北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

その他

大きすぎる弁当とマイ保冷袋~某ルーペのCM風に~

新型ウイルス禍により、私が所属する盛岡北RCでも昨年から今年の前半にかけて例会の大半が休止となり、再開後は今も会場で食事ができず、延々と「弁当持ち帰り」が続いています。

感染予防対策の面からはやむを得ないのかもしれませんが、私は食事は温かいものをその場で頂戴したい(要するに弁当嫌い)上、持ち帰り云々の手間は増えるわ、夏場は立派な保冷袋と保冷剤が毎回付いてくるので、捨てるのも勿体ないし、他に再利用するのも困難ということで、ただただゲンナリさせられています。

盛岡北RCの例会は、ホテルメトロポリタンニューウィングの11階の大広間を20~25名で利用しているので、座席同士も十分な距離が保たれている上、ご年配の方が多いせいか、以前から、黙食気味(よく言えば、大人しい)の伝統があるため、黙食厳守で会場で食べさせて欲しい・・と思わないでもありません(昔、一度だけお邪魔した盛岡RCは、これと真逆の三密+喧噪の空間でした)。

が、現状では会食は無理との慎重なご判断に異を唱えるわけにもいかず、トホホと思いつつ、ここ3ヶ月ほどは毎回、弁当の持ち帰りをしてきました。

ただ、7月以後、品質保持のため毎回付いてくる保冷袋等(1回200円?)の無駄遣い(使い捨て)はどうにかならないのだろうかということで、某ルーペのCMを拝借して、思うところを少し述べることにします。

*********

ニューウィングの弁当は
大きすぎて事務所の電子レンジに入らな~い!

毎回もらう保冷袋と保冷剤も
溜まりすぎて置き場所がな~い!

でも、保冷袋はこうすればいいんです。
マジックでキュキュッと自分の名前を。

あとは、毎回、保冷剤と一緒に例会に持って行くだけ。
こうすれば、もう、袋も保冷剤も溜まりません。

ちょっと見ていて下さいね。

(お約束のシーンとキャアの一声)

凄い!この保冷袋、何回座っても大丈夫!
この強度、さすがメイド・イン・ジャパン!

~大歓声~

・・・で、弁当の方は?

中のプラ容器をハサミでチョキチョキすれば、
どうにか電子レンジに入りそうだと、
先日、食べ終わった後に思いました・・

凄いデカいぜ!
ニューウィングの例会用持ち帰り弁当!

*******

すると、本日の例会で、市内の感染拡大等の事情がない限り、来月からは会場での食事が再開されるとの発表がありました。

ようやく弁当持ち帰りの日々から解放されることになったと安堵していますが、東京などでは、現在も、弁当持ち帰り形式で例会を行うRCその他の団体が多く存在するのではと思われます。

立派な保冷袋を弁当と一緒に貰って帰る全国のロータリアンなどの皆さんは、ケチでビンボー・・・もとい、SDなんとかの実践のため、マイ保冷袋の持参運動に参画いただければ幸いです。

マイ保冷袋と大きすぎる弁当はコチラ。

  

華麗なる孤食の夏と、京都・亀岡から岩手を考える

昨年3月に日弁連廃棄物部会の関係で、レジ袋禁止などの取り組みをしている京都府亀岡市に視察したことがあります。

その際、添付(末尾)のカレーを思わず購入しましたが、そのまま現在に至り、今となっては誰のため・何のため購入したのか分からない有様になってしまいました。

ともあれ、個人的な諸々の不遇感を嘆きつつ、我が身にも麒麟を待ち望んで一首。

あれこれの賞味期限が過ぎたので
カレー光秀ひとり喰う夏

盛岡は「みちのくの小京都」と自称?する街の一つですが、その比較で言えば、亀岡は「京都に隣接する農業王国で、近時はレジ袋禁止条例をはじめ先進的な取り組みが全国的に注目される街である」という点で、紫波町に似た面があるかもしれません。

「華麗なる光秀」は、亀岡駅前に最近できた京都スタジアム(当時は光秀大河展と物産館が併設)で購入したものですが、集合時間までの観光タイムを終えて館内フードコートで昼食をいただいていたところ、突如、30歳手前くらいの亀岡あんちゃんから、

そのブーツ、格好いいっスね、
どこで買ったのか教えて下さいよ

と話しかけられました。

いやぁ、10年位前に川徳で買ったバーゲン品ですよ、

と当惑しながら答えましたが、山国・丹波の入口に位置する亀岡の人々は、ケンミンショーで京都人が「礼儀正しいが腹黒そう」などと称されるのとは異なった、ぶっきらぼうで人懐っこい、良い意味での田舎人気質を残しているのかもしれません。

ちなみに、保津峡下りの若い船頭さん達も、大阪とも京都とも異なる、ビミョーなお笑いトークを繰り広げていました。

物干に走る季節ぞ恨めしや

暑さよりも何よりも、夕立のせいで一時帰宅を何度も強要されるこの時期は、兼業主夫にとって一年で一番憂鬱な季節です。

着くまでが豪雨のピークだ手遅れだ
降る前に帰れと服にも詰られて

今日もまた分かってるのに間に合わず
昼下がりズブ濡れなのは服だけか

出る頃にいつも晴れるよ空のバカ
そう思い干したら今日は降り出した

どうにでもなれよと夏をあきらめて

小岩井農場にて「盛岡と雫石」「会津と郡山」の物語や異同を考える

先日、小岩井農場の園外売店に立ち寄り、添付(末尾)のかき氷風飲料?を頂戴しました。

上下段で異なる着色ですが、下層は草原の緑、上層は空の青さ、氷菓は夏の入道を描いたのかもしれません。

高原の盛夏の涼は白い雲

ところで、小岩井農場は言わずとしれた三菱財閥(岩崎家=土佐)が開発した農場ですが、三名の創始者のうち「小」の小野義眞(鉄道経営者)が土佐、「井」の井上勝(鉄道庁長官)が長州の出身であり、明治藩閥政府の影響を強く受けた企業という面があります。

雫石の「ほぼ隣」の盛岡は、戦火こそ遭わなかったものの、会津(や仙台、長岡)と並ぶ戊辰戦争の敗戦国の代表格であり、市内に武家屋敷が全く残っていないのも、白石転封=亡国が原因と言われます。

ですので、盛岡には、時勢の勝者らによる小岩井農場の開発の光景を複雑な思いで眺めていた人々もいたかもしれません。

そのように考えると、盛岡と小岩井=雫石の関係は、会津と郡山との関係に似ているように感じます。

私は平成21年に4時間だけ郡山観光をしたことがあり、その際、都市の創設・発展の礎となった安積疎水の開発を巡る物語を展示・顕彰した「開成館」に立ち寄りました。

当時、本ブログで述べたとおり、そこでは安積疎水(郡山)の核心人物として大久保利通などを大々的に顕彰しており、これが会津の隣町なのだろうかと、不思議に感じざるを得ませんでした。

言い換えれば、郡山は、安積疎水と巨大水田開発という一大事業を通じた新政府のカネと力により創出された街であり、それまで「不毛の地」と呼ばれていた点も含めて、上記の経緯で創設された小岩井農場によく似ています。

そして、盛岡と会津若松も、共に転換期の敗者となり、勝者=新政権に大開発が施された地域に隣接する近世からの都市という点で、よく似ているように思われます。

ただ、郡山が福島最大級の都市に成長したのに比べ、雫石は当時も今も小さな街のままという点だけは大きく異なります。

想像するに、安積開発が郡山のまちづくりそのものであったのに対し(その点で、釜石に似ています)、小岩井農場は雫石の街から離れた企業の独立地帯で、共に発展するような連動性は乏しかったのかもしれません。

ともあれ、「盛岡と雫石」「会津と郡山」という二つの地域の物語や異同を考えてみるのも、色々と新たな発見があるかもしれません。

少なくとも、開成館の展示担当者が熱く語っていた「開拓者魂」は、雫石の方々がぜひご覧になって良いのではと思いました。

  

 

社会に必要な小規模企業が消えゆく光景を繰り返させないために

先日の岩手日報に、紫波町の特産品である洋梨「ラ・フランス」をほぼ一手に生産する企業(紫波農園)が、人手不足や後継者難などを理由に閉園し、果樹も伐採される予定との記事が出ていました。

ラ・フランスは県内でも果物類の生産が盛んな紫波町を象徴する果物として認知されてきたと理解していますので、誰か承継できなかったのだろうかと、非常に残念に思います。

近年、小規模企業が同様の理由で廃業する例が非常に多く生じており、倒産を余儀なくされる例も少なくないようです。

反面、ここ10年ほど、裁判所に申し立てられる破産事件はごく限られた件数に止まっており、債務超過でも、銀行債務などを残したまま法的手続をせず放置する例が多数生じているのかもしれません。

昔と違って「いわゆるサラ金・商工ローンによる恫喝的な取立」をほとんど聞かなくなったことも、影響しているかもしれませんが。

後継者難については、近年、事業承継支援の動きが色々ありますが、報道や巷の光景を拝見する限り、実際に有益な対応がなされているのは膨大な需要のごく一部に止まるように見受けられます。

根本的な原因は、承継支援(マッチング支援、条件整備支援、事業維持支援など)の担い手不足もさることながら、事業承継の文化(ひらたく言えば、自分の家族以外に、企業を引き継がせる文化)そのものが根付いておらず、客観的には事業承継等の支援が必要でも、需要側(現在の経営者側)が必要性を認識・自覚したり、承継を求めて自ら動いたり第三者の支援を受けたいと考え、動き出すこと自体が、滅多になされていないことではないかと思います。

誤解を恐れずに申せば、病を患っている人が手の施しようのない状態になるまで医師の診察を受けないという話に似ているかもしれませんし、根本的には、日本人の「イエ意識」が、最大の壁になっているのかもしれません。

そのような意味では、ドラマや映画などで小規模事業の承継をテーマ・内容とする作品を取り上げるなどして第三者への承継を身近なものにすると共に承継後の「ハッピーリタイヤ」(とリスク対処)も視覚化して、「文化を変える」ような営みが、もっと盛んになればと思っています。

ともあれ、小規模従事者のための事業承継については、弁護士も本来であれば法務デューデリジェンス(法的資産査定)などの形でお役に立てる場面が多々あると思っており、制度の整備や利用の推進が、もっと盛んになればと感じています。

*****

ところで、県内で新聞販売店を営んでおられる経営者の方が、FBで上記の記事を紹介すると共に、我が業界も人手不足で大変だ、と嘆いておられるのを拝見し、若干の意見交換をさせていただきました。

人手不足一般に関しては、機械化云々や生産性=収益・賃金向上による就労希望者の獲得以外に対処法がないかもしれませんが、新聞配達の場合、毎朝3時~6時に就労することが必要で、機械化なども難しいことなどから、人員確保には、かなりのご苦労があるようです。

新聞も、10年か15年もすれば、ドローン配達もありうるのかもしれませんし、従事者の減少が、結果としてWeb利用での新聞購読(現在のPC・携帯での購読)を促進するのかもしれません。

ただ、個人的には、それとは別に、近未来には、新聞配達を全面的に不要とする仕組み・慣行が作られるかもしれないと思っています。

例えば「新聞紙のような形状・質感・軽量のデバイスにWeb上で新聞社が利用者に新聞データを電送し、利用者は都度、DLした新聞データ(チラシ広告を含む)を閲覧する方法」です。

これなら、PCや携帯で見るのと異なり紙面を広げて読むなど新聞本来の閲覧方法が可能で、デバイスが壊れない限り、延々と再使用できますし、データ保存も可能なので切り抜きを保存する必要もありません。データ整理も容易でしょう。

デバイスが主要紙の全部(海外含め)に対応すれば、1個のデバイスに各社の新聞データをDLして閲覧することもできます。

私は新聞は紙媒体派で、Webニュースは無料記事しか見ていませんが、上記のデバイスができたときは、利用しそうな気もします。

仮に、そのようなデバイスが作られ普及した(紙媒体に全面的に取って代わった)ときは、新聞販売店という企業(配達員という業態)自体が不要となる(貴社も業態転換を迫られる)ことになるのかもしれません。

まあ、妄想ないしミニSFの類と一蹴されるだけかもしれませんが。

また、配達員の確保困難を理由に販売店の業務継続が困難となった場合、郵便事業と何らかの形で融合させることは、解決策になるかと思います。

具体的には、朝刊の毎朝配達を諦め、郵便局が、郵便物の配達時間と一緒に(午前中などの配達時間に)対象地域を巡回して、郵便物と一緒に(その日は郵便物がない家にも)新聞を投函する、という方法です。

県内の販売店の方々も、中心部市街地のみ自社で対応し、山間地などは郵便局に対応して貰う(購読者も、やむを得ないものとして了解して貰う)形にすれば、現下の情勢でも、やりくりできるのかもしれません。

・・と思って「新聞配達 郵便」で検索したところ、すでに、かなり実施されているようです
今後は中心市街地以外は郵便などで新聞を配達するのが当たり前になるのかもしれません。

ともあれ、事業者の方々から、現在の事業経営上の問題点を伺ったり、法律問題に限らず、何か役立てることがないか調べたり考えたりするのも、色々と有意義が面があるように感じています。

さして地縁もない身で田舎のマチ弁をしていると、地元の事業者の方々から依頼等を受ける機会はさほど多くはありませんが、もっとお役に立つ機会があればと思いつつ、皆さんのご健闘を祈念しております。

「絶対安全の居酒屋」による飲食店(酒類提供店)の救済方法

菅政権の飲食店に関する感染防止対策については、迷走気味の印象が否めませんが、官に頼らず民の側で可能な究極の解決策?として、次のようなものを考えてみました。

【虚構新報いわて支部ニュース】

ウィズコロナ完全対応を謳う、新感覚の居酒屋が登場しました。

先月、盛岡市内にオープンした、その名も「居酒屋だまれ」です。

店先には等身大の「黙食!」の看板が掲げられ、店内にも随所にその掲示が。

ヒソヒソ話は許されますが、大声はもちろん周囲に何を話しているか聞こえる音量での会話は厳禁です。

注文も全てタッチパネルで、店内の滞在も原則1時間から最大で90分以内とされますが、お酒も料理も品揃えがよく、パネルには組み合わせの推奨コメントも表示され、会話を諦める代わりにお酒と料理を味わうことに力が注がれています。

もちろん、換気など一般的な感染予防対策もバッチリです。

どうしても会話をしたい人のために、座席には小型のホワイトボードとペンも用意されています。中には飲食しながら目の前の人に向かってLINEで美味しいと伝える人もいるそうです。

黙食を守らずに騒ぐ人は「ひそひそリーダー」のプレートを付けた店員や他のお客に、必要なことだけをヒソヒソ話すよう注意され、それでも従わなければ、強面の店長に退店を命じられます。

そんな怖い居酒屋に誰が来るんだろう・・と思いきや、なかなか繁盛しているようです。

運営会社のT社長は、狙いを次のように語ります。

「お酒自体はウイルス蔓延の原因ではないのに、お酒ばかりが悪者のように扱われる今の社会に一石を投じたかったんです。

お酒が悪者にされたのは、本人が自覚したくても自覚できない発症直前や無症状の人が会食で延々と話をした場合に、飛沫で他の人を感染させる例が多くみられたからですよね。

なので、感染原因としての「会話」を徹底的に断ち切り、その代わり美味しいお酒と食事はとことん楽しんでいただきたい。これが、当店のコンセプトです。

「だまれ」なんて怖い店名ですが、支那そばやで一世を風靡した、故・佐野実氏をイメージしたんです。あのラーメンも、純粋に味を楽しむことを追求したものですよね。

開店当初は色々と不安がありましたが、意外なことにカップルの利用も多いんですよ。いわく、会話が許されない非日常な空間を二人だけで共有したり、自分達だけの「美味しい」のサインを作り出すことで、かえって密な関係が深まるのだとか。

基本的にはコロナ禍の終焉までの期間限定のお店ですが、できれば全席にキーボードとモニターを取り付け、その場で仲間同士が閲覧できる会話を入力しながら飲食する方法も推奨してみたいです。

ともあれ、歓談の場を提供できず申し訳ありませんが、その分、お酒と食事の質には自信があります。当店なら、お酒を伴わない飲食店以上に、クラスターや感染拡大の心配はありません。ぜひご来店ください。」

来月は東京に2号店を出店し「これだけ完璧な感染予防対策を強いたのだから、お酒の提供を禁じたり時短を強いる正当理由は全くない。完全に通常営業でやります。行政がどんな嫌がらせをしても、絶対に裁判で勝ってみせますよ」と息巻くT社長。

お店では、黙食の励行のため、来客が騒いで退店を命じられるケースを撮影した映像も用意しており、タッチパネル画面で閲覧できます。

T社長の知人で、クレーマーと帰還兵を演じれば盛岡随一というY地さん、サングラスをかければ西部警察の大門警部を彷彿とさせるY田さん、盛岡某RCの鈴木京香と松嶋菜々子と称されるKさんとNさんが、大騒ぎして追い出される来客グループ役を買って出て、地元TVの出演経験が豊富なT社長も、退店を命じる店長役を熱演しています。この映像を楽しみに来店するお客さんも多いのだとか。

最後に、コロナ禍以前から宴会でも黙食を実践する黙食専門家ことオボナイさんに、一言伺いました。

「ようやく時代が私に追いついてきましたね。私なんて家族との会食もすべて黙食で本ばかり読んでますよ。え?家族に見放されているだけだって?余計なお世話です。」

******

と、戯言はさておき、飲食店や酒販業界、消費者の方々も、「国の施策は間違っている、酒を悪者にするな、自分たちをいじめるな」などと批判なさるだけでなく、可能であれば、このような「酒を悪者にせず、現下の状況でも安全に酒食を楽しむことができる方策」を考えて、様々な方法で実践していただければ良いのではと思っています。

※この記事は、末尾の一部を除いて全てフィクションであり、登場する方々も実在の人物ではありませんので、モデルの方々と勘違いなさらぬよう、ご留意下さい。自分のことかも・・とお感じになった皆様も、ご容赦のほどお願いします。

愚痴を述べれば怪我来たる

写真のとおり、昨日、ちょっとした災難に遭いました。両足の写真を比べていただくと、左足が腫れているのが分かるかもしれません。気晴らし?に歌詞みたいなものを作ったので、チープな感じもしますが、どなたか曲を付けて歌っていただければ幸いです。

*****

笑う門には福来たる
愚痴が多けりゃ祟られる

仕事に追われる日々なのに
残高みるみる減った上

職場の階段踏み外し
歩けぬほどに腫れるのは

至らぬ事件で泣く人の
痛みも背負えということか

それなら独りじゃないのだと
無理でも笑え、また歩け

*******

幸い、今回は骨折していませんが、診察では

「通常よりも腫れが酷い。足首付近に陳旧性(昔々)の骨折(の完治しなかったもの)があり、それが影響したのかもしれない」

と言われました。

私は、幼稚園時代におっちゃんのバイクに轢かれる交通事故で左足を骨折しており、他に思い当たる点はないので、その件のせいかもしれません。

余談ながら、私個人は一円も賠償金を貰っておらず、両親が自賠責を含めて何も請求してないのか懐に消えたのかは不明です。今なら、後遺障害等級認定申請して後遺症保険金を貰ってくれよと苦情を言いたいですが。

ともあれ、その古傷のせい?で、長距離登山では左足が疲れやすく、下山時に左膝が曲げられなくなるなどの後遺症がありますが、皆さんも、お子さんなどが骨折などの大怪我をすることのないよう、ご配慮をお願いします。

*****

余談ながら、先ほど「岩手県内の公設診療所の所長が平成26年に自殺した件で公務外災害認定処分され、遺族が取消訴訟を提訴し、認容=勝訴した事件」(盛岡地裁R02.6.5判決判時2482-74)について、原告代理人の方が記載したレポートを先ほど拝見しました。

いわく、死亡された方(被災職員)は、長期の孤独な激務の影響で、愚痴を言う、苛立つ、怒鳴るなど、それまで全くみられなかった行動が現れ、次いで、周囲に苦しみや辛さを再三訴えるようになり、ほどなく鬱病を発症し、その半年後に自殺してしまったのだそうです。

そうした記述を見ると、何かと身につまされる面もないわけではありませんが、その方が数年以上担い続けてきた職務の内容や日常生活の詳細を拝見すると、今の私の日々など、取るに足らぬレベルだなぁと反省・恐縮するほかなく、この程度で愚痴を言えるだけ幸せなほうだと思った方が、賢明な感じがします。

ともあれ、今のたった一つ?の楽しみは、5~10年に1件位の某大口案件(穏当な内容で無事解決)で、相手方の対応の遅れのせいで延々遅れている報酬清算(による今月の大赤字の一挙解消)が早く実現しないかなぁ(清算ができた瞬間、腫れも消えてなくなるんだろうなぁ)・・といったところで、浅ましい運転資金の亡者の日々から解脱できるのは、いつになるんだろうという有様です。

あと、テーピングの写真は、本日、通院先で先生に巻いていただいたものですが、もはや巻き方分かりません(泣)。

 

 

聴覚障碍者の端くれとして

NHKで、聴力は正常でも雑音の多い場所では必要な音や話を選び取れず、理解できなくなってしまう「APD(聴覚情報処理障害)」という症状に関する記事が出ているのを拝見しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210708/k10013125531000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002

私は左耳の聴力が全くないため(右は健常です)、会議・会合などでは左方向からの発言などを聞き取ることが容易ではありません。

とりわけ宴会など騒がしい場では、左側の人々の話の輪を聞き取ることがほぼできないため、なるべく左端に座るか、それが無理なら、諦めて飲食に専念することにしています。

私が宴会(人の集まる場)が苦手で雑談力の低い孤立主義者であることは皆さんご承知でしょうが、或いは、そうした経験の積み重ねも大きく影響したのかもしれません。

引用の記事で紹介された症状(病名)は初めて知りましたが、広義の「聴覚障碍者」には、全面的な失聴者(いわゆる聾者)だけでなく、私のような片耳だけの失聴者のほか、記事のような症例の方もおり、決して「自分とは接点のない遠い世界にいる(から、そのような存在など眼中になくてよい)人」ではない、ということは、もっと知られてよいことだと思います。

そんなわけで、聴覚障碍者の方々に、本業を活かした何らかの支援云々ができればと昔から思っていますが、20年経った今でも、その種の機会に全く恵まれません。

昔々、何の接点もなかった日弁連廃棄物部会の門を叩いたときのように、自分で探して無理矢理に飛び込んでいくべきなのでしょうが、事務所の維持に一杯一杯の日々で、ぼちぼちエネルギーの低下も感じる年頃になってきており、このまま機会を得ることなく終わってしまいそうな気もします。

三島由紀夫が問う虚無と抗いの海、そして真っ赤な僕~南伊豆編おまけ~

前回までの南伊豆編のおまけ(後日譚?)です。

1泊2日の旅行は無事に終わりましたが、前回述べたとおり、これまで全く考えたこともなかった三島由紀夫という存在が、偶然手にした本の影響で気になるようになり、帰宅後もあれこれ調べるなどしていました。

ただ、当然ながら、調べれば調べるほど、どうして彼があのような最期を選んだのか、もったいないというか訳が分からないというか、

自我に何らかの脆弱さを抱えた御仁が、自分自身の存在(肉体改造云々)を含む創作活動による一定の達成感のあとに強い虚無感に襲われ、それに抗うように命を絶った、他方で、優れた知性の持主として、どうせ命を絶つなら後世への問題提起をかねて、強い非難を浴びるのを覚悟の上で、人々が関心を持たずにはいられないような、大きな見せ場、舞台を作った

などと、一応の説明はつきそうな気がするものの、そのことに得心する気にもなれず、とりあえず深夜の「息抜き(仕事の気力切れ)時間」にネット上で気になった記事を読み漁るような日々が続きました。

相変わらず、文体の流麗さで知られた三島作品を読みたいという気はさほどに起きず(今も読んでません)、現象としての三島由紀夫の人生という面にのみ、固執していたように思います。

その理由は、自分の中では、はっきりと分かっています。

今の私には自殺願望は恐らく全くありませんが、何か本質的な部分で「もう、終わりたい(自分という存在は、もう終わってもよいのではないか、或いは、もう終わったのではないか)」という囚われのようなものがあり、早熟な華々しい成功のあと、突如、強烈かつ不可解な印象を残して45歳で人生に幕を閉じた三島の姿に、ある種の憧憬を感じたからなのだと思います。

私は大卒2年目で奇跡的?に司法試験に合格し、数年ほど東京で修行した後「自分で敷いたレール」のとおり盛岡で開業し、色々と悪戦苦闘はありましたが、十数年に亘り、どうにか事務所を維持存続させてきました。別に、有名人になったわけでもなく、人に自慢するような業績をあげたわけでもないでしょうが、本業で粛々と積み上げてきたことについては、誇りがないわけではありません。

田舎の小さな商家の次男として生まれ、運動能力には極端に恵まれず、その一方で、小さな田舎町には収まりきれない自我を抱えた自分は、幼少期から、家でも学校でも地域でも、「要らない子、皆にとって、持て余す(いない方が楽でいい)子」でしたし、そのことは、今もほとんど全く変わっていません。

だからこそ、思うのです。

先ほど、三島事件の「とりあえずの総括」として述べた、

「自我に何らかの脆弱さを抱えた御仁が、自分自身の存在を含めた知的活動による一定の達成感のあと、強い虚無感に襲われる姿」

とは、何のことはない、私自身のことではないかと。

であれば、自分も同じような結末、末路を心の中で望んでいるのか、それができないのは、単に、私が彼ほどの知的能力や人望などを欠いているだけのことに過ぎないのか、それとも、そうではないのか。

前回「自分が45歳になって、また、私的領域では相応の達成感を得た反面、これ以上、本質的な部分で、自分の人生では実現できる何事もないのではと感じるようになった中で、このような形で三島由紀夫と出会ったのは、何らかの意味があるのではないか」と感じたのは、こうしたことが、その背景にあるように思います。

そんな中、社会学者として著名な大澤真幸氏が三島由紀夫を論じた本を出版されたと知り、1年半前(旅行の半年後)の年末年始にようやく読みました。
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0955-f/

この本(「三島由紀夫 ふたつの謎)」は、「戦後日本の最大の知性の一人である三島由紀夫は、一見すると愚行の極みにも見える割腹自殺をなぜ行ったのか」と「最期の大作であり、自決と同じ日に書き終えたと表示されている『豊穣の海』は、なぜあのような破壊的・破滅的な終わり方をしているのか」という2つの疑問への答えを述べることを主眼に、多数の三島作品を様々な哲学的見地から著者なりの論理を駆使して読み解いた内容となっています。

大澤氏の著作や文章は、司法試験受験生時代にも少しだけ読んだ記憶がありますが、思想・哲学に関して「これでもか」と言わんばかりの圧倒的なネタが登場し、少し癖のある文体も相まって、門外漢には敷居の高さを感じる面がありますが、ともあれ、今の自分が知りたいことへの相応の答えが書いてある本なのではと思い、むさぼるように読みました。

筆者が提示した問いへの答えについては実際に本書を読んでいただくとして、私なりに受けた印象としては、当初から、強い虚無感と厄介な自我を抱えて生きてきた三島由紀夫は、自我の奥に潜む光景を洗練された文章で描くことで虚無に抗っていたものの、やがて、執筆ではなく自身の行動の形で「自分が望む洗練された美しいものを描き出すことで、虚無に抗う」ことを求めるようになり、模索(迷走?)の末に一連の活動に行き着いた、しかし、最期には、それらの清算と「海」として観念された虚無への回帰(波打ち際から海へと引きずられ連れて行かれること)を願い、それを二つの形で実行した、というのが、著者が描いた三島の姿のように見受けられました。

もっとも、著者は「自決は虚無への抗いである」と述べていますので、そのような読み方は間違っているのかもしれません。私自身は、抗うのならば生き続けなければならないのと思うので、その総括に違和感を感じているのかもしれませんが。

その上で、著者は、海(それは、宮沢賢治の言葉を借りれば「世界全体」というべきものかもしれません)を不毛の海、虚無の海とみるのであれば、それに抗うために「火や血」という手段(それは、自我の発露ないし表現と見るべきかもしれません)により自決を伴う政治的主張をすることには、その行為(破壊)による幻想の出現という効果に照らし、相応の理由があると感じることはできるとしつつ、それは三島が本当に望んでいたことではない、彼は、枯渇することのない本当の『豊穣の海』を望んでいたはずであるし、その豊穣の海、それは、決して居心地のいい場所ではなく、掴み所のない、訳の分からない世界(本書の表現を借りれば、「一があるわけでも、ないわけでもない」世界)かもしれないが、それゆえに無限の可能性がある世界なのであり、我々はそれをこそ追い求めるべきではないのか、という(そのように読み取れる)趣旨のことを述べて本書を締めくくっています。

その総括を受けて、今、私が何を考えるべきか、何を書き、行動すべきか、まだ答えは出ません。結局はいつもどおりの「終わらない日常」に回帰していくだけかもしれません。

それでも、まだ人生を終えたいと思っているわけではない自分のこれからを考える上で、このタイミングで、このような思索の機会を与えられたことは、大いに意味があったのだと思います。

なお、本書では晩年の三島が天皇制や自衛隊(と憲法改正)に固執した件についてはほとんど触れていませんが、現在の天皇家が、国民の強い支持を得る一方で「男系男子による承継」という点では厳しい状況を迎えている(女系天皇も旧宮家も現時点で国民の支持が得られるのか不透明で、そのような意味では日本は国体維持の危機を迎えたと言って過言ではない)光景は、三島の戦後天皇制批判と微妙な連関があるように感じ、そのような観点から「三島による天皇論」を再検討する論考などに接することができればと思ったりもしました。

余談ながら、三島由紀夫の作品群のあらすじなどをWeb上で読んでいたところ、代表作(人気作品)の一つである「潮騒」の内容が、その雰囲気も含めて、前年に読んだ司馬遼太郎の「菜の花の沖」の冒頭部分(高田屋嘉兵衛と妻おふさとのなれそめの下り)とそっくりだと感じました。

菜の花の沖は1979年から執筆された作品ですので、ひょっとしたら司馬氏は潮騒から強い影響を受けて、二人の馴れ初めを書いたのかもしれません。

ともあれ、大澤氏が分析する「厄介で難解な三島由紀夫」も噛み応えがありますが、前回ご紹介した横山郁代氏が描いた「颯爽とした暖かい三島由紀夫」、言い換えれば、潮騒(≒菜の花の沖の第1巻?)のような瑞々しい青春小説を描くことができる三島由紀夫もまた、我々には、かけがえのない価値があるように思います。

そうした意味で、この二つの著作をワンセットで読むことも、大いに意義があるのではと思いました。

最後に、南伊豆から帰宅した直後に日焼けに苦しみながら作った替え歌を載せ、一連の投稿を締めくくることとします。

【真っ赤な僕】

真っ赤だな 真っ赤だな
日焼けのし過ぎで 真っ赤だな
全身痛いよ バッカだな
伊豆の日射しを 侮って
真っ赤に成り果てた 白い肌
バッカな僕を 自嘲している

真っ赤だな 真っ赤だな
クリーム塗らずに 真っ赤だな
風呂にも入れず バッカだな
焼け付く砂に 寝そべって
真っ赤な上半身 赤鬼さん
痛みは業の 深さぞと知る

真っ赤だな 真っ赤だな
きれいごとって 真っ赤だな
戦後の平和も 真っ赤だな
三島由紀夫が そう言って
真っ赤になり問うた この世界
真っ赤な嘘は まだそこにある

三島由紀夫が呼ぶ夏~南伊豆編その2~

南伊豆旅行編(2年前の夏)の2回目です。

前回あえて省きましたが、1日目の昼は、下田市内のどこで食べるか全く決めておらず、すでに1時半くらいになっていたこともあって、「コインパークに駐めて適当に決めれば良い」との家族の提案に従い、何も考えずに空いていた市街地の駐車場からペリーロードに向かって適当に歩き出しました。

すると、目の前の建物の2階にイタリア料理風のお店があり、「下田湾のペスカトーレ」などと地元料理風のメニューが書かれていたので、そそくさと、そのお店に入って注文し、まずまず美味しくいただきました。

私は食べるスピードが人より早いので、一人食べ終わったあと、家族が食べ終わるまでにお店の内装などを見回していたところ、カウンター近くに半裸の水着姿でショートヘアーで筋骨隆々とした姿を「これでもか」と見せようとする男性の写真が大きく写った書籍が展示されているのに気づきました。

この業界に身を置いていると、「半裸でショートヘアーで筋骨隆々の姿を自らアピールする男性」といえば、かの有名な岡口基一裁判官しか思い当たりませんので、

なぜ岡口さんがこんなところに?っていうか、写真集なんて出していたのか?

と驚いて手にとったところ、その男性は岡口裁判官ではなく、三島由紀夫でした。

私は、小説を読む習慣がほとんどなく、学生時代は少しは(罪と罰とか人間失格などの超著名本を少々)読みましたが、その程度で関心(執着)が終わってしまい、それ以外は、小説といえば、せいぜい司馬遼太郎(と新田次郎の孤高の人、井上靖の氷壁=登山系)くらいで、あとは全て新書本(論説文)しか読む習慣がなく、現在に至っています。

三島作品も業界人らしく?「宴のあと」は昔々読んだことがあり、率直に面白かったとの記憶はありますが、それ以外は読んでいません。本棚には、浪人時代に古本屋(多摩地区といえば伊藤書店)で購入した「仮面の告白」と「金閣寺」が今もありますが、他の多くの本と同様に眠ったままです。

もちろん、あまりにも有名な「三島事件」は知識としては知っていますし、日本文学史はもちろん思想史上も巨大な存在なのだろうという程度の認識はありましたが、私の出生前の出来事であり、その不可解さ(分かりにくさ)などもあって、敢えて関心を持たないようにしていたように思います。

ともあれ、そのように三島由紀夫について、さほどの事前知識も関心も持つことがなかった私ですが、下田まで来て三島由紀夫か、と不思議なものを感じて、その本を黙々と読んでいました。

その本(三島由紀夫の来た夏)は、三島由紀夫が晩年期の数年間、夏になると必ず家族と共に下田のホテルに長期滞留し伊豆の太陽と穏やかな暮らしを満喫して東京に戻っていく、という姿を描いたもので、三島がその味に感激してマドレーヌを買いにたびたび訪れていた洋菓子店の娘であり、当時は中学~高校生であった著者が、ささやかな三島との思い出を交えつつ、自身が「あの夏」と「自身では到底咀嚼できない三島の最期」を噛みしめながら、後年に米国に渡るなどして様々な事柄を経験し、それらを糧とし逞しく生きていく姿を描いて締めくくるものとなっています。

三島由紀夫の話もさることながら、著者の「おんな一代記」としても十分に読み応えのある本でした。
https://www.fusosha.co.jp/Books/detail/9784594063061

そして、私が取り憑かれたように?黙々と頁をめくっていると、お店の主人と思われる熟年女性が話しかけてきて、「それ、私が書いたものなんですよ」と仰ったので、非常に驚きました。

このお店(ポルトカーロというイタリア料理店)の1階には洋菓子店があり、著作で登場する「三島由紀夫が激賞したマドレーヌのお店(日新堂菓子店)」がそのお店で、著者である「女学生」は、今も、この建物で菓子店とレストランを営んでいる方だったのです。
http://www.at-s.com/gourmet/article/yoshoku/italian/126644.html
http://nisshindoshop.weebly.com/

そんなわけで、何か引き寄せられるようなものを強く感じ、ぜひということで、この本とマドレーヌを購入しましたが(お店でも人数分をいただきました)、このマドレーヌ、お世辞抜きで本当に非常に美味しいです。

そして、このご縁に惹かれるようにして宿で本を読み進めていくと、不思議なことに気づきました。今(旅行時)の私はちょうど三島由紀夫が旅立った年と同い年なのです。

冒頭に書いたとおり、今回、下田に来たのは、黒船絡みの観光と南伊豆の海を見るのが目的で、三島由紀夫という知識も想定も全くありませんでした。

それが、この年に、こうした形で巡り会うこと自体、何らかの「呼ばれた感」を抱かずにはいられないものがありました。そのせいか、この本を読むことに決めた瞬間、自分はこれまで、三島由紀夫という存在自体に、どことなく避けてきた面があるのでは、今こそその存在を見直すべきではと感じるようにもなりました。

そんなわけで、帰宅後も(肝心?の三島自身の著作が後回しになるのは相変わらずですが)wikiなどで三島関係の記事を読みまくり、自分なりに、この「事件(邂逅)」を咀嚼したいと思いました。

その続きは次回に少し書きますが、ともあれ、この出来事が、今回の南伊豆旅行の最大の収穫となりました。

余談ながら、改めて三島由紀夫と岡口裁判官(そして、三島事件と岡口裁判官事件)を比べると、このお二人(二つの事件)には、共通点が多いような気もします。この点は、可能であれば別の機会に。

 

******

というわけで、残りは、当時FBで書いたものを反復するだけの投稿になりますが、2日目は宿の近くの砂浜で読んだばかりの三島由紀夫の裸身を真似て、いい気になって浜辺で寝転んで過ごしました。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて 
見上げる雲と空の深さよ

太陽が眩しいからと 
市ヶ谷で自決したのか あの才人は

打ち寄せる波に向かいて倒されて 
なすすべもなく身の丈を知る

 

その後、車で南下し石廊崎に向かいました。石廊崎は、大学時代に購入した伊豆のガイドブックで見つけて以来、いつか必ず行きたいと思っていた場所で、ようやく来ることができたと、その点は大満足でした。

石廊崎では最初に岬巡りの観光船に乗船した後(高波を理由に西側のメインコースが欠航とのことで、東側のサブコースとなりました)、ビジターセンターに移動しました。
http://izu-kamori.jp/izu-cruise/route/irouzaki.html

西側のコースは蓑掛岩という名勝(奇岩)を往復するものでしたが、海上に鋭い岩が屹立する蓑掛岩の姿は、浄土ヶ浜(剣山周辺)によく似ているように思いました。

また、石廊崎ビジターセンターの雰囲気も、浄土ヶ浜に最近できたビジターセンターに似ています。ただ、こちらの方が名物を提供する良好な飲食施設等も設置されているので、浄土ヶ浜よりも有り難みがあるように思いました(伊豆ゆえの集客力の違い、という点に尽きるかもしれませんが・・)。

また、石廊崎の石室神社を沖から眺めると、司馬遼太郎の「菜の花の沖」で、外洋に漕ぎ出したばかりの高田屋嘉兵衛が岬の神様を洋上から遙拝する光景が思い起こされます。

石廊崎の先端では、どのようなご事情かは存じませんが、白い衣装を纏った女性が一心不乱に祈りを捧げている姿を拝見しました。

ともあれ、いつかは来たいと思った大学時代から約25年、我ながら、よくぞここまで、このような人生を歩むことができたものだとしみじみ感じて一句。

幾年月たたかう人に慰労崎

 

そして、夕方に最終目的地・西伊豆きっての名勝(奇勝)・千貫門に到着し、無事に全行程を終えました。

旅をして千貫文また消えゆけど 
家族と過ごす日々はプライスレス

おまけ。

弓ヶ浜の焼けつく砂に寝転びて
いたいよ いたいよ 全身いたいよ~