北奥法律事務所

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短歌

石割桜に咲く、避けがたき喜怒哀楽の花

すいません、GW前くらいから仕事が山積みで相当に滞留しており、ブログ更新が厳しくなっています。

そうした経緯で、今更ながら4月中旬頃にFBに書いた話をこちらにも載せますが、この時期の盛岡地裁は花を愛でる方を喜ばせる季節となり、玄関前に咲く花を目当てに多くの方が集まります。

が、建物の中では庭の光景に関係なく、出廷した代理人に対し裁判所から「あれもやってね、これもやってね」という無慈悲な破滅的懲罰、もとい事件解決のため必要やむを得ない(らしい)要請が続けられているというのが現実です。

そんなわけで三首。

避けがたく春も作業が雪だるま 秋の実りが今も懐かし
老木は喜怒哀楽を日々喰らい もののあはれの心伝える
こき使う石割桜にカネ咲かず 今日もはげめと肩にひとひら

うち一首は、ある事件に着想を得たものですが、何の件かを述べるのは差し控えさせていただきます。

FBでは快晴日に撮影した写真を掲載したのですが、容量の関係でブログ掲載ができず、ブログ用に撮影しようとした日は雨天になってしまいました。

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折角なので、その日の午後に水沢支部に出張した際に撮影した水沢競馬場の桜も載せますので、まとめて「雨天の桜」を慈しんでいただければと思います。

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75年前のシンガポールに咲いた二戸と名古屋の不思議な縁~名古屋編③~

10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の3回目です。今回は出張とは関係のない話題について少し触れておきたいと思います。

1回目(全国研の参加報告)の投稿で少し触れましたが、本当は、2日目の午後は分科会を途中でサボり、会場から電車で1本のところにある「徳川園」に行くつもりでした。これは単なる物見遊山だけではない徳川園へのちょっとしたこだわりがあったからなのです。
http://www.tokugawaen.city.nagoya.jp/

私の出身地である岩手県二戸市は何人かの著名人や学識者を輩出していますが、その中に、昭和新山の名付け親にもなった「戦前から戦後にかけて活躍していた博物学・地質学の第一人者」である田中舘秀三博士(東北帝大教授)がいます。
http://airinjuku.jp/kikou/kikou32.html

秀三博士(義父であり東大物理学部の礎を作った世界的物理学者・田中舘愛橘博士と区別するため、このように表示します)は、大日本帝国が戦争に突入しシンガポールを侵略した直後(どのような経緯等かは存じませんが)シンガポールに赴任し、すぐにシンガポール市内の植物園や博物館の貴重な文化財を強い熱意や私財を投じて保護する活動を行い、捕虜にされた英国人研究者の支援などもしていたのだそうです。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm

ただ、資産家でもない秀三博士が長期の支援活動を行うのは困難ですので、ほどなく、シンガポールの旧宗主国(ジョホール王国)と交流があり植物学などの学者でもあった、尾張徳川家の当主である徳川義親侯爵に支援を要請し、保護等の引き継ぎを受けることができた(これに伴い秀三博士は帰国)のだそうです。

ちなみに、徳川侯爵は多彩な活動で知られており、徳川園の創設などのほか「北海道みやげの定番・木彫りの熊の発案者」としても有名です。

かくして旧日本軍の侵略に伴う混乱や散逸から文化財は守られ、旧日本軍の撤退後は英国、そして独立したシンガポールへと引き継がれ、現在のシンガポール国立博物館及び植物園に至っています。ちなみに、シンガポール植物園は平成27年に登録された、同国では現在のところ唯一の世界遺産です。
http://singapore.navi.com/miru/6/

私の知識の範囲内では二戸の人間が名古屋の著名人と関わりを持ったという話はこれしか存じませんが、「二戸と名古屋の人間が協力し戦災から人類が後世に遺すべきものを守った」という物語を知るのと知らないのでは、二戸人が名古屋に訪れたり名古屋と関わりを持つ意味・価値も全く異なってくると思っています。

とりわけ、米国(小ブッシュ政権)主導で行われたイラク戦争では米国にもイラクにも現地の文化財保護に従事する者がおらず、フセイン政権の崩壊時に現地の無法者による略奪が横行したと言われており、最近は「IS」によるパルミラ遺跡の破壊など、文化財の戦災はいまなお続く深刻な問題です。

願わくば、徳川園の庭園や美術品などを鑑賞しながら、文化財や名勝などが暴力から守られることの意義や価値を再認識できればと思っていたのですが、その点は、「また、名古屋を訪れる口実ができた」と前向きに考えることにします。

先般「固有のアドバンテージ(アジア貿易の中心)と存続のリスクの双方を抱えながら、繁栄と生き残りのため血眼になって努力し続けてきた国」としてのシンガポールに関心を持つようになり、少し前には、岩崎育夫氏の「物語 シンガポールの歴史」(中公新書)も拝読し、色々と考えさせられました。

残念ながら二人の日本人の尽力は現代のシンガポールではほとんど忘れ去られているようですが、これらの文化財が「華人をはじめとする出稼ぎ寄せ集め移民を強引にまとめた国家」であるシンガポールの国民・国家の統合に生かされていることは間違いないはずで、そうした観点から「大戦時の日本は、シンガポールに迷惑をかけた(凄惨を極めた大陸戦争に起因する華人への報復としての虐殺等)だけでなく同国の役に立った日本人もおり、自分の地域の先人こそがその担い手であった」ことを知ることは、現代の日本と同国との交流のあり方を考える上でも、大いに意義のあることだと思います。

そんなことを思いつつ一首。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

私も、いつの日かシンガポール植物園などを訪れて先人の足跡を辿ると共に、その際はラッフルズ・ホテルのバーで「シンガポール・スリング」でもいただきながら、二戸と名古屋の先人が異国の文化を守り、それが同国の現代の繁栄にも通じていることの奥深さや有り難さなどに思いを馳せることができればなどと夢想しないこともありません。

懐かしき未来は名古屋城の礎石の中に~名古屋編②~

10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の2回目です。今回は、全国学童保育研究会の開場前に名古屋城に行ってきましたという件を書きたいと思います(大至急の仕事が少し片付き、久しぶりに、ブログ書きたい病になっています)。

名古屋には花巻空港を朝の早い時間に出発し、午前中には市内に着きましたので、昼に始まる全国研の前に可能な限り城内を見ておきたいということで、すぐに名古屋城に行きました。

まずは二の丸庭園のパフォーマンス集団(武将隊の方々)をチラ見しつつ、一部復元に伴う公開がなされて間もない本丸御殿に向かい、次いで、天守に入城しました。当日は文句なしの晴天で、天守閣の展望台からは伊吹山をはじめ周囲の眺望を楽しむことができ、大満足でした。

恥ずかしながら、これまで名古屋城については不勉強で、消失や再建の時期などはほとんど把握していませんでしたが、戦時中も昔の雄姿を止めていたことや戦災(米軍の大空襲)で「落城」さながらに焼失したこと、戦後まもなく市民の熱意や募金を通じて再建されたことなどが、よく分かりました。

焼失前に撮影された写真も初めて見ましたが、白黒写真で垣間見た限りでも、現在のコンクリート製より遙かに風格があるように感じました。もちろん、現存していれば、姫路城と並んで(規模からは、姫路城以上に)日本を代表する城郭として世界に冠たる名声を得ていただろうと残念に思います。

我国は敗戦で多くのものを失い、それと引き換え?に多くのものを得ましたが、焼け落ちる名古屋城の写真が、まるで名古屋ひいては日本の戦後の復興のための人柱になったかのような、戦慄というか身震いするような感じがしました。

ところで、名古屋城(天守閣)の入口付近に、陸前高田の子供達を招待した企画に関する展示パネルが掲示されていました。

言うまでもなく、陸前高田は東日本大震災津波における最大の被災地の一つであり、市の中心部が津波により丸ごと壊滅させられるという、米軍の空襲と同等以上と言ってよいほどの凄まじい被害に遭いました。もちろん、街のシンボルである高田松原も完全に失われ、「一本松」のみを残すのみとなったことは皆さんご承知のとおりです。

それだけに、「あまりにも大きな外力(大国との総力戦や巨大災害)により、街の大切なものを多く失った者同士」という点で、名古屋と陸前高田は共通するところがあり、両市が交流などを深めていくことは大いに意義があるのではないかと思われます。

陸前高田には、市内の著名事業者の方々が従事する「なつかしい未来創造」という復興まちづくり企業があるとのことですが、自動車産業などを通じて戦後の「物づくりニッポン」を牽引すると共に、現在も本丸御殿を復元し、さらに天守閣の復元も構想している名古屋の地は、「なつかしい未来の創造」という点では、陸前高田をはじめとする三陸の被災地にとっては、ある種の先輩格というべきなのかもしれず、戦後の名古屋が辿った成功や反省などの体験の成果を、三陸にも還元するような営みが盛んになればと願っています。

そんなことを考えながら一首。

懐かしき未来は名古屋の城で待ち 努力と熱意の有無を見定む

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ところで、名古屋には、大学の先輩で同じ年に司法試験に合格し、その頃に大変お世話になったKさん(弁護士ではありませんが広義の同業である法律実務家)がおられるので、これ幸いとばかりに、夜にはKさんに十数年ぶりにお会いしてきました。

Kさんには、合格から修習開始までの期間に中央大の某団体(S法会)で答案練習会(司法試験の模試のようなもの)の内部スタッフ同士として奴隷労働?に明け暮れていた当時、一緒に呑みに誘っていただいたことがあるのですが、貧乏な合格者同士のはずなのに?なぜか、京王線の千歳烏山にある「純米大吟醸と高級酒肴ばかりの贅沢居酒屋」に連れて行かれ(しかも妙に盛り上がって2時間以上呑んでました)、「人生で行った居酒屋3本の指(ナンバーワン?)」といって良いほど大満足の反面、財布が空っぽになり、泣きそうな思いをして帰ったことがありました。

そのため、今度も凄いお店に連れて行かれるのだろうかとビクビクしていたのですが、最近は私がブログやfacebookで貧乏ぶりを吹聴しているのに気を遣っていただいたのか?B級グルメの名店と地元の庶民派居酒屋さんという組み合わせで、「懐に優しい食い倒れツアー」になりました。

ともあれ、Kさんが「現場の指揮官」として野武士のように奮闘されているお話などを伺っていると、懐かしさと共に、私も法律実務家のはしくれとして、私なりに地域の未来を切り開いていかなければならないとの思いを新たにしました。

そんな様々な「懐かしき未来」が交錯する名古屋の地にいつの日かまた訪れて、次代の様々な可能性や努力の種について考えを巡らせることができればと思います。

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「魔女のパン屋さん」の盛岡降臨と麺サミットに忘れ去られた南部はっと鍋、そして北東北の粉もん文化

大食い番組ファンやTVチャンピオンのファンの方なら、「魔女」の称号で親しまれた盛岡の主婦・菅原初代さんはご存知だと思いますが、先日の岩手日報で、岩手大学の近くに菅原さんが12月にパン屋さんを開店するとの記事が出ていました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20161118_1

記事の「試作」の文字を見て「試食」の読み違えではと思った人は私だけではないでしょうが、それはさておき、原敬や新渡戸稲造は知らないが菅原さんは知っているという日本国民は多数おられるでしょうから、ご本人もさることながら、盛岡の新名所として多くの方々に盛り上げていただければと思います。

ところで、パンと並ぶ粉食文化と言えば、ラーメン、蕎麦、饂飩などの麺類でしょうが、11月上旬に盛岡で「麺サミット」なるイベントが開催されていました。残念ながら家族が関心を示さず私も首が廻らなかったため食べに行けなかったのですが、「盛岡三大麺」と称される、冷麺・じゃじゃ麺・わんこそばの著名店の店主さん達が地元メディアに多く露出するなど、それなりに盛り上がっていたようです。
http://www.mensummit.jp/

ただ、そうした光景を見て何か物足りないなぁと感じながら街を自転車で横切っていたところ、ある郷土料理の飲食店で「南部はっと鍋」の看板が出ているのに気づきました。

かつて、盛岡市内では「三大麺」だけでなく、南部はっと鍋も加えて「四大麺」と称したり、最近では、これに地元産の小麦を用いた「南部生パスタ」を含めて「五大麺」だと標榜するキャンペーンがありましたが、今では双方とも忘れられつつあるのが現実ではないかと思われます。5年ほど前に、この件に関心を持って調べたことがあり、その際は、「四大麺」を喧伝するサイトは幾つかあったような記憶ですが、今は見る影もありません。
http://kanmado.com/article/14725932.html
http://tabijikan.jp/2014/05/27/2256/

ただ、地元産の食材を用いているだけで料理そのものに他地域にない独自色があるとは思えない「生パスタ」はまだしも、南部はっと鍋については、地元の山海の食材と一緒にいただくものですので、もっと地域内で盛り上げる努力があっても良いのでは?と疑問に感じないでもありません。

とりわけ、南部はっと鍋の誕生について調べてみると、1987年(昭和62年)に岩手生めん協同組合が開発・提案して市内の著名な飲食店に推奨した商品なのだそうで、そのような開発経緯は1986年(昭和61年)に盛岡で第1回麺サミットが開催されたことと、何か関係があるのでは(第1回麺サミットに触発されて地元関係者が開発したのでは?)と推測せざるを得ません。
http://i-namamen.com/profile.html
http://morioka.keizai.biz/headline/2061/

だとすれば、聞くところでは、「盛岡冷麺(特に、ぴょんぴょん舎)」が盛岡で最も著名な(今では東京進出等もなさっている)お店になった端緒が第1回麺サミットにあると言われているのに対し、同じ時期に生まれた「南部はっと鍋」は、「あれから30年」を経て、まるで好対照をなすかのように明暗を分けたわけで、ぜひ、サミットで「南部はっと鍋」の総括や再生を考えて欲しかったように思います。

とりわけ、蕎麦はともかく、盛岡冷麺やじゃじゃ麺は大戦前後の事情により盛岡に移住した朝鮮半島出身の方や大陸から引き揚げた方が創出した食べ物で、北東北の粉食文化の歴史にとっては新参者と言ってよいはずです。

そして、言うまでも無いことですが、北東北は、もともと戦前までは技術的に稲作が難しかった関係で粉食文化の盛んな土地で、いわゆる蕎麦に限らず、はっと、ひっつみ、かっけ(蕎麦・麦)など、地味ながら多様な料理が作られてきた土地であり、その根底には、縄文の粉食文化(木の実をすり潰して食べていたこと)があるのではとも考えられます(盛岡は中華麺でも都道府県所在地統計では消費量全国トップクラスとされ、その背景にも粉食文化の歴史があると見るべきなのでしょう)。

そんな訳ですので、新興勢力を敵視するわけではありませんが、従来勢力にも、伝統スタイルであれ新たな調理法の提案であれ、頑張っていただかないと(或いは、従来勢力も盛り上げるような関係者のご尽力がないと)地域の歴史、文化のあり方という観点に照らしても、寂しいものがあると言わざるを得ません。

そうしたことを通じて、麺に限らずパンを含めた様々な粉食の融合と新たな食文化の発信が、北東北の地から盛んになってくれればと思います。

米国も、なんだかんだ言われながらも二大政党による政権交代の文化が今も続いているように、盛岡の「B級グルメ文化」も、冷麺・じゃじゃ麺(商売熱心な新興勢力=民主党)だけで良しとするのでなく、従来勢力(共和党のラストベルトっぽい面々?)にも光をあてる営みを盛んにしていただけないかと、子供の頃からひっつみ(や金次屋の中華そば)を好んで食べて育った私としては願うばかりです。そんなわけで一句。

推しメンを 忘れた街で はっとする

余談ながら、冒頭の菅原さんが世間で活躍なさったり、こうしてお店を開店された背景にも、ご家族など周囲の様々な支えがあったものと思われます。

この仕事を通じて女性のパワーを感じる機会に恵まれる?身としては、「女性活躍」などと政府がキャンペーンするまでもなく、男女とも末永く様々な形で輝くことができる社会のあり方を構築する努力が、現代では特に問われているのだと感じていますが、そんなことを思いつつ、当家のサステナビリティを願って一首。

古女房 はっと気づいた有り難み そばで盛り立て かっけ~姿を

しかし、現実は、あの日が近づくたびに恐怖するのが正直なところです。

誕生日 はっとする頬 ひっつねる 

ちなみに、末尾の写真は、引用のブログでも掲載している、私の実家で作ったひっつみの画像です。

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北東北の秘境・小又峡は一度ならず二度までも

先日、突如思い立って秋田県北秋田市(旧森吉町)の太平湖(小又峡)に行きました。太平湖は、昭和27年に森吉ダムの建設に伴い生じた規模の大きいダム湖ですが、「日本で一番ツキノワグマが多い山(マタギとナメ滝の聖地)」とも言われる森吉山麓の、人里離れた非常に奥深いところにあります。

で、遊覧船でしかアクセスできない場所から片道1時間~2時間ほどナメ滝(滑滝)が連続して姿を現すエリア(小又峡)があり、滝大好き人間の私にとっては昔から行きたい場所の一つでした。

ナメ滝とは、豪雪で磨かれた滑り台状の一枚岩を轟々たる水が流れていくタイプの滝で(ちなみに、華厳の滝のように真っ直ぐに水が落ちるのが「直瀑」)、私の知る限り、日本では秋田・上越・奥秩父のエリアに割と多く存在していると思います(奥秩父の代表的観光名所・西沢渓谷の隣にある東沢というナメ滝・ナメ床が密集する渓谷が、私のトレッキング趣味の原点の一つになっています)。

ただ、それだけに、小又峡は決して「素人ないしお気楽な観光客に優しい場所」ではなく、滝を見に行きたいのであれば、基本的には正午までの船便に乗船する必要がありますし、遊歩道とはいえ靴なども相応のものを履いて来た方が望ましいと言えます。

太平湖には6年ほど前にも一度、来たことがあるのですが、その際は田沢湖と阿仁スキー場のゴンドラを経由したため最終便しか乗船できず、小又峡に近づけずに遊覧船に乗船しただけで終わってしまいました。

そのため、今度こそは小又峡の名瀑群を見に行きたいということで、北回り(鹿角八幡平ICから西南方向に向かうルート)で向かいました。ただ、諸事情により出発が遅れ、12時半の便に辛うじてアクセスできました。

で、出航から20分ほどで南側の波止場に到着しました。人里・道路などが一切見えないことはもちろん、周囲にはかつての材木運搬用の線路跡もあり、秘境ムードたっぷりです。

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そして、木々を鏡のように写す湖面を横目にしつう、いよいよ小又峡に向かって歩き出すと、ほどなく轟音と共に最初のナメ滝が現れます。

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さあ、いよいよ憧れの小又峡に到着!ここから滝巡りだ!と思っていると・・

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長靴が無いと渡れぬ小又峡 銭はあれども貸す婆もなく

前日の増水で、小又峡の入口の沢に設けられた「入口」と言うべき渡渉用の石が全て沢の流れに埋もれ、長靴がないと渡れない状態になってました・・

私一人だけなら、靴を脱いでスボンもたくし上げ、裸足で渡ろうとしたかもしれませんが、さすがに家族と一緒なので自粛・断念し、ここで引き返しました。遺憾ながら、小又峡の滞在時間は実質5分、次の便までは40分以上も波止場でダラダラと過ごし、やむなく次の便で撤退しました。

レストハウスで乗船のチケットを買う際も係員の方に言われていたので覚悟はしていたのですが、まさかこんな入口すぐの場所とまでは想像もできず、ショックです(まあ、それでも乗船したでしょうけど)。

どうせなら、こういうときこそレストハウスには「長靴を一人ウン千円で貸すよ」などと結構な商売をしていただければ(今の私なら蜘蛛の糸を掴むかのように借ります)と思わないでもありませんでした。

帰りの便では、不安定な天候のせいか、湖畔に虹も姿を現しており、せめてもの慰めになりました。

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この湖は三菱マテリアル(当時の商号・太平鉱業)が付近にある鉱山への電力供給などの目的でダムを建設した関係で、太平湖と名付けられたとのことですが、人造湖ですので、ダムの建設時に幾つかの人里が湖底に消えたことは間違いないかと思います。

山深い場所ですのでマタギなどで生計を営む小さな村々ばかりだったとは思いますが、それでも、湖面を眺めていると、当時の人々の営みがどのようなものであったか、色々と考えずにはいられない面もあります。

例えば、湖面の下に眠る鎮守の社ではマタギの人々が山の恵みを肴に村祭りをしたり、美しい村娘と若いマタギが村人に隠れて逢瀬を重ねるなどということもあったのでしょう。

或いは、そんな二人がダム建設で生じた村の混乱の中で思いを遂げることができず、湖を訪れる人の心に今なお語りかけているなどという秘話が、湖底の深くに眠っているのかもしれません。

太平にまどろむ人の見る夢は 村のやしろで交わす約束

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太平湖・小又峡は、私の感覚では、登山者でない普通の人が行ける場所としては、北東北では「最強」の紅葉の名所の一つだと思っています。お時間のある方は、10月末までの晴天の日に、ぜひ訪ねていただければと思います。

私自身は、小又峡の再々挑戦もさることながら、いつの日かこの近くにある桃洞の滝や安の滝にも訪れることができればと願っています。

余談ながら、「北秋田市」はこんな無個性なネーミングでなく、南アルプス市に対抗して「マタギ市」と名乗れば良かったのではと、訪れるたびに思います。

本当は怖い?「サツキとメイの家」と縄文圏から吹く風~愛知編③~

愛知旅行編のラストです。毎度ながら大長文ですいません。

もともと、今回の旅行は、数年前に家族が「トトロ」をDVDで繰り返し見ている時間があったので、当時から一度はサツキとメイの家を見に行った方がよいのではという考えがあったからでした。

そして、同施設が保存されている「愛・地球博記念公園」に行き、実際に訪れたところ、幸い事前にコンビニでチケットを購入しなくとも無事に入館でき、最初の15分ほどを建物内、次の15分ほどを敷地周辺を巡る形で、つつがなく観覧を終了できました。

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私自身は「トトロ」ファンではありませんので(子供の頃はナウシカとラピュタは何度も見ましたが、トトロは女の子の見るものという偏見があり、大人になるまで見ませんでした)、淡々と中を拝見していましたが、お父さんの部屋の書棚を見ていると、不思議な光景に気付きました。

書棚には各県の民俗史や通史、考古学業界?関係の雑誌などが積み上がっていたのですが、埼玉県や同県などの市町村の歴史をまとめた本(自治体が編纂、出版しているもの)が並んでいる一角がありました。

で、そのコーナーを見ると、蕨市、大宮市や武蔵野市、武蔵村山市(旧・村山町)といった埼玉又は東京北部の自治体の史書が置いてあり、一般的にはこのエリア(狭義には狭山丘陵)が「トトロ」の舞台=本物の草壁家の所在地と言われていますので、そうしたことを考慮して選定されたものであろうことは、誰にでも分かることだと思います。

が、どういうわけか、その中に「北上市史」という本が含まれているのに気づきました。現在の埼玉県や東京都に「北上市」が存在しないことはもちろん、私の知る限り、このエリアにかつて北上市という自治体があったという話も聞いたことがなく、「北上市」とは、あの北上市、すなわち岩手県北上市しか思い当たりません。

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wikiで検索した限りでも、他に「北上市」という自治体は無いようですし、作品内でも北上市が何らかの関わりを持ったこともないはずですので、この棚の作り手(宮崎吾朗氏でしょうか)が、何らかの事情で東京・埼玉の自治体群の市史に混ぜる形で北上市の市史を差し込んだと考えるのが自然ではないかと思います。

誰がどのような理由でそれを決めたのか、私には分かりませんし、ネットで「サツキとメイの家 お父さんの本棚 北上市史」などと検索しても何の手がかりも見つけられませんでしたので、ここから先は完全に私の想像になりますが、私は、宮崎駿監督又は同氏の思想に共鳴する方が、次のような確固たる理由をもって意図的に北上市史を差し込んだものと考えます。

まず、「トトロ」は日本に昔から存在(居住)する化物(神)を指しているところ、このような異形の神を信奉する観念は、弥生文化(人間中心主義、科学的合理主義)ではなく縄文文化(アニミズム=自然崇拝)に属するものと理解しています。

そして、西から興り古代日本を制圧した大和朝廷は弥生文化を信奉する王朝であり、これと対峙した「蝦夷」の社会は、国家として統合されることなく集落(部族)ごとに集団生活を営むのを原則とするなど縄文文化の痕跡を色濃く残していた社会だと一般的には考えられていると思います。

また、日本書紀などでは大和朝廷に征服される以前の多くの蝦夷らの部族によって形成されていた社会を、総体として「日高見国」と呼んでおり、この日高見国(の本拠地)がどこにあったのかという歴史論争も過去にはあったように聞いたことがありますが、少なくともヤマトタケルの時代であれば、大和朝廷と戦っていた蝦夷の本拠地は、まさに武蔵国のあたりになるのではないかと思います。

このように考えると、あの本棚の制作者はトトロの棲家たる狭山丘陵周辺を「トトロを神として敬ってきた蝦夷のクニ(日高見国)の本拠地」と考え、その思想を表現するため、日高見国の名を継ぐ唯一の自治体である北上市の市史を敢えて本棚に差し込んだのではないかというのが、私なりの想像です。

ちなみに、北上にも、三内丸山や大湯環状列石ほどメジャーではありませんが、樺山遺跡という縄文時代の面影を残すエリアがあり、なかなか良い味わいがあります。
http://www.kitakami-kanko.jp/kanko.php?itemid=193

なお、wikiによれば、トトロの元ネタは宮沢賢治の「どんぐりと山猫」なのだそうで、その線も考えられなくもないのですが、そうであれば、賢治自身とほとんど関わりの無い北上市ではなく花巻市史か盛岡市史を差し込んだはずで、やはり「日高見国」がキーワードではないかと考えます。

もちろん、以上は私の想像に過ぎませんので、本当の理由をズバリご存知の方がおられれば、ぜひご教示いただければ幸いです。

ところで、縄文文化に光を当てた芸術家といえば何と言っても岡本太郎氏が有名ですし、私自身は、宮崎監督の作品群からはアニミズム(縄文的な感性)との親和性を感じ、岡本氏と同じ系譜に属する方ではないかと思っています。

そうした「縄文的な感性」を今に伝える巨匠が現在もいるのか(誰か)と考えると、ちょっと思い当たりません(先日に投稿した「シン・ゴジラ」考で述べた印象からは、庵野監督はこの系譜とは少し違うような気がしています。庵野監督がこの系譜に属する方なのであれば、次回作ではゴジラに変わる現代の異形の怪物を造形していただければと願わないでもありません)。

考えすぎかもしれませんが、縄文文化(アニミズム)の精神を現代に伝える巨匠の不在が続くと、やがては我国における縄文文化(多様性や異形の存在への畏敬)と弥生文化(社会・人民の統合と科学的姿勢)のバランスを危うくし、後者が勝ちすぎた挙げ句、仕舞いには画一的、統制的で驕慢な社会を生み出すことに繋がらないかという危惧がないわけではありません。

「トトロ」に関しては物語の内容をホラー的に解説する都市伝説を拝見することもありますが、上記のような文化的衰退が生じることこそが本当の意味での「恐ろしさ」というべきで、そのような事態にならないよう、現代人としての気概が求められるというべきではないかと思っています。

そんなことを考えつつ、サツキとメイの家の周辺の森を散策しながら一首。

巨匠らの夢に宿りし いにしえの森と風の精 いまはいずこに

その日の午後は、名古屋港水族館に行きました。凄まじい大混雑で、じっくりと生物を見ることができませんでしたが、沢山の魚介類などに混じって、ザラブ星人とケムール人を思わせる方々を発見しました(未見の方のネタバレ防止のため、写真の引用はしませんが、知りたい方は「名古屋港水族館 怖い」などと検索してお調べになって下さい)。

そんなわけで、愛知の旅を無事に終えることができましたが、今回の旅は、これまで述べてきたとおり、最初の東京編も含め、サツキとメイの家(古代)、犬山城(中世)、明治村(近代)、ジブリ展(現代)といった形で、様々な時代を幅広くかつバランスよく感じながら進めることができたように思います。

非日常の体験を通じて様々な時代に思いを馳せつつ現代人としての生き方を考える機会を与えられるということこそ旅の醍醐味でしょうから、同行する家族に感謝しつつ、今後も、こうした経験を享受できるよう、まずは日々の軍資金づくりに地道に勤しみたいと思います。

南部人は犬山城に盛岡城の夢を見る~愛知編①~

今年の夏は、愛知県方面に2泊3日で旅行しました。もともと、愛・地球博記念公園の「サツキとメイの家」に一度は行ってみたいと思っていたので、それを軸に、愛知県の幾つかの観光名所を絡めることにしました。

当初の計画では、初日に犬山市にある「博物館明治村」に行く予定でしたが、現地に到着すると、本日休館となっていました・・

そのため、急遽、犬山城に向かいましたが、翌日、明治村は丸一日を要する施設だと思い知った上、初日は午後7時から木曽川の鵜飼見物をする関係で、4時までには犬山城の河畔の宿に到着する必要があったので、結果として、明治村が2日目になったのは天恵というほかありません。

それはさておき、犬山城では、晴天に恵まれ、天守閣(望楼)からの景色も大いに満足することができました。

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犬山城は木曽川を臨む小高い丘の上に造られた平山城で、国宝に指定されている日本最古?の現存天守閣であるほか、江戸期の思想家・荻生徂徠が、三国志の英雄・劉備の終焉の地である蜀の白帝城に似ていると称したことでも有名です。

私は、平成11年の夏に、中国の三峡下り(長江三峡)に行ったことがあり、中国人向けの大型客船に三泊四日の船旅で乗り込んだのですが、その船は白帝城には泊まってくれなかったものの、早朝に白帝城のすぐそばを横切り、朝霧の中かすかに目にしたことを覚えています。そんな訳でとりあえず一句。

本物は朝もやに消ゆ白帝城

ところで、犬山城は羽柴秀吉と徳川家康が激突した「小牧・長久手の戦」(柴田勝家を滅ぼした秀吉が織田宗家の簒奪を完成させ天下取りの基盤を確立させる契機となった、天下分け目の戦い)の舞台の一つになっており、戦の号砲を告げるような役割を担っています(徳川軍に討ち取られた羽柴方の池田恒興が犬山城を占領したのが戦端だそうです)。

そのように考えると、犬山城(秀吉)も、本家・白帝城(劉備)と同様に、一国の支配者となった人物に深い関わりのある城ということで、見た目だけでない共通点もあるように感じます。

さらに言えば、秀吉も劉備も卑賤の身から曲がりなりにも天下人に上り詰め、存命中も人望を集め、死した後も長年に亘り庶民の人気を得てきた点で共通するほか、二代目で国が滅ぼされたことまで重なっています。

余談ながら、「今太閤」と呼ばれ、最近は語録が注目されている田中角栄もと首相も、二代目である真紀子氏が満身創痍で落選・引退した後、跡を継いで政治の世界に身を投ずるお孫さんはおられないようで、何か通じるものを感じずにはいられない面があります。

そんなわけで、眼前にある秀麗な城を含め、人の身には余りあるものを手にすることの怖さを感じながら浮かんできた一首。

古城告ぐ つわものの夢の恐ろしさ 劉備秀吉二代で滅びる

ところで、この日は、犬山城を木曽川を挟んで望む対岸にある、「みづのを」さんという旅館に宿泊しました。宿の方によれば、犬山城を訪れる中国人は増えているものの当館へ宿泊する人は多くないとのことでしたが、私の知る限り、本家・白帝城を望みながら温泉などに浸かれるという宿は当地には存在しないはずで、「白帝城を河上に望む湯」として良識ある中国人の勧誘に力を入れてもよいのではと、露天風呂で犬山城の雄姿を独り占めしながら思いました。
http://www.mizunowo.co.jp/

また、早めに夕食を済ませ、7時に乗船して夜の木曽川鵜飼も拝見し、終了後には10分ほどでしたが船上から8月上旬のみ行われているという本格的な打ち上げ花火も堪能できました。
http://kisogawa-ukai.jp/

私自身は事前にほとんど調べておらず、偶然このような行程になったのですが、犬山城を訪れる方は、8月上旬(但し、特別の理由がない限り宿泊料が跳ね上がる花火大会の日は避ける)に夜の鵜飼見物付きで宿泊すれば、概ね晴天+鵜飼+夜の犬山城の船上見物+終了後の花火という豪華セットを堪能できますので、とても良いのではと思います。

ところで、木曽川から犬山城を見ているうちにふと思ったのですが、盛岡城は、築城当初は北上川が現在の位置ではなく大通三丁目→同一丁目→菜園(城の堀沿い)→中津川・雫石川とと合流という流れになっており、江戸初期に氾濫対策を理由に現在の位置に移動されています(盛岡市民は大半の方がご存知だと思います)。

もし、北上川がその位置を変えることなく、盛岡城本丸などが現在もその姿を留めることができていれば、北上川から望む盛岡城は、犬山城に負けない秀麗な姿であったであろうことは、間違いないところでしょう。

残念ながら、現代では北上川を元の位置に戻すことがあり得ないことはもちろん、盛岡城の本丸も正確な図面がないことなどから復元困難と言われており、盛岡城の本来の雄姿は「夢のまた夢」と考えられています。

それだけに、とりわけ岩手・盛岡の方々は、木曽川に浮かぶ犬山城に在りし日の盛岡城を懐かしみつつ、盛岡が何を得て何を失ったのかといったことなども考えてみるのも、一興ではないかと思います。

この日は、ライトアップされた犬山城と木曽川を月が照らしていましたが、私が三峡を通過した平成11年8月上旬の夜も、終点である西陵峡のあたりでは満月が大渓谷を美しく照らしていました。それに魅せられ、船上で漢詩の真似事を作ったことなどを思い出しました。

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24年ぶりの函館と、あの日みた景色

今年のGWは、前半に1泊2日で函館に行きました。私は平成元年4月から3年間、函館ラ・サール高校の生徒として函館に住んでいましたが、卒業以来ご無沙汰になっており、訪れるのは24年ぶりになります。

家族は初めての来函ですので、函館駅に到着後、朝市→ベイエリア→元町界隈や函館山、五稜郭など観光客向けの典型コースばかりを巡って帰宅しました。

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今の函館のB級グルメと言えば、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーということになるでしょうし、昭和62年創業とのことで、私の高校時代から存在していたのでしょうが、恥ずかしながら当時は全く知らず、今回はじめて食べました。

五稜郭も、中学の修学旅行で行ったせいかもしれませんが、高校時代はどういうわけか敢えて行きたいという気になれず(GWに帰省していたせいもあるでしょうが)、今回、修学旅行以来はじめて五稜郭に行きました。

函館は中韓などからの観光客も非常に多く、函館随一のデパートというべき「丸井今井」(盛岡の川徳に相当。なお、函館駅前の「棒二森屋」はフェザンと中三を一つにしたようなものでしょうか)にも、中国語の広告が大々的に掲載されていました。

五稜郭の桜は文句なしの満開状態で、タワーも奉行所も満足して巡ることができました。

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事前にネットで調べていましたので、街並みの変化にさほど心揺さぶられるところはありませんでしたが、それでも、和光や大門商店街のアーケードが無くなっているのを見ると、思うところはありました。

また、私自身は在学中はほとんど外食はしていませんが、例外として函館山の麓にある「カール・レイモン」が当時はレストランを経営しており、落ち着いた店内でドイツソーセージのランチを年に1、2回ほど食べるのがささやかな楽しみになっていたので、同社がレストランを閉鎖し物販と軽食に特化してしまったのは、少し残念に思っています。

折角なのでラ・サールも見に行こうということになり、湯の川温泉の宿から出発し、校舎や寮、グラウンドの外観だけをチラ見して戻りました。

ラ・サールは、私の在籍時は、開校以来の「港町らしい?ピンクに塗装した木造校舎(でもって、網走刑務所のように建物が放射状。冬は石炭ストーブ)」というアヴァンギャルドな建物でしたが、私が卒業した直後に現在の立派な校舎に全面建替となり、寮も現在は立派なものに建て替えられていますので(高校の寮は函館山からも確認できます)、良くも悪くも郷愁をそそられる要素は微塵もありません。

ただ、グラウンド(体育館も?)は概ね昔のままであるほか、旧校舎の一部が移築されており、その点はさすがに懐かしさを禁じ得ませんでした。

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在学中は函館山に登ることはほとんどありませんでしたが、高1か高2の晩秋の頃、夕方に学校から北側に片道30分か40分ほど、住宅街から荒地のような丘の上まで走って、いわゆる「函館の裏夜景」を見に行ったことがあります。

当時は、「裏夜景」を観光名所として口にする人はほとんどなく、それだけに、黒色の函館山と夕闇を背にした街並みの裏夜景は心に染みる眩しさがあり、そこに吹く海からの強風と共に、よく覚えています。

高校では「勉強もできず運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」でしたので(日本史の成績だけが救いでした)、心中は身の置き場もなく鬱々とした日々を送っていたように思いますが、それだけに、一人だけでも特別な時間、光景を持てることを心の命綱にしていたのかもしれません。

そんなわけで、当事務所の近所で短い新婚生活を送った石川啄木に敬意を表しつつ?その時のことを懐かしんで一首。

黄昏の裏夜景こそかなしけれ 十六の胸 癒やす木枯らし 

函館ラ・サールには、英国の軍歌?に由来すると言われる「It’s a long way to La Salle High School」という学生歌があり(鹿児島も同様とのこと)、校歌は出だししか覚えていないがこの歌なら今もほとんど全部歌えるという卒業生は、私だけではないと思います。

高校1年のときは「商社に入りヨーロッパの駐在員として人知れず死にたい。日本(人)と関わりたくない」という厭世願望がありましたが、やがて社会との関わりを持って生きたいという方向に気持ちが傾いてきて、高校を卒業する頃に、ようやく司法試験を意識するようになりました。

もちろん、どのような法律家になりたいか、どのように社会と関わり何を尽くしたいかということまで深く考えていたわけではありませんが、暗中模索の日々は、今もさほど変わらないのかもしれません。

そんなわけで、次に訪れるときには何か答えのようなものを持ち帰ることができればと願って、最後に一句。

旅立ちの 夢は今なお ロング・ウェイ

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田子の浦にて歌聖と戯るの記

旧ブログで掲載していた、平成25年1月に静岡県富士市にある「ふじのくに田子の浦みなと公園」を訪ねた件について、再掲しました。

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万葉集に登載されている山部赤人の歌は、教科書でも必ず取り上げられていることもあり、これを知らぬ日本人はいないと言っても過言ではないと思います。

田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける

私にはこれを訳すだけの力はありませんので、ネットで検索される代表的な訳を引用すると、次のように述べられています。

大和朝廷の官吏である山部赤人が東国に赴任する際に田子の浦付近から見た雄大な富士の姿に心打たれて、素朴な感動を高らかに詠み上げたものと理解されているようです。

“田子の浦を通過し視界が開けた場所まで出てみると、富士山の高いところには真っ白い雪が積もっていた”

田子の浦は、静岡県富士市の太平洋に面する付近にある海岸であり、その港は、現在は同県有数の工業都市たる富士市の玄関口として、企業の工場や油槽所、港湾関連施設などが立ち並んでおり、詩情を感じることがあまり期待できない状況が何年も続いていました。

私は、ご縁あって何年も前から時折、富士市周辺を訪れているのですが、最初に訪れた際、「ここは山部赤人の歌で有名な田子の浦なので、きっと風光明媚な公園などがあり、先人を顕彰しつつ市民の詩情を育成しているに違いない」と思っていました。が、ガイドブックを見てもそれらしい記載を見つけることができず、大いに残念に思ってきました。

で、今年の元日は時間が出来たので、数年前に入手した「富士市観光マップ」を片手に、山部赤人の歌碑がある場所に向かうことにしました。

歌碑の存在は何年も前から知っていたものの、マップによれば、歌碑は、港湾地帯の隅にひっそりと設けられているように見えることもあって、これまでは優先的に行こうとする意欲が湧かなかったのですが、今年は富士市に点在する史跡巡りツアー(平家越=富士川合戦記念碑など)の一環として、行ってみることにした次第です。

ところが、現地に行ってみると、大変驚かされました。

富士市は、そこ(田子の浦東端の太平洋岸)に、「ふじのくに田子の浦みなと公園」という都市公園を造営しており、土砂の埋立による防潮堤としての活用を兼ねた高台の見晴らしのよい公園として、平成25年の春頃?の完成を目指し、整備を行っていました。

それまで田子の浦港の一角で不遇を託っていた山部赤人の歌碑も、公園の中心部に移設され、付近からカメラを向けると、歌碑の背景には富士と愛鷹山だけが綺麗に収まります。

人の背丈よりも遥かに大きい歌碑は、ストーンサークルの石柱やオベリスクの類を見ているようでもあり、このような視界が開けた場所に設けられるのがよく似合います。

振り返ると、駿河湾全体を見渡すような広大な海岸線に、太平洋の白波が打ち寄せている壮大な光景を目にすることができ、伊豆半島西岸の荒々しい断崖も、手に取るように見ることができます。

波打際がテトラポット群となっている点だけが残念ですが、砂浜の護岸のためやむを得ないのかもしれません。

公園の造営そのものに関しては、観光客が知ることが出来ない、綺麗事だけでない地元の事情もあるのかもしれませんが、率直に言って、この光景は、新富士駅で途中下車しタクシー又はレンタカーで往復するだけの価値はある、なかなかのものだと言えると思います。

そんなわけで、甦りつつある和歌の聖地・田子の浦を素朴に祝って一首。

青空に映ゆる白嶺に白波に 田子の浦から詩情ふたたび

これだけでは物足りないので、蝦夷の末裔の1人として、歌聖への返歌の真似事のつもりで一首。

蝦夷らも うらみを捨つる白雪を 田子に見ゆるはいつの頃から

大意:大和朝廷に祖国を滅ぼされた東国の民=蝦夷(えみし)には、田子の浦から富士を高らかに詠み上げた山部赤人の歌すらも、勝者の凱歌のように感じ、哀しみを深めずにはいられなかったのではなかろうか。

しかし、そんな彼らも、田子の浦から見える白雪を纏った美しい富士の姿を目にすることで、過去のわだかまりを捨て、新しい社会(統一国家・日本)のために己が身を尽くすようになったに違いない。

東国の人々も西国に行き来するようになり、雄大な富士の姿を目にして、そんな思いを共有できるようになったのは、いつの頃からであろうか。

皆さんも、ぜひ一度、訪れて歌聖と戯れてみてはいかがでしょうか。

富士市におかれても、駐車場や子供向けの遊具等だけでなく、気の利いたカフェテリアなどの整備も検討いただければと思います。

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