北奥法律事務所

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弁護士業務・業界関係など

15年目の弁護士たちの悲喜こもごも

今年の夏に起きた「局部切断事件」は、先日、加害者(被告人)の公判で、犯行経緯に関する検察側の詳細な冒頭陳述が報道され、改めて脚光を浴びていますが、ネット上では、被害者、加害者及び関係者である女性について、様々な生々しい記事が飛び交っており、プライバシーなどの観点からは疑問に感じる面が無いわけではありません。

といいながら、こんな話を書いていいのか逡巡があるのですが、この事件の報道があった直後に、被害者が私と同期修習の方ではないかとの噂話を聞き、知り合いだったらどうしようと思って少し検索したところ、ネット上で名指しされている方(以下「A先生」といいます。イニシャルではありません)がおり、そのA先生に関しては、私と同じ頃に弁護士になり、しかも、年齢も私と同じ(同じ年に合格して弁護士になった)ということが書いてありました。

幸い?私自身はA先生とは面識がありませんが、ご経歴を見る限り、東大などではなく私=中央大と偏差値的には同程度の私大のご出身でありながら、非常に優れた先生が集まっていることで業界では高い評価を受けている(と思われる)事務所に就職され、その後も企業法務などを取り扱う弁護士として、絵に描いたような模範的なキャリアを積んでこられた方だということが分かりました。

中には、ご本人の「ぶっちゃけトーク」的なインタビュー記事が掲載されているサイトもありましたが、ご本人の才気もさることながら、業界人として凄まじい努力を積み重ねてこられたであろうことは間違いなく、それだけに、「隙」の部分も含め、世の中にはこんな恐ろしい落とし穴が存在するのだと感じざるを得ません。

と同時に、私も、曲がりなりにも運良く(何かの間違いで?)卒業2年目という当時の中央大生としては比較的早い時期に合格できた人間として、もし、岩手の弁護士になるという当初の方針を捨てて、東京で生きていく弁護士になっていれば、自分にできたかどうかはさておき、A先生のような道を目指したのだろうか、その場合、自分はどうなっていたのだろうか(やっぱり途中で脱落して鬱病→自殺などのパターンになったのか、突然変異を起こして「大企業や富豪向けのエリート弁護士」になってしまうこともありえたのか)などと、夢想してしまうところはあります。

事実、私が個人的に存じている「卒業2年目で合格した中央大出身の先輩方」は、そうした道で活躍されている方が非常に多く、それだけに自分の身の上を申し訳なく思っている面があることは確かです。

私の場合、東京の小さな事務所で4年半ご指導いただいた後、岩手で開業し、一時は、いわゆる弁護士過疎と債務整理特需の影響で、朝から朝まで仕事する家庭崩壊リスクを抱えた生活と引き換えに分不相応な収入をいただいた年もありましたが、現在は、弁護士大増員と高金利問題の終焉などに伴う町弁業界の零落も相俟って、運転資金に負われつつ細々とやりくりする日々になっています(兼業主夫業のせいか少額の割に作業量が多い案件が増えているせいか、労働時間だけは昔と大差ないのが悲しいですが)。

曲がりなりにも40年以上も生きていると、様々な紆余曲折もなかったわけではありませんが、今のところ、A先生?のような事態には至っていません。

以前も、地方の有力な弁護士の方のご家庭で生じたとされる信じがたい事件について、少し書かせていただいたことがありますが、今も、どうして天があのタイミングで私をこの業界に連れてきてくれたのか、その理由と責任について考えながら、キャリアだけは15年を過ぎた「しがない田舎の町弁」として、地域社会のためできること、すべきことを探していきたいと思っています。

ところで、上記のような特異なニュースばかりでなく、最近では、同期の方が様々な立場で第一線の法律家として活躍されているとの報道などに接することも増えてきました。

例えば、先日、大きな話題になった、長期間逃亡していたオウム真理教の元信者の方に関する無罪判決で主任弁護人を勤めておられる先生は、研修所で同じクラスだった方で、当時からクラス内でリーダーシップを発揮されており、刑事事件に強い関心を持って取り組んでおられる様子があったと記憶しています。

私が所属していたクラスだけでも、同業のかたわら小説家としても活躍されている方、国際派のマラソンランナーとして世界融和に貢献されている方、司法研修所の教官をなさっている方や日弁連の中枢で活躍されている方など、当時からしかるべき時期に大きな舞台に出てくるのだろうと思っていた方々が、予想通りないしそれ以上の活躍をなさっている光景を拝見する機会が増えてきており、それだけでも早めに合格できた甲斐があったと思わないでもありません。

正直なところ、今の自分が何を目指して努力すべきか、抽象的な目標(地域云々)はさておき、「司法試験合格」とか「事務所開業」のような、即物的?で分かりやすい目標のようなものが見あたらず、いささか自分(のありかた)を見失っているような面もあり、しばらくは、同世代・同期の方々などのご活躍に学びながら、新たな暗中模索の日々という感じがしています。

余談ながら、冒頭の事件については、身体の他の部位と比べて「被害者の性を壊す犯罪」というべき面があり、その意味では(また、性が人格的実存と直結しているという点でも)、強姦罪などと似たような面があるのではと思います。

もちろん、この件では被害者の落ち度が相当にあるのではとの議論はあるでしょうが、加害者側の心情なども含め、人間(個人)の尊厳に直結するものとしての性という厄介なものとの関わり方、ひいては「裁きのあり方」について、良質な思索と議論が深まればと思っています。

弁護士の死神営業と泣いた赤鬼

最近になって、社会派ブロガーで有名な「ちきりん」さんのブログや著作を読むようになりました。

先日は、延命治療の技術進歩により「本人が必ずしも延命を望んでいないのに、誰もそれを止めることができない(勇気や制度がない)との事情から高額な医療費を(若い世代に)負担させ、何十年も延々と延命をするような例が、今後、続出して巨大な社会問題になるのではないか」という趣旨のことが述べられていました。

尊厳死を巡る問題については、法律業界でも古くから議論され、ネット上でも多数の論考などを見かけることができますが、私自身は関わった経験等がないこともあり率直に言って不勉強で、今のところ大したことを述べることはできません。

ただ、単純に、ちきりんさんのブログに即して感じたことだけを言えば「本人も望まず、社会的にも不要有害と言わざるを得ない長期延命治療を関係者に無用の負担等を生じさせない形で止めさせる制度」が必要なのだろうとは思います。

それは、言うなれば、医療技術上は長期延命が可能な方に対し、「死」を宣告する(延命治療の中止による死亡を法的に正当化する)ような手続であり、それが「誰しもが、やりたいとは思わない嫌な決断だが、社会通念上は必要とされる仕事」だというのであれば、それに従事(主導)すべき立場にあるのは、法律実務家というべきではないかと思います。

酷い例えだとお叱りを受けるかもしれませんが、延命治療の中止判断(決定)は、それに従事する者に慎重な姿勢と重い決断を伴う「死の宣告」にあたるという点で、死刑判決と似たような面があり、後者が法律家(裁判官)が行うとされている以上、前者についても、法律家こそが担うべきだと言ってよいのではないかと思います(ちなみに、「執行」は、適切な方法で医療関係者に行っていただくことは、当然です)。

もちろん、そのような制度を作るのであれば、「必要」が生じた場合に、関係者の(本人の事前届、近親者、医療従事者や検察官など)の申請に基づいて、何らかの「審査会」的なものが設けられ、そこで延命治療の中止の当否について判断することが想定されます。

当然、そこでは、単純に本人の同意があるから中止だとか、近親者の同意がないからダメだなどというのではなく、ご本人の人生経歴や治療経過など、中止の当否を巡って斟酌すべき様々な要素を適切な事実調査を踏まえて判断するという形になるのではないかと思います。

このような「様々な事実の調査・整理を含む、諸要素の総合的な価値判断」は、法律実務家が得意とするところですし、「死」という判断の重さに照らしても、一般の方が軽々に従事できるものでもありません(その点は、重大事案における裁判員裁判の当否を巡る議論も参考になるかもしれません)。

もちろん、利害関係者などによる不服申立(最終的には裁判所の司法判断を含む)もあってしかるべきだと思います。

なお、費用については、なるべく自己負担が望ましいので、審査制度の利用額を定めた上で、延命治療の長期化を希望しない方が事前に予納するとか、何らかの保険制度に組み込むなどの方法が適切だと思います(最後の綱は、法テラスでしょうか)。

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で、どうして今こんな話を延々と書いてきたかというと、そのような制度が社会に必要とされているのであれば、給源たる弁護士業界(なかんずく日弁連)が、制度設計をした上で制度の導入に向けて積極的に提言・運動してもよいのではと思うのですが、私の知る限り、そんな話は聞いたことがありません(単に不勉強で存じないだけかもしれませんが。なお、法案への反対意見の類なら日弁連HPなどで拝見できます)。

変な話かもしれませんが、仮に、そのような「審査会」が設置される場合、医師であれ、他の何らかの資格商売であれ、或いはお役人(公的機関)であれ、弁護士以外にも、「自分にそれを担わせて欲しい」といった「ライバル」が出現することは予測されますし、TPPなどを引き合いにするまでもなく、新たな制度を構築する場合は、なるべく早期に制度設計を巡る議論に参加、主導しないと「置いてけぼり」となることは、容易に想像できることだと思います。

ただ、逆の見方として、この制度が、死という人間にとって最も忌避したいはずの事態をダイレクトにもたらす意思決定であり、しかも、重大犯罪者ではなく、全うに生きてきた方のための手続という性質上「究極のケガレ仕事」と言えなくもなく、そのような制度を導入すべきだ(しかも、自分に担わせて欲しい)などと言い出せば、「お前は死神か。おぞましい奴だ」などという批判を世間から受けてしまうのかもしれません。

そうした意味では、この仕事は、ちきりんさんの見立てからすれば、社会的必要性が認知されれば膨大な需要を生じさせる可能性がある一方で、「貧困に喘ぐ町弁業界を一挙に救済する、素晴らしいブルーオーシャンだ!」などと無邪気にはしゃぐ話になるはずもなく、色々な意味で、弁護士(法律家)という職業の悩ましさ、本質に迫る話ではないかと感じる面はあります。

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ところで、法律家が「死」に関わるのは、重大犯罪の刑事事件だけではありません。相続は言うに及びませんが、それ以上に、「企業のお葬式」としての倒産事件には、申立代理人であれ破産管財人であれ、多くの町弁が日常的に関わっています。

裏を返せば、ほとんど弁護士を利用される機会がない小規模な会社さんなどにとっては、弁護士と関わるのは倒産のときだけという面が無きにしもあらずで、そうした方から見れば、我々は、「企業が死を余儀なくされるときだけ関わる連中で、必要かもしれないが、嫌悪・忌避すべき死神のような存在」ということになるのかもしれません。

恥ずかしながら、私の場合、中小・零細企業向けの仕事をもっと沢山お引き受けしたいとの希望がありつつ、人脈の無さなどの悲哀から、東京時代とは比較の対象にならないほど、そうした機会を得ることができていないので、せめてもの営業活動?ということで、企業経営者の方々が集まる団体さんに参加することもあるのですが、遺憾ながら、何度出席しても、あまり親しい関係などを築くことができずにいます。

人付き合いや「他愛のない和やかな会話」が苦手な私のキャラの問題も大きいのでしょうが、接する方々の雰囲気を見ていると、弁護士という存在が「敷居が高い」という形容よりも、忌避すべき存在として意識されているように感じないこともなく、ある種の悲哀を感じる面はあります。

著名な児童文学作品(童話)で、「泣いた赤鬼」という物語がありますが、弁護士は、「人々を守る仕事をする(かつ、守りたいと思っている)一方、人々からは忌避されやすい面がある」という意味で、この作品の主人公である赤鬼に、よく似ているのかもしれません。

そのように考えると、以前にも取り上げた「日弁連ニコニコCM」は、赤鬼が、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておくようなものだと感じてしまいます。
日弁連CM問題と、今こそアピールすべき弁護士像を考える

さすがに、同業の先生に「青鬼よろしく筋の悪い裁判を私が面識がある企業の方々に起こして下さい。そうすれば、私はその裁判に勝って、自分が良い鬼だと知ってもらい、仲良くしてもらうことができます。」などと、お馬鹿な頼みをするわけにもいきませんが、さりとて、私が赤鬼くんのような看板を立ててもそれが奏功するとも到底思えず、どうしたものやらと嘆くほかなしというのが、お恥ずかしい現実のようです。

残念な勇者たちと社会の責務

先日、某行政機関が設営した無料相談行事の担当として従事してきました。

この種の相談会では常に経験することなのですが、今回も、次のような相談者の方が幾人かおられ、傭兵稼業というべき弁護士としては、残念に感じてしまいます。

自分の要望に相手が応じてくれず、困っている。ただ、自分では相手に言いたくない(ので、弁護士から申入をして欲しい)。といっても、(相談者の説明に基づく見立てとして)相手方は、弁護士(たる私)が言えば、すぐに従うような御仁でもない。でも、裁判等はやりたく(頼みたく)ない。」

このようなご相談は、いわば、RPGの主人公が武器屋や傭兵斡旋所にやってきて「町を荒らし人々を苦しめるドラゴンを倒したい。でも、武器も買いたくないし傭兵を頼みたくもない。まして、自分が死地に赴くなんて真っ平御免。そこで、貴方がドラゴンに洞窟の奥深くで眠ってろと言えば、ドラゴンは従うのではないかと僕は思うんだけど、どうですか。」と言っているようなものというほかありません。

町弁の多くが経験していることでしょうが、行政機関が開催する無料相談では、そうした勇者たちにお会いすることがとても多く、残念に感じています。

数年前、法教育というものが流行って、今は下火になっているように感じますが、上記の文脈で言えば、「国民各人が、暴れるドラゴンと対峙した場合に、戦士や魔法使いを従えてドラゴンを倒す(悔い改めさせる)ことができる、本物の勇者になるための教育」こそが、本当の法教育(主権者教育)というべきだと思っています。

しかし、当時も今も、そうした話はあまり聞くことはなく、その点は残念に感じます(冒頭の「残念な相談者」は高齢の方が多いので、「教育」を持ち出すのが適切かという問題はあるかもしれませんが)。

人は戦いを止めることはできないし、人であるがゆえに、理不尽に直面したのであれば、闘うことを止めるべきでもない。しかし、殺し合うこと、「暴力」という手段の利用は止めなければならない。

だからこそ、代替(殺戮の時代に戻らないための装置)として、法(武器)と弁護士(傭兵)、そして闘う場(裁判)があるわけですが、今も、そうした認識が国民的に共有されているかと言えば、そうでもないと感じており、そうした認識を広く共有いただくと共に、各人がより良く闘うための土台作りについて様々な方にご尽力いただければと思っています。

以前、日弁連が、「僕達って、いつもニコニコ、とっても親しみやすいんだよね~あはは~」ムード全開のCMを流して、業界内で酷評されたことがありましたが、私の経験ないし感覚として、世間様は、弁護士は傭兵だと思っている(傭兵として役に立つ範囲で必要としている)というのが率直な印象です(だからこそ、我々への依頼は、「立てる」とか「雇う」などと、供給サイドとしてはあまり嬉しくない言葉で形容されることが多いのだと思います)。

どうせCMなどをするのなら、「真っ当な闘い(の補佐というサービス)を必要としているが、勇気などの不足から闘いに踏み出せないでいる消費者(国民)」に、「良質な傭兵」としての弁護士が、闘う気持ちを鼓舞するようなCMをこそ、流していただきたいと思っています。

その上で、個々の弁護士が、傭兵(戦士)としての個性や特色を各人の方法でPRし、消費者が、自身のニーズに適合する選択と適切な闘争をするという文化が形成されていけばよいのではと思います。

(追記 10.20)
冒頭の相談者の方のような発言を改めて振り返ると、そこには、裁判等(法的闘争)を忌避する「ケガレ思想」のようなものがあるのではと感じたり、「弁護士が申入をすれば、相手方はすぐ従うんじゃないか」といった下りは、一種の言霊信仰(自分で行う申入には(すでに不奏功になっているので)言霊の力はないが、弁護士にはそうした力があるのはないかとの思想)があるのではと感じたりもします。

そのように考えると、日弁連の「ニコニコCM」も、そうした「日本人の残念?な法意識」という現実を見据えた対策という面もあるのかもしれませんし(実際に企画された方に、そこまで深謀遠慮があるかどうかは分かりませんが)、上記に述べたことも、そうしたことまで視野に入れないと、何をやっても奏功しないということも、あるのかもしれません。

紛争の残念な相手方等をマスメディアで見かけることについて

先日、県内向けの某番組を見ていたところ、数年前に携わった訴訟で相手方となった男性が「その分野の専門家」という肩書で出演しているのを見かけました。

事案の内容は言えませんが、その男性は、当方が訴えた裁判の被告で、代理人を依頼せず本人が出廷して当方の訴えを争う姿勢を示していたところ、裁判所の勧めもあり、当方依頼主が早期解決を優先させて大幅に譲歩した和解をしたという事案で、依頼主からは、人格や振る舞いに問題がある方だ(いわゆるモラハラ系)との説明を受けていました。

で、訴訟の場でも、慰謝料を支払わないとか他の支払項目についても収入がないと主張して法律上定められた債務を実務上の相場観から大幅に減額させるなど、自分の要求のほとんどを認めさせたにもかかわらず、和解条項などの最後の詰めの際に私や裁判官に対し散々に悪態を付いていたことが強く印象に残りました。

ちなみに、私の約15年の弁護士歴の記憶では、法廷で露骨に悪態を付いたのは、この御仁と某探偵業者、東京高裁で有罪判決直後に暴れ出した某被告人の方の3名だけです。

さすがに、番組での他の出演者とのやりとりの際は普通に振る舞っておられましたが、時折、当時、ラウンドテーブル法廷で散々悪態を付いたときの目とあまり変わっていないように感じるところもありました。

もちろん、その方とも当方依頼主とも訴訟終了後は接点がなく、予断で物事を述べるつもりもありませんので、むしろ、男性が様々な方と関わりを持ち、ご自身の問題と向き合って謙虚な振る舞いを身につけているとのことでしたら、そうあって欲しいと思っています。

この件に限らず、田舎のしがない町弁をしていると、ごく稀にですが、地元レベルで著名な方の私的領域に関わったり、事件の当事者の方などを後日に地元の著名人としてメディア等でお見かけすることがあります。

当然、守秘義務が強く及ぶエリアですので、具体的なことを書くことは一切ありませんが、地元メディアで時折見かける著名人男性に関し、知人女性との不倫絡みの話を伺ったこともあり、そうした方の記事を見ると、どうしても、女性の方が、その男性との交際で非常に苦しんだという話を伺ったのを思い出さずにはいられないことがあります。

県民が100万人以上もいるとはいえ東京時代と比べると色々な意味で狭さを感じることが多く、私自身も自分が気付かないところで「目」に晒されているのかもしれないという気持ちで、襟を正していければと思います。

稼げない町弁が地方の司法を変える?~裁判を活かす10の覚悟~

今年の7月頃、まちづくりに関する事業を手掛けている木下斉氏の「稼ぐまちが地方を変える」を読みました。

著者は、高校時代から早稲田商店街の活性化事業などに取り組んできた方で、その中で様々な利害対立の渦中に放り込まれて辛酸を嘗めた経験なども踏まえて、「地域の特性はもちろん全国的・世界的な「ピンホールマーケティング」までも視野に入れた魅力あるコンテンツを地域内に揃えることで、小さくとも確実に稼ぎながら地域に再投資し「公」を主導する企業を育てて、そのことを通じて地域づくりの取り組みを再構築すべきだ」という主張と、それを実現していく上での要諦に関する事柄が述べられています。

本書で取り上げられている「まちづくりを成功させる10の鉄則」は、零細事業者たる町弁の事務所経営にも当てはまる点が多く、色々と参考になります。顧客にとって「これ(問題の状況把握と解決の方法)は自分の生活に足らなかったもの」と思わせる強烈な個性(と熱意)が必要だと述べられている点などは、生存競争を迎えた町弁業界にこそ、向けられている言葉というべきでしょう。

本書でも代表例として取り上げられている「オガール紫波」で一躍時の人となった岡崎正信さんは、私も「同時期に盛岡JCに所属していた多数の会員の一人」としてfacebook上で「友達」とさせていただいており、硬軟様々なメッセージ性の強い投稿を日常的になさっているので、興味深く拝見しているのですが、以前から、岡崎さんのFB投稿への木下氏のコメントなどを拝見して同氏の活動に関心を持っていたので、発売後、すぐに購入して一気に読みました。

また、同じくJC繋がりのFB友達で、私をFBに誘因した張本人でもある、肴町のプリンスことS・Mさんから、7月に木下氏の講演会を盛岡で行うとの告知をいただいたので、歌手のコンサートの類は全く行かない私も久々にミーハー根性が刺激され、拝聴してきました。

残念ながら、その際は、少し遅れたところ席がびっしりと埋まっていたので、一番奥の隅にポツンと座らざるを得ず、聴き取り等に難儀した面がややありましたが、それでも、色々と興味深いお話を伺うことができました。

9月に書いておりメモもほとんど取らなかったので勘違いしている面もあるでしょうが、「人口減少は結果としての現象に過ぎないのだから、地域経済の低迷など、原因を形成している個々の事象に目を向けて、それに応じた対策を取るべき」とか「行政の運営で一番大事なことは、破綻しない、させない(夕張市や、巨額赤字=維持の税負担を強いる公共施設を作った各自治体のような愚を犯すことを防止する)ための仕組みを構築することだ」といったお話があったように思います。

また、そうした問題を克服していくため、己の才覚と責任で稼ぐ力を持った民間の経営者やそうした方に理解を持った公務員の方が、地域内で存在感を発揮すべきだという趣旨のエールがあり、参加された方には公民様々な立場の方がおられたようですが、大変好評のまま閉幕したように見えました。

ただ、自治体が法の趣旨に反する違法ないし無益な公金使用をした場合には、住民は、違法行為に関与した者の責任を問うための法的手続(住民監査請求、住民訴訟)を取ることができるわけですが、裁判沙汰はさすがに専門外?のせいか、そこまでの言及はなかったように思います。

とりわけ、住民訴訟などは、従前は、いわゆる市民運動に従事する左派系の関係者の方が行うものが多く(あとは、私怨などが絡んだ本人訴訟も拝見したことがあります)、個人的な印象としては、行政が推進する特定の政策の当否を住民訴訟というツールを通じて争うというケースは、一部の環境系訴訟(脱ダム訴訟など)以外には、ほとんど見られないのではと思われます。

「まちづくり系の訴訟」の前例として私が存じているものを挙げるとすれば、大分県日田市で企画された競輪のサテライト施設の反対運動(住民側代理人の先生が執筆された著作によれば、左右の勢力を問わず地域の諸勢力が結束して取り組んだものだったようです)に絡んだ行政訴訟が挙げられるとは思いますが、これは、国(中央官庁)の許認可の当否が問われた事件で、自治体による公金支出(開発行為)の当否が問われた事件ではありません。

少なくとも、私は、住民側であれ行政側であれ、地方行政等に役立つことができる弁護士になりたいと思って、数年前から「判例地方自治」という自治体絡みの裁判例を集めた雑誌を購読しているのですが、そうした政策の当否を問う訴訟をほとんど見たことがなく、その点は残念に感じています。

木下氏らの活動の中に、自治体が巨額の税金(自費や国の補助金)を投じて豪華な施設を作ったものの、維持費すら稼ぎ出すことができず自治体に重い負の遺産になっているケースを取り上げて警鐘を鳴らす(「墓標」シリーズ)というものがありますが、そうした問題についても、本来であれば住民監査請求や訴訟等が行われて、自治体の政策判断の当否(裁量逸脱の是非)が問われるべきではなかったかと思われます(すでに監査請求等の期間を途過しているのかもしれませんが)。

少なくとも、一般論として裁量違反のハードルが非常に高いことは確かですが、裁判を通じて、事実認定を含めて的を得た形で裁量論争が深められ、それに対し裁判所が法の趣旨を踏まえて緻密な検討をし、真っ当な判示がなされれば、訴訟の結果がどうあれ、対象となった政策分野を巡る行政裁量のあり方について一石を投じる(そのことで、行政を変える契機とする)ことができると言ってよいのではと思われます。

私は行政裁量が問題となる訴訟にほとんど関わったことがないので、大したことは申せませんが、私が少しだけ勉強している環境訴訟は行政裁量の当否が争われやすい分野であり、北村喜宣先生の「環境法」や越智敏裕先生の「環境訴訟法」などで行政裁量の争い方や最高裁の考え方などを論じた部分などが参考になるはずです。

また、先ほど述べたように、これまで、住民訴訟等に従事するのは、特定の政治的傾向を有する一部の運動家の方に限られていたという現実があるように思われ、木下氏らの文脈に合致した意味での「まちづくりに絡む公費濫用の予防や是正に関わる訴訟」に取り組む弁護士(や支援者)というのは、ほとんど聞いたことがないように思います。

そうであればこそ、合格者激増という「稼げない時代」を迎えた町弁業界にとっては、行政裁量との硬軟様々な関わりという問題は、今後、手掛けていきたいと考える弁護士が増えてくる分野であることは確かで、とりわけ、行政庁の任期付職員になるなどして裁量のボーダーラインを肌で感じる機会に恵まれた方などは、任期後に町弁として復帰した際、こうした訴訟を手掛けたい(いわば、ヤメ検が大物刑事弁護人になるように?古巣を相手に裁量論争を挑みたい)と希望するのかもしれません。

さらに言えば、そうした営みが活性化されてくれば、包括外部監査制度や内部職員としての従事(事業開始・執行段階からの関与)をはじめ、弁護士が地方行政(ひいては国家行政も)の内部で手掛けることが法律上(制度趣旨の面から)期待されている分野が広がり、そうした営みを通じて、法の支配の理念に合致し、かつ「税金の無益な浪費をさせない(本当に活性化させることにだけ使わせる)」など経営マインドにも合致するような行政の構築にも繋げることができるのではと期待したいところです。

ところで、本書の末尾は、「まちを変える10の覚悟」というキャッチフレーズ(とミニ解説)で締めくくられていますが、ここで取り上げられている言葉は、我が業界の需給の当事者にも、大いに当てはまる面があるように思います。

そんなわけで、これを拝借して、「裁判・司法を本当に役立つものにするための10の覚悟」とでも題して、少し、考えたことを書いてみたいと思います。こちらはありふれたことしか書いていないかもしれませんし、ここで書いたような理想どおりにいかない現実もありますが、元ネタ(本書の該当部分)と対比して参考にしていただければ幸いです。

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①弁護士や裁判(司法)に頼らない

裁判(法的手続)という営みは、弁護士や裁判所だけが行う仕事ではない。依頼者・当事者自身に、紛争の正しい姿や重要な事実、救済・解決の必要性を、裁判所(や代理人たる弁護士等)に真摯に伝える姿勢が必要。そのような姿勢に欠けると、結局、司法の側から熱意ある支援は得られない。

まして、個々の「紛争」の解決に関し弁護士や裁判所が実際に果たせる役割はごく限られている。紛争の原因・背景にあって司法が救済の役割を果たすことができるわけではない、当事者やそれを取り巻く環境にある様々な人的・物的問題とも、紛争解決への取り組みを通じてご自身が正面から向き合う姿勢を持つべき。

②自ら「適正」な労働力や資金を出す

司法(弁護士等)により良い仕事をさせるには、その事案・業務に相応しい人的、物的コストを負担する姿勢が必要。当事者が適正なコストを負担しない場合ほど、裁判等の進行や結果が「尻すぼみ」の結果になりやすい。

③「活動」ではなく「事業」としてやる

裁判は、余技のような「活動」でないことはもちろん、単に「弁護士に料金を払ってサービスの提供と結果を待つだけの営み」ではない。紛争の当事者=主体は自分自身であり、自らの活きるか死ぬかの闘い、人生の重大な岐路という認識を持って主体的に取り組むべき紛争が幾らでもある。

④論理的に考える

裁判の当事者は、自身の価値観に基づくバイアスのかかった主張や自身に都合の良い結論(願望)ありきの発想に陥りがち。そうした方に限って、判断の依って立つ基盤を崩されると過度に弱気になる例もある。

自分の立場的な価値観ありきで物を考えず、紛争を取り巻く様々な事実経過や原理原則、事案の特殊性や関係者の適正な利害などを論理的かつバランスよく考える姿勢が、当事者にも求められる。

⑤リスクを負う覚悟を持つ

裁判などの闘争の渦中に身を置かず、リスクとリターンのないところで願望や不満ばかり述べても何も変わらない。裁判等をしなければ事態の好転は望めない事案で、かつそれが相応しいタイミングであるにもかかわらず、面談した弁護士に不満や願望を述べるばかりで前に進もうとしない(闘おうとしない)方は珍しくない。

⑥「みんな病」から脱却する

裁判闘争を嫌がり、話し合いで解決したい(すべきだ)と強く希望する方は少なくないが、そうしたケースに限って、「関係者みんなの話し合い」では何も進まない(進めることができない)状況に陥っていることが通例である。法の力を借りて実現すべき適正な要望(解決方法)があるなら、たった一人でも闘う姿勢を示し自ら智恵と汗をかくことで、紛争の適切な解決のあり方について、他の関係者にも認識を共有させることができる。

⑦「楽しさ」と利益の両立を

裁判は、正義と悪の対決ではなく、正義と正義(エゴとエゴ、自我と自我)の衝突と調整が基本であり、長期戦が通常。だからこそ、適正な利益を実現するための智恵や熱意だけでなく、質の高い裁判闘争を通じて争点が整理され、紛争が適切に解決されていく過程を楽しむ姿勢があった方が、結果として得るものが大きい。

⑧「知識を入れて、事案を練って、主張立証を絞る」

より良く裁判を闘うには、法律はもちろん、その紛争の解決に必要な様々な分野の知識、理解を得て、それを前提に、事案の内容を適切に分析し、その上で、贅肉だらけの冗長な訴訟活動をするのでなく、可能な限り必要最小限のポイントを突いた主張立証で、裁判官の支持(と相手の納得)を得るよう努力するのが基本。

⑨裁判で学んだことを、次の人生、社会に生かす姿勢を

裁判は人生の岐路になりうるし学ぶところも多いが、あくまで人生の一つの過程に過ぎない。現在の法制度の限界や改正のあるべき姿を世に伝えることも含め、そこで学んだことや解決によって得た利益を次の人生ひいては社会全体に生かす姿勢を持っていただきたい。

⑩10年後を見通せ

裁判と戦争はよく似ており、望外の(過大な)利益を得るなど勝ちすぎると、後で反作用が生じることが少なくないと言われ、そうした観点から、勝訴する側が敢えて譲歩した和解を希望するのも珍しくない。そうした解決方法に限らず、裁判が終局してから10年後に、ご自身やその他の関係者が、裁判で行われた議論や生じた結論に恥じることのない、何より、笑顔で暮らすことができるような将来を見据えて、裁判という闘いの場に臨んでいただきたい。

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最後になりますが、前記の木下氏講演会では、本書の購入者にはあまり有り難くない話?ですが、参加者に本書が1冊ずつ配布されていました。

私は、自分が読んだ本を持参してサインしていただきたかったのですが、愚かにも忘れてしまったので、やむなく、当日配布された本にサインしていただきました(ので、結果的に、本書が配布されて助かりました)。

というわけで、私の手元には本書が2冊あり、サインをいただいたものは有り難く事務所に鎮座させますので、私の手垢と折り目がついたもう1冊を欲しいという方がおられれば、ご遠慮なくご来所下さい。

海軍兵学校・陸軍士官学校の失敗と法曹界

以前の日記で触れた、半藤一利ほか「昭和陸海軍の失敗」(文春新書)について、紹介がてら取り上げます。

本書は、昭和史に関する著作で有名な半藤一利氏をはじめ、先の大戦(15年戦争)の研究者として著名な方や自衛隊の幹部を務めた方が、陸海の様々な旧軍指導者の人物像を掘り下げると共に、彼らが戦前や戦中の重用局面でどのような決断をして国家に何をもたらしたかを、対談形式で詳細に論じた本です。

私は少年時代は歴史マンガばかり読んでいた裏返しで、近現代史に疎い面があり、特に、大戦の経過についてはさほど知識がありませんので、色々と勉強になりました。

個人的に興味深く感じたのが、「昭和9年頃までは、海軍兵学校は毎年約130人を採用し、陸軍士官学校のそれは約370人だった」と書いてある部分(129頁)で、これを足すと500人となり、平成2年頃までの旧司法試験の合格者数と合致します(私が合格した平成9年は約750人と聞いています)。

少し調べてみたところ、Web上で流れていた情報では(個人のサイト等ですので保証はできかねますが)、明治末期にはもっと多い人数を採用しており、昭和初期に一旦は上記の人数まで減ったものの、昭和15年頃からは、大戦の影響と思われますが、双方とも採用数が5倍以上に激増していったようです。

そのため、「平和な時代には500人程度しか採っていなかったのに、時代の変化により一気に採用数を増やした」という点で、ここ数年の司法試験の合格者の激増に似た面があると感じました。

もちろん、司法試験の方は、海兵・陸士ほどの激増にはなっていませんし、現在の合格者数など一連の司法改革が、大戦の敗亡の如き凄まじい負の影響を社会に及ぼすなどと安易に決めつけるつもりもないのですが、「先の大戦」と「司法改革(による対外的なものを含めた法律実務家の活動領域の拡大)」を比較する視点も含めて、何らかの意味で、参考になるところはあるのではと思います。

また、上記の「500人の合格者」の「130:370」という比率も、ちょうど、前者(130人)が、当時の裁判官及び検察官の新任採用者の人数と概ね同様と思われ、裏を返せば370人という数字は、500人時代における年間の弁護士の供給(新規登録)人数と概ね合致すると言えます。

このように考えると、日本の法曹界(官=裁判官・検察官と、民=弁護士)も、官界(個々の裁判官・検察官のほか裁判所や検察庁の組織全体を含む)を海兵(海軍)に、民界(個々の弁護士のほか弁護士会を含む)を陸士(陸軍)になぞらえて本書の言葉を見ると、興味深く感じる面が多々あるように感じます。

例えば、次のような言葉を、上記の観点で日本の法曹界に当てはめて考えてみると、どうでしょうか。

海軍は陸軍よりも所帯が小さい分、人間関係が濃密」(129頁)、「海軍は、内部ではやり合うが、外に向かっては庇い合う。一艦一家主義の体質がある」(170頁)

陸軍は、創設当初は、大山厳や児玉源太郎が大戦略を考えてくれたので、参謀は戦術に徹していればよく、陸士・陸大は、少壮参謀用に教育した戦術中心主義を、総力戦時代に突入した昭和に入っても変えなかったので、視野の狭い人材教育しかできなかった(将帥教育ができなかった)」(39~43頁)

「陸軍は兵站を軽視した」(44頁。兵站は、弁護士で言えば、事務所経営にあたるかもしれませんし、弁護士業界がそうしたもの(個々の会員への経営指導やマネジメントの質の向上)を軽視してきたことは確かだと思います)

「陸軍は、陸大教育でも「独断専行」を重視する」(168頁)、「石原莞爾や辻正信のようなアクの強い人物は、海軍からは出てこない」(同)

「陸軍は、悪行の告発合戦、責任のなすりつけ合い、目を覆いたくなるものがある。海軍は、他人の悪口を言わないサイレント・ネイビーだが、裏返せば組織等のあり方について活発な議論がない、そのことが海軍を肝心なときに機能しない組織にしてしまったと言えるのではないか」(169頁)

「(陸士で育った高級将校が)戦争を観念で考え、精神主義に陥った」(123頁。「戦争」を「憲法」に置き換えて、日弁連などの活動を考えたら、どうでしょう)

「陸軍と海軍はある意味、対照的な性格を持っている。徴兵制で広く兵を集める必要があった陸軍は、必然的に民主主義的な性質を持たざるを得ない(東条英機のように維新の敗戦国の出身者の多くが昭和陸軍の指揮官となったのがその到達点)。他方、海軍は、国際的で開かれた環境を舞台とし高度な技術を駆使する関係で、厳しい階級制に基づく一種の貴族主義的なカルチャーが根底にあった。その違いは、両者のルーツ(陸軍=奇兵隊=四民平等の軍隊、海軍=薩摩閥=身分制度による序列意識)に求められる。その結果、海軍は一般の国民から遊離した存在になり、国民全体の運命に無頓着になったと言われている。」(227~228頁)

司法試験(憲法)の問題漏洩事件の雑感と余談

先日、司法試験の試験委員を長年つとめる法科大学院の教授の方が、あろうことか自身が中心となって考案した試験問題や模範解答を教え子の女子学生に伝え、さらに答案作成の指導までしていたという報道がありました。

このような「試験委員(特に、大学教授)による漏洩リスク」は、私が合格した時代を含め現在の司法試験制度には不可避と言わざるを得ない問題ですが、それだけに、絶対のタブーを犯したものとして民事上はもちろん、刑事上も厳しい対応が予測されます。

このニュースを巡っては、現在の法科大学院制度(特に、旧試験時代には受験界では聞いたこともないような大学を多数巻き込んだ粗製濫造の状態やそうした実情に起因する司法予算の「浪費」など)に批判的な考えを持つ同業の方々からは、現在、ロースクールが直面している生き残り競争が、こうした不祥事の背景にあるのではとの指摘もなされています。

報道では、教授の女子学生への一方的な恋愛感情(片思い?)が原因で、他の学生には漏洩等はしていないということですので、「法科大学院の生き残り」まで射程に入る話ではないかもしれませんが、少なくとも、制度の問題として、「試験の問題作成者等に法科大学院の教授が加入する」というスタイルは、そうした態様の事件も招くリスクを内在していることは確かだと思います。

ところで、私がこのニュースを見たときに最初に受けた印象(というか驚き)は、現在の憲法の司法試験委員の方に、個人的に存じている(お世話になった)方が二人、入っておられるという点でした。

一人は現職の司法研修所の教官の方(裁判官)で、司法研修所の同期の方であり、もう一人の方は、私が東京時代に就職した事務所に在籍されていた弁護士の方で、私の就職時に入れ替わりで独立された先生です(後者の先生も、現在は分かりませんが、数年前に研修所の教官をなさっていたはずです)。

今更申すのも何ですが、お二人とも、(前者の方は卒業以来、後者の先生も10年近くお会いしていませんが)法律家としての実力も人格的なことについても、本当に素晴らしい方々で、当時から、将来はぜひ研修所の教官になっていただきたいと思っていましたので(私に限らず、共通の知り合いの方々は、皆そのように思っているはずです)、そうした方々が教官や試験委員として重責を担っておられることに、とても嬉しく感じる面があります。

私自身は、しがない田舎の町弁として小さく生きていくのみですが、それでも、若い頃にお世話になった素晴らしい方々が、その実力や識見に相応しい道のりを進んでいかれる姿を拝見していると、自分なりにできることがないかと考える意欲というか、励みになるような気はします。

他方、問題の教授の方は、私が受験生だった時代(平成9年頃)には著名ではなく、今回の報道で初めてお名前を知りました。恐らく、受験生向けのものを含め、講義を受けたこともないと思いますし、論文等を拝見した記憶もありません。

事件そのものについて、部外者の立場でどうこう申すのは差し控えたいと思いますが、少なくとも、司法試験の制度のあり方(実務のディテールを含め)を巡る議論にこの件が結びついてくることは確かだと思います。

もちろん、設問作成にあたり、各科目の学会等を代表する教授の方々に近時の重要論点に関するご意見を伺うのは必要不可欠だと思いますが、設問は実務家委員のみで作成し、教授の方(類型的に受験生と接する機会のある者)には委員であっても採点開始まで開示しないという選択肢も、今後は議論されるのではないかと思われます。

損保会社と弁護士ドットコムが「新・日弁連」になる日~完結編

「弁護士費用保険が変える弁護士業界の近未来」に関する投稿の第6回です。第5回の文章が長くなりすぎたので2つに分けましたが、今回は「あとがき」のような内容です。

10 現代を生きる法律実務家、そして利用者の夢と革命

ここまで述べてきたことについて、最も難点として感じる点を申せば、一連の話は、カネを中心とした事柄なので、人々(特に、若手弁護士を中心に今後、相当数発生し固定化するであろう低所得者層)を熱狂させるような夢がないように感じます。

やはり、社会が大きく変化したり、その変化をもたらすために我が身を捨てて死力を尽くす人が次々に登場するためには、金銭的・実利的な話だけではダメで、現状に不満を持つ人のツボに訴えかけると共に、その不満を正義の旗のもとに一挙に解消してくれるかのような話(大義名分)が伴わないと、人は動かないのだと思います。

この点は、以前にも少し書きましたが、幕末(維新回天)との比較で言えば、尊皇攘夷・倒幕思想のような「夢」(体制変革を正当化する物語)が欲しいということに尽きるでしょう。
→ 司法革命の前夜?

仮に、今回の話を幕末になぞらると、弁護士費用保険の普及・進化によって損保大手が法的サービス業界で強い存在感、影響力を持つようになれば、いわば、雄藩(薩長)として、経済面で「志士」(司法サービスのあり方の変革に取り組む弁護士)を支える役割を持ちうることになります。

他方で、カネだけで体制が動くはずもなく、体制自体を揺るがす事態(異国の脅威)はもちろん、志士に魂を吹き込む吉田松陰のような人物ないし思想が登場しないと、革命(体制転覆)が生じることはありません。

この点、弁護士大増員政策により、二割司法から八割司法の社会へと転換する可能性が高まっていますが、そのような転換を前提に、弁護士業界ないし司法制度のあり方に抜本的な変革を起こす原動力となる「思想」が何であるか、言い換えれば、日弁連(既存の弁護士制度)が実現できていない・できそうにない「八割司法を支える、現代の法律実務家の夢」とは、どのようなものであるのか、私もまだ分かりません。

ただ、「需給双方が満足できる低コストで適切なリーガルサービスを全国に普及させること」を、現代の法律家が実現すべき「夢」と捉えるのであれば、保険がその有力な手段になることは間違いないはずです。

そして、そのような普及云々の仕組みができる上では、どちらかと言えば、日弁連よりも保険業界側(及びそれと提携して上記のスキームを作り上げることができる弁護士)の方に、より大きな役割・存在感を発揮しうる潜在的な可能性が高いように思われます。

さらに言えば、そのこと(多くの紛争や社会的問題が司法システムを介して法的理念に基づき解決されること、解決されるべきとの国民的認識や主体的な実践が広く生じること)を通じて、本当の意味では今も我が国に実現しているとは言い難い、「日本国憲法の基本的な価値観を体現した、人権(個人の尊厳)と民主政治(人民の社会に対する意思決定の権限と責任)が調和する社会」を創出できるのであれば、それは、多くの人を惹きつける「夢」と言えるのかもしれません。

或いは、「政治家・元榮太一郎氏」は、次のステップとして、そのような潮流を主導することに野心ないし理想を抱いているのかもしれません(少なくとも、そのような方向に野心ないし理想を向けている「名のある弁護士」を、私は他に存じません。敢えて言えば、増員派の巨頭というべき久保利英明先生らも、法科大学院の粗製濫造ではなく、弁護士費用保険の推進にこそ力を注いでいただければ良かったのではと残念に感じます)。

また、上記のような流れが出来てきた場合に、現在のような「一人事務所=零細事業主が中心の弁護士業界」が存続できるのか、私のように昔ながらのスタイル(零細事業主)で仕事をしている身にとっては、不安を感じずにはいられません。

ただ、「弁護士の自治・自由」という制度ないし文化を個々の担い手が死守しようとするのであれば、零細事業主というスタイルが一番合っているとも言えるわけで、その限りでは、企業弁護士中心の弁護士業界という流れは考えにくいと思います。その意味で、「独立性の高い自立した専門職企業人について、かつてない新たな生き方が芽生えている業界」があれば、参考になるのかもしれません。

また、弁護士費用保険の普及に先だって、医療保険制度の運用に関し、医療従事者と保険制度の運営者(国家機関など)との力関係や依存度等の実情がどのようになっているか、弁護士業界は、改めて調べるべきではないかとも思われます。

生命保険については、ここ数年、ライフネット生命(ネット生保)のように業界の革新を感じさせる話題もありましたが、損保業界では、そうした話を聞くことがあまりないように思います。保険制度を通じて弁護士業界を手中に収めてやろうなどという野心、或いは、業界内部で実現できていない「需給双方が満足できる低コストで適切なリーガルサービスを保険の力で全国に普及させたい」という高い理想をもって取り組む事業家が出現しても良いのではと、他人事ながら?思わないでもありません。

それこそ、ハードボイルド小説家弁護士こと法坂一広先生に、上記の事柄もネタにした業界近未来小説でも作っていただければ、サイボーグ・フランキーとセニョールも喜ぶことでしょう。

ともあれ、私のような、事務所の運転資金に汲々とする毎日のしがない田舎の町弁が、このような大きな話に関わることはあり得ないのでしょうから、さしあたっては、弁護士費用保険の制度維持の観点も含めて真っ当な業務に努めると共に、お世話になっている損保企業さんから取引停止される憂き目に遭わないよう、適正な仕事を誠心誠意、続けていきたいと思っています。

大変な長文になりましたが、最後までご覧いただいた方に御礼申し上げます。

損保会社と弁護士ドットコムが「新・日弁連」になる日~本題編②

「弁護士費用保険が変える弁護士業界の近未来」に関する投稿の第4回です。

弁護士費用保険が普及すれば、弁護士業界が大きく変容していくのではないかという趣旨のことを述べた投稿の4回目です。今回は「顧客への品質保証などの観点から、保険会社と町弁側を繋ぐ役割を担う企業が業界内で大きな機能を果たし、影響力を増していくのではないか」というテーマについて書きました。

6 弁護士の斡旋(マッチング)サービスと医療界との比較

前回は、「弁護士費用保険の利用者は、弁護士のコストの無料・低廉化を求めるだけでなく、依頼のニーズに適合する弁護士の斡旋等の機能も、保険商品が果たすことを期待しているのではないか。そして、そのニーズに応えるため、町弁に関する幅広い情報提供や斡旋サービスを行う企業が、存在感を高めていくのではないか」という趣旨のことを書きました。

ところで、医療の世界に関しては、日本は国民皆保険制度になっていますので、私も含め、多くの方が、医療に関する公的保険の費用(税ないし保険料)を負担していますが、他方で、私が知る限り、少なくとも公的な医療保険には、ここまで述べてきた「自分の症状に対する適切な診断、治療を行ってくれるお医者さんの紹介」を担うようなサービスは無いのではと思います(いわゆる医療保険にはそのようなサービスがあるのか、勉強不足のため存じません)。

私自身、自分に一定の症状が生じた場合に、そもそも何科に行けばいいのかすら分からないことが多いので、そうしたサービスがあればと感じるところはあります。

反面、そのようなサービスが発生ないし普及しないのは、少なからぬ方が、まずは地元の診療所を利用し、それで対処し切れないと診断された場合には、地元の大学病院を紹介され、それでも対処し切れない(特別な対応が必要・相当だ)と診断された場合には、支払能力があることを前提に?国内の限られた一部の医療機関を紹介され、そのサービスを受けるという仕組みが、割と出来上がっている(その過程で医師から受ける診断やアドバイス等を信頼する文化がある)からなのかもしれません。

そのような観点からは、何らかの法的問題を感じた方が、「かかりつけ医」ならぬ「かかりつけ弁護士=最寄りの(かつ、自分と相性がよい)町弁」に相談し、その町弁では対処しきれない問題は、地元の大事務所や特殊な技能を持った弁護士さんに、という文化が存在すれば良いのではという観点もあるかもしれません。

ただ、弁護士業界に関しては、「大事務所」化している(それが機能している)のは、特定分野への専門特化が強く要求されている企業法務の世界が中心で、町弁の世界では、ある程度の人数がいると言っても、普通の町弁の寄せ集め(集合体)に過ぎないケースも多々ある(言い換えれば、お医者さんの世界に比べて、地元の小規模事務所で十分対処できる業務の方が、遥かに多い)ように思います。そのため、「大病院と町医者」という役割分担のシステムが適合しにくい業界であり、上記のような「町弁Aから専門弁護士Bへの紹介」という紹介システムが機能しにくい面が強いと思います。

また、医療の場合、国民皆保険なので、かえって医師の格付けや斡旋などの仕組みが作れない(横並び的性格が強まりやすい)のではという面もあるのではと思います(もし、保険廃止=自費負担が原則となれば、皆保険社会に比べて、医師間の競争が熾烈なものになりやすいのではと思います)。

この点は、米国の医療保険制度(における医師の斡旋等の仕組みの有無など)を、弁護士費用保険との比較などの観点から研究していただける方がおられればと思わないでもありません。

7 弁護士紹介・選別・格付け業者の台頭と斡旋報酬規制の撤廃?

これに対し、一定のサービスを付して保険商品として販売する方式であれば、競争原理が働き、「我が社の保険は良質な弁護士の斡旋サービスも伴っているので、他社商品より優れている」などと消費者に売り込む(かつ、その体制づくりをする)保険会社も、やがては登場するかもしれません。

ただ、前回述べたとおり、その斡旋機能を保険会社自身が適切に果たしうるか(果たすだけのシステムを作れるか、その意欲があるか)という点には疑問があり、弁護士の斡旋ができる(前提として、利用者のニーズを把握する質の高い相談機能と、そのニーズに合うだけの弁護士を紹介・マッチングできるだけの、業界・業界人への知見や人的ネットワーク等の機能を備えた)企業が、社会的なニーズとして求められてくるのではないかと思います。

そして、私の知る限り、現時点で、そのポジションに最も近い位置にある(かつ、他の追随を許していないと評しても過言でない)のは、「弁護士ドットコム」だと言ってよいのではと思います。

ただ、現時点で弁護士ドットコムが果たしている役割は、せいぜい弁護士の紹介機能(無料相談サイトによる能力紹介ないしマッチング的な機能を含め)に止まり、上記のような意味での斡旋機能を果たしているとは思われません。

また、弁護士ドットコムという企業が、ここまで述べてきたような「顧客のニーズに適った弁護士を紹介できる適正な斡旋」を果たしうる企業と言えるのかという点も、(同社の実情を把握しているわけではありませんが)現在の弁護士ドットコムのサイト情報など、公開されている情報を見る限り、まだまだ未知数だと思います。

このような機能・役割を果たすには、町弁が従事する基本的な諸業務及び基礎となる法制度などに通暁することを要すると共に、長年に亘り、弁護士業界(又はその周縁)に身を置いて、多くの弁護士の仕事ぶりや建前と本音、業界の理想と現実を見て、体系的に業界情報を収集、整理している方でないと、到底担えるものではありませんから、元榮氏が創業した新興企業というべき弁護士ドットコムが、現時点でそれだけの知見、ノウハウを企業として有しているか(短期間で備えうるかも含め)、懐疑的と言わざるを得ません。

敢えて言えば、現在、弁護士ドットコムが、一般向けのQ&Aなどの事業を盛んに行っている点は、それに参画している弁護士の情報を整理することで、ツールの一部として活用することができるのだろうとは思いますが、もちろんそれだけで足りるような話でもないでしょう(元榮氏が弁護士ドットコムの創業について記したご著書をまだ拝見していませんが、このような観点から読んでみれば、色々と分かることがあるのかもしれません)。

さらに言えば、そもそも、本格的に(業として)弁護士の斡旋を行おうとすれば、現行の弁護士法72条に明らかに違反しますので、そのような業務を営むこと自体が不可能です。そのため、現在、事実上の弁護士紹介(斡旋)サービスを行っている事業者は、基本的に、利用者ではなく弁護士から、広告料という形で、その対価を徴収するに止まり、個々の相談・委任希望者と個々の弁護士とのマッチングには従事していないはずです。

ただ、その結果として、「紹介するに相応しい弁護士」よりも、「仕事が欲しい弁護士」の方が、そのようなサービスを多く利用しているため、時には、我々(同業者)に言わせれば誇大広告ではないかと感じるような文言を掲げて宣伝しているのを見かけるという、「逆説的な供給サイドの都合優先じみた光景」が生じていると、言えないこともありません。

とりわけ、それら「宣伝熱心系」の弁護士(事務所)の中には、顧客に過大な報酬を請求・取得し、それを広告費用の原資にしているのではないかなどと業界内で白眼視されているものもありますので、なおのこと、弁護士の広告(一般向けの情報提供)のあり方を巡っては、現在の風潮のままでよいのかという印象を拭えません。

この点、元榮氏が次回の参院選に出馬されるとのことで、そのことと直ちに結びつくかどうか分かりませんが、将来的には、弁護士法72条のうち弁護士紹介業を禁止している部分は、現在の社会では合理性のない規制だとして規制緩和等の運動が起き、撤廃ないし修正をされる可能性が相当に出てきているのではないかと感じます。

すなわち、かつての「二割司法」の時代は、(当時の司法の状況なども踏まえ、弁護士であれば、誰に頼んでも、概ね問題ないサービスが受けられるという認識のもと)弁護士のサービスを利用できる層ないし事件が限られていたため、「弁護士を紹介・斡旋できること」自体に財産的価値が生じやすいという面があり、そのことで、「弁護士の支援を必要とする社会的弱者」から不当な暴利を貪る輩が存在したことから、それを禁圧する趣旨で、有料斡旋禁止の必要性(を基礎付ける立法事実)があったと言うことができます。

これに対し、弁護士数の激増に加え、町弁業界ですら一昔前に比べて様々な約束事が増え、弁護士なら誰でもこなせるわけではない仕事が増えている「八割司法」の時代になると、「希少種を紹介する対価として不当に暴利を貪る輩」が生じる可能性が相対的に低くなり、むしろ、自分が依頼したい業務をこなせる弁護士が誰か(どこにいるのか)等を把握したいというニーズに応えるべしとの声の方が高まるのではないかと思います(もちろん、そのように言えるかという立法事実の問題も、慎重な調査、検討が必要と言うべきでしょうが)。

そして、その結果、一定の条件(営業方法規制や弁護士の経営関与及び弁護士会の監督など?)を付して、有料紹介業を解禁するという展開が、少なくとも近未来の可能性としては、相当程度、出てきているのではないかと思います。

8 法テラスとの比較について

ところで、ここまで専ら「弁護士費用保険が普及した場合に(或いは普及の前提として)、弁護士を選別(マッチング)するシステムを、顧客(契約者)や設営者(保険会社)が求めてくるのではないか」という観点で書いてきましたが、同じことが法テラスについては生じないのかという検討は、あってよいと思います。法テラスも、報酬基準や立替制などの違いはあれ、「依頼の際に費用を支払わなくとも弁護士に依頼できる(受注側も依頼者の支払リスクを回避できる)システム」という点では、弁護士費用保険と同じ機能を有するからです。

とりわけ、法テラスが資力要件を撤廃した場合には、弁護士への依頼業務の多くが法テラス経由となるのではないかと見る向きもあると思います。

ただ、法テラスは立替=結局は自己負担であることに代わりありませんし、受注側にとっても、(低額報酬に相応しい簡易事案はともかく)すべての事案で法テラスの報酬基準が貫徹されると、経営維持が困難として忌避する傾向は大きいでしょうから、利用者・受任者双方にとって難点を抱えた(メジャーな存在になりにくい)補完的な制度としての色合いは否めないと思います。

震災無料相談制度の恩恵に浴している被災県の弁護士としては、現在の「30分までの無料相談業務」に関しては、資力基準や法人排除を撤廃して良いのではと思いますが、受任事件に関しては、資力基準を撤廃してからといって、法テラス方式が当然に普及するわけではない(その点は、保険制度と大きく異なる)と感じます。

(以下、次号)

損保会社と弁護士ドットコムが「新・日弁連」になる日~本題編①

「弁護士費用保険が変える弁護士業界の近未来」に関する投稿の第3回です。

弁護士費用保険が普及すれば、弁護士業界が大きく変容していくのではないか(弁護士側も、それを必要とせざるを得ないのではないか)という趣旨のことを述べた投稿の3回目(ここからが本題部分)です。

4 弁護士費用保険の普及と「弁護士の品質確保と選別・監督機能」

ところで、現在の弁護士費用保険(前回に述べたとおり、私はプリベント社の保険の実情を存じませんので、損保各社が展開している自動車保険の特約を前提に述べます)は、基本的には、契約者(利用者)自身が依頼する弁護士の費用を保険契約の範囲で補填するという定めをしているに止まり、弁護士の斡旋等を当然に含んでいるわけではありません。

もちろん、多くの損保社では、それぞれの地域に、顧問ないし特約店である弁護士(加害者側でその損保社の保険給付の必要が生じた場合に、損保社が加害者代理人として対応を依頼する弁護士)を抱えていますので、契約者ご本人のご希望があれば(或いは、保険商品の販売代理店から相談があれば)、その弁護士を被害者代理人として紹介するという例が多いのではないかと思います。かくいう私も、仕事でお世話になっている損保会社さんがあります。

ただ、利用者の立場で「弁護士のサービスを受ける保険」を突き詰めれば、それ(費用補填)だけで十分というのではなく様々なニースがあることは、優に想像できることです。

なんと言っても、利用者としては、弁護士の費用負担を免れれば(保険が払ってくれるのなら)それでよいというものではなく、依頼する弁護士が、利用者(依頼者)の依頼の趣旨に合致する仕事を適切に行ってくれること=そのような弁護士を斡旋すること(品質保証)も含めて、その保険商品に機能して欲しいと希望していると思います。

もちろん、10年ないし数年前までは「依頼する弁護士の質」というのが問題とされることは、町弁業界では滅多に無かったと思います。弁護士費用保険の有無などもさることながら、弁護士の絶対数や情報流通などの問題から、顕在化しなかったという面があるのではと思われます。

これに対し、現在では、町弁の絶対数の増加に伴い、供給者側の問題(研鑽の度合いなどに関する一定のばらつき)はもちろん、利用者側も弁護士を選択、選別できる権利ないし利益があるという意識が高まっていることは確かだと思います。また、レアケースとはいえ、近時は不祥事などで突然死(事業停止)する弁護士も出現していますので、そうした理由で、依頼先の弁護士(法律事務所)の健全性に対する関心も生じていると思います。

言い換えれば、現在の弁護士費用保険制度は、「弁護士を原則として無料(保険料のみ)で利用できる」という低コスト利用の要請については概ね満たしていると思われますが、品質保証(保険を利用して依頼する弁護士が、対象となる業務を、実務水準や顧客の資質・個性などに照らし適正に遂行できること、ひいては、そのような弁護士を紹介・斡旋すること)という面では、十分に機能しているとは言えないと思います。

まして、保険を利用して依頼する個々の弁護士の業務に対する監視・監督や、上記の業務停止等によるトラブルの防止策(経営状況の監視・監督)や被害補填などという点では、およそ機能していないと言ってもよいのではないでしょうか。この点は、加害者側であれば、保険会社が自ら賠償金の支払をする関係で、方針の策定段階から全面的に保険会社が主導し、誤解を恐れずに言えば、弁護士は「損保の意向を忖度して行動する手足」として仕事をするに過ぎない(その意味で、依頼者から弁護士への業務監督機能が貫徹されている)ことや、継続的な委嘱等を通じて、委嘱先の弁護士への情報収集などが行われている(のでしょう)ことと、大きく異なっていると言えます。

また、利用者サイドの事情だけでなく、供給者(弁護士)側の状況も、かつてとは大きく異なっています。端的に言えば、事務所(弁護士としての自分)の存続のため、弁護士費用保険を利用した事件の受任を必要とする弁護士が、かつてなく増えていることは確かだと思います。

その上、町弁の仕事・研鑽は大半がOJTという性格が強いことから、町弁の多くが、弁護士費用保険を通じた事件受任に依存する面が強まれば、そのことは、研鑽等の機会も保険に依存する面が強くなるということになりますし、何らかの形で損保会社から業務上ひいては経営上の監視・監督を求められることも受け入れていかざるを得なくなるのではと思います(この点は、法テラスも同様ですが)。

要するに、弁護士費用保険の課題ないし未来像として、低コスト利用機能のほか、品質保証などの機能も果たすことが期待・要請され、これを果たそうとすれば、利用者サイドのニーズに応える形で、保険会社が町弁の業務への関与・干渉を深める方向に舵を切っていくことが予測されるということです。

5 弁護士の格付けや依頼者のニーズに即した斡旋を行う企業

ただ、弁護士費用保険を販売する損保各社が、近いうちにそうした機能を果たすことができるかと言われれば、少なくとも現時点ではそのような能力も意欲もない(今のところは、最近話題の不正・過大請求を抑止し、トータルで黒字事業を営むことができれば十分と考えている)と感じます。

一般論としても、損保各社が弁護士の各種能力や経営その他に関する詳細なデータを集めて、それをもとに保険契約者に弁護士を斡旋等するというのも、現実的ではないと思われます(ただ、保険利用にあたり会社の同意を求めるという約款を用いて、各社の地域拠点ごとに存在する顧問などの弁護士に事実上、集約させていくという手法を採用する会社は生じてくるかもしれません。その社は日弁連LACには加入しないのでしょうし、それがその損保会社にとって賢明な選択と言えるのかどうかまでは分かりませんが)。

そこで、保険会社に代わって、弁護士の各種能力に関する情報を収集、集積し、利用者のニーズ(簡易案件か困難案件かなどの判断も含む)や個性などに応じて、そのニーズに適合するような弁護士を抽出して紹介・マッチングするような、一種の「弁護士の格付け・斡旋企業」が求められてくるのではないかと考えます。

また、その企業が、不正・過大請求をするような弁護士を排除して良質な業務を低コストで提供する弁護士を中心に紹介等するのであれば、利用者サイドだけでなく、保険会社側にも必要・有益な存在として歓迎されるでしょうし(約款の定め方などにも影響しそうです)、そのような斡旋等のサービスが弁護士費用保険の対象外の事案でも利用できるのであれば、その役割(町弁業界におけるプレゼンス)は、著しく向上するのだろうと思います。

もちろん、そのような「格付け・斡旋企業」なるものが、一朝一夕にできるわけもなく、現時点では夢想の域を出ないかもしれませんが(法規制の問題もありますし)、仮に、我が国で、そのようなサービスが本格的に生じうるとすれば、現在のところ、元榮太一郎氏が率いる「弁護士ドットコム」が、その最右翼と言えるのではないかと思います。

(以下、次号)