北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

憲法関係

人が関わる生き物の尊厳ともう一つの憲法改正論

震災に伴う原発事故の際は、多くの動物が現地に置き去りにされ飢餓など残酷な態様で命を奪われたという報道が当時からありましたが、さきほども、そうした事情で飼っていた牛達を悲惨な目に遭わせてしまい辛い思いをしたという方のニュースが出ていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170313-00000023-mai-soci

申すまでもなく非難されるべきは原発事故を防ぐことができなかった人(ひいては原発の電力に依存する大都市をはじめとする現代社会そのもの)ですので、自分だけが過酷な現場を一方的に押しつけられたというべきこの酪農家の方を非難するつもりは微塵もありません。

ただ、人間には生きるため必要やむを得ない殺生を超えて他の生物を苦しめる権利などはないのですから、同じような避難云々の事態が生じたときのため、こうした事態を防ぐための措置を今のうちから講じておくべきだと思います。

例えば、搬送や安楽死など社会通念上の適切な措置を講じることができない場合は、ライオンなどはともかく、家畜などを解き放っても違法でない(生命尊重の見地から推奨ないし義務づける)ことを明示する規定を作ってよいのではと思いますが、どうなんでしょう。

動物愛護法にそのような定めがあるのか条文をチラ見した限りでは分かりませんでしたが、そのような考え方は同法2条が定める動物愛護の基本原則が要請するところでしょうし、とりわけ、野生動物ならまだしも「家畜」と呼ばれる生き物は人間が自分達の都合のため動物の様々な自由を奪い便益を享受しているのですから、「人と共に生きる存在」としての尊厳を最後まで守るべき責任があることは明らかだと思います。

この種の記事を見ていると、数年前に大阪で起きた「親が育児放棄して室内に放置され凄惨な飢餓の末に死亡した気の毒な子供達の事件」を引き合いに出すまでもなく、いずれ多くの人間が同じ目に遭うのではと感じざるを得ません。

日本国憲法は人間の個人としての尊厳を最高原理としていますが(13条)、万物に神が宿るとの思想を持ち、自然に畏怖と感謝を持って生きてきたのが日本人のメンタリティだと思いますので、人間だけでなく万物の尊厳を守るという理念のもとで社会のあるべき姿を問い直し、再構築していただきたいと願っています。

政治家・公務員の責任追及制度に見る「国と自治体の格差」と是正への道

住民訴訟で自治体の首長に巨額賠償が課された場合(例えば、豊洲市場問題で都民が石原知事に対し「都の損失を補填せよ」と訴えて勝訴した場合をイメージして下さい)において、近年、地方議会が「首長の過失の程度は重くないのに、巨額の損失を肩代わりさせられるのは気の毒だ」として免責(自治体の首長に対する賠償請求権の放棄)の議決をすることが増えているとされ、平成24年には一定の場合に放棄を容認した最高裁判決なども出されています。

そうした事情を踏まえ、政府が地方議会による免責の議決に一定の歯止めをかける制度を設けるとの報道が出ていますが、政府=国が住民訴訟を強化する制度を推進する光景自体は私も特に異論ありませんし、至極まっとうなもののように見える一方、妙な滑稽感を抱く面があります。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20170309-OYT1T50058.html?from=ytop_top

というのは、民が官に対し公金の使途の是正を求める制度について勉強している方ならご存知だと思いますが、自治体による公金濫用(公用財産の毀損)に対しては住民が首長など関係者の賠償責任を問う制度(住民訴訟)はあるものの、国による公金濫用等に対しては、そのような制度(国民訴訟)は我国には設けられていません(外国はどうなんでしょうね)。

いわば、石原知事や当時の東京都の担当者などは豊洲問題で訴えられるリスクを負っているのに対し、例えば、森友学園事件で「埋設廃棄物の撤去費用8億円の見積が虚偽と判明し、公有財産を不当に廉価に売却したものであることが確定した上、そのことについて安倍首相や麻生財務相、担当のお役人さんなどに任務懈怠責任が認められる場合」でも、国民が賠償責任の追及を求めて提訴することはできません。

ですので、このような報道には「安全な場所に身を置く者(国関係者)が、自分がリスクを取らない状態を続けつつ、危険な場所に身を置く者(自治体関係者)にばかり、「ちゃんとやれ」と言い続けている」ようなアンフェアな印象を感じる面があるのです。

もちろん、そうした制度に消極的な見解の方からは、濫訴防止など法技術的な様々なご主張をなさるのではと思いますが、根本的には、この国の地方と中央(国家)の関係がどのようなものとして統治機構が構築されているのかという問題に行き着くのではと思わないこともありません。

ちなみに、日弁連は10年以上前から、そうした公金是正訴訟制度の導入を求めていますが、およそ世間の話題になった記憶もありません。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2005_41.pdf

いっそ、石原知事であれ他の知事さんや市町村長さんなどが「俺たちばっかリスクを負うのは嫌だ」と世間に向かって導入の声を上げていただくとか、日弁連も、本気で導入したい気持ちがあるなら、そうした「敵の敵」と連帯する努力をするとか、考えてもよいのでは?などと野次馬的に思ったりもします。

それこそ、野党系知事の雄?というべき達増知事は、前任者と異なり全国では全く知名度がないのではと残念に思いますが、「レガシー」として?そうした運動も考えていただきたいものです。

ともあれ、お人好しの身としては、国のお偉いさんの方々も住民訴訟制度を強化、拡充することを通じて最終的に国民訴訟の導入への機運の醸成(国任せではなく国民自身の力で導入を成し遂げる努力をすること)をはじめとする内実ある国民主権の実現に繋げたいという遠大なお気持ちがあるのだと善解したいものです。

日本国憲法の根本原理を語るメルケル首相と、安倍首相との好対照

トランプ氏が米国大統領選挙に当選したことに伴って、警戒から歓迎まで様々な観測や他国関係者の言動などに関する記事が入り乱れていますが、ドイツのメルケル首相の同氏への祝辞を取り上げた下記のネット記事には、憲法学を学んだものとして、強く印象を受けました。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/219486/111100022/?P=1

メルケル首相の祝辞は、選挙期間中に外国人やマイノリティへの辛辣ないし敵対的な言動が多く見られたことを踏まえて、トランプ氏に個人の尊厳を守るように強く迫ったものとなっており、記事では、そうした発想ないし表明もないまま手放しで迎合している感のある安倍首相と好対照(というか、日本の対応は残念なものである)と述べられていますが、恐らく日本の法律家の多くが、同じような感慨を抱いたはずです。

大学で憲法を勉強した人にとっては、日本国憲法の最高原理(根本目的)が個人の尊厳(13条)であることは自明・常識ですが、私の頃の小学校の授業では「国民主権、平和主義、基本的人権」は出てきたものの、個人の尊厳は聞いた記憶がなく、他に、教育・報道・政府広報等の類を問わず、そうしたことをきちんと国民に伝えているようなものを見た記憶がありません。

ですので、上記の「常識」感覚が一般の方には浸透しているだろうかと不安に感じたりもする、というのが正直なところです(条文の位置や体裁にインパクトを欠く点にも原因がありそうに思いますが)。

ブログ等で人様の悪口を書くのは好みませんので(本業で十分です)、安倍首相の祝辞にあれこれ申すつもりはありませんが、個人(人間)の尊厳が冒頭に来ているというドイツ基本法や国のリーダーがご自分の言葉で尊厳のあり方を語っている光景をいささか羨ましく感じます。

と共に、翻って、ドイツ基本法では個人の尊厳が第1条に設けられているのに対し、日本国憲法の第1条は象徴天皇制を掲げており、天皇制云々の当否はともかく、こうした日本国憲法の仕組みや諸外国との対比などという観点も含めて、改めて色々と考えさせられる面があります。

象徴天皇制(及びそれを担う人的実在としての昭和・平成の両天皇)の有り難みを享受してきた戦後日本は、「王殺し(革命)の国」の淋しさを感じずに済む反面、公というもののあり方について、ある種の他力本願的な体質を持たざるを得ない(それが国民にとっての「分相応」になってしまう)という弊害を生じさせているのでしょうか。

或いは、安倍首相とメルケル首相の祝辞の違いについて、単純に前者を批判するばかりでなく、そうした観点も交えて考えてみるのも意義があるのかもしれません。

特攻隊員からの自由主義のバトン

平成25年の夏休みに、松本・安曇野方面に旅行したことがあります(今回の投稿は基本的にその際の旧ブログ投稿の再掲です)。

その際は、大所帯の旅行となったため50分待ちの松本城内入りを断念せざるを得ないなどやむを得ざる制約がありましたが、それでも色々と新しい発見があり、訪ねた甲斐がありました。書きたいことは沢山ありますが、さしあたり1点だけ。

松本城内に入れなかった悔し紛れ?で城に隣接する市立博物館に入ったところ、たまたま特攻隊をテーマとする特別展をやっていました。

恥ずかしながら「きけわだつみのこえ」を読んだこともなく(どこかで見ているのかもしれませんが)、特攻隊の具体的な知識はほとんどない不勉強の身でしたので、初めて知ることが多く、色々と考えさせられました。

館内では、安曇野出身の上原良司という学徒動員された慶応の学生さんが大きく取り上げられており、その方の手記(展示されていた文章)が心に強く残りましたが、帰宅後に調べたところ、「きけわだつみのこえ」の冒頭に収録されていて、特攻隊の悲話を象徴する人物の一人として位置づけられているようです。

ここでは書きませんが、彼の手記(とりわけ、下記の石碑でも引用されている象徴的な一節)は今も微塵も色褪せることなく、国民一人一人に渡されたバトンとして、受け止めていかなければならないと思います。

帰宅後に知りましたが、安曇野地区の随一の観光スポット「大王わさび農場」の近くにある公園に彼を偲ぶ石碑があるそうで、旅行中に知ることが出来れば、こちらにも立ち寄りたかったと思いました。
http://www.ikedamachi.net/pages/1_meiyo.html

ところで、毎年8月15日は終戦記念日である以上に、靖国参拝を巡る報道が過熱する日という印象が強くなってしまっているように感じますが、彼を取り上げたあるサイトによれば、上原良司は自分は愛する者のために死ぬので天国に行くから靖国には行かないよ、と語ったのだそうです(知らない方のサイトかと思いきや、平成24年に岩手弁護士会の憲法委員会の企画で講演をされた、いわゆる護憲派の憲法学者の方のサイトでした)。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2009/0810.html

私自身は、身内(直系の尊属)に出征者がいないせいか靖国にはニュートラルなスタンスのつもりですが、靖国を大切にしている方々も、こうした方の存在や思いは知っておいてよいと思いますし、逆の立場を鮮明にされている方々も、当時の若者達が、戦争や当時の社会の誤りを十分に理解しつつ敢えて体制の中で自らが新しい社会を作るための犠牲になることを潔く引き受ける道を選んだことの重みを、考えていただきたいところだと思っています。

DSC02921  DSC02927

知られざる増田県政の金字塔と都知事選の本当の争点

巷の話題を席巻している東京都知事選ですが、私たち岩手県民は、都民や他府県民の方とは違った感慨や視点で眺める面があります。

増田県政については、県の借金を二倍にしたなどと批判する報道はよく目にしますが、知事の功績として大きく評価されるべきものがあることは、ほとんど知られていません。

それは、「岩手と青森の県境で生じた巨大不法投棄事件(以下、県境不法投棄事件と言います)で、率先して全量撤去と関係者への責任追及の姿勢を示し、特例法の制定に繋げて曲がりなりにも県民の費用負担を大きく減らす形で地域の環境を回復させたこと」です。

県境不法投棄事件とは、青森県田子町の山中(岩手県二戸市との県境)に産業廃棄物の施設を設置していた業者が、県境の谷間や山林に膨大な量の廃棄物を不法投棄した事件です。

この事件では、主犯格たる青森の業者と首都圏を中心に全国各地から産廃を集めて現地に送り込んだ埼玉の業者が摘発されたものの、発覚時点でほぼ倒産状態にあり、両県併せて最終的に1000億円近くに及ぶ原状回復費用を負担するのは不可能でした。

そのため、巨額負担が当初から予測された青森県は、廃棄物を撤去するか否か明言せず、遮水壁を作って放置(封じ込め)をするのではないかとの疑念が強く寄せられ、地元住民・田子町との間で大きな軋轢が生じていました。

これに対し、岩手県側では、増田知事が非常に早い段階で「有害性が強い物が多数含まれており、必ず全量撤去する」との強い姿勢を表明し、それと共に岩手県独自で処理業者の財産に仮差押を行い2億円以上の確保に成功する快挙を成し遂げています。

県境事件の岩手側は人里から遠く離れていた上、撤去費用に関し国の補助などが得られるのかも不透明でしたが、「首都圏など全国のゴミが違法に持ち込まれて捨てられた」という事件の性質が、岩手が背負う中央政権に虐げられた蝦夷などの歴史と重なり、知事の判断は、県民の強い支持を受けることになりました。

そして、青森県もこの動きに影響を受け、重い腰を上げるような形で全量撤去を表明し、国が費用の約6割を補助する産廃特措法が制定され、約10年かけて両県の撤去作業が行われました。

この法律は、悪質な大規模不法投棄が判明した県境不法投棄事件と香川県豊島の不法投棄事件の2つを主に救済するため制定されたのですが、仮に、増田知事や青森県知事が現地封じ込めの選択肢をとった場合、地元住民は、豊島住民が中坊公平弁護士らの支援のもと香川県を相手に公害調停などを行った事件のように、長く苦しい闘いを強いられる展開になったことは間違いありません。

そのような苦難を地域住民に強いることなく率先して全量撤去を打ち出し、撤去費用に国の多額の補助を確保したことは、増田県政の金字塔と呼んで遜色ないと思います。

実際、両県は、原状回復作業に並行して、産廃業者に委託した全国の事業者の幾つかに、廃棄物処理法上の違反があったとして自社が排出した廃棄物の撤去費用を支払わせるなど、首都圏の排出者側との闘いを地道に続けました。

ただ、増田知事にとって一つ心残りがありました。それは、主犯格たる埼玉の処理業者を指導すべき立場にあった埼玉県の廃棄物行政の責任を問うことができなかったこと、そして、首都圏をはじめ全国各地の排出事業者に対し適正な処理委託をするよう指導する立場にあった排出者側の自治体(東京都など)に、純然たる被害県としての岩手県が強いられた80億円程度の自己負担に対し何らかの形で肩代わり(支援)を求めることができなかったことなのです

要するに、首都圏をはじめとする排出側の行政の責任を問うことが、県境事件ひいては増田知事の大きな宿題として残りました。

私は平成16年前後に日弁連の委員会活動を通じて岩手県職員の方からお話を伺う機会があり、増田知事も解決のため一定の模索をしていたことは間違いありません。

だからこそ、そのときの増田知事を知る岩手県民は、都知事選にあたり「時に、首都圏のエゴの犠牲を強いられた、地方の悲しみ、苦しさを東京の人達に伝えることを忘れないでいただきたい、地方を知る者として、地方と東京がよりよい関係を築くため、東京のあり方を大きく変え、日本全体を改善する姿勢や手法(政策)を強く打ち出していただきたい」と願っていることは確かなのです。

そうした期待を背負っている増田氏に打ち出していただきたい言葉が、小泉首相に倣えば、「(地方の立場から)東京(のエゴ)をぶっ潰す」であることは、申すまでもありません。

この一言を増田候補が絶叫していただければ、全国の多くの地方住民が賛同し、ほどなく、その真意を知った東京都民も、これまでの東京のあり方を問い直し再構築してくれる指導者として増田氏を支持するに至るということも、十分に期待できるのではないでしょうか。

それだけに、ある意味、「ぶっ潰す」対象の一つと感じられないこともない、自民党都連などの勢力が増田氏を担いでいるという構図や、増田氏が上記の思いを今も感じておられるのかあまり伝わってこない選挙報道を眺めていると、岩手県民としては残念というか、寂しいものを感じ、どなたか(ご自身を含め)、増田氏を解き放っていただきたいと感じる面はあります。

また、このように考えれば、都民が小池氏に求めるものも、より鮮明になると思います。

増田氏が「東京的なるものとの対決」を掲げる責任(歴史)を背負っているのだとすれば、小池氏は、現在の都議会(自民党都連)との対決に象徴されるように、政界を渡り歩き、小沢氏や小泉首相など既存の政治の中心勢力と対決する道を選んだ大物に従い、何らかの形で旧勢力と闘ってきた人と言えます。

小池氏を支持する方々は、政治を壟断している(自分達の影響力の確保を優先させて社会に閉塞感を与えている)と感じる旧勢力と同氏が闘うのを期待しているでしょうし、そうであればこそ、小池氏には「大物都議や自民党都連との対決」という対人的な話に矮小化させず、日本の都道府県議会制度そのものについて「問題の本質」を指摘し、変革を呼びかけることが求められており、それは、兵庫県議会の事件に象徴されるように国民全体が期待していることと言えるでしょう。

橋下市長や維新の会が一定の成功を納めたのは、行政機構(ひいては住民に不信感を抱かれていた行政の実情など)の変革を旗印にして、それに取り組んだことが庶民の喝采を浴びたからだと思います。

小池氏が都庁や都議会の改変に取り組んで成果を挙げ、官庁や国会の変革も促す動きも見せるなら、裾野の広い政治勢力を構築し、小池氏が全盛期の小沢氏や小泉首相の後継者のような地位を獲得していくことも、不可能ではありません。

先日の参院選で自民党を大勝させた民意は、「憲法改正(立法や行政の見直し)に向けた議論は期待するが、自民の改憲案(人権規定の改変)は支持しない」ものであることは、多くの国民が感じているところだと思います。

だからこそ、その民意に応える形で、小池氏には「東京から日本(の閉塞的な政治文化)をぶっ壊す」と叫んでいただければと感じています。

増田氏か小池氏かという選択は、地方との関係性を重視した東京の変革か、国家との関係性(自民党など国側への影響)を重視した東京の変革か、どちらを志向するかという見方ができ、そうした観点から議論が深まればと願っています。

地方の町弁が「事件に呼ばれる」ということ

尊属殺違憲判決事件は、大学ではじめて法律や裁判を勉強する学生が最初に教わる判例の一つであり、かつ講義を受けたときの衝撃を忘れ難く感じる事件の代表格でもあると思います。

その事件に従事された弁護人の方については、さきほど、下記の記事を拝見するまで全く存じなかったのですが、どうやら地方都市の一般的な町弁の方のようで、業界人的には、金字塔というか雲の上のような方だと思う一方、片田舎でしがない町弁をしている身には、それだけで親近感が沸いてしまいます。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/120100058/120200001/?P=1

私自身は、こうした業界で語り継がれる事件に関わることはないと思いますが、「特殊な事情から意気に感じるところがあり、限られた報酬で膨大な作業量を伴う大赤字仕事を手弁当感覚で従事する」経験をしていないわけではなく、本日、その典型のような事件(全国的に注目された、震災に絡む某事件から派生した民事訴訟。ちなみに「出会い」は有り難くないことに国選弁護人から始まってます)の1審判決がありました。

判決を受け取ったばかりなので深く読み込んでないのですが、主要な争点で当方の勝訴となっており、そのこと自体は感謝というほかないものの、相手方が控訴すれば、依頼主は控訴費用の負担が不可能と見込まれるため、手弁当=自己負担で控訴審(仙台高裁への新幹線代)に対応せざるを得ず、その点はトホホ感満載の状態です(東京と違って巨額の事件にはご縁がほとんどありませんので、1審勝訴の際は、いつも高裁の書記官に2審も陳述擬制=不出頭+初回から電話会議にして欲しいと愚痴を言ってます)。

控訴審で、当方の主張(要望)に基づく勝訴的和解ができればよいのですが、(尊属殺事件のように)万が一、2審逆転敗訴になったら大泣きですので、そうした展開にならないよう祈るばかりです。

ちなみに、尊属殺事件の引用記事の中に、「原則論で闘っても勝ち目は薄い、それより事案の特殊性にとことん言及すべきだ」という下りがありますが、私の受任事件も色々と特殊性のあるケースで、そうしたことに言及しつつ常識的な解決のあり方を強調する主張を尽くしており、その点が(判決での言及の有無はさておき)結論に影響したのではと思わないでもありません。

正直、敗訴の可能性も覚悟しており、本音を言えば「ここで負けたら、ようやくこの事件から解放される・・」との気持ちもあったのですが、お前はまだ修行が足らん、もっと精進せよと仰る影が、背中に立っているのかもしれません。

この事件は、最初の段階で、昨年まで当事務所に在籍していた辻先生が少しだけ関わっており、そうしたことも含め、世の中には見えない力が確実に働いているというか、多くの弁護士が時折感じる「この事件に呼ばれた」感を、抱かずにはいられないところがあります。

ちなみに、尊属殺事件を担当された大貫先生に関心のある方は、こちらの記事もご覧になってよいのではと思われます。
http://ameblo.jp/spacelaw/entry-10907208061.html

私も、ある意味、この事件で一番の犠牲になったとも言える依頼主の尊厳ないし意地が多少とも回復できるような解決を実現し、その上で「私ごと忘れてしまいなさい」と言えるような終局を迎えることができるよう、もう一踏ん張り、二踏ん張りしなければと思っています。

憲法記念日と日本国憲法の活かし方

5月3日は憲法記念日ですが、この日に憲法について取り上げられるニュースといえば、決まって、1番目が、いわゆる護憲運動を旗印にする左派勢力の集会で、2番目が、国家主義的な見地からの改憲を旗印にする右派勢力の集会というパターンだと思います。

取り上げられる発言も、それぞれの立場のアピール的なものに止まり、いずれも積極的に支持していない「無党派」の第三者にとっては、示威行動的な空しさばかり感じてしまいます。せめて、双方が対話、議論するような集会でも行ってくれればと思わずにはいられません。

私にとって5月3日は個人的な思い出がある日でもありますが、それはさておき、法律家の端くれとして、各自が日本国憲法とそのあり方、活かし方について考える日であって欲しいと思います。

私が日常的に拝見している他の弁護士さん方のブログを拝見したところ、憲法について触れているものは多くはありませんでしたが、淡路の蔭山文夫先生のブログでは、憲法の存在意義について、我が国の法律実務家(司法試験等で憲法学をきちんと勉強した人)にとってスタンダードな感覚、認識が述べられており、大いに参考になると思います。

その上で、落合洋司先生のブログで書かれているように、社会の変化・進展に応じて憲法のあり方を考えていく(その前提として、日本国憲法の制定過程と現代社会の有り様の双方をよく学び、感じ取る)必要もあると感じています。

なお、憲法のあり方、活かし方を考える上では、小林正啓先生が仰るように、「日本国憲法が時代にそぐわないのではなく、現代の社会がようやく日本国憲法に追いついてきた(が、昔の価値観のまま放置された法令が残っているので、それらは時代が「追いついた」時点で違憲判決を受けている」という視点も、欠かすべきでないと思います。

私にはこの方々のような見識を示す力はありませんが、法に関わる人々の真摯な営みの積み重ねの上に、現行憲法の理念を実現する道が開けるものと思いますので、時に自省を深めつつ、実務の一端を地道に担っていければと思っています。

自民党政権と鎌倉幕府の類似性を踏まえて日本国憲法の未来を論ぜよ

購読中の日経新聞が3ヶ月以上の積ん読状態になり、先日まで10月のものを読んでいました。10月19日の紙面には、安倍首相が党内の重鎮や若手の支持を集めてライバルを押さえ込み強固な政権基盤を形成しているという話の解説記事が出ていました。

最近は甘利経財相が突如失脚するという事態も起きましたが、こうした記事を気楽に読んでいると、今後の政権の担い手や政治の形はどうなるのだろうと、何となく考えてしまいます。

現在の社会について考える際、過去の歴史に学ぶというのは基本的な話ですが、戦後数十年の「自民党一党支配下の派閥政治→小選挙区制後の政権陥落と復活を通じた総裁・首相の権力強化」という流れについて、日本史の中で近いものがないかと考えると、鎌倉時代が割と近いのではと思いました。

鎌倉幕府の場合、成立時こそ源頼朝(源氏)の存在感が大きかったとはいえ、ほどなく有力御家人らの合議的な体制に移行し、激しい内部抗争に北条氏が勝ち残り、承久の乱と元寇を通じて得宗専制が確立するという流れを辿ったと一般的には言われています。

そのような流れが、派閥の抗争の上に短命首相の交代が繰り返されていた中選挙区時代から、有力派閥(経世会など)の影響力低下と党本部・内閣府の強化(総理・総裁の主導権)に至る現在の自民党政権の経過に多少とも通じる面があると感じました。

鎌倉幕府は大まかに言えば承久の乱までが御家人合議制で、その後は得宗専制への移行期になりますので、承久の乱と北条氏の勝利は民主党の政権交代と自民党復権に匹敵すると言えるかも知れません。

その上で、現在の「習近平の中国」の強大化やこれに伴う日本との摩擦は、あたかも現代の元寇のようなものと考えれば、中国への脅威への対抗のための結束や政治の安定のニーズという国民意識が安倍首相の支持率を相当部分を支えていることに鑑みても、類似性を感じる面があります。

そう考えた上で、「その後」がどうなるかを鎌倉幕府になぞらえて考えると、色々と興味深い点が出てくるのではないかと思います。

教科書的に言えば、鎌倉幕府は元寇の負担で生じた御家人の窮乏について、幕府が賢明な対応をとることができなかったので、御家人の支持を失い統制力が弱まった挙げ句、後醍醐天皇の倒幕軍に足利尊氏・新田義貞らが呼応し裏切ったので滅亡したと言われてます。

元寇は要するに国家防衛戦争ですが、軍役とこれに伴う出費を幕府が丸ごと負担するのではなく地域の封建領主である御家人各自の負担とされたので、御家人が生活に窮乏し借金が増大し、一旦は徳政令=借金の強制免除がなされたものの、その後は金融業者から追加借入ができなくなり?さらに窮乏したと言われることが多いと思います。

破産免責の実務に携わる者から見れば「一旦は借金免除を受けた者が、ほどなく追加借入をせずにはいられなくなる事態」は滅多に生じるものではないとの認識ですので、当時の御家人達(幕府を奉ずる武士)に追加借入を必要とするだけの事情があったのか、その点は興味深く感じますが、よく分かりません。現代も免責から7~10年もすれば追加借入をする方も出てきますので、中長期の視点では鎌倉末期と同じ問題が生じうるかもしれませんが。

ともあれ、近い将来そうした類の光景=自民党政権の混乱と滅亡という事態が現代でも生じるのか、そうであれば、どのような事態が生じた際に自民党政権が衰退するのか、また、その前提として、自民党の支持層が政府の政策とその前提となる事象により大きく窮乏するような事態が生じるのか、あるとすれば、どのような事態か、色々と想像を巡らせるのも面白いかもしれません。

財政上の理由で従前の支持層に手厚くしていた分野(公共工事=建設業界、福祉・医療=医療業界など)への税金配分や年金等の大幅減ということなら、近い未来に相応に生じそうな気もしますが、その際に時の総理が改革の必要性を説いてその判断を支持する層を新たな支持者として取り込むのであれば、政権転覆という事態は生じそうにありません。

元寇のように「政府が自らの責任・負担で行うのが望ましい分野」について、政府の支持層に無理な自己負担を強いて困窮させた挙げ句、杜撰な対策で混乱が生じて支持層をさらに追い詰めるという事態があれば、無為無策の責任が問われて転覆まで行き着くような気がしますが、現在それにあたる分野があるかと言われると、すぐには思いつきません。

ただ、自民党政治が、御恩と奉公に類する「戦後の経済成長で生じた正(プラスの資産)の分配」を基本として成り立ってきたことは確かでしょうから、今後に本格化すると言われる「負の分配」=既得権の剥奪や社会各層への負担・不利益の分配への説得・強制に耐えるような政治体制に刷新できなければ、政権の維持に脆弱さを抱えることは確かだと思います。

実際、小泉首相が専制政治家として公共事業削減などを断行したのに比べると、民主党政権前夜(第一次安倍政権~麻生政権)までは、専制色が乏しく合議的な色合いの強い政権だったように感じますし、そのことも、政権陥落に影響したのかもしれません。

民主党政権も公共事業削減や財政再建など様々な負の分配に取り組んだような気がするのですが、総理(党代表)が権力を掌握できず合議制のような様相を呈したことが、テーマ(負の分配)に耐えうる政治体制でない(要するに未熟である)と国民に審判されたのではという感じもします。

少なくとも、専制型の政権運営は、既得権の剥奪には役立つことは確かで、そうした事情が現在の「総理・総裁の権限強化」を支えているのでしょうが、一部の者への優遇が鮮明になるなど不公平感が目立つようなら、鎌倉幕府の滅亡がまさにそのようなものであったように、専制が崩壊して一気に混乱に陥るリスクも内包していると思います。

その場合、現体制を転覆させて新体制(建武の新政?)を作るための旗印となる理念や制度はどのようなものか、運動の象徴になる存在(後醍醐天皇)やそれを補佐する「現体制では疎外された存在」(楠木正成ら「悪党」)は誰か、転覆後の混乱に勝ち残って次の体制を担う存在(足利幕府)は誰・どのようなものになるのかといったことも考えてみたくなります。

ただ、現代でこれにあたるものが誰か・何かと言われれば、すぐに「これだ」と言えるものがあるか、私もピンと来ません。

在野で強烈な個性を持つ専制指向型のリーダーと言えば、誰しも引退?した橋下市長を思い浮かべるでしょうが、安倍首相と意気投合しているようにも見える橋下前市長が「後醍醐天皇」のようになるのかと言われれば、違和感を覚える方の方が多いと思います。

ただ、安倍首相や自民党が希望する改憲案が、安全保障(9条)と人権保障(個人主義)の修正を指向すると一般的には考えられているのに対し、橋下氏が指向する改憲論は大阪都構想に見られるように統治機構制度に向けられており、9条や人権規定に手を加えたがっているという印象は、私の感覚の範囲では、あまり受けません。

これに対し、自民党の改憲案は、私もきちんと勉強したわけではありませんが、国会・議院内閣制の分野については、さしたる改正を求めていないように思われ、少なくとも、現在の立法・行政の枠組みの大幅な変革を企図していないことは確かだと思いますから、安部首相ないし自民党の改憲案と橋下氏らの改憲?案は、関心のある分野が大きく異なっていると思います。

その上で、国会などを巡る現在のあり方に国民が満足しているかと言えば、現在の選挙や国会ひいては様々な議会や議員の制度(選挙と議会のシステム=立法府や代表民主制の全般)に不満や不信感・閉塞感を抱いている国民の割合は非常に多く、憲法も含めて「政治家」に関する制度を変えて欲しいというニーズは十分に高いのではないかと感じています。

現在、ちきりんさんのブログで勧められていた「フェルドマン博士の日本経済最新講義」を読んでいるのですが、同書でも、選挙制度改革は、現在の日本社会が改革を必要としていながら安倍政権の取り組みが最も手薄になっている分野だと厳しく批判されています。

現在の小選挙区制では従前以上に自民党の万年与党という流れが定着しそうなことや訴訟が繰り返されて「煮詰まった」状態にある定数是正の問題なども視野に入れれば、立法府(選挙・議会・政治家)の大改革は、程なく近未来の大きなテーマとして意識されるのではないか、だからこそ、それに率先して取り組む勢力があれば、アドバンテージを取ることができるのではないか(橋下氏はそれを見越して準備しているのではないか?)と感じています。

ちなみに、フェルドマン博士は、株主総会(資本多数決主義)に倣って「人口比で議決権を配分する制度を導入すべきだ」と提言していますが、私自身は、そのような制度は「生身の人間」たる議員の政治的意思決定権に関する平等の建前を重視する日本の国民感情に馴染まないので、議員を二段階に分け、1段目議員を大増員・廉価報酬とし、2段目議員を1段目議員の互選による少数精鋭(狭義の国会議員)とする間接選挙型の仕組みにすればよいとのではと考えています(この点は後日にまた書くつもりです)。

ともあれ、自民党政権が戦後の政治システム(現在の代表民主制)に非常に馴染んでいる政治権力だからこそ、そのあり方を大きく改変する提言をする政治勢力が国民から一定の支持を受けるようであれば、そのときが鎌倉幕府の滅亡ならぬ自民党政権の終焉に繋がるのではないかと妄想しているところです。

日本社会は、昔から源氏・陸軍・国内派(縄張り重視の封建的集団主義)と平家・海軍・国際派(市場経済・競争重視の個人主義)の路線対立があり、これまでの自民党政権が前者の面が強かった一方で、近時は後者的な性格を強めつつあることも、来るべき動乱?の前兆のような気もしないでもありません。

余談ながら、地方の弁護士業界もこれまでは前者の典型のような面がありましたが、急速に後者の面が強まっている感もあり、そうした身近な世界で生じている激動との関係も考えながら、遠くの他人はさておき我が身は滅ぼすことなく社会の成り行きを見て行ければと願っています。

それはさておき、鎌倉幕府の滅亡について大河ドラマで取り上げられたのは「太平記」だけだろうと思いますが、NHKも視聴率に臆せず蛮勇を奮ってまた取り上げていただきたいものです。

中小企業家同友会の講義と企業経営という「地味な憲法学」の現場

数年前から岩手県中小企業家同友会に加入していますが、先日は11月例会があり、参加してきました。

今回は、広島県福山市で㈱クニヨシという鉄工所(船舶、道路、航空機などに用いる各種備品などの製造業)を経営する早間雄大氏の講演があり、厳しい状態にあったご実家の小さな鐵工所を短期間で大きく躍進させた企業家の方に相応しい大変エネルギーに溢れた講演で、大いに参考になりました。

同友会の例会は、1時間強の講演の後、休憩時間を挟んで、1時間弱の時間を使って、中小企業の経営のあり方などについて特定のテーマを与えられ、6人前後のグループでディスカッションして最後に各グループの代表が発表するというスタイルになっていますが、今回は早間氏から「自主、民主、連帯」というテーマで議論せよとの指示がありました。

で、私のグループでは、数人ないし十数人の従業員さん(同友会では、必ず「社員」と呼びます)を擁する企業や事業所の経営者や管理職の方がいらしており、例えば、「自主とは、自分をはじめ各人が、業務の従事者として必要十分な仕事を進んでできるよう身を立てること」、「民主とは、社員全員が、真っ当な従事者として行動できるような会社づくりをして、それを前提に社員一丸となって企業のよりよいステージを目指すべきこと」、「連帯とは、それらの積み重ねを通じて、社会全体に価値を提供し増進すること」といったことなどが、各人の業務や社内外の人間関係に関する経験談などを交えて、それぞれの言葉で語られていました。

法律実務家としては、そうしたお話を伺っていると、憲法学のことを考えずにはいられない面があります。

どういうことかといいますと、司法試験で憲法の勉強をはじめた際に、個々の制度や論点を学ぶにあたって、「自由主義(各人の人権と人格の尊重)」と「民主主義(多数派の合理的判断)」との対立と調和という視点を意識するようにという話を最初に教わったのですが、「自主と民主」という話は、それと通じる話ではないか、また、「連帯」は、憲法学的に言えば現代の福祉国家現象(広義の公共の福祉の増進のための国家や社会の役割の増大)に通じるのではないかと感じました。

憲法学は、「普通の町弁」にとって司法試験合格後はほとんど接する機会のない学問で、私の理解も十分なものではないでしょうが、今回の講義や討議は、「一人一人の多様かつ尊厳ある自由と、多数決などを通じた国家や集団による統一的な意思決定システムとの対立と超克を通じて、社会の健全な発展と人々の幸福(広義の公共の福祉)を目指すべき」という日本国憲法の基本理念を、中小企業の運営のあり方(苦楽の現場)を通じて学ぶといった面もあるのではと感じました。

以前、JC(青年会議所)が掲げているJCIクリード(綱領)について、日本国憲法との類似性を詳細に記載したことがありますが、私の場合、時の政権への反対運動のような憲法論やその逆(戦前回帰云々など)の運動といった類の「派手な憲法学」よりも、個々の現場での地道な日本国憲法の実践を感じる営みを発見、発掘し、私自身がその現場にどのように役立つことができるかを考える「地味な憲法学」の方が、性に合っているような気がします。

ところで、同友会の例会は「成功している社長さんによる創業から現在までの谷あり山ありの経験談を、社員さんとの関係づくりを中心に伺う」のが典型となっていますが、数十人~百人規模の企業の運営と、弁護士一人・職員僅かの法律事務所の運営や弁護士の業務を重ねるのは難しく、どのようなことを例会で学んだり討議で話したりするのが良いのか、今も試行錯誤というのが正直なところです(また、恥ずかしながら、私に関しては「本業の営業」には滅多に結びついていません)。

ただ、この仕事をしていると、中小企業の経営者や管理職の方から、実際に生じた事件、問題について様々なご相談を受けることはありますが、紛争とは離れた普段の中小企業の実情や経営者等の意識を学んだり肌で知るという機会は滅多になく、こうした場に身を置くことで、今後のご相談などにも深みのある対応ができる面はあるのでは、さらには、「顕在化していないニーズ」などを先んじて見極めて提案できるといったこともあるかもしれないと信じて、なるべく参加していきたいと思っています。

早間氏の講演でも、「営業しなくても仕事がやってくる企業や指示待ちではない社員の育成」、「企業の強み(専門性)を生かしながら幅広い業界のニーズに応える努力」といったことが強調されていました。

田舎の町弁業界は、数年前までは営業しなくとも仕事がやってくる典型的な寡占商売(極端な供給不足)の世界でしたが、それが様変わりした今こそ、多くの競争相手がいても本当に「営業しなくとも仕事がやってくる弁護士」になるため、考え、実践しなければならない課題があまりにも多くあるというべきで、今回の講義も、その糧にしていかなければと思っています。

今も日本と世界に問い続ける「原敬」の足跡と思想

昨日は盛岡出身の戦前の大政治家・原敬の命日ということで、菩提寺や生家跡の記念館で追悼行事がなされたとのニュースがありました。
http://news.ibc.co.jp/item_25696.html
http://news.ibc.co.jp/item_25691.html

盛岡北RCの例会でも、地域史などに圧倒的な博識を誇る岩渕真幸さん(岩手日報の関連会社の社長さん)から、原敬の暗殺事件を巡るメディアの対応などをテーマに、当時の社会や報道のあり方などに関する卓話がありました。

途中、話が高度というかマニアックすぎて、日本史には多少の心得がある私でも追いつけない展開になりましたが(余談ながら、前回の「街もりおか」の投稿の際も思ったのですが、盛岡で生まれ育った人はマニアックな話を好む方が多いような気がします)、それはさておき、今の社会を考える上でも興味深い話を多々拝聴できました。

特に印象に残ったのは、「原敬を暗殺した少年は、無期懲役の判決を受けたが(求刑は死刑)、昭和天皇即位等の恩赦により10年強で出獄した。その際、軍国主義の影響か反政友会政治の風潮かは分からないが、暗殺者を美化するような報道が多くあった。そのことは、その後の戦前日本で広がった、浜口首相暗殺未遂事件や5.15事件・2.26事件などのテロリズムの素地になっており、マスコミ関係者などは特に教訓としなければならない」という下りです。

「大物政治家を暗殺した人間が美化される」という話を聞いて、現代日本人がすぐに思い浮かぶのは、韓国や中国における安重根事件の美化という話ではないかと思います。

安重根の「動機」や伊藤博文統監の統治政策について、軽々に論評できる立場ではありませんが、少なくとも、「手段」を美化する思想は、暴力(武力)を紛争解決の主たる手段として放棄したはずの現代世界では、およそ容認されないものだと思います。

それだけに、仮に、中韓の「美化」が手段の美化にまで突き進んでしまうのであれば、それらの国々が戦前日本が辿ったような危うい道になりかねない(ひいては、それが日本にも負の影響を及ぼしかねない)のだという認識は持ってよいのだと思いますし、そうであればこそ、「嫌韓・嫌中」の類ではなく、彼らとの間で「日本には複雑な感情があるが、貴方のことは信頼する」という内実のある関係を、各人が地道に築く努力をすべきなのだろうと思います。

私が司法修習中に大変お世話になったクラスメートで、弁護士業の傍ら世界を股に掛けた市民ランナーとして活躍されている大阪の先生が、韓国のランナー仲間の方と親交を深めている様子をFB上で拝見しており、我々東北人も、こうした営みを学んでいかなければと思っています。

ところで、wikiで原敬について読んでいたところ、原内閣が重点的に取り組んだ政策が、①高等教育の拡充(早慶中央をはじめとする私立大の認可など)、②全国的な鉄道網の拡充、③産業・貿易の拡充、④国防の拡充(対英米協調を前提)と書いてあったのですが、昨日のRCの例会で配布された月刊誌のメイン記事に、これとよく似た話が述べられており、大変驚かされました。

すなわち、今月の「ロータリーの友」の冒頭記事は、途上国の貧困対策への造詣が深く、近著「なぜ貧しい国はなくらならいのか」が日経新聞でも取り上げられていた、大塚啓二郎教授の講演録になっていたのですが、大塚教授は、低所得国に早急な機械化を進めると非熟練労働者を活かす道がなくなり、かえって失業や貧困を悪化させるとした上で、中所得国に伸展させるために政府が果たすべき役割について、①教育支援、②インフラ投資、③銀行など資本部門への投資、④知的資本への投資と模倣(成果の普及)による経済波及という4点を挙げていました。

このうち①と②はほぼ重なり、③も言わんとするところは概ね同じと言ってよいでしょう。民間金融を通じた地方の産業・貿易の拡充として捉えると、現代日本の「地方創生」「稼ぐインフラ」などの話と繋がってきそうです。

そして、④も、当時が軍事力を紛争解決の主たる手段とする帝国主義の時代であるのに対し、現代はそれに代えてグローバル人材が一体化する世界市場で大競争をしながら戦争以外の方法(統一ルールの解釈適用や交渉)で利害対立を闘う時代になっていることに照らせば、時代が違うので焦点を当てる分野が違うだけで、言わんとするところ(国際競争・紛争を勝ち抜く手段の強化)は同じと見ることができると思います。

何より、大正期の日本は、ちょうど低所得国から中所得国への移行期ないし発展期にあったと言ってよく、その点でも、原敬の政策や光と影(政友会の利権誘導政治、藩閥勢力との抗争など)などを踏まえながら大塚教授の講義を考えてみるというのも、深みのある物の見方ができるのではないかと感じました(というわけで、盛岡圏の方でRCに関心のある方は、ぜひ当クラブにご入会下さい)。

ところで、岩渕さんの卓話の冒頭では、「原敬は、現在の盛岡市民にとっては、あまり語られることの少ない、馴染みの薄い存在になってきており、残念である」と述べられていました。

私が9年間在籍した青年会議所を振り替えると、盛岡JCは新渡戸稲造(の武士道)が大好きで、1年か2年に1回、新渡戸博士をテーマとする例会をやっていましたが、原敬や米内光政など先人政治家をテーマとして取り上げた例会などが行われたとの記憶が全くありません。

戊辰の敗戦国出身で決して裕福な育ちではなく、紆余曲折を経た若年期から巧みな知謀と大物の引き立てにより身を興し、「欧米に伍していける強い国家」を構築する各種基盤の構築に邁進し、それを支える新たな権力基盤の構築にも絶大な手腕を発揮した点など、原敬は、「東の大久保利通」と言っても過言ではない、傑出した大政治家だったことは間違いないのだと思います。

だからこそ、両者が、絶頂期かつ志半ばの状態で暗殺により歩みを中断させられたことは、織田信長しかりというか、この国の社会に不思議な力が働いているのかもしれないと感じずにはいられないところがありますし、余計に、前記の「テロリズム礼賛の思想」を根絶することの必要性を感じます。

それだけに、地元で人気がない?(素人受けせず、通好みの存在になっている)点も、大久保利通に似ているのかもしれない、そうした意味では、対立したわけではないものの、同時代人で人気者の新渡戸博士は、いわば盛岡の西郷隆盛のようなものかもしれない、などと苦笑せずにはいられないところがあります。

皆さんも、「古くて新しい原敬という存在」に、よりよい形で接する機会を持っていただければ幸いです。