北奥法律事務所

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函館

バスクと二戸と「北奥文化圏」の魂~函館R1.10往訪編②~

令和元年10月に函館出張した件の投稿その2です。前日に函館入りして日中の所用を済ませた後、その日の夜はベイエリアにある「ラ・コンチャ」というスペインのバスク地方の料理を提供するお店に行きました。
https://www.vascu.com/laconcha/

こちらは函館のガイドブックに必ず載っている有名店で、料理の質は言うに及ばず内装なども大変良好なお店なので、そうしたお店に一度は行ってみたかった・・という面もありますが、もう一つ、どうせ家族を連れて行くのならバスク料理のお店に行きたい、と思った理由がありました。

これは、バスク地方が日本で言えば北東北など(縄文文化圏)に類する点があるのではと以前から感じていたことに基づくものです。

私も世界史は不勉強で半端な知識しかありませんが、スペイン王国は、イスラム帝国に支配されていた中世のイベリア半島を欧州人(白人勢力)が大航海時代の少し前=コロンブスの時代に取り戻した際(レコンキスタ=再征服)、幾つかの王国が統合されて出来上がった国家と理解しています。

ただ、バスク地方は、スペインの他の地域とは歴史的な経緯のほか人種的な面も含めて独自性・独立性が最も強いと言われ、自治や独立などを求める運動が長年行われていました。

昭和の時代でも、バスク地方の独立運動を掲げる組織(ETA)がイギリス(ブリテン諸島)のIRA(アイルランド共和軍)と並んで深刻なテロ行為に及んでいるという報道を子供時代に見たことがあり、私自身、バスク=怖いというイメージを当時は持っていました(wikiによれば、今は収束しているようですが)。

しかし、そのことは、この地域がスペインの中心部(マドリードなどのカスティーリャ地方)と異なるアイデンティティを現在も強く保持し続けていることの現れと見ることもできるでしょうから、日本でも、北東北・北海道、沖縄など、中央政府と異なるアイデンティティを持っている(ものの、長年に亘る同化政策で、その多くが失われた)地域にとっては、親近感やある種の羨望を持つことができる地域と言うことができます。

私は昔々、もし自分が二戸市長になることがあるのだとすれば、そのときは、ゲルニカの町と姉妹都市協定を働きかけたいと思ったことがあります。

ピカソが描いたゲルニカ爆撃の惨劇は言うまでもありませんが、二戸も遙か昔のこととはいえ、伝承によれば九戸城が豊臣軍による「騙し討ちの城内皆殺し」の惨禍を受けたとされており(それを窺わせる人骨群も発掘されています)、中央政権に抗った末に残酷な戦争被害に見舞われた町同士として、二戸にはゲルニカと同じ悲しみを共有できる資格があります。

そして、その根底には「バスクと蝦夷」という、中央政府とは異質な独立したアイデンティティがあることもまた、二つの町が共有できる価値観を有することを示すものです。

そのような歴史を持つバスク地方が、いまや「美食の都」として世界の垂涎の的になっている光景は、テロワールなどと称して遅まきながら?食文化を重視した観光振興に取り組み始めた今の二戸にとって、学ぶべき面があまりにも大きいでしょうし、共通のアイデンティティを持つのだとの自覚があれば、その学習をより深いものにしてくれるかもしれません。

などと途方もない夢物語ばかり書いても仕方ありませんが、同行させた家族にも、そうした「一皿の向こうに様々な歴史が見える光景」を感じてくれればと願いつつ、いつになればそうした話に食らいついてきてくれるのやらと、今は一人寂しくグラスを傾ける・・というのが、残念な現実のようです。

投稿にあたりお店のサイトを覗いたところ、現在休業中で、ウィルス禍の収束後に再開予定とのことですが、再訪できる機会を楽しみにしています。

なお、お店や食事の写真は撮り損ねたため、代わりに、翌日に赴いた快晴の城岱牧場から望む函館弯・函館山の風景をご堪能下さい。バスク地方にも、似たような景色がありそうですし。

函館の屋台村放浪記~函館R1.10往訪編①~

3年前の話ですが、とある所用で函館に行きました。不本意ながら前日入りせざるを得ず、夜の到着後、折角だからということで風呂上がりに大門横丁(屋台村)に晩酌に行きました。

もともと軽く一杯だけで宿に戻りすぐに寝ようとしか考えていなかった上、目当てのお店が満席だったため、投げやり気分で、店員女性(若いおねえさん)が客引きしていたお店(屋台)に入りました。

すると、コの字型のカウンターのど真ん中に、ホスト風?の威勢の良いあんちゃんが陣取っており、私が入店するまで客引きしていた店員と大声で延々と軽口トークを繰り広げていました。

屋台は延々とその喧騒に包まれ、温泉上がりにしみじみしようとしていたのが台無しとなり、「こんなあんちゃんが占拠する店に入るんじゃなかった・・」と憤慨していたところ、あんちゃんは店員との薄口トークに飽きたのか、こちらにしきりに話しかけてきました。

私も若い頃に夜の山小屋で見知らぬ健脚の方と熱い山トークを繰り広げたことはあるものの、人里の盛り場に出入りするのはほぼ皆無で、上記の経緯からも酔っ払いには関わりたくないと思って、半ば聞こえないふりをしていました。

が、あんちゃんのお世辞トークに屈したのか、同行者が会話を始めたので、やむなくお付き合いすることにしました。

あんちゃん(自称29歳)は、ホストではなく全国規模の専門商社の営業マンで、函館には出張で週末だけ時々来ているとのことでしたが、そんな御仁が、どうしてこの屋台の主のように振る舞っているのだろう・・と思いつつ、あんちゃんトークを聞き流していました。

すると、同行者の対応に気をよくしたあんちゃんは、突如、「どうすれば結婚できるんですか」などと、直球トークを繰り出してきました。

結局、あんちゃんトークを適当にやり過ごしているうちに盛会となり、ほどなく解散しました。

両親にも私自身にも、良くも悪くも様々な物語があり、この年まで生きながらえると、「歴史は繰り返す」という言葉を否応なく体感せずにいられないことは何度もあり、今もそうした日々を良くも悪くも余儀なくされています。

数年前、父が亡くなり私が駆けつけた直後、病院から戻ってきた父の枕元に来た母が「おつかれさまでした」と深く一礼したのを見ましたが、果たして、そうした光景もまた繰り返されるのか、あれこれ考えされられた夜になりました。

函館で輝く?タレント司法書士さんと田舎の町弁の野望

先般、所用で函館に行きましたが、現在この街では、各所で

シホシホシヨシ シホ~ショシ
シホシホシヨシ シホ~ショシ

という呪文のようなCM?が流れています。

ショコショコ感と言ったら怒られるかもしれませんが、一度聞いただけで忘れられない中毒性があり、Web上でも同じような感想が述べられているのを見つけました。

で、当事務所もこれに対抗(模倣)して

ベンベンベベベン ベンゴシガ~
ベンベンベベベン オタスケス~

などというCMを、盛岡駅前や大通などで延々と流してみたい・・

との誘惑にかられましたが、同行者から

品位を欠く非行になるので却下

と、ダメ出しを喰らいました。

このCM、Web上でも公開され、話題になっているようです。
https://www.youtube.com/watch?v=BnyFFyn4Isc

東京のクレサラ司法書士法人あたりの仕業なのだろうかと思って調べたところ、地元の司法書士さんが制作されたもののようです。

ご本人は大阪のご出身とのことで、かのラッキーピエロのように、大阪と函館は何か相性がよいのかもしれません。
https://ebi-hakodate.com/profile/

そういえば、函館には「東大卒業後、思うところあって山籠もり?をしていたものの、一念発起して2年だけの勉強で司法試験に合格し、縁もゆかりもない函館に第一志望で修習し、今も函館法曹界の要として活躍されている九州出身の弁護士さん」もおられます(司法研修所の同じクラスの方で、私のすぐそばに座っていました)。

函館は、ぶっとんだ東大生の方とも相性がいいのかもしれません。

アイヌとイスラムの異同を踏まえて日本と人類の未来を論ぜよ~函館北方民族資料館の呼ぶ声~

先月の函館旅行の最終投稿です。今回、函館北方民族資料館にはじめて行きましたが、そこで不思議な発見(気づき)がありました。

ここは、アイヌ民族(アイヌ人)をはじめとする北方の諸民族に関する文化の紹介(大半はアイヌですが)を目的とする施設です。

と書くと「俺はアイヌじゃないし興味もないね」と仰る方も多いのかもしれませんが、日本人は弥生7~8:縄文2~3の割合の混血民族であり、アイヌは縄文の末裔の典型である上、とりわけ岩手(北東北)は本土では縄文の血を濃く残す地域でもありますので、岩手人はアイヌ(や琉球など)に対し関心や親近感を持つべきではと思っています。

館内には、著名俳優でありアイヌの末裔である宇梶剛士氏の司会によるアイヌ文化の紹介ビデオも放映されており、私は全部視聴したかったのですが、引率し甲斐のない同行者らの要求で、やむなく駆け足の観覧となりました。

で、展示品を見ているうちに、アイヌ民族の衣装は線状の紋様が非常に多く(というか、大半が線状の紋様・装飾になっていて)、これまで考えたことがありませんでしたが、どことなく、イスラムの幾何学模様(アラベスク)に似ているのでは、と感じました。

その上、アイヌ文化には肖像(絵)を書く文化がなく、「絵を描くと描かれた者が悪さをする」と考え、絵を描くこと自体を忌避する思想があるのだそうで、これも、偶像崇拝(人の絵を描き、礼賛すること)を禁ずる(忌避する)イスラムに通じるものがあります。

そのため、双方の文化を比較した研究・考察などが世に出ていないのかと思い、「アイヌ、イスラム、比較」などと検索してみましたが、それらしい文章などは全く見つかりませんでした。

もしかすると「まだ世の光が当てられていない埋もれたテーマ」なのかもしれず、ぜひ、これに取り組む研究者の方が登場することを願わずにはいられません。

それこそ、(現在はさておき)昨年までの函館は「中国・台湾・韓国の旅行者のカネで経済が成り立っていた社会」と評しても過言ではないでしょうが、もし、イスラム圏の人々に「ここに、イスラムに似たもう一つの文化がある」との認識を育ませることができれば、全世界で数十億に達し、これからの百年で、キリスト教圏(欧米人)に取って代わるのかもしれない、巨大なイスラム圏の人々が「新たな潜在的観光客層」として登場することになります。

ですので、函館ひいては北海道全体にとって、「アイヌとイスラムの異同という視点(それを研究しPRすること)」は、アジア人観光以上に、新たな巨大な金脈になりうるとすら言えるのかもしれません(別に、函館市アドバイザーに就任なさった某さんに向けて書いているわけではありませんが・・)。

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それはさておき、その上で、素人なりに「アイヌとイスラムとの異同」に関し思ったことを、1点だけ述べておきます。

私はイスラムに知見のある人間ではありませんが、イスラムが肖像画(なかんずく預言者の肖像画や銅像その他の造形物)を禁忌とするのは、詰まるところ、唯一神の絶対性(と唯一神との唯一の接続者である預言者)を守るためであると理解しています。

いわば、絵であれ他の造詣物であれ「これが神だよ」と説明される物が作られると、それが「新たな神」などとして一人歩きしたり、やがて多神教への回帰になるなど、唯一神への信仰が揺らぐ事態になるのを忌避したのではないかという理解です。

これに対し、私の知る限り、アイヌには「唯一神への信仰」なるものは存在せず、むしろ「万物に神宿る」の汎神論を徹底した思想(信仰)と理解しています。

アイヌは、上記の理由(描かれたものが魂を持ち亡者のような行動に及ぶとの思想)から、人物だけでなく、あらゆる物に対し写実画を禁じ、絵画の概念すら存在しない(抽象化した表現しか認めない)と聞いています(木彫りがあるので「人物像」を全否定しているわけではないのでしょうが、一定の抽象表現は施されているように思われます)。

いわば「徹底した一神教」がイスラムで「徹底した汎神論」がアイヌという点で、双方は両極にあると共に、「徹底」という点では類似しているのかもしれません。

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ところで、もう一つの「人類を代表する一神教」であるキリスト教は「神のもとの平等」という観念を通じて人類の本質的平等を案出し、科学技術の発展を通じて、近代人権思想(人間中心主義)に辿り着きました。

イスラムも、(西洋で中世は王権や教会権力との闘争や妥協、せめぎ合いがあったように)カリフなどの世俗的権力がかつては存在しましたが、本質的には「神のもとの(イスラム信者の)平等」という観念に立つことは間違いないと思います。

これに対し、汎神論に立つアイヌ(古代人の末裔)は、人間中心主義(人間の本質的平等を掲げる反面、人間の福利さえ実現できれば、他の存在に相応の被害・負担・抑圧が生じても構わないとの思想)を排し、「万物(自然)を尊び、万物と共に歩む」という思想に立っていることは間違いありません。

そして、現代社会が、強大になりすぎた人間の活動により世界の存続自体が脅かされており、その修正が求められている状況にあることは、流行り物のSDなんとかに論及するまでもなく、申すまでもない話です。

近年、突如としてアイヌ文化が注目されウポポイのような名所(新施設)ができたのも、根本的には「万物に神宿る」というアイヌの思想が、人間中心主義の行き詰まりを打開する可能性があるのではと感じる人が増えてきたことを示すものと言えます。

話が「イスラムとの比較」から逸れてしまいましたが、そうした「アイヌの思想の中核」とイスラムの思想の中核になることを比較すると、双方にとって新たに見えてくるものもあるかもしれません。

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ところで、私は数年前に突如、「日本国憲法には、人間の尊厳(13条)だけでなく、人に非ざるあらゆる存在(万物)の尊厳(13条の2)を掲げるべきだ」と感じるようになり、ささやかながら、ブログなどで、それ(憲法改正=新設)を提唱しています。

残念ながら、現時点ではネットの片隅で埋もれる日々ですが、願わくば、これを提唱する書籍を出版し、この思想を世に問いたいと思っていますし、その際には、その思想を共有している方々、とりわけアイヌ、琉球、そして蝦夷の末裔を自認するであろう方々には、賛同を呼びかけることができればと思っています。

冒頭にも書きましたが、日本人には、弥生人(人間中心主義=天皇のもとの平等)だけでなく、縄文人(万物の尊厳)の血も流れています。

汎神論(あらゆる物に神性や魂が宿るとの思想)は日本人の固有の精神だと述べる人も珍しくありません。

そのことを再確認し、世界にむけてご自身が何をできるか、すべきかを考えるためにも、ぜひ、皆さんも北方民族資料館に訪ねていただければ幸いです。

余談ながら、1階に掲示されたアイヌ絵(和人がアイヌの人々を描いた絵)を見ると、アイヌには眉毛が凄まじく太い(また、彫りも深い)人が多いと感じます。

そのような「眉の極太で彫りも深い人」で私がすぐ思い浮かぶのは西郷隆盛ですが、西郷さん=薩摩人も縄文の血を多く受け継ぐ人々と言われています(ただ、大久保利通は、典型的な弥生顔のように見えますが・・)。

西郷さん=薩摩人が維新期に大活躍したように、縄文の血も、活かし方次第では、維新のように日本人ひいては人類が新たな時代を切り開く原動力になるのかもしれません。

そうしたことも含め、縄文の血を引く人々が、根底にある思想を活かしつつ活躍する社会が開かれることを、願っているところです。

 

恵まれないF納税者に愛のゴー券を

先日の新幹線おそうじ投稿の続き(2週間以上前の出来事)です。

数年前、ご縁により今後数年間に亘り、年に1~2回、やむなく函館に行かざるを得ないことになりました。

その上、30年前には存在しなかった有り難くない事情により、最低でも年1回、そのためだけに2泊3日で(前日夜から)行かざるを得ない羽目になりました。

そこで、その負担感に困り果てた末、「せめてF納税が使えれば」と考えて陳情したところ、F納税で宿泊費補助特典ありとの報告を受けたことから、昨年、F納税(二戸ではH納税)に初めて手を出しました。

F納税は、金持ち優遇の印象が強すぎ、これまで忌避・嫌悪していた(というか、制度が発足した時点で町弁厳冬期の時代に突入し、それを必要とするだけの所得がなかった)のでご縁がなかったのですが、ともあれ、1年前は「これで少しは楽になる」と思いました。

が。

よりによって今年に限ってウイルス問題が勃発し、迷走の末?「2泊3日の企画」が中止し、他の企画も悉く中止に。

もちろんF納税の「旅行補助金(ポイント)」には越年(繰り越し)の制度がありません。

本来なら「これで函館に行く必要はなくなった、経費が浮いて助かる。やった~」となるはずでした。

が、昨年に限って余計なことをしていたせいで、ケチでビンボーな身としては、

「これ(F納税特典)を消化せずして、年を越せるか!」

状態となり、何ヶ月もの間「収束すれば、この企画はやります」的な知らせが来る度に一喜一憂していましたが、ついに今年最後の企画も潰れ、仕方なくF納税特典(援助)を消化するためだけに、函館に行きました。

で、現在の社会情勢に照らし

「ゴーなんとかも併用できるよね。F納税した人だけ差別する理由ないし。」

と思っていたのですが、あれこれ調べたり問い合わせた結果

「併用ムリ。何のクーポンも出ません。」

とのこと・・

で、こんなのF納税者差別だ、しかも(これまでは完全自腹だったので、F納税者どもザマーみろで済んだのに)よりによって、初めて手を出した年に限って・・と、泣きそうになりながら出発しました(その上、新幹線の座席には・・は、先日の投稿のとおり)。

せめてもの腹いせに、普段は某ソーセージや地ビールなどを函館駅で買って帰るのを、今回は「ゴー券もないのに物が買えるか(持ってる人、羨ましいぞ!)」と、何も買わずに帰りました(トホホ・・)。

というわけで、日本政府におかれましては、①ゴー券とF納税の併用、②相応の理由によるF納税特典の越年利用、③県ごとのゴー飯券の越境(他県)利用の3点を、早急に認めていただくよう陳情申し上げます。

ともあれ、2泊3日を見越して相応の特典券(ポイント)を得ていたので、それを1泊で消化すべく、函館の値段が高いホテルの一つとして有名な「ラビスタ函館」に思い切って泊まることにしました。

ここは「贅沢イクラ食べ放題朝食」が有名で、ホテルの掲示では日本の朝食ビュッフェランキング全国第2位(北海道では当然1位)だそうで、実際、納得の朝食でした。

ホテル(建物)自体は多少年季を感じましたが、私自身は満足して宿泊しました。基本料金は相応ですので、私の身分ではF納税やらゴーなんとかがないと宿泊の勇気はなかなか出ませんが、ある意味、この騒動のお陰で結果として宿泊できたのだと前向きに考えることにします。

というわけで、温泉でメシを食うためだけに(F納税とはいえ)ゴー券ではなく自費で、主要な観光地は制覇済みの函館くんだりまで行くという、残念な?土日を過ごしました。

ただ、行けば行ったで、それなりに有意義な発見はあるもので、次回は、その件について投稿する予定です。

乞うご期待?

平成初期の浦島太郎が感じた函館駅の再開発と「ぽつんと感」

都知事選は小池氏の圧勝で幕を閉じ、次にどのような第二幕が展開するのか期待されますが、私の「アゴラ投稿」もしぶとく生き残り、本日現在も、「週間ランキング」で10位以内に止まり、「いいね」も1700個以上も頂戴するという有り難い結果となっております。

それはさておき、以前にも書きましたが、私は函館で高校生活を過ごしており、今年の5月に24年ぶりに函館に行きましたが、函館駅や駅前の空間は、建替等により当時と今とでは激変していました。

何となく、無駄に広くなって函館駅と駅前商店街(棒二森屋をはじめとする大門地区の街並み)との距離が遠くなったような印象を受けたのですが、同じようなことを、先般、岩手を代表する「まちづくり」のエキスパートのOさんが、函館を訪れた際の感想としてFB上で発言されていました。

私の高校時代(平成1~3年頃)、函館駅には帰省の際などでお世話になっていましたが、当時=旧駅舎時代は、駅舎の位置は概ね同じなのですが、現在の広場状になっている場所(駅の正面近く)に、タクシーや駐車車両などが大量に陣取っており、その奥(街側に向かって進んだ場所)にバス乗り場群があり、いわば、盛岡駅東口(バス乗り場、タクシー、自家用車駐車場群)をヨコではなくタテに切り替えたような感じでした「函館駅前」でグーグル検索すれば、旧駅舎時代の画像を見ることができます)。

昔は「駅前が広かった」という記憶はなく、駅前のロワジールホテル(旧ハーバービューホテル)の前を歩いて市電まで行くのも、田舎者の身にはホテルの外観が眩しかったせいか、そんなに苦痛ではなかったとの記憶です(距離はほぼ同じなのに、今の方が、遠く感じるような気がしました)。

また、当時は函館駅前に土産物店が多くなく(駅ナカなどというものもありませんし)、同ホテルの1階の土産物店の存在感が大きかった=動線としての役割があったことも指摘できるのではと感じました(今では存在感が非常に下がり、ホテル前の幅広の歩道も通りとしての魅力がないと感じました)。

函館駅の建替(再開発)にあたり、折角、駐車場群を取り除いたのに、創出したスペースの価値を高める営みが全くなされていないという、「まちづくり」のエキスパートの方々がよく仰っていることの典型のような話なのだろうと思います(例えば南池袋公園のような芝生などのある光景を目指しても良かったのではと、素人ながら感じました)。

私が住んでいた頃から、函館駅前(大門商店街)の凋落が叫ばれていましたが、当時とあまり変わらない函館山の麓や、当時よりも遙かに栄えているベイエリア・五稜郭界隈と比べて、大門商店街の市内での存在感の低下はますます進んでいる感は否めず、そのことが、函館駅の「ぽつんと感」を、なお一層、演出しているのかもしれません。

24年ぶりの函館と、あの日みた景色

今年のGWは、前半に1泊2日で函館に行きました。私は平成元年4月から3年間、函館ラ・サール高校の生徒として函館に住んでいましたが、卒業以来ご無沙汰になっており、訪れるのは24年ぶりになります。

家族は初めての来函ですので、函館駅に到着後、朝市→ベイエリア→元町界隈や函館山、五稜郭など観光客向けの典型コースばかりを巡って帰宅しました。

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今の函館のB級グルメと言えば、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーということになるでしょうし、昭和62年創業とのことで、私の高校時代から存在していたのでしょうが、恥ずかしながら当時は全く知らず、今回はじめて食べました。

五稜郭も、中学の修学旅行で行ったせいかもしれませんが、高校時代はどういうわけか敢えて行きたいという気になれず(GWに帰省していたせいもあるでしょうが)、今回、修学旅行以来はじめて五稜郭に行きました。

函館は中韓などからの観光客も非常に多く、函館随一のデパートというべき「丸井今井」(盛岡の川徳に相当。なお、函館駅前の「棒二森屋」はフェザンと中三を一つにしたようなものでしょうか)にも、中国語の広告が大々的に掲載されていました。

五稜郭の桜は文句なしの満開状態で、タワーも奉行所も満足して巡ることができました。

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事前にネットで調べていましたので、街並みの変化にさほど心揺さぶられるところはありませんでしたが、それでも、和光や大門商店街のアーケードが無くなっているのを見ると、思うところはありました。

また、私自身は在学中はほとんど外食はしていませんが、例外として函館山の麓にある「カール・レイモン」が当時はレストランを経営しており、落ち着いた店内でドイツソーセージのランチを年に1、2回ほど食べるのがささやかな楽しみになっていたので、同社がレストランを閉鎖し物販と軽食に特化してしまったのは、少し残念に思っています。

折角なのでラ・サールも見に行こうということになり、湯の川温泉の宿から出発し、校舎や寮、グラウンドの外観だけをチラ見して戻りました。

ラ・サールは、私の在籍時は、開校以来の「港町らしい?ピンクに塗装した木造校舎(でもって、網走刑務所のように建物が放射状。冬は石炭ストーブ)」というアヴァンギャルドな建物でしたが、私が卒業した直後に現在の立派な校舎に全面建替となり、寮も現在は立派なものに建て替えられていますので(高校の寮は函館山からも確認できます)、良くも悪くも郷愁をそそられる要素は微塵もありません。

ただ、グラウンド(体育館も?)は概ね昔のままであるほか、旧校舎の一部が移築されており、その点はさすがに懐かしさを禁じ得ませんでした。

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在学中は函館山に登ることはほとんどありませんでしたが、高1か高2の晩秋の頃、夕方に学校から北側に片道30分か40分ほど、住宅街から荒地のような丘の上まで走って、いわゆる「函館の裏夜景」を見に行ったことがあります。

当時は、「裏夜景」を観光名所として口にする人はほとんどなく、それだけに、黒色の函館山と夕闇を背にした街並みの裏夜景は心に染みる眩しさがあり、そこに吹く海からの強風と共に、よく覚えています。

高校では「勉強もできず運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」でしたので(日本史の成績だけが救いでした)、心中は身の置き場もなく鬱々とした日々を送っていたように思いますが、それだけに、一人だけでも特別な時間、光景を持てることを心の命綱にしていたのかもしれません。

そんなわけで、当事務所の近所で短い新婚生活を送った石川啄木に敬意を表しつつ?その時のことを懐かしんで一首。

黄昏の裏夜景こそかなしけれ 十六の胸 癒やす木枯らし 

函館ラ・サールには、英国の軍歌?に由来すると言われる「It’s a long way to La Salle High School」という学生歌があり(鹿児島も同様とのこと)、校歌は出だししか覚えていないがこの歌なら今もほとんど全部歌えるという卒業生は、私だけではないと思います。

高校1年のときは「商社に入りヨーロッパの駐在員として人知れず死にたい。日本(人)と関わりたくない」という厭世願望がありましたが、やがて社会との関わりを持って生きたいという方向に気持ちが傾いてきて、高校を卒業する頃に、ようやく司法試験を意識するようになりました。

もちろん、どのような法律家になりたいか、どのように社会と関わり何を尽くしたいかということまで深く考えていたわけではありませんが、暗中模索の日々は、今もさほど変わらないのかもしれません。

そんなわけで、次に訪れるときには何か答えのようなものを持ち帰ることができればと願って、最後に一句。

旅立ちの 夢は今なお ロング・ウェイ

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