北奥法律事務所

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川柳

これも田舎の町弁の生きる道

某大企業さんから有り難くお引き受けしている仕事が佳境に入り、土日も雪だるま状態の作業に延々と追われています。

ただ、「本来は争点Aだけ審理すれば足りるのが当社の方針です。それに規定ではこれしか払えません」という依頼主(組織)のせいか、「争点BCDEF(以下略)も審理せよ」と余計な?仕事を増やしたがる相手方のせいか、「BCDなども審理判断する(ので、負けたくなければ必要な主張立証をせよ)」と宣う裁判所のせいかはさておき、結果として、限られた費用で膨大な作業に追われ、負荷ばかりが増大しているような千本ノック的被害感情は否めません。

まあ、社会的意義などに照らし非常にやり甲斐のある事件なので、いつかはいいことがあるさと信じて?低賃金労働(時給計算)にもめげずに頑張ることにしています。

そういえば、その大企業の社長さん(直にお会いしたことはありません)が、昨年に、イクボス宣言なるものをなさったとの報道に接した記憶があります。

この言葉は「部下に無理な労働をさせず自身も私生活を充実させている上司」との意味だそうですが、何度聞いても音の響きが好きになれず、カタカナ嫌いということもあって、兼業主夫婦等支援責任者とでも言えばいいのにと下らないことばかり考えてしまいます。

それはさておき、高邁な理念も、兼業主夫労働にあくせく従事しつつ深夜に事務所に戻って大企業の受注業務にも勤しむ零細事業者のことまでは考慮の対象に含まれていないのかもしれません。そんなわけで、事務所で深夜に独り、あかちょうちん気分で一句。

下請の悲哀はイクボス知らん顔

戯言はさておき、当方に限らず、地方の町弁業界の景気は残念な状態が続き、限られた報酬で山のような作業を余儀なくされる依頼ばかりが増えているのが実情ではないかと思います。

収入面で試練の真っ只中にある業界に身を置きながら土日も深夜に事務所で作業をしていると、イクボス、何とかミクスの賃上げ、ワークライフバランス、プレ金などという言葉は、いずれも大企業(大組織)の人達のためだけのもの、そのしわ寄せを下請労働者が低賃金の長時間労働で担っているのが実情だ、などというニュースのコメントを身につまされるような思いで眺めることもありますが、腐らずに今夜も頑張ろうと思います。

「魔女のパン屋さん」の盛岡降臨と麺サミットに忘れ去られた南部はっと鍋、そして北東北の粉もん文化

大食い番組ファンやTVチャンピオンのファンの方なら、「魔女」の称号で親しまれた盛岡の主婦・菅原初代さんはご存知だと思いますが、先日の岩手日報で、岩手大学の近くに菅原さんが12月にパン屋さんを開店するとの記事が出ていました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20161118_1

記事の「試作」の文字を見て「試食」の読み違えではと思った人は私だけではないでしょうが、それはさておき、原敬や新渡戸稲造は知らないが菅原さんは知っているという日本国民は多数おられるでしょうから、ご本人もさることながら、盛岡の新名所として多くの方々に盛り上げていただければと思います。

ところで、パンと並ぶ粉食文化と言えば、ラーメン、蕎麦、饂飩などの麺類でしょうが、11月上旬に盛岡で「麺サミット」なるイベントが開催されていました。残念ながら家族が関心を示さず私も首が廻らなかったため食べに行けなかったのですが、「盛岡三大麺」と称される、冷麺・じゃじゃ麺・わんこそばの著名店の店主さん達が地元メディアに多く露出するなど、それなりに盛り上がっていたようです。
http://www.mensummit.jp/

ただ、そうした光景を見て何か物足りないなぁと感じながら街を自転車で横切っていたところ、ある郷土料理の飲食店で「南部はっと鍋」の看板が出ているのに気づきました。

かつて、盛岡市内では「三大麺」だけでなく、南部はっと鍋も加えて「四大麺」と称したり、最近では、これに地元産の小麦を用いた「南部生パスタ」を含めて「五大麺」だと標榜するキャンペーンがありましたが、今では双方とも忘れられつつあるのが現実ではないかと思われます。5年ほど前に、この件に関心を持って調べたことがあり、その際は、「四大麺」を喧伝するサイトは幾つかあったような記憶ですが、今は見る影もありません。
http://kanmado.com/article/14725932.html
http://tabijikan.jp/2014/05/27/2256/

ただ、地元産の食材を用いているだけで料理そのものに他地域にない独自色があるとは思えない「生パスタ」はまだしも、南部はっと鍋については、地元の山海の食材と一緒にいただくものですので、もっと地域内で盛り上げる努力があっても良いのでは?と疑問に感じないでもありません。

とりわけ、南部はっと鍋の誕生について調べてみると、1987年(昭和62年)に岩手生めん協同組合が開発・提案して市内の著名な飲食店に推奨した商品なのだそうで、そのような開発経緯は1986年(昭和61年)に盛岡で第1回麺サミットが開催されたことと、何か関係があるのでは(第1回麺サミットに触発されて地元関係者が開発したのでは?)と推測せざるを得ません。
http://i-namamen.com/profile.html
http://morioka.keizai.biz/headline/2061/

だとすれば、聞くところでは、「盛岡冷麺(特に、ぴょんぴょん舎)」が盛岡で最も著名な(今では東京進出等もなさっている)お店になった端緒が第1回麺サミットにあると言われているのに対し、同じ時期に生まれた「南部はっと鍋」は、「あれから30年」を経て、まるで好対照をなすかのように明暗を分けたわけで、ぜひ、サミットで「南部はっと鍋」の総括や再生を考えて欲しかったように思います。

とりわけ、蕎麦はともかく、盛岡冷麺やじゃじゃ麺は大戦前後の事情により盛岡に移住した朝鮮半島出身の方や大陸から引き揚げた方が創出した食べ物で、北東北の粉食文化の歴史にとっては新参者と言ってよいはずです。

そして、言うまでも無いことですが、北東北は、もともと戦前までは技術的に稲作が難しかった関係で粉食文化の盛んな土地で、いわゆる蕎麦に限らず、はっと、ひっつみ、かっけ(蕎麦・麦)など、地味ながら多様な料理が作られてきた土地であり、その根底には、縄文の粉食文化(木の実をすり潰して食べていたこと)があるのではとも考えられます(盛岡は中華麺でも都道府県所在地統計では消費量全国トップクラスとされ、その背景にも粉食文化の歴史があると見るべきなのでしょう)。

そんな訳ですので、新興勢力を敵視するわけではありませんが、従来勢力にも、伝統スタイルであれ新たな調理法の提案であれ、頑張っていただかないと(或いは、従来勢力も盛り上げるような関係者のご尽力がないと)地域の歴史、文化のあり方という観点に照らしても、寂しいものがあると言わざるを得ません。

そうしたことを通じて、麺に限らずパンを含めた様々な粉食の融合と新たな食文化の発信が、北東北の地から盛んになってくれればと思います。

米国も、なんだかんだ言われながらも二大政党による政権交代の文化が今も続いているように、盛岡の「B級グルメ文化」も、冷麺・じゃじゃ麺(商売熱心な新興勢力=民主党)だけで良しとするのでなく、従来勢力(共和党のラストベルトっぽい面々?)にも光をあてる営みを盛んにしていただけないかと、子供の頃からひっつみ(や金次屋の中華そば)を好んで食べて育った私としては願うばかりです。そんなわけで一句。

推しメンを 忘れた街で はっとする

余談ながら、冒頭の菅原さんが世間で活躍なさったり、こうしてお店を開店された背景にも、ご家族など周囲の様々な支えがあったものと思われます。

この仕事を通じて女性のパワーを感じる機会に恵まれる?身としては、「女性活躍」などと政府がキャンペーンするまでもなく、男女とも末永く様々な形で輝くことができる社会のあり方を構築する努力が、現代では特に問われているのだと感じていますが、そんなことを思いつつ、当家のサステナビリティを願って一首。

古女房 はっと気づいた有り難み そばで盛り立て かっけ~姿を

しかし、現実は、あの日が近づくたびに恐怖するのが正直なところです。

誕生日 はっとする頬 ひっつねる 

ちなみに、末尾の写真は、引用のブログでも掲載している、私の実家で作ったひっつみの画像です。

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相続セミナーと夫婦岩

半年前の話で恐縮ですが、今年の春に明治安田生命さんから相続セミナーのご依頼を受け、岩手県内の5ヶ所(盛岡、北上、水沢、久慈、一関)で実施しました。1月にも同じ内容のセミナーを実施しており、前回の反省を踏まえて若干の修正をしてお伝えしました。

3月末は裁判所の都合により法廷が全く入らない時期になるのでお引き受けできたのですが、毎日のように自動車や新幹線で県内各地の長距離移動を余儀なくされ、講義の時間も含めて肉体的にはしんどい面はありました。幸い、受講者の方々からは概ね好評をいただいたようで、その点はホッとしています。

久慈のセミナーでは営業所のご希望で午前と午後の2回に分けて実施したのですが、昼休みに小袖海岸の「つりがね洞」に行ってみたいと思い、現地に向かったところ、小袖海岸の入口が通行止めになっており、山側に迂回路があるとの表示がありました。

そのため、片道5分程度で済むのならまだ時間はあると思って迂回路に向かうと、10分以上も山道をウロウロする羽目になり、最後に海女センターに到着したのですが、滞在できる時間が全く残っておらず、やむなく海岸の立派な夫婦岩と「じぇじぇじぇの碑」の写真だけを撮影して後にしました。

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そんなわけで、また時間のあるときに改めて来たいと思いますが、折角なので、この仕事を通じてお会いする様々なご夫婦や私自身のことも含めて色々と考えつつ一句。

たどり着くまでが じぇじぇじぇの 夫婦岩

先日も、離婚・不倫・親権など男女間紛争をテーマとするミニ講義の依頼をお引き受けし、11月13日(土)に実施予定となっていますが、今後も、相続の問題に限らず、様々な法律問題、裁判実務等についてセミナーなどのご要望がありましたら適宜お問い合せいただければ幸いです(私がどうしても口下手で早口なので、レジュメ依存の傾向があることはご容赦いただければと思いますが)。

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盛岡芸妓は桜の舞い散る頃に

4月の話で恐縮ですが、盛岡北ロータリークラブ(RC)の例会で盛岡芸妓の方々に舞踊を披露いただいたことがあります。

盛岡芸妓は、大通商店街が形成される前、盛岡の繁華街が肴町~八幡界隈と本町通界隈に二分されていた明治後期の時代には大いに栄えていたものの、料亭文化の衰退により近年は激減し存続も危ぶまれていたようですが、近年、後継者となる若い芸妓の方々が誕生し、現在は復興と継承の途上にあるようです。
http://www.ccimorioka.or.jp/geigi/

数ヶ月前にも、盛岡北RCの例会に二人の若い芸妓さんがいらしてスピーチをなさったのですが、とりわけ、「冨勇」さんは文芸関係の造詣が深く雄弁で、今後はそうした見識を生かして活動の幅を拡げていくのではないかと期待されます。

当クラブの重鎮の方々が盛岡芸妓の後援会に深く関わっておられるのだそうで、そうしたご縁で今回もいらしていただいたようですが、歴史を遡れば、当クラブが盛岡で二番目にできた=盛岡RCから最初に分かれたロータリークラブであり、本町界隈にお住まいorゆかりのある会員の方が多いことも、ベテラン芸妓さん達と馴染みがあることの背景にあるのかもしれません。

私も正確なところは分かりませんが、盛岡RCが「古き良き盛岡」の最大勢力というべき肴町・八幡界隈の豪商の方々の流れを汲み、盛岡北RCがそれと対を成した本町界隈の豪商の方々の流れを汲んでいる、といった話もあるのかもしれません。

ともあれ、私自身は「旦那衆」の方々が集うような夜のお座敷に参加できる身分ではありませんので、拝見するのは最初で最後かもしれませんが、それだけに貴重な時間を過ごすことができ、何よりでした。

屋内で拝見するのもよいですが、可能なら石割桜や小岩井一本桜のそばに特設ステージを作り、そこで花吹雪を背にして披露していただくような試み(テレビ中継付きで)もあってよいのではと思いました。

そんなわけで一句。

艶やかさ 桜舞い散る頃に咲く

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明治村と江戸東京たてもの園が伝える大日本帝国の光と影、そして水沢三偉人のメッセージ~愛知編②~

愛知旅行編の2日目ですが、本日は丸一日「博物館明治村」で過ごしました。明治村に来たのは初めてですが、かねてから帝国ホテル旧館などを拝見したいと考えていたので、もう一つのメイン目的地「サツキとメイの家」ともども、思い切って行くことにしたものです。明治村は丸一日歩いても足りないほど広大で学ぶものも多く、大いに満足させられました。
http://www.meijimura.com/

私自身、帝国ホテル旧館があることくらいしか事前知識がなかったので、パンフを片手に説明掲示を読みながら歩いていたのですが、石川啄木が東京時代に家族と共に住んだという「本郷喜之床」なる建物が移築されていたのには、少し驚きました。

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当事務所は「啄木新婚の家」の目と鼻の先にあるほか、私自身、大まかに言えば岩手県北(二戸)→函館→東京→盛岡という人生を辿っていますので、啄木とは人生航路が妙に近いものがあります(詩才には恵まれませんでしたが、カネにだらしない人間にもならずに済んだとは思います)。

啄木一家が住んだのはこの建物の二階だそうですが、残念ながら二階は立ち入ることができず、その代わり開け放たれた障子から啄木の等身大パネルが顔を出していました。村内には「啄木くん」が明治の文化?を開設する掲示もあり、盛岡や函館の各種施設での雄姿を含め、まるで生前の放蕩生活のツケを払っているかのように死後も半永久的に働かされている印象を受けないこともありません。

そんな「働き者の啄木くん」の姿に感じながら一句。

愛知まで 歌を詠まんと 出でにけり
とこしえに 出稼ぎせんとや 生まれけむ

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ところで、私は今年の6月に、「江戸東京たてもの園」を拝見したのですが、明治村と「たてもの園」は、共に「主に明治(或いは江戸末期)から大正期の本物の建物群を現地に移設して保存している施設」でありながら、その雰囲気はまるで逆と言って良いほど、対照的ではと感じました。
http://tatemonoen.jp/

少し具体的に述べると、明治村は、華やかな帝国ホテルを筆頭に、文明開化の象徴である鉄道(運行されているものの一つは、品川・横浜間で活躍していた車両なのだそうです)、郵便、学校や病院、軍事施設など、大日本帝国の威信を感じさせるものを中心に、キリスト教会などを含め明治文化の多様性や開放性を感じさせる様々な施設群があり、掲示されている説明文なども、大久保利通が推進した殖産興業に関するものを含め、明治の先人の「列強に追いつき、追い越せ」の努力を肯定的に描写しているものが中心になっているように思います。

これに対し「たてもの園」は、15年戦争(日中~太平洋戦争=大東亜戦争)や関東大震災を想起させる建物が多く、明治村に比べると、全体として何となく「暗い」雰囲気が随所に漂っているように感じます。

その象徴は何と言っても高橋是清邸であり、「2・26事件」で高橋蔵相が殺害された現場である二階の寝室は、今もそうした霊気ないし冷気を感じさせるものとなっています(携帯で撮影した写真がサイズオーバーとのことで、ご参考までに他の方のブログを貼り付けます)。
http://teitowalk.blog.jp/archives/24604881.html

また、大財閥・三井家の邸宅も移築されていますが、建物の雰囲気は、戦前の華族・財閥の栄華だけでなく戦後の彼らの没落を否応なく感じさせるものとなっており、明治村に比べると、「暗い」感じを強く受けます。

私自身はこの邸宅を歩きながら、幼少期にテレビで視た、横溝正史シリーズの「悪魔が来たりて笛を吹く」の微かな記憶(映像)を思わずにはいられないところがありました(同作品は、敗戦直後の子爵邸で生じた連続殺人事件とその原因たる旧華族のドロドロの人間模様を描いたものです)。

だからこそ、私自身は、「明治村」と「たてもの園」は、戦前の光と影をそれぞれ伝えるために生まれた、一連一体の施設ではないかという印象を抱かずにはいられませんでしたし、そうした「大日本帝国」期の日本の姿を体感できる2つの施設は、現代の日本人にとって、ワンセットで訪れるべきものではないかと強く感じました。

ただ、商売っ気がほとんど感じられない「たてもの園」は言うに及ばず、明治村も「テーマパーク」という見地からすれば、これに類するディズニーや日光江戸村(昨年のGWに初めて行きました)と比べると、入場者数はもちろん、コンテンツの充実度なども、観光客の立場から見ると大いに見劣りすると言わざるを得ません(飛騨牛の牛鍋を当時のままの店舗内で大変美味しくいただきましたが、それだけに知名度やPRの不足を残念に感じます)。

明治村内にも、明治期の和装姿の男性などが申し訳程度?に歩いておられるのを拝見しましたが、ディズニーらでは「キャスト」と呼ばれる仮装者らが園内を余すところなく闊歩し来場者に異世界に来たとの高揚感を盛り上げていることと比べると、せっかく「本物」の建物群を擁しているのに、ソフト面でそれを徹底活用するような試みがあまり見られないのは、残念なことではと感じました。

例えば、江戸村のように様々な明治人を物語風に造形して闊歩させたり、ディズニーのパレードや江戸村の花魁道中に対抗して鹿鳴館風の仮装パレードかバッキンガム宮殿風の壮麗な閲兵式なども考えてもよいのではと思うのですが、どうなのでしょうか(建物内でのパフォーマンスは、本物ゆえの制約があるのかもしれませんが)。

また、ぜんぜん「江戸」になっていない江戸東京たてもの園は言うに及ばず、「明治村」という名称も、集客(特に、海外向け)という点では、とてもセンスがないように感じてしまいます。

「明治」や「昭和」は所詮、日本国内でしか通用しない概念ですし、まして、明治どころか昭和すら遠くなりにけりの現代ですから、いっそ元号ではなく、この空間を象徴するキーワードである「大日本帝国」という言葉を全面に押し出してよいのではと思います。

例えば、明治村に「大日本帝国物語~栄光の明治編~」、たてもの園に「同~鎮魂の昭和編~」などというサブタイトル(キャッチフレーズ)でも付して世界に売り出してはいかがでしょうか。

大日本帝国などと称すると隣国から無用の反発を受けるなどと批判される向きもあるかもしれませんが、戦前の光と影の双方に向き合い、それを学ぶための施設だということを説明できれば特段の問題はないと思いますし、日本の近現代の足跡を世界に理解を求めるという意味でも、何より、未だに「大日本帝国」という存在を消化、清算できていない現代日本人がこれと向き合う契機にするという意味でも、「大日本帝国の光と影を学ぶ場所」というコンセプトを、両施設は全面的に打ち出して良いのではと思います。

その上で、単なる学習施設にすることなく、十分な集客力と感銘力のある学習と娯楽の双方の機能をセンスよく兼ね備えたコンテンツの構築を考えていただきたいところです。そうした意味では、オガール紫波に代表される民営による公共サービスの新たな形(稼ぐインフラ)が模索されていることが、そうした施設の運営のあり方を考える上で、参考になりそうな気がします。

ところで、岩手には「大日本帝国の光と影」を強く感じることができる施設があることを知っている人は、県民といえど多くはありません。

奥州市(旧・水沢市)は、地元で輩出した幕末の蘭学者・高野長英(蛮社の獄で死亡)、後藤新平(明治後期~大正期の政治家で台湾統治や関東大震災の復興政策の従事等が有名)、斎藤実(軍人、政治家。昭和初期の首相で親米軍縮派の巨頭)の3人を「水沢三偉人」として記念館を建てて顕彰しており、3つの記念館を順番に廻ると、幕府がどのようにして終わり、明治日本が何を築こうとし、どうして破綻したのかということが、それなりに分かるものとなっています(私は5年ほど前に一度だけですが訪れたことがあります)。

だからこそ、後藤新平記念館は「明治村」に、斎藤実記念館は「たてもの園」に似ており、特に、高橋是清邸を訪れた岩手人は、斎藤実(内大臣)が高橋蔵相と共に2・26事件で凶弾に倒れたことも想起せずにはいられないのではないかと思います。後藤記念館の「華やかさ」と斎藤記念館の「暗さ」という点でも、両者のパラレルさを感じずにはいられないところがあります。

「たてもの園」のハイライトが高橋是清邸であるように、斎藤記念館も、2・26事件の原因(軍部台頭の背景の一つとなった昭和恐慌と東北の困窮)と顛末を描いたところで終わっています。

そのことを踏まえて、「そのあと」すなわち大戦で国家・国民・海外に生じた惨禍と教訓を現代人に伝える施設等がどれほど存するのかと考えると、靖国神社の遊就館(5年ほど前に拝見しました)や広島・長崎の原爆資料館など(残念ながら未見です)が思いつく程度で、国民や外国人観光客から広く「一生に一度は行くべきだ」と共通認識を得られているような著名なものはあまり存在していないのではないか(少なくとも、「体感」できるものは原爆ドームなど広島・長崎の現存施設くらいでは)と、残念に感じました。

また、「明治の前(幕府の終焉)」という点でも、水沢の高野長英記念館に匹敵する学習施設が国内にどれだけあるのだろうと考えると、私の知識不足かもしれませんが、あまり思いつくものがなく(萩はまだ来訪の機会に恵まれていません)、その点も寂しいような気がします。

大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰を指して「維新はこの男から始まった」というキャッチフレーズが使われていましたが、高野長英記念館を一通り廻れば「維新(幕府の終焉)は、本当はこの男から始まった」と思わずにはいられなくなる面はあります。

そうしたことも含め、近現代の光と影や来し方・行く末、教訓などを、現代人が正しく(欲を言えば、広義に「楽しく」)学ぶことができる営みがもっと盛んになされればよいのではという思いを、明治村を拝見しながら新たにした次第です。

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南部人は犬山城に盛岡城の夢を見る~愛知編①~

今年の夏は、愛知県方面に2泊3日で旅行しました。もともと、愛・地球博記念公園の「サツキとメイの家」に一度は行ってみたいと思っていたので、それを軸に、愛知県の幾つかの観光名所を絡めることにしました。

当初の計画では、初日に犬山市にある「博物館明治村」に行く予定でしたが、現地に到着すると、本日休館となっていました・・

そのため、急遽、犬山城に向かいましたが、翌日、明治村は丸一日を要する施設だと思い知った上、初日は午後7時から木曽川の鵜飼見物をする関係で、4時までには犬山城の河畔の宿に到着する必要があったので、結果として、明治村が2日目になったのは天恵というほかありません。

それはさておき、犬山城では、晴天に恵まれ、天守閣(望楼)からの景色も大いに満足することができました。

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犬山城は木曽川を臨む小高い丘の上に造られた平山城で、国宝に指定されている日本最古?の現存天守閣であるほか、江戸期の思想家・荻生徂徠が、三国志の英雄・劉備の終焉の地である蜀の白帝城に似ていると称したことでも有名です。

私は、平成11年の夏に、中国の三峡下り(長江三峡)に行ったことがあり、中国人向けの大型客船に三泊四日の船旅で乗り込んだのですが、その船は白帝城には泊まってくれなかったものの、早朝に白帝城のすぐそばを横切り、朝霧の中かすかに目にしたことを覚えています。そんな訳でとりあえず一句。

本物は朝もやに消ゆ白帝城

ところで、犬山城は羽柴秀吉と徳川家康が激突した「小牧・長久手の戦」(柴田勝家を滅ぼした秀吉が織田宗家の簒奪を完成させ天下取りの基盤を確立させる契機となった、天下分け目の戦い)の舞台の一つになっており、戦の号砲を告げるような役割を担っています(徳川軍に討ち取られた羽柴方の池田恒興が犬山城を占領したのが戦端だそうです)。

そのように考えると、犬山城(秀吉)も、本家・白帝城(劉備)と同様に、一国の支配者となった人物に深い関わりのある城ということで、見た目だけでない共通点もあるように感じます。

さらに言えば、秀吉も劉備も卑賤の身から曲がりなりにも天下人に上り詰め、存命中も人望を集め、死した後も長年に亘り庶民の人気を得てきた点で共通するほか、二代目で国が滅ぼされたことまで重なっています。

余談ながら、「今太閤」と呼ばれ、最近は語録が注目されている田中角栄もと首相も、二代目である真紀子氏が満身創痍で落選・引退した後、跡を継いで政治の世界に身を投ずるお孫さんはおられないようで、何か通じるものを感じずにはいられない面があります。

そんなわけで、眼前にある秀麗な城を含め、人の身には余りあるものを手にすることの怖さを感じながら浮かんできた一首。

古城告ぐ つわものの夢の恐ろしさ 劉備秀吉二代で滅びる

ところで、この日は、犬山城を木曽川を挟んで望む対岸にある、「みづのを」さんという旅館に宿泊しました。宿の方によれば、犬山城を訪れる中国人は増えているものの当館へ宿泊する人は多くないとのことでしたが、私の知る限り、本家・白帝城を望みながら温泉などに浸かれるという宿は当地には存在しないはずで、「白帝城を河上に望む湯」として良識ある中国人の勧誘に力を入れてもよいのではと、露天風呂で犬山城の雄姿を独り占めしながら思いました。
http://www.mizunowo.co.jp/

また、早めに夕食を済ませ、7時に乗船して夜の木曽川鵜飼も拝見し、終了後には10分ほどでしたが船上から8月上旬のみ行われているという本格的な打ち上げ花火も堪能できました。
http://kisogawa-ukai.jp/

私自身は事前にほとんど調べておらず、偶然このような行程になったのですが、犬山城を訪れる方は、8月上旬(但し、特別の理由がない限り宿泊料が跳ね上がる花火大会の日は避ける)に夜の鵜飼見物付きで宿泊すれば、概ね晴天+鵜飼+夜の犬山城の船上見物+終了後の花火という豪華セットを堪能できますので、とても良いのではと思います。

ところで、木曽川から犬山城を見ているうちにふと思ったのですが、盛岡城は、築城当初は北上川が現在の位置ではなく大通三丁目→同一丁目→菜園(城の堀沿い)→中津川・雫石川とと合流という流れになっており、江戸初期に氾濫対策を理由に現在の位置に移動されています(盛岡市民は大半の方がご存知だと思います)。

もし、北上川がその位置を変えることなく、盛岡城本丸などが現在もその姿を留めることができていれば、北上川から望む盛岡城は、犬山城に負けない秀麗な姿であったであろうことは、間違いないところでしょう。

残念ながら、現代では北上川を元の位置に戻すことがあり得ないことはもちろん、盛岡城の本丸も正確な図面がないことなどから復元困難と言われており、盛岡城の本来の雄姿は「夢のまた夢」と考えられています。

それだけに、とりわけ岩手・盛岡の方々は、木曽川に浮かぶ犬山城に在りし日の盛岡城を懐かしみつつ、盛岡が何を得て何を失ったのかといったことなども考えてみるのも、一興ではないかと思います。

この日は、ライトアップされた犬山城と木曽川を月が照らしていましたが、私が三峡を通過した平成11年8月上旬の夜も、終点である西陵峡のあたりでは満月が大渓谷を美しく照らしていました。それに魅せられ、船上で漢詩の真似事を作ったことなどを思い出しました。

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祭り囃子の向こうから

本日の午後5時頃に、盛岡東警察署に勾留中の方から接見要請がありました。

普段は中央通~内丸を自動車でヒュッと行っているので、何も考えずに7時に行きますと留置係の方に回答したのですが、事務所を出た瞬間に、地元のお祭りに目を背けて生きている我が身の愚かさに気づきました。

盛岡は8月1日から4日まで、夜間はこの通りを自動車で通行することはできず、当事務所から盛岡東署には大迂回が必要になります。

そんなわけで一句。

忘れるな さんさ見ろよと 呼ぶ被疑者
 大渋滞 今日の弁護に さっこらず

さんさ踊りは明日(8月4日)までとなります。
まだ訪れたことのない方は、ぜひ盛岡においで下さい。
http://www.sansaodori.jp/

24年ぶりの函館と、あの日みた景色

今年のGWは、前半に1泊2日で函館に行きました。私は平成元年4月から3年間、函館ラ・サール高校の生徒として函館に住んでいましたが、卒業以来ご無沙汰になっており、訪れるのは24年ぶりになります。

家族は初めての来函ですので、函館駅に到着後、朝市→ベイエリア→元町界隈や函館山、五稜郭など観光客向けの典型コースばかりを巡って帰宅しました。

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今の函館のB級グルメと言えば、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーということになるでしょうし、昭和62年創業とのことで、私の高校時代から存在していたのでしょうが、恥ずかしながら当時は全く知らず、今回はじめて食べました。

五稜郭も、中学の修学旅行で行ったせいかもしれませんが、高校時代はどういうわけか敢えて行きたいという気になれず(GWに帰省していたせいもあるでしょうが)、今回、修学旅行以来はじめて五稜郭に行きました。

函館は中韓などからの観光客も非常に多く、函館随一のデパートというべき「丸井今井」(盛岡の川徳に相当。なお、函館駅前の「棒二森屋」はフェザンと中三を一つにしたようなものでしょうか)にも、中国語の広告が大々的に掲載されていました。

五稜郭の桜は文句なしの満開状態で、タワーも奉行所も満足して巡ることができました。

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事前にネットで調べていましたので、街並みの変化にさほど心揺さぶられるところはありませんでしたが、それでも、和光や大門商店街のアーケードが無くなっているのを見ると、思うところはありました。

また、私自身は在学中はほとんど外食はしていませんが、例外として函館山の麓にある「カール・レイモン」が当時はレストランを経営しており、落ち着いた店内でドイツソーセージのランチを年に1、2回ほど食べるのがささやかな楽しみになっていたので、同社がレストランを閉鎖し物販と軽食に特化してしまったのは、少し残念に思っています。

折角なのでラ・サールも見に行こうということになり、湯の川温泉の宿から出発し、校舎や寮、グラウンドの外観だけをチラ見して戻りました。

ラ・サールは、私の在籍時は、開校以来の「港町らしい?ピンクに塗装した木造校舎(でもって、網走刑務所のように建物が放射状。冬は石炭ストーブ)」というアヴァンギャルドな建物でしたが、私が卒業した直後に現在の立派な校舎に全面建替となり、寮も現在は立派なものに建て替えられていますので(高校の寮は函館山からも確認できます)、良くも悪くも郷愁をそそられる要素は微塵もありません。

ただ、グラウンド(体育館も?)は概ね昔のままであるほか、旧校舎の一部が移築されており、その点はさすがに懐かしさを禁じ得ませんでした。

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在学中は函館山に登ることはほとんどありませんでしたが、高1か高2の晩秋の頃、夕方に学校から北側に片道30分か40分ほど、住宅街から荒地のような丘の上まで走って、いわゆる「函館の裏夜景」を見に行ったことがあります。

当時は、「裏夜景」を観光名所として口にする人はほとんどなく、それだけに、黒色の函館山と夕闇を背にした街並みの裏夜景は心に染みる眩しさがあり、そこに吹く海からの強風と共に、よく覚えています。

高校では「勉強もできず運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」でしたので(日本史の成績だけが救いでした)、心中は身の置き場もなく鬱々とした日々を送っていたように思いますが、それだけに、一人だけでも特別な時間、光景を持てることを心の命綱にしていたのかもしれません。

そんなわけで、当事務所の近所で短い新婚生活を送った石川啄木に敬意を表しつつ?その時のことを懐かしんで一首。

黄昏の裏夜景こそかなしけれ 十六の胸 癒やす木枯らし 

函館ラ・サールには、英国の軍歌?に由来すると言われる「It’s a long way to La Salle High School」という学生歌があり(鹿児島も同様とのこと)、校歌は出だししか覚えていないがこの歌なら今もほとんど全部歌えるという卒業生は、私だけではないと思います。

高校1年のときは「商社に入りヨーロッパの駐在員として人知れず死にたい。日本(人)と関わりたくない」という厭世願望がありましたが、やがて社会との関わりを持って生きたいという方向に気持ちが傾いてきて、高校を卒業する頃に、ようやく司法試験を意識するようになりました。

もちろん、どのような法律家になりたいか、どのように社会と関わり何を尽くしたいかということまで深く考えていたわけではありませんが、暗中模索の日々は、今もさほど変わらないのかもしれません。

そんなわけで、次に訪れるときには何か答えのようなものを持ち帰ることができればと願って、最後に一句。

旅立ちの 夢は今なお ロング・ウェイ

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春の気仙みち~H28版~

ここしばらく諸事に追われ、ブログの更新が滞ってしまいました。この間も、メモ的なものは書いているのですが、文章として仕上げる時間が取れず、ネタがやや古いものもありますが、その点はご容赦いただければと思います。

2週間以上前の話で恐縮ですが、4月12日に毎月1回の法テラスの担当日で、大船渡に行きました。が、4年ほど担当してきて初めて「予約もなく当日の飛び込み相談もない」という完全ゼロの日になりました。

反面、桜がすでに開花しており一部は満開状態でしたので、昼の時間を少し長めに外出し、碁石海岸まで足を伸ばしてレストハウス周辺の桜や「乱暴谷(らんぼうや)」の写真を撮って戻りました。

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帰途も三陸道経由で陸前高田の竹駒地区などを廻って盛岡に戻りましたが、こちらも週末~翌週に満開になるのではと思われます(っていうか、この投稿の時点ですでに葉桜ですが)。

以前に投稿しましたが、私は震災があった平成23年の4月下旬頃(5年前の今頃)に大船渡や陸前高田の避難所を廻って「被災者向けの押しかけ無料相談会」をしたことがあり、津波被害による凄惨な光景の傍らで満開の桜を目にしていたことをよく覚えています。

それだけに、この時期に気仙地方(とりわけ、大船渡の盛~末崎半島、陸前高田の中心部や竹駒地区)に来て桜を見ると、震災直後の光景を思い出さずにはいられない面があります。

震災直後(3月上~中旬)は花の咲いていない季節であり、地元(被災者)の方々にとって、震災から1ヶ月を経過した4月は、避難所生活などで疲労が蓄積する一方で、はじめての「自然からの癒やし」として梅や桜に接したという方が多いのではないかと思います。

そうした意味で、まちを彩る草木が地域に存することの意義、価値を改めて感じさせられる面がありました。

そんなわけで、久々の一句

「あの街」の記憶を癒やす 気仙桜

4月14日には熊本で大地震があり、その後も余震が続くなど深刻な被害が生じていますが、九州も桜の代わりに様々な花の季節を迎えているでしょうから、人命救助や各種の被災者支援等に止まらず、そうしたものにも目を向けていただければと思います。

昨年の4月に法テラス気仙に出張した際は、散り際の桜の花弁をカモメに見立てた一句を作りましたので、こちらもご覧いただければ幸いです。
→春の気仙みちと桃源郷

ラーメンのトッピングには依頼主の笑顔と事件解決を添えて。

昨日は大船渡(法テラス気仙)でしたが、今日は仕事で由利本荘に行きました。色々な難しさを抱えた離婚訴訟の期日でしたが、本日、依頼主が納得できる相当な内容での和解が成立して終了しました。

この件では、今年の3月まで在籍していた辻弁護士が、子の引渡というハードルの高い論点に挑んで、多大な奮闘の末に大きな成果を成し遂げた後、残務処理を私が引き継いだのですが、決裂か和解かの瀬戸際が相当あり、どうにか解決に至ったという案件でした。

11時半に開始した和解協議が2時半過ぎにようやく成立したのですが、裁判所の近くに、3時まで営業している、本荘を代表する?ラーメン店の一つと思われるお店があり、ギリギリセーフということで、大変美味しくいただきました(残念ながら、12月下旬に閉店となるそうです)。

ちなみに、第1希望だった本荘ナンバーワンとされる有名店は、2時半までの営業時間なので泣く泣く諦めました。依頼主はこの話を聞いて苦笑していましたが、裁判官にも和解成立時に同じ話をしたところ、軽口トークに慣れておられないのか、きょとんとしていました。

事案の中身は申せませんが、当方依頼主は、紛争を通じて2年ほど様々な艱難辛苦を余儀なくされており、最初にお会いした頃と比べて、とても強く、逞しくなられたと感じます。

この種の紛争は、弁護士にとっては不採算になることが通例で、この件も時間給ベースなどで見ると経済的には泣きそうな面はありますが、純然たるビジネス上の紛争などでは学びにくい、人間の業や人として生きることの深さを否応なく考えされられることが多いことは確かです。

ロータリーの標語に「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というものがありますが、この事件も、その言葉を事実の重みをもって考えさせられるものがありました。

業界には「弁護士報酬と書いて、いしゃりょうと読む」という有名な言葉があり、この事件でも、私や辻先生に限らず担当事務局を含め今日までに色々と苦心惨憺がありましたが、今後もこうした事件を手掛けることができるだけの売上をいただけるよう、めげずに頑張っていきたいと思います。

最後に、締めの一句ということで。

その果てに 味わいを知る 和解麺

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