北奥法律事務所

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私事など

冬の県北と今年のスキー

かなり前の話で恐縮ですが、2月上~中旬ころ、立て続けに二戸の裁判所に仕事がありました。当時、すでに盛岡は全く雪のない毎日晴天の日々でしたが、新幹線のトンネルを抜けて二戸に出ると、そこは地吹雪体験の世界でした。

ある期日の際は、帰りの新幹線に間に合わず、恐らく20年ぶりに銀河鉄道に乗りました。新幹線よりも遙かに秀逸な車窓風景を久しぶりに眺めながら、特急の車内で銀河英雄伝説を読み耽っていた高2の夏を懐かしく感じました。

君のせて銀河の歴史が一ページ

2月下旬になって急を要する仕事が片付き少し余裕ができたので、ようやくスキーに行くことができました。しかし、今年の盛岡圏は雪は降らず晴天ばかりの日々であったせいか、サラサラの粉雪には遠い状態で、

滑りぞめ今年もやっぱり春スキー

という有様でした。

今年は合計で3回のみのスキーで、1回目が岩手高原、2回目は雫石に行きましたが、現行のリフトの終点の先にある、昔のゴンドラ駅の跡のあたりは標高のせいか良質な雪が残っているようで、「ハイシーズンの週末だけでもゴンドラを運行し、そこまで行けるようにして欲しい」と思わずにはいられませんでした。

雫石には修習中に少しだけ行き、第1ゴンドラに乗ってメンズダウンヒルコースを若干滑走したことがありますが、第2ゴンドラ=レディスダウンヒルコースは行く機会がないまま終わってしまい、ゴンドラ自体も無くなってしまった今、あの頃に一度だけでも行っておくべきだったと悲しみを禁じ得ません。

山頂の粉雪恋し雫石  双頭龍も夢のまた夢

ともあれ、雪はグシャグシャ、地面も表出という絵に描いたような春スキー状態のゲレンデ下部を抜けて麓に戻ると、足元の雪まで陽光のため下山中に解けてしまったように見えました。そうした光景に春の訪れを感じつつ、某ジブリ映画にひっかけて一句。

雪しずく春の麓に着きし間に

その翌週(三週目)は、修習中に一度だけでも行きたいと思いながら、安比ばかり行きたがる修習仲間に引きずられ?一度も行けずに終わった夏油高原スキー場に、あれから20年を経て、ついに初めて行きました。

こちらの雪も、ほぼ春スキー状態にはなっていましたが、それでもまずまず快適に滑走でき、ようやく宿願を果たすことができました。

帰路には、思うところあって北上パル(イオン)の「ドムドムバーガー」に立ち寄りました。子供の頃の休日は盛岡には縁が薄く、映画などは八戸に来ることが多かったのですが、当時、本八戸駅にあったドムドムバーガーでマヨネーズたっぷりのテリヤキバーガーを食べて帰ることが何度かあったと記憶しており、久しぶりに食べてみたいと思って立ち寄ったのですが、30~35年ぶり?にいただいたテリヤキバーガーは、思ったほどマヨネーズたっぷりではないようにも感じ、「思い出の味」は追憶の彼方といったところです。

できれば、その次の週にも、修習以来ご無沙汰になっている下倉スキー場に行きたかったのですが、寝坊で行けず来年に持ち越しとなり、昼から仕事に明け暮れるいつもの日々となり、その点は残念でした。

私はゴルフやテニスその他の「大人の社交スポーツ」を全く嗜むことができず、無雪期の唯一の嗜み(生き甲斐?)である登山(トレッキング)も仕事に追われて15年ほどご無沙汰になっているため、せめて、スキーだけでも死ぬまで続けていきたいと思っていますが、残念ながら現在のところ、家族(の一部)以外に同行して下さる方がおらず、どうにかならないものかと思っています。

観応の擾乱と北の「バサラ猿」たちが追いかけた夢

昨年末ころ、亀田俊和「観応の擾乱」(中公新書)を読みました。

最初、この本を書店で見つけたときは、1年ほど前に一世を風靡した中公新書の「応仁の乱」の著者が次回作として書いたものと勘違いし、「二番煎じか、だったらいいや」などと思っていたのですが、よく見たところ著者は違う方だし、応仁の乱は買うかどうか迷っているうちに時間が経ったので古本屋で探そう、それよりも、応仁の乱以上に実情がよく分からないこっちを買ってみよう・・と思って購入したのですが、程なく、驚くべきことに気づきました。

この著者の名前に見覚えがあるような・・と思って末尾の経歴欄を眺めたところ、1973年秋田生まれ、平成9年に京大の文学部卒って、高校の仲間内に似たような奴がいたな・・・と思ってネットで検索したところ、

アアァァッッッ・・!!! と雄叫びを(自宅内で)あげてしまいましたよ。

著者の亀田俊和先生は、紛れもなく私の高校時代(函館ラ・サール)の同期生で、寮(1年生の100人部屋)のベッドも割と近い位置(オとカなので)に住んでおり、私と同じ「北東北の片田舎(彼は小坂町)から出てきたお上りさん?同士」ということで、それなりに仲良くさせてもらっていた方に間違いありません。

2~3年生の頃の彼の成績は記憶がありませんが、少なくとも1年生の頃に関しては、入学直後から数学と理科(化学)で撃沈した私ほどでないにせよ、「日本史は得意だが、他の教科の成績はパッとせず、運動もできない者同士」ということで、多少は連帯感があったような、逆に「鏡に映った自分のように見たくない感じ」もあって互いに敢えて接近しないようにしていたような、「付かず離れず」の微妙な関係性があったという記憶があります。

ただ、卒業のときか後日(大学生の頃?)かは覚えていませんが、彼が京大に合格(入学)したという話を人づてに聞き、高校1年の「どんぐり仲間」の一人だったことしか覚えていない身としては、カメって実はそんなに優秀だったのか、一体いつの間に勉強やってたんだと驚愕したことはよく覚えています。

とまあ、つまらない曝露話?はさておき、彼が、当時から中世史なかんずく南北朝時代に関心が強いことを公言し、歴史研究者志望だと語っていたこと、彼の机に置かれていた幾つかの本の中に、「ばさらの群れ」という本(童門冬二氏の小説)があり、「ばさら大名が好きだ、佐々木道誉とか」などと話していたことは今もはっきりと覚えています。

私自身は、特定の時代(まして、マイナー?な南北朝)に関心(こだわり)がなく、むしろ、歴史の全体をざっと見つつ現在の社会(特に北東北)との関わりを知ることに興味があった上、高校時代は、試験勉強を超えて、学問としての歴史に深い関心を抱くには至りませんでしたので、「佐々木道誉って誰だよ、こっちは足利直義と護良親王くらいまでしか分からんぞ」という体たらくで、亀田君と歴史談義をするなどという関係を築くことはできませんでした(今思えば、惜しいことをしたのかもしれません)。

ともあれ、本書を拝読しながら「~という出来事は興味深い」の言葉遣いが多すぎるぞ(見開きで3カ所くらい出てくる頁あり)とか「寮生(しかも受験期)なのに毎週、大河ドラマを見ていたのか?テレビが1台しかないのに取り合いはなかったのか?」などと余計なことを思いつつ、彼も高校時代に求めた道をこうして実現したのか、と感慨を抱かずにはいられませんでした。

すでに何冊も出版されている石川知裕君(もと衆院議員)も、著書によれば、高校時代から政治家を志していたとのことであり、また、この高校の性質上、医学部を目指して難関校を突破し現在も全国或いは世界で活躍されている(であろう)方々は何人も存じていますが、歴史学者になりたいと述べ、それを実現し、当時から関心を持っていたライフワークというべきテーマで中公新書の出版まで成し遂げたという方は、同期では亀田君だけかもしれませんし、亀田君もまさに「夢を現実とし、今もその過程を駆け抜けている真っ最中」なのだろうと思えば、胸が熱くなるものがあります。

それに対して我が身は・・となると、大卒2年で司法試験に合格できたまでは良かった?のかもしれませんが、今や、うだつのあがらないちっぽけな田舎の町弁として、雑多な仕事に従事しつつ事務所の存続(運転資金=売上確保)に追われるだけの日々という有様に堕してしまったように思わないでもありません。

私の高校のときの夢は、弁護士とか医師とか学者とか、具体的なイメージを抱くレベルには至っておらず、ただ、学力をはじめ、自分が到底及ばない強い力(オーラ)を持った凄い人達に会いたい、その背中を追いかけながら、いつしか「高校時代から外の凄い世界を見てきた人間」として、郷土に意義のある何らかの貢献をしなければならない(そうでなければ、岩手を離れて函館に来た意味がない)、という漠とした気持ちを持ちながら、現実には授業を追いかけるので精一杯という日々でした。

そうした初心に立ち返り、改めて自分ができること、すべきことを見つめ直すという意味では、今、亀田君の著作に出会えたことは、幸いなことというべきなのかもしれません。

ところで、ここまで書いてきて「書評」的なものを全然書いていないことに気づきましたので、一言触れておきますと、本書は、観応の擾乱の全体像(高師直の失脚を中心とする第1幕と、尊氏vs直義の決戦と南朝勢力などを巻き込んだ大混乱を中心とする第2幕)を様々な事象を紹介しつつ説明しており、その点は中公新書らしい?マイナー知識のオンパレードというか、中世史を相応に勉強した人でないと、スラスラ読むのはしんどい(また、末尾に人物や制度などの索引が欲しい)という面はあります。

ただ、擾乱の主要な原因について、単純な(師直と直義の)路線対立というより、幕府(足利勢力)が北条氏や建武政権の打倒に伴う論功行賞(恩賞)やそれに付随して生じた紛争(訴訟)の処理を円滑に進めることができなかった(紛争解決制度が未整備だった)ため、それを担当した責任者(最初は師直、次いで直義)が結果として多くの武士(御家人)の反感を買った(信望を失った)ことが、失脚(その前提としての混乱)の原因であり、擾乱の過程を経てそれが整備されたことが、義詮・義満期の室町幕府の安定・興隆の基盤となったと説明している(ように読み取れる)点は、紛争解決という観点からは、興味深いものを感じます。

本書は、冒頭から足利政権(発足直後の幕府)の紛争解決制度(訴訟など)に関する説明に大きな力点が割かれており、当時、土地を巡る紛争が多発して政権がその処理に負われていたこと、また、鎌倉幕府の訴訟は判決=宣言をするだけ(下文)で、執行力がない=自助努力を要求された(判決は自力執行を正当化する根拠として機能するに過ぎなかった)が、足利政権の発足後、徐々に、判決を強制執行する制度(執事施行状)が用いられるようになったことなどが説明されており、建武新政の破綻要因の一つが新政権が迅速・適正な紛争解決ができず多くの人々の失望を買ったためとされていることと相俟って、色々と考えさせられるものがあります。

また、師直は執行(執事施行状)を通じた迅速な紛争解決を優先したものの、不満も多く寄せられたため、長期の慎重審理=理非究明を重視して師直と対立した直義に支持が寄せられたことが擾乱第1幕の主因の一つであるとか、その後は逆に直義の手法が支持を失い、尊氏・義詮政権のもとで迅速解決型の手法が整備されて安定期に向かったという記載も見受けられ、そうした「紛争解決制度の未整備による混乱が政争の大きな要因になった」という指摘は、紛争解決の実務に携わる者にとっては学ぶところがあるように思います。

ともあれ、いつの日か亀田先生に再会し、私の手元に保管しているご著書にサインをおねだりできる日を楽しみにしています。

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冬がはじまると

昨年末のことですが、朝5時に徹夜仕事に目処が付いて一眠りしようと思った矢先、私事で急を要する出来事が勃発し、1週間ほど振り回される日々を過ごしました(配偶者に夜逃げされたという類の話ではありません)。

特に、初日には関係者の命令により丸一日の拘束を強いられたのですが、県民生活センターの相談担当日で珍しく7、8人の相談予定があったにもかかわらず、事柄の性質上、私事を優先せざるを得ず、急遽のキャンセルを余儀なくされました。

センターの方には、翌日以後に当事務所から個別連絡し対処したいとも申し入れたのですが、相談者が多いこともあり、センターと弁護士会の判断で、他の先生に交代となりました。

交代していただいた先生には感謝申し上げるほかないのですが、自己破産又は個人再生の対象事案が3~4件あったようで、それらを受任し損なった当事務所の売上損失という点では被害は甚大というほかなく、もちろんそれが誰かに補填されることもありません(余談ながら、12月は売上ノルマ不達成+賞与支払のため、大赤字となっています。11月が好調だったので、それでなんとかカバーしていますが・・)。

なので、せめて日中の身柄拘束だけでも誰かに代わって欲しかったのですが、その日に限って他にインフル患者が生じるなど同時多発テロ状態になり、どうせ勃発するなら他の日にして欲しかったと一日中愚痴ばかり述べていたというのが正直なところで、

こんな日に身内が病の総攻撃 縁は切りたし悩みは深し

などと泣き言の一つも書きたくなりますが、幸い、勃発後は現在まで大きな問題は起きておらず、私自身は普段どおりの日常に戻っています(これまであまり関わらずに済んでいた介護問題に、ややこしい形で携わらざるを得ない状況になりましたが)。

ともあれ、残念ながら、今年の冬は御殿場詣で・・もとい妻の実家への帰省も不可能となったせいか、久しぶりに替え歌の神様が落ちてきました。

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去年の正月には  海外旅してたけど
今年の年の瀬は  行けるとこは何もない!

冬がはじまると 身内の病気ふえる
術後うれしそうに  生茶を飲む横顔がいいね

たくさんの人と  お別れしてきたけど
あなたがた 僕を 油断させていて 

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そんなところで、皆さんもご家族・ご親族とご自身を含めた全員のご健康を末永く大切になさっていただければと思います。

石川知裕・もと衆院議員の捲土重来と奥様のご健闘を願って

今年の4月頃、陸山会事件で一世を風靡した石川知裕・もと衆院議員が、現在携わっているお仕事の関係で盛岡に用事があるとのことで、少しばかり当事務所に立ち寄って行かれました(アポ無しだったので、たまたま在室し来客もなく幸いでした)。

隠すような話でもありませんが、彼は函館ラ・サール高校1学年の同級生で、入学時には(席替えの記憶がないので1年間ずっと?)、私の斜め少し前の席に座っており、相応に仲良くさせていただいていました。

やんちゃ者ではありましたが、当時から「人の心を掴むコーディネーター的なリーダーシップ」には格段に秀でており、同学年の中でも特に豊富な人脈と人望を築いていた方の一人だと認識しています。

1年次の学園祭にはクラスの有志5人くらいでバンド風のパフォーマンスでブルーハーツの替え歌を披露し、「女子校に向かって走る~あの列車に乗って行こう~」と歌って会場を沸かせていたのをよく覚えています。

同期内では2年次の妖怪人間の方が有名ですが、クラスが違ったせいか私は拝見し損ねたようで、ステージ終了後にベラ?の姿(全身緑色ながら割烹着姿だったような・・)でその辺を歩いていたのを見たかもしれないという記憶が微かにある程度です。

入学直後も、すぐに私が座っていた座席の周辺の男ども(6~7人くらい)のまとめ役的な感じになり、担任の先生の指示でクラスの「なんとか委員(係)」を決める際、何かの委員にすぐに立候補すると共に私を含むその面々にも「みんな何か一役やろうぜ」と声を掛け、隅っこで小さくなっていた私も彼のおかげで何かの係をやっていた記憶であり、そうした力を天性に持って生まれた人なのだろうと感じています。

私自身は高校卒業後は彼とは全く接点がなく、彼が初めて国会議員になった(繰り上げ当選)報道を見た際に、大変驚いたのを覚えています。その後も、残念ながらお会いできる機会はなく、陸山会事件で時の人になった際にも、報道でお名前を拝見するのみでした(この業界に身を置く者として、多忙を言い訳にせず、激励の手紙の1つでも出すべきだったのではと忸怩たるものがありますが)。

石川議員が在職中であった平成23年の春か夏頃、彼が小沢一郎氏の秘書として平成10年前後に岩手に居住していたこともあってか、沿岸各地に視察に訪れ、そのついでに被災地支援に取り組む地元弁護士の取り組みを聞きたいということで当事務所にお立ち寄りいただいたことがあり、それが高校卒業以来の再会となりました。

はっきりとは覚えていませんが、同級生で新聞記者をしている方(岩手支局に赴任経験があり少しだけ話をしたことがありました)がいて、その方から私が岩手で弁護士をしていることを聞いたと、来訪を告げる電話で告げられたような記憶です。

後日、お礼とご挨拶(及びご著書へのサインのおねだり)を兼ねて、その年に日弁連の関係で上京した際、1度、お言葉に甘えて議員会館を表敬訪問させていただいたことがあります。もちろん、議員会館なんて一生に1度も行く機会はないだろうから冥土のみやげにという下心があったことは申すまでもありません。

その後は、都内で行われた彼の結婚披露宴に呼んでいただいたことはあったものの(同期が在京の方を中心に30~40人ほど集まっていました。ご夫婦のスピーチも見事でしたが、小沢氏、鈴木宗男氏、佐藤優氏のスピーチや松山千春氏の歌声など、非常に中身の濃いエンターティナー性に溢れた式でした)、その後は接点もなく現在に至っていたというのが正直なところです。

今回は目的地に赴くついでに久しぶりに顔を見に来たとのことで、少しばかり雑談をした程度でしたが、捲土重来を期して努力を積み重ねている様子は伝わりましたし、高校時代のささやかな思い出に照らしても、然るべき形で多くの方の期待と信頼を集めて相応の舞台に戻ってくるのだろうと確信していますので、遠い岩手の地からではありますが今後も応援を続けていきたいと思います。

1年のときの国語の授業の際、雑談好きで見識の深い担当の先生と彼が何か話をしている途中で、彼のご家族(お父さん?)が町議会議員など政治に関わる仕事をしていて、その関係で彼も政治の世界に思い入れがあるという話をしていたのを聞いた記憶があります。

私も、祖父が1期のみとはいえ岩手県議会議員をしていましたので、彼の話を覚えているのかもしれませんが、反面、私は亡父から祖父が選挙に関わったせいで実家は酷い目にあった、我が家は選挙は御法度だ、という話を何度も聞かされ、私自身、その呪いのせいか?人望が全くなく集団内では常に小さく黙っている「政治家(リーダー)に適性がない人間の典型」というキャラに育ちましたので、政治の世界に挑んで頑張っている石川君には、憧憬という言葉だけでは表現し尽くせない特別な感慨を抱く面があるのかもしれません。

恥ずかしながら私にはオバマ大統領の当選を支えたルース大使のような貢献はできそうにありませんが(日本でも自民党の高村副総裁を地元で支えた中央大の大先輩がおられます)、せめて、自分より才能豊かな方が凄まじい努力をしているのに、それに匹敵する努力をしなければ我が身を嘆く資格もないという受験生時代の気持ちを忘れず、彼の圧倒的な努力に負けずに精進し続けたいと思っています。

今回は、陸山会事件に基づく立候補の制限期間の満了直前の選挙になり残念ですが、奥様も結婚式の際、ご自身のご家庭が辿った数奇な運命を交えつつ「東京地検特捜部が私たちを巡り合わせ、結婚させてくれたのだと(今は前向きに)考えています!」と情熱的なスピーチをなさっていましたので、来る選挙当日をはじめ、今後もご夫婦二人三脚での日本や十勝地方へのご貢献と大願成就を祈念しています。

懐かしき未来は名古屋城の礎石の中に~名古屋編②~

10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の2回目です。今回は、全国学童保育研究会の開場前に名古屋城に行ってきましたという件を書きたいと思います(大至急の仕事が少し片付き、久しぶりに、ブログ書きたい病になっています)。

名古屋には花巻空港を朝の早い時間に出発し、午前中には市内に着きましたので、昼に始まる全国研の前に可能な限り城内を見ておきたいということで、すぐに名古屋城に行きました。

まずは二の丸庭園のパフォーマンス集団(武将隊の方々)をチラ見しつつ、一部復元に伴う公開がなされて間もない本丸御殿に向かい、次いで、天守に入城しました。当日は文句なしの晴天で、天守閣の展望台からは伊吹山をはじめ周囲の眺望を楽しむことができ、大満足でした。

恥ずかしながら、これまで名古屋城については不勉強で、消失や再建の時期などはほとんど把握していませんでしたが、戦時中も昔の雄姿を止めていたことや戦災(米軍の大空襲)で「落城」さながらに焼失したこと、戦後まもなく市民の熱意や募金を通じて再建されたことなどが、よく分かりました。

焼失前に撮影された写真も初めて見ましたが、白黒写真で垣間見た限りでも、現在のコンクリート製より遙かに風格があるように感じました。もちろん、現存していれば、姫路城と並んで(規模からは、姫路城以上に)日本を代表する城郭として世界に冠たる名声を得ていただろうと残念に思います。

我国は敗戦で多くのものを失い、それと引き換え?に多くのものを得ましたが、焼け落ちる名古屋城の写真が、まるで名古屋ひいては日本の戦後の復興のための人柱になったかのような、戦慄というか身震いするような感じがしました。

ところで、名古屋城(天守閣)の入口付近に、陸前高田の子供達を招待した企画に関する展示パネルが掲示されていました。

言うまでもなく、陸前高田は東日本大震災津波における最大の被災地の一つであり、市の中心部が津波により丸ごと壊滅させられるという、米軍の空襲と同等以上と言ってよいほどの凄まじい被害に遭いました。もちろん、街のシンボルである高田松原も完全に失われ、「一本松」のみを残すのみとなったことは皆さんご承知のとおりです。

それだけに、「あまりにも大きな外力(大国との総力戦や巨大災害)により、街の大切なものを多く失った者同士」という点で、名古屋と陸前高田は共通するところがあり、両市が交流などを深めていくことは大いに意義があるのではないかと思われます。

陸前高田には、市内の著名事業者の方々が従事する「なつかしい未来創造」という復興まちづくり企業があるとのことですが、自動車産業などを通じて戦後の「物づくりニッポン」を牽引すると共に、現在も本丸御殿を復元し、さらに天守閣の復元も構想している名古屋の地は、「なつかしい未来の創造」という点では、陸前高田をはじめとする三陸の被災地にとっては、ある種の先輩格というべきなのかもしれず、戦後の名古屋が辿った成功や反省などの体験の成果を、三陸にも還元するような営みが盛んになればと願っています。

そんなことを考えながら一首。

懐かしき未来は名古屋の城で待ち 努力と熱意の有無を見定む

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ところで、名古屋には、大学の先輩で同じ年に司法試験に合格し、その頃に大変お世話になったKさん(弁護士ではありませんが広義の同業である法律実務家)がおられるので、これ幸いとばかりに、夜にはKさんに十数年ぶりにお会いしてきました。

Kさんには、合格から修習開始までの期間に中央大の某団体(S法会)で答案練習会(司法試験の模試のようなもの)の内部スタッフ同士として奴隷労働?に明け暮れていた当時、一緒に呑みに誘っていただいたことがあるのですが、貧乏な合格者同士のはずなのに?なぜか、京王線の千歳烏山にある「純米大吟醸と高級酒肴ばかりの贅沢居酒屋」に連れて行かれ(しかも妙に盛り上がって2時間以上呑んでました)、「人生で行った居酒屋3本の指(ナンバーワン?)」といって良いほど大満足の反面、財布が空っぽになり、泣きそうな思いをして帰ったことがありました。

そのため、今度も凄いお店に連れて行かれるのだろうかとビクビクしていたのですが、最近は私がブログやfacebookで貧乏ぶりを吹聴しているのに気を遣っていただいたのか?B級グルメの名店と地元の庶民派居酒屋さんという組み合わせで、「懐に優しい食い倒れツアー」になりました。

ともあれ、Kさんが「現場の指揮官」として野武士のように奮闘されているお話などを伺っていると、懐かしさと共に、私も法律実務家のはしくれとして、私なりに地域の未来を切り開いていかなければならないとの思いを新たにしました。

そんな様々な「懐かしき未来」が交錯する名古屋の地にいつの日かまた訪れて、次代の様々な可能性や努力の種について考えを巡らせることができればと思います。

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奥多摩湖畔を彷徨った日のこと~都知事選に寄せて?

都知事選絡みの投稿が続いて恐縮ですが、折角なので、少し前にfacebookの方に載せた投稿を再掲させていただきます。

大学1年の終わり頃、突然、奥多摩湖に行きたくなり、昼過ぎに当時の自宅(東京都日野市の百草園)を出て、夕方4時頃に湖(小河内ダム)に到着し、南岸のほとんど整備されていない踏み跡程度の遊歩道を、日が沈もうとしていた時間に何も考えずに延々と歩き出したということがありました。

何を考えていたのか思い出せませんが、誰もいない森の中に入っていけば、そのまま自分が消えて無くなってくれるんじゃないかなどと、自殺とまではいかなくとも、厭世的な願望があったのだと思います(失恋とかが理由ではありませんので念のため。ある意味、「それ以前」の大学生活でした)。

当時はまだ山登りに目覚める前だったので、ヘッドランプなどの用意がないことはもちろん、靴も普段用のもので、ほぼ手ぶらで出かけたことや、「ここから先は落石等があるので立入禁止」の看板(ネットで少し調べたら今もあるようですね・・)があるのを見て、そのまま石にぶつかって死んでくれてもいいや、などとみっともない感傷に浸っていたことはよく覚えています。

2月か3月頃の話ですので(11月だったかもしれません)、5時半頃には周囲一帯は暗くなり、仕舞いには遊歩道がどこかも分からなくなって、暗闇の中、沢沿いの砂防ダムのようなところをよじ登ったりもしました。

湖畔に沿って行けば何とかなるだろうと思って歩いているうちに、6時過ぎ頃、明かりが見えたので山中をよじ登ったところ、キャンプ場らしき場所(南岸の真ん中過ぎ。今もグーグル地図に載っています)に出て、そこから車道をトボトボ歩いていたところ、通りがかりの自動車の方に拾っていただき、奥多摩駅まで送っていただきました。

湖畔を歩いていたときのことはあまり思い出せませんが、明かりを見つけて無我夢中で走ったことと、ドライバーの方(おじさん)から「この辺は熊が出るぞ」と言われたことは、今もよく覚えています。

その後、ほどなくして、大学生協で見つけた奥多摩地域の登山ガイドを手にとって、大学2年の秋頃には毎週のように未明から自宅を出て、京王線百草園駅から立川駅5時25分発の電車に乗り、日帰り登山に出かけていました。

大学時代は、誰が見てもどこから見ても、近寄るなと言われてもやむを得ないような陰気で救いのない学生でしたが、そうした時間を持つことで、辛うじて自分を持ち堪えることができたと思っています。

退任間際の舛添知事が湯河原通いを批判された際、奥多摩を軽視しているかのように受け取られかねない発言をしたことが話題になったせいか、知事選の候補者の方々が演説等に訪れたとの記事が取り上げられていましたが、私自身は奥多摩に特別の思い出や恩義のようなものがあり、今も、奥多摩の良さや大切さを都知事に限らず多くの方に知っていただければと感じています。

余談ながら、先週の土曜には中央大岩手支部の総会があり、遅参の身で恐縮ですが参加させていただきました。参加者の多くは大先輩の世代の方々なのですが、先輩方に暖かい言葉をいただくことを有り難く感じるのも、そうした学生生活を過ごしたことが関係しているのかもしれません。

震災1年目に考えたこと(H24.3再掲)

先日、震災5年目の日を迎えて考えたことについて書きましたが、震災からちょうど1年目の平成24年3月に書いた文章を再掲することにしました。

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それぞれの1年目

震災から1年を経過したこの日(平成24年3月11日)、私自身は当番弁護士の担当日で遠方を含む複数の警察署に接見に向かったり、家族が通っているピアノ教室の発表会の付添を余儀なくされるなど、震災とは何の関係もない一日を過ごすことになりました。

ただ、地震発生時刻がピアノ教室の発表会の最中でしたので、その際は参加者全員で黙祷を捧げることができ、その点は良かったと思っています。

遠方の警察署から帰宅した後、facebookやブログなどで様々な方がこの日にどのように過ごしたり、どのような情報を発信しているのか、興味深く拝見しました。

沿岸の方々は言うに及ばず、盛岡の方も日本JCによる被災者追悼などを目的とする大きなイベントがあったこともあり、震災絡みの多くの投稿を拝見しました。

私のfacebookでの「友達」は、東北地方の他県の方はごく少数しかいませんが、その方々も被災地の方か否かに限らず震災関連の投稿をしておられました。

他方、東北以外の地にお住まいの方からは震災関連の投稿はほとんどなく、何人かの方が、普段どおりの日常に関する投稿をなさっていました。

そのことを非難するつもりもなければ非難する立場でも勿論ないのですが、そうした光景は、やはり一種の風化というか、温度差なのかなぁと思わずにはいられないものはありました。

もちろん、私自身を含め、身内などが犠牲者になったわけでもない立場では、いつも通りの日常を送ること自体が震災に負けないことの表明だというスタンスも当然正しいと思いますので、何一つ間違っていないとは思うのですが、盛岡の方が次から次へとfacebookに震災関連の投稿をしているのに対し、他の地域からそうした声が出ないのは、ある意味、不思議な感じもしたことは事実です。

私の盛岡の「友達」は、同県人としての同胞意識もさることながら、JC関係者など被災地支援に関わってきた方が非常に多く、私がこうした投稿を書いているように、何か言わずにはいられない方々という面がありますので、そうしたことも割り引かなければとは思います。

ただ、「地震の揺れの程度」では盛岡も東京もほとんど差がなく、帰宅難民という点では首都圏の方が苦労された方も多いと思いますが、不思議なほど震災について何かを語ろうとする投稿を見かけませんでした。

或いは、津波や原発に直面した本当の被災者の方に遠慮して、ご自身の経験については投稿を差し控えたのかも知れません。

それに対し盛岡の方々が次々に投稿をされていたのは、実際に支援活動などに携わる中で、心理的なものを含めた被災地との距離が近くなってきたことによるのではないかと思います。

実際、盛岡の方の投稿も、ご自身のことではなく被災地=沿岸についてのものばかりであったことは言うまでもありません。

私自身も、はじめて被災地を訪れた頃、津波でズタズタにされた街並みを見て、在りし日の姿を思い出し悔しくてたまらなくなったり、その後、何度も被災地の避難所などを通って相談に従事し様々な方のお話を伺ったことなどが、走馬燈のように思い出されました。

これまで、私自身が当事者として経験していない終戦記念日や原爆投下日、阪神大震災の発生日などについて、敢えて何かを記すに値するだけの特段の感慨を抱くことは無いに等しかったと思います。

これに対し、3月11日については同時代の当事者に準じる立場として、これからも特別な日として心に残っていくのだと思います。

3月11日という日に対する受け止め方は様々だと思いますが、大自然に対する人間の小ささ、儚さと、犠牲者への哀悼の念や被害に挫けず努力を続ける必要性を感じさせる日として、多くの方に生き続けていけばと感じています。

震災の日のこと~東北地方・太平洋沖地震(東日本大震災)の被災経験~

旧HPで掲載していた、震災の日(平成23年3月11~12日)に私が盛岡で経験した出来事などを記載した文章を再掲することにしました。盛岡は停電やガソリン問題を除けば大きな被害はなく、「被災経験」と題するのは大げさかもしれませんが・・

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昨日に発生した表記の大震災については、当事務所の存する盛岡市でも震度5強とされる大規模な地震に直面しました。

幸い、激しい揺れは経験したものの、私に限って言えば、家族・実家とも人的被害はなく、物損もごく僅かに止まりました。しかし、岩手ないし東北・東日本の被害という点から言えば、沿岸部を中心に甚大な人的・物的被害が発生してしまいました。現在も救助等の活動が行われており、可能な限り人命の救助や被害の拡大阻止が図れることを願ってやみません。

また、全国・全世界の皆さんには、犠牲者・被災者及びそのご家族のため、相当なご支援をお願いしたいと願っております。

個人的にご心配をいただいた方もおられるので、取り急ぎ、土曜夜までの私個人の体験談のみ簡潔に記載したいと思います。

まず、地震が発生した午後2時50分には、出勤中の事務局2名と共に事務所で書類仕事をしており、3人とも机に隠れましたが、幸い一部の食器が破損した程度の被害しかありませんでした。

ただ、激しい振動が続いた時間が非常に長く(実感として3~4分程度)事務局長に言わせれば、このままビルが倒壊してしまうかと思ったというほどのものでした。私も、机の下でNZの映像が脳裏をよぎっていました。

揺れが収まった後、一旦ビルの外に出て近くの広場に行きましたが、街中が完全に停電し、信号機も完全に消灯していたので、修習中に旅行したインドネシアの町(交通量が多いのに信号機がなく各人が勝手に渡っている)と同じような印象を受けました。

何度か震度4、5クラスの余震がありましたが、それ以上の余震が見られなかった上、金曜の4時にある事件の期日が予定されており、その際に来週早々の期日の準備書面なども持参するつもりであったので、多分、行っても無駄だろうとは思いつつ、自転車を駆って裁判所に行きました。

当事務所から裁判所までは自転車で10分程度ですが、歩道には普段の数倍の人が歩いており、完全停電も相まって、被災地そのものという印象でした。

裁判所に着くと、予想通り、職員が次々と帰宅していたため、急いで4階の書記官室に行き、まだ残っていた書記官の方に、事情を説明して休廷を確認し、訴状や準備書面だけ受け取って下さいとお願いして、事務所に戻りました。裁判所も人的・物的被害はほとんどない様子ではありましたが、完全停電のため、階段などは真っ暗でした。

余談ながら、4時の事件の相手方代理人は東京の弁護士の方で、電話会議とせずに出廷を予定していたため、恐らくは新幹線に乗車中に地震が発生したものと思われ、同情の念を禁じ得ませんでした。

その後、事務所に荷物を置いて家族と合流しましたが、巨大な余震があると不安とのことで、少し事務所で待機した後、歩いて帰宅しました。その日は完全停電でしたが、幸い、私のマンションは帰宅後21時まで給水ができた上、ガスが止まっていなかったので、お湯を沸かして夕食を取ることができました。

自宅にラジオと登山用のヘッドランプがあったので、最低限の対処ができましたが、何度も余震があり、不安を抱えながらの就寝でした。

翌12日は、盛岡の街は平穏そのもので、行きつけのスーパーに自転車で買い出しに行きましたが、店頭で菓子類や果物、レトルトカレーなど若干の品物を販売していただけで、それでも購入まで1時間半くらい並ばなければなりませんでした。

帰宅後、今夜も停電のままかと肩を落としながら家族で夕食をとって間もなく電気が復旧しました。文明社会に復帰できたことを喜びつつも、テレビ画面で過去に何度も足を運んだことがある沿岸方面の惨状を目の当たりにし、愕然とさせられた次第です。

沿岸部の皆さん、とりわけ沿岸部在住の知人・友人や当事務所に事件を依頼されていた皆様の安否が心配でなりません。自動車で2時間程度の距離に過ぎないのに、ガス欠その他の事情で現場に向かうこともできない自分が悔しく、情けない気持ちで一杯ですが、皆さんのご無事と一人でも多くの方の救出を心より祈っています。

ちなみに、地震発生の直前に、11日付で「16日予定のJCの知事選公開討論会のPR」の日記までを書き終えて事務局に掲載要請をしましたが、もはや、それどころではなくなってしまいました(既に、延期が決定されています。知事選そのものも特例法で延期になるようです)。

震災被害者の救済が最優先で図られるべきことは当然ですが、未曾有の震災により、沿岸部をはじめ県内全域で、数十年以上に亘り様々な負の影響が生じるであろうことも危惧されます。今後も様々なことに視野を向けながら、自分の立場でできること、すべきことに全力で取り組みたいと思っています。

平成10年頃の盛岡修習の様子と思い出

半年ほど前の話で恐縮ですが、岩手弁護士会の広報にエッセイを投稿せよとのことで、以下の文章を寄稿しました。勝手ながら、本ブログにも転載させていただきます。

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1 はじめに

先般、K先生よりエッセイを投稿せよとのご指示を受けました。内容は自由とのことですが、私の場合、共働きなどの事情から本業と兼業主夫業に追われて会務等にほとんど参加しておらず、若い先生方には「あなた誰?」と思われているでしょうから、自己紹介的な文章を書かせていただくことにしました。

ただ、単なる自己紹介ではつまらないでしょうから、私が盛岡で修習生をしていた平成10年頃の様子を題材にすることにします。私は修習生のお世話を仰せつかることがなく、現在の修習制度や修習生活の実情などを伺う機会がありませんが、当時と今では大きな違いがあるでしょうし、不快に感じる面もあるかもしれませが、法曹養成制度のあり方なども視野に入れて?お気軽に読んでいただければ幸いです。

2 実務修習開始まで

私は二年修習制の最後の年である52期の修習生でしたが、当時は7月中旬に前期修習を終え、下旬に実務修習が始まりました。私は二戸市の出身ですが県外の高校に進学したこともあり、修習先は盛岡を第1志望としましたが、そのような変わり種は私だけで、書いていないのに配属されたと嘆いていた地元出身の方もいました。

この年の盛岡配属は4名で、2名が現役、2名が卒業2年合格(男性3名、女性1名)となっており、出身大学も、私が中央で他の3名が東大、早稲田、慶応という綺麗?な組合せで、各人のキャラも、「地味で地道」の私をはじめ、各大学のカラーを体現しているような印象を受けました。

3 検察修習

盛岡に限らず当時の小規模庁は検察修習から始まりました。地裁での開始式のあと、地検に移動するのかと思いきや、反対側の岩手医大に引率され、いきなり遺体解剖に立ち会うことになりました。さすがに、その晩の歓迎会では刺身を見ながら複雑な思いを禁じ得ませんでしたが。

4人だけの修習生が4ヶ月間も地検のお世話になるため、修習生向けとも言える一般的な窃盗、傷害、覚せい剤自己使用の類だけでなく、殺人や嘱託殺人、金融機関での業務上横領など、重大ないし複雑な事案が個々の修習生に配点され、取り調べ等をさせていただく機会がありました。

また、三席検事が手掛けていた元大物県議による特別背任事件の強制捜査を盛岡地検総出で行うことになり、我々も現地に同行して差押物件の確保や整理などに従事したことも、強い印象に残りました。

この頃は修習生4人だけで行動することが多く、私の実家に全員が泊まりに来て、翌日に一緒に北山崎をはじめ沿岸の名所を廻って盛岡に戻ったことなど、楽しい思い出も沢山あります。指導検事(四席)の方も、厳しくも面倒見のよい親分肌の方で、公私とも大変お世話になりました。

4 弁護修習

私はI先生のご指導を受け、訴状など幾つかの起案を担当させていただきました。修習生の指導担当であるK先生、O先生にも、様々な行事や他の先生方からの講義の引率等をはじめ、大変お世話になりました。

ただ、12月から3月というスキーシーズンと重なる上、とりわけ弁護修習は勉強よりも見聞・体験することが重視されたせいか?全員が週末はスキー三昧の日々で、K先生や若手の検事の方々に大変お世話になりました。

一度、私がI先生の事務所で朝方まで境界絡みの訴訟の控訴趣意書を起案して帰宅した後、徹夜明けで皆と一緒に安比に行ったのですが、帰りの温泉で気を失って倒れ、ご一緒した三席に盛楼閣で焼肉を奢っていただく話がフイになってしまったことがあり、今も申し訳なく思っています。

余談ながら、三席は検察庁の飲み会で、「クリントンをはじめ弁護士が国を牽引している米国に見習い、君達が政治の世界に打って出て、法の理念に基づく正しい社会が形成されるよう頑張るべきだ」と仰っていたのですが、予想通りというか、我々ではなくご自身が霞ヶ関を「脱藩」して、政治の道で活躍されています(岡山2区選出の山下貴司議員です)。

また、クリスマスの際、まだ弁護士登録されて間もないS先生から「お一人さま」の面々(4人全員だったかは忘れました)に声をかけていただき、ご自宅でご馳走になったこと(大葉を刻んだ豆腐のサラダが強く印象に残り、その後も自分で作って食べていました)なども懐かしい思い出です。

5 民事裁判修習

裁判修習は、民裁と刑裁で二人ずつに分かれ、2ヶ月交替で1人の裁判官(部長と単独専門の判事)のご指導のもと、起案などに明け暮れます。

さすがに、民裁修習ではそれなりに勉強漬けの日々でしたが、ご夫婦で判事をされていたOさん(ご主人)が、「小保内君は、この点の勉強が足りないね」と仰ると、間髪入れずに「これを読んでみて」と、裁判官室の本棚から本を5冊以上取り出して山積みにされることが何度もありました。

しかも、申し合わせたように?家裁にいらした奥様(判事)にも、「小保内君の顔は、いつ見ても勉強してなさそうに見える」と言われ、トホホと思いながらも、勉強モードに頭を切り換えないと大変なことになると恐怖し悪戦苦闘していたのをよく覚えています。

おかげさまで、弁護士登録以来、今も、法律論で勉強不足と感じたときは、文献等を山積みにして色々と読みながら起案する習慣が染みついています。

この頃、K先生のご結婚と独立開業が重なり、結婚式の二次会や新事務所での開業パーティに呼んでいただいたことも、懐かしい思い出です。

6 刑事裁判修習

恥ずかしながら、私は諸事情(一応、不祥事の類ではありません)によりこの時期に急遽、東京で就職活動を開始することになりました。幸い、一度お会いしただけで内定をいただける先生もおられましたので、2度ほどの上京で就職先を確定できたのですが、その間は全くと言ってよいほど修習に身が入らず、折角、無罪判決を予定している事件の起案を勧めていただいたものの、起案できず簡易なレポートの提出で終わってしまったことが、今も悔やまれます。

5年以上前にお会いした修習生の方から、当時すでに、地方に配属された修習生の多くが何度も上京を余儀なくされ、重い負担を強いられているとの話を伺ったことがありますが、就職活動と修習の両立を修習生に強いるのは無理があり、修習開始までに就職先を内定させるなど、修習中は修習に専念できる文化が根付いて欲しいと思っています。

刑裁修習の最後に、現在と同様に修習生による模擬裁判がありましたが、当時は前後の期の修習生と一緒に行っており、1年目と2年目の2回、経験できました。

1年目で検察官を担当した際は、被害事実を法廷で否認した被害者証人の特信性立証(被告人の知人から金品を受け取った等の証言の引き出し)ができず、弁護人を担当した51期の方々に惨敗したものの、2年目で弁護人を担当した際は、被告人役を担当した53期のOさんの熱演もあり、無罪判決をいただくことができました。

被害者立会の実況見分調書に被害者の証言と相反する記載があり、法廷でその点を指摘したものの同期で検察官役のI君の剣幕に圧倒されるという一幕があったのですが、53期の裁判官役の方からその件を考慮したとのコメントをいただき、法廷は迫力だけで決まるものではないと感じたのを覚えています(ただ、監督役のK裁判官からは、どうして有罪じゃないのと言われて自信を無くしましたが)。

7 その他、最後に

私の誤解でなければ、当時と現在の修習制度の大きな違いとして、前後の期と交流できる機会ないし程度の有無が挙げられると思います。

当時は盛岡に一緒にいる期間が数ヶ月もありますので、私は51期の盛岡修習の方々から感銘を受ける機会が多々ありましたし、53期の方からも、(私はさておき)52期の面々から良い影響を受けたという話を頂戴したことがあります。現在の仕組みを把握できていませんが、修習生が前後の期の方々と継続的に交流できる機会は、必ず設けていただきたいものです。

当時は、「弁護士になった後は、どうせ仕事漬けの毎日になるのだから、今のうちに遊んでおくように」と言われ、私自身、己の至らなさもあって概ねそのような日々を送ってきました。

それだけに、長期休暇など、ここでは省略した他の出来事も含め、修習生の頃の様々な思い出が、その後の自分の支えになった面も大きいと感じています。

現在の方々は、修習開始前に多少ともそうした機会を持つことができるのだろうとは思いますし、修習直後の弁護士の眼前に広がる世界自体が、当時と今とでは様変わりしていますが、実務修習が法曹養成の根幹である(べき)ことは微塵も変わりないと思います。

指導等に携わっておられる諸先生方におかれても、盛岡配属の全ての修習生が岩手に来て良かったと思って法曹人生をスタートできるよう、OBの一人としてご尽力をお願い申し上げる次第です。

中小企業家同友会と起業家精神

前回のブログで中小企業家同友会について触れた関係で、3年半前(平成24年2月)に旧HPの日記に掲載した文章(はじめて同友会について記載したもの)を微修正して再掲しました。

ただ、当時と今とでは同友会の雰囲気も大きく変わり、私よりも若い方が増えて飲み会なども多くなり、当時とは逆の意味で、私のようなタイプの人間にはハードルが高くなったような感もあるため、何とかしなければと焦っているのが正直なところです。

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平成23年11月から、仕事上のお付き合いのある方の勧めで、岩手県中小企業家同友会に加入しています。中小企業家同友会とは、中小・零細企業の経営者や管理職の方が参加し、地域経済の実情や企業経営の理念などを互いに学びつつ交流や相互支援を図る目的で全国組織された団体だそうで、詳しくは同会のサイトなどを見ていただければと思います。

私の場合、盛岡JCで幽霊会員同然の状態が続いているため、新たな団体に加入することには心苦しい面があり、入会に躊躇する面はありました。が、ここ数年、私の原点であり最もこだわりのある分野の1つである、地域の中小企業のお役に立てる仕事をもっと受任できる機会を持ちたいと思いながらも、十分にその機会を得ることができない状態が続きましたので、新しい学びと出会いの機会を求めて、JCの卒業を待たずに、思い切って参加することにしました。

同友会にはJC会員の親・先輩世代が多く、若輩者の私には敷居が高い面がありますが、経営者が集まって経営に関する講義を聴き、学習した内容に関し討議することが活動のメインとなっており、特別企画などに参加する方を別とすれば、大きな時間的拘束はないように見受けられます。

また、「何はともあれ宴会」という雰囲気はなく、様々な世代の会員の方が、熱心に講義を拝聴している非常に真面目な団体さんのようですので、その点でも、私の気質には合っているように感じています(居眠り王の私が言えるセリフではありませんが…)。

反面、JCのような「会員同士が頻繁に集まって互いに知恵と汗と時間を費やしイベントを創り上げる」という団体ではないようで、過去の積み重ね(会員の方とのお付き合い)のない私のような「よそ者」にはかえって敷居が高いようにも感じており、その点は今後の課題かと思います。

昨日は、「復興特別講座」と銘打って、中小企業経営等がご専門の大学教授の方が、中小企業を巡る震災前後の日本経済の概況やそれを踏まえた被災県の中小企業の経営のあり方などを熱弁を振るって講義されていました。

また、今日は、新会員向けのオリエンテーションがあり、熱心に活動しているベテラン会員さんが複数お越しになり、同友会の講義や活動などを通じて自社の経営理念や従業員とのコミュニケーションのあり方などを大きく改善させることができたという話を熱心に語っておられました。

さすがに、私の業務や当事務所の経営に上記の講義や体験談の内容を単純に当てはめるのは難しいでしょうが、激動期を迎えた弁護士業界にあって、社会から求められる業務・経営革新のヒントになるものはあったように思います。

諸般の制約から参加できる機会は限られてしまうかもしれませんが、零細事務所を経営し顧客(社会)と職員に責任を負っている田舎の町弁に必要な起業家精神を涵養する場として活かしていければと思っています。