おくりびとに限らず、意外な出逢いや発見があるかもしれません。

芭蕉の足跡から詩情を掻き立てられることもあるかもしれません。

以上をもちまして、象潟・庄内編は終幕です。

多数の投稿にお付き合い下さり、ありがとうございました。

最後に、帰路の川下り街道にて、同行者にもおしんの爪の垢を煎じて飲んで欲しいの一句

さあ勉強、寮へと急かす最上川

~完~