北奥法律事務所

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川柳

ラーメンのトッピングには依頼主の笑顔と事件解決を添えて。

昨日は大船渡(法テラス気仙)でしたが、今日は仕事で由利本荘に行きました。色々な難しさを抱えた離婚訴訟の期日でしたが、本日、依頼主が納得できる相当な内容での和解が成立して終了しました。

この件では、今年の3月まで在籍していた辻弁護士が、子の引渡というハードルの高い論点に挑んで、多大な奮闘の末に大きな成果を成し遂げた後、残務処理を私が引き継いだのですが、決裂か和解かの瀬戸際が相当あり、どうにか解決に至ったという案件でした。

11時半に開始した和解協議が2時半過ぎにようやく成立したのですが、裁判所の近くに、3時まで営業している、本荘を代表する?ラーメン店の一つと思われるお店があり、ギリギリセーフということで、大変美味しくいただきました(残念ながら、12月下旬に閉店となるそうです)。

ちなみに、第1希望だった本荘ナンバーワンとされる有名店は、2時半までの営業時間なので泣く泣く諦めました。依頼主はこの話を聞いて苦笑していましたが、裁判官にも和解成立時に同じ話をしたところ、軽口トークに慣れておられないのか、きょとんとしていました。

事案の中身は申せませんが、当方依頼主は、紛争を通じて2年ほど様々な艱難辛苦を余儀なくされており、最初にお会いした頃と比べて、とても強く、逞しくなられたと感じます。

この種の紛争は、弁護士にとっては不採算になることが通例で、この件も時間給ベースなどで見ると経済的には泣きそうな面はありますが、純然たるビジネス上の紛争などでは学びにくい、人間の業や人として生きることの深さを否応なく考えされられることが多いことは確かです。

ロータリーの標語に「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というものがありますが、この事件も、その言葉を事実の重みをもって考えさせられるものがありました。

業界には「弁護士報酬と書いて、いしゃりょうと読む」という有名な言葉があり、この事件でも、私や辻先生に限らず担当事務局を含め今日までに色々と苦心惨憺がありましたが、今後もこうした事件を手掛けることができるだけの売上をいただけるよう、めげずに頑張っていきたいと思います。

最後に、締めの一句ということで。

その果てに 味わいを知る 和解麺

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感動は小さな一歩から

今年の夏休みの際に、東京スカイツリーの展望台に初めて登りました。

眺望は見事なものでしたが、高所からの風景を楽しむという点では、私には登山の方が性に合っているような気がします。

“汗かかぬ空木塔より空木岳”

というのが、率直な印象でしょうか。

修習生時代(卒業試験後の休暇)にペルーのナスカの地上絵に行ったことがあり、その際も、セスナ機で空中から様々な地上絵を眺めるより、地上の観測塔から小さな地上絵や様々な直線を眺める方が心に残りましたので、感動は、自身の努力や身体感覚に合致するものでなければ、成立しにくいのかもしれません。

まだ中央アルプスに足を踏み入れる機会には恵まれていませんが、最近、登山への意欲(執着)も復活してきたので、受験生時代に計画だけで終わってしまった「木曽駒から空木岳の縦走ルート」の再検討を考えたいと思います。

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余談ながら、展望台(最上層)にバッタが来ており、よくぞ登ってきたと誉めたくなりました。

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春の気仙みちと桃源郷

昨日は法テラス気仙の担当日でした。この日の岩手の桜前線(ソメイヨシノなど)は、盛岡は5分散り、花巻周辺はすでに散り際も多いものの、寒冷な遠野・宮守エリアの街道沿いの並木は満開~散り始めで、峠を下った住田町は散り際となり、大船渡に至るとほぼ葉桜、という状態でした。

反面、住田町内は新緑の開始時期で、山桜のほか芽吹いたばかりの新緑の淡い緑色や黄色、黄緑色などの多様なグラデーション(薄桃、薄紫の桜色を含め)が大変美しい状態にあるほか、街道沿いの民家には、桜かそれ以外(桃?梅?)か分かりませんが、満開になっている樹種も多く見られ、濃い桃色や赤みがかった花の様子なども楽しむことができました。

そのような空間を運転していると、視界全体に優しい色が広がり、優しさに包まれているような、まるで桃源郷にいるかの如き印象を受けました。

住田町は、観光地的な桜の名所というのは聞きませんし、ソメイヨシノ等の群木などもありませんが、狭隘な谷間を囲む山々の新緑のグラデーションは、春を描いた巨大な日本画の屏風絵を続けざまに見ているような印象があり、こうした美しい光景は、住田町に限らず、北上高地ならではという面があります。

住田町は、晩秋から冬にかけての気仙川の渓流も大変美しいのですが、こうした心地よいドライブコースは、もっと知られてよいと思いますし、見応えのある場所の展望場所の整備なども考えてよいのではと感じています。

昼食は大船渡の魚市場食堂でいただきましたが、デッキの間近では、冬はあまり見かけなかったような気もする無数の海鳥(ウミネコ又はカモメ)が羽ばたき、快晴の空や海の青さと鳥の白さのコントラストが心地よく感じられました。

桜並木が散った後の葉桜の光景は、どことなく寂しい印象がありますが、港町では、海鳥たちが、空に舞い散った桜の白い花弁が姿を変えたかのような趣で、その寂しさを慰めてくれるのかもしれません。

そんなわけで、最後に一句。

花ふぶき海鳥となる気仙桜

盛岡町家に梅の花を

この土日に、盛岡市鉈屋町で「旧暦の雛まつり」が開催されていました。去年は仙北町の町家群の雛祭りが同時開催され、私は両方とも見に行きましたが、今年は鉈屋町のみの開催になったようです。
http://machijuku.org/event/

1月ほど前に鉈屋町に新しく出来た「もりおか町家物語館」にお邪魔する機会があったこともあり、今年の訪問は遠慮させていただきましたが、日曜はよく晴れたので、今年も盛況だったのではないかと思います。

ところで、鉈屋町に行くたびに思うのは、この界隈(通り沿い)には草木があまり見あたらないなぁということです。元来、狭い街道沿いだからなのか町人街だからなのか、理由は分かりませんが、少なくとも街路樹の類はほとんどありません。

この点、規模・知名度では比較の対象にはならないかもしれませんが、隣の秋田・角館の武家屋敷街は、ご存知のとおり秋田随一とされる桜の名所であり、やはり、古い街並みには、花や樹木が彩りを添えて欲しいと思わずにはいられません。

とりわけ、鉈屋町では、毎年この時期に「旧暦の雛祭り」を開催しているので、この時期に彩りを添える植物があれば、来場者に喜ばれるだけでなく、雛祭りや建物群にさほど関心のない層も呼び込むことができ、観光面の策としても意義があるのではないかと思います。

そして、この時期(4月第2週)は、盛岡は例年、まだ桜は咲かず(盛岡の見頃は例年は4月の第3週)、その代わりに、梅が概ね満開期にあたるのではないかと思います。

そこで、盛岡市であれ有志(町内会とか町並み塾とかJCとかロータリーとか?)であれ、どなたか、鉈屋町界隈に梅の木を沢山植えて、雛祭りの際は界隈を闊歩する来場者が梅の花を楽しむことができるようにしてはと思うのですが、いかがでしょう。

もともと、盛岡に限らず東北には梅の名所はあまり聞きませんので希少価値がありますし(岩手公園は桜のイメージが強すぎ、梅の名所という感覚がありません。ネット情報でも、東北は他地域と比べて梅の名所が少ないようです)、伝統的な和の町並みには、桜以上に梅が似合うと言ってよいのではないかと思います。

また、ネットでチラ見した限りでは、梅の花のイメージは、「凛としたいじらしさ」というものだそうで、「雛まつり」に添える花としては、ぴったりという感じがします。

さらに言えば、盛岡を本拠地にしていた安倍貞任の弟・宗任は、梅の花に関して「わが国の梅の花とはみつれども 大宮人はいかがいふらむ」という有名な一首を残しており、その点でも、盛岡に梅の名所がないというのは、郷土にゆかりの故事を顕彰し言い伝えるものを欠いている点で、残念なことと言うべきではないかと思っています。

というわけで、「盛岡町家に梅の花を」というキャンペーン(鉈屋町に限らず、仙北町など、この時期に旧暦の雛まつりを行うところがあれば、そちらも含めて)を行っていただきたいと思っていますので、賛同いただける方は、ご尽力をお願いいたします。

最後に、安倍宗任に敬意を表して?次の一句で締めくくりたいと思います。

【懐かしき 春を待ちやと 梅の花】

大意:北国の長い冬が終わり、待ち遠しかった春が戻ってきた。その喜びを、長い間、その価値が忘れ去られて再評価されるのを待ち続け、ようやくその時を迎えた、盛岡町家の「旧暦の雛祭り」の中で感じたいものだが、その街並みに、同じ時期に花を咲かせる梅の木が添えられていれば、なお一層喜ばしいことだと思いませんか?

盛岡青年会議所の卒業に寄せて

JC(青年会議所)は入会資格を40歳までとしているため、盛岡JCの12月の例会は、必ず年限に達した会員の卒業式として行われています。

平成17年入会の私もついに年限に達し、7日の例会にて卒業させていただくことになりました。

私は、主として仕事と家庭の都合により3年目(平成19年)頃から本格的な参加が困難になり、一部の行事だけに顔を出す程度の関わりしかできませんでした。

例外として、平成19年に出会った岩手県知事マニフェスト検証大会だけは、私らしさを発揮でき、JCも私を求めていると思うことができる唯一の機会だと思って、平成21年、23年の際にも相当にエネルギーを投入して関与しましたが、そんな身を嘲笑うかのように、23年は開催目前に震災が発生して中止となり、その後、マニフェスト現象の廃れに伴い、行事自体が立ち消えとなってしまいました。

入会時に一番お世話になった方は、その年の終わりに信じられない話で退会を余儀なくされ、その後も、同期で特に親しくなった方に限って入会早々に継続困難な事情が生じ退会や休眠をしてしまったり、大いにお世話になった方にありえないはずの不幸が生じたこともありました。

今も、どうしてこんな出来事ばかり起きたのか、参加環境の問題に限らず、どうして自分とJCとの間には引力ではなく引き離す力ばかりが働くのか、不思議でしょうがないと思わずにはいられません。

まあ、引き離す力ばかり働くという面では、弁護士会も似たようなものと感じており(こちらは親しくなった方に不幸が起きたわけではありませんが)、恐らく、そのような星を持って生まれてきた人間なのでしょう(高校入試のときの呪いなのだろうかと思わないでもありませんが)。

ともあれ、今さら愚痴を言っても仕方のない話で、すべて自分の責任として受け止めるほかありません。

卒業式では、僭越ながら私も卒業生の一人としてスピーチをさせていただきましたが、緊張等で言えなかったことが4点あり、そのうち3点について、他に述べる機会もありませんので、勝手ながらここで述べたいと思います。

ここからは、盛岡JC関係者向けの内容になりますので、他の関係の方は、基本的にスルーしていただければと思います。

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一つは、現役会員の方にお伝えしたかった、清水先輩(元盛岡JC理事長)の言葉です。

私が、まだ幽霊会員にはほど遠かった平成18年当時、私は、新入会員の勧誘等を担当する委員会(拡大委員会)の幹事をしていましたが、担当副理事長が清水さんで、同窓の先輩ということもあり、色々とお話を伺う機会がありました。

そのとき、清水さんがよく話していた言葉で、頭から離れずに覚えているのが、「JCに沢山参加できる者は、参加したくても参加できずにいる人の気持ちをよく考えて欲しい」というものでした。

当時の私は、幽霊化するつもりなど毛頭なく、「私のような余所者が、その土地の人間になるのに3代かかるのを、1代で達成できるのがJC」などと嘯き、休眠して全然参加しようとしない同じ委員会の方に、自分達がこんなに時間を犠牲にして頑張っているのにと不満すら持っていました。

しかし、それから1年も経たずに幽霊化に陥り、一部の行事等だけ辛うじて申し訳なさそうに出てくる身になり果てると、上記の言葉が肌身に浸みてきます。

JCは、参加できる人を中心に動かしている組織なので、諸行事の戦力として参加できず、かつ、行事の設営に直接役立つ特殊技能も持ち合わせていなければ、JC以外の場(生い立ちや仕事等)で中心戦力の方々と人間関係を築いていることもない私のような身では、どうしても、次第に居場所がなくなってしまうことは避けられません。

それだけに、たまに参加した行事で何人かの方から暖かく声をかけていただけると、とても救われた気持ちになり、またいずれ復活したいとの気持ちを持ち続けることができたのではないかと思います(といっても、結局は一部の行事だけ辛うじて出てくる中途半端な状態を解消することはできませんでしたが)。

私の知る限り、参加環境に恵まれない人間に暖かい態度で接する文化がある団体は、JC以外には存じません。

そうした意味でも、この文化は絶やさずに大切にしていただきたいと思っています。

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第2点は、私から1期あと(平成18年)に入会した方々への感謝です。

もともと、平成16年に東京を引き払う以前から同業の先達にJCを勧められていたこともあり、JC関係者に誰一人として知人等のないまま、強い意欲を持って入会し、当時は強い期待をかけていただいた私でしたが、結局は、その期待に応えることができませんでした。

JCでの責任を果たせなくなった私に代わり、本来なら私がその責任を果たすべき時期に、その役割を担う一番の中心となったのは、私が拡大委員会の不肖の幹事としてお会いした、本年度の浦田理事長をはじめとする平成18年に入会した方々でした。

ですので、この方々には、今も頭が上がらないという気持ちを強く持っています。と同時に、その方々に限らず、その後にJCで活躍された皆さんには、羨望や嫉妬ではなく、感謝とお詫びの気持ちしかありません。

反面、そのような気持ちのまま、卒業することを余儀なくされましたので、本当は、卒業式に登壇する資格もないのですが、卒業式を迎えることができなかった大恩ある先輩へのけじめとして、恥を忍んで参加させていただいたというのが、正直なところです。

ただ、拡大委員会で親しくなれた新入会員の方々がJCの中心メンバーとなり、その活躍ぶりを嬉しく感じることができる面があったからこそ、辛うじて卒業式まで心が折れずに済んだのではと思われ、その意味で、あのとき、幹事を拝命できて本当に良かったと思っています。

ところで、私にとって、「後から来たのに追い越され」という経験をしたのは、このときが初めてではありません。

平成9年に司法試験に合格した際の体験記でも書いたことですが、卒業2年目という、当時の中央大生としては比較的早い時期に合格できた大きな理由の一つが、その前の年(私にとっては卒業1年目)に、同じ受験サークルに加入していた2人の後輩が在学4年で合格したことでした。

もちろん、薫陶という意味でなら、多くの先輩方に多大な薫陶を受けましたが、運悪く合格が遅れた方も含め、自分にとっては雲の上の方々でしたので、何を聞いても自分には縁遠い人の話という実感がありました。

2人の後輩は、私よりも才能に恵まれた人達だということはよく知っており、現役合格そのものには全く驚きませんでしたが、一番、心に刻まれたのは、自分は彼らがまだ法律のことを何も知らないときの姿を知っている、その彼らが、私よりも物凄い質量の勉強をして先に合格していく姿を間近で見て、自分は彼らよりも遥かに才能が劣るのに、彼らがこなした勉強量すらこなしていない、それでは嘆く資格すらないではないか、ということでした。

そして、それ以来、1年間、本当に死に物狂いで勉強したところ、不思議な運と勢いが生じ、十分な学力も備わっていなかったのに合格してしまいました(反面、分不相応な合格者として苦労と心労を背負う羽目になりましたが)。

翻ってJCですが、残念ながら、今回は、私も1期下の方々の勇姿に背中を学んでJC運動に邁進する、という流れには進めませんでしたが、地域社会に生きる右でも左でもないノンポリ的な法律実務家として、JC的な理念のもと、地域のためにできること、すべきことは幾らでもあるとは思っており、その際、この方々の姿が、自分にとっては大きな指標、目標になると思っています。

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3点目は、企業人という立場からのものです。

先日、同じく元理事長である金子先輩から、「小保内は青年経済人として頑張ったのだから、JCの事業への関わりに悔いが残ったとしても、恥じることはない」とのお言葉をいただきました。

実際、「弁護士として盛岡に事務所を構え、岩手(ひいては北東北)の人々の役に立つこと」が、私の前半生の目的ないし存在意義そのものでしたので、この10年間、様々な方が困難を解決していくためのお手伝いを地道に続け、曲がりなりにも大過なく事務所を維持できたことは、今も心からホッとしています。

また、当事務所は弁護士1人で支えている雇用の数も岩手では最も多い部類に属しており、その点は、5年程前までの岩手に厳然と存在した弁護士過疎や債務整理特需による受注過多という特殊事情があったとはいえ、ささやかながら誇りとするところです。

現在、数年前とは町弁業界を取り巻く状況が大きく変動し、この体制を来年も維持できるか正念場を迎えていますが、JCに十分な関与できなかった分、せめて弁護士そして企業人としては、多少の悪あがきも含め、自分を支えて下さる方々に恥じることのない生き方をしなければと思っています。

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卒業式の懇親会で、卒業生の面々が、JCの思い出を川柳にして詠むという一幕がありました。

残念ながら、私にはあの場で詠むに相応しい言葉が思いつかず、他の方のお力を借りてお茶を濁すような対応をしてしまいましたが、色々と言葉が湧き上がってくることも抑えられませんでした。

そんなわけで、洒落の類かどうかはさておき、幾つか思い浮かんだ言葉を紡いで、私なりの卒業のご挨拶とさせていただきます。

卒業の前日もまた事務所泊
月明かり悔い残してか光る頬
閑かなる骨身に浸み入る皆の声
寒空に逝く兵は道半ば
果たされぬ夢が脳裏をかけ廻る