北奥法律事務所

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弁護士

岩手県立病院の跡地群での医療系廃棄物の大量埋設問題に関する県民への問題提起

前回も投稿しましたが、私が受任中の事件に関連して県民の皆さんに知っていただきたい問題がありますので、お時間のある方はご一読下さい。

具体的には、約50年ほど前、県内各地の旧県立病院に当時、医療系廃棄物が大量?に埋設され、現在も大半の跡地で未調査・未解決(放置されたまま)と思われる、という問題です。

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私が受任している事件は、数十年前にK町中心部で操業していた旧県立病院が、当時、住民からの借地である敷地内に膨大な病院廃棄物を埋設した件で、約3年前に判明した後も、県側(医療局)が撤去や費用負担などを事実上全面拒否したため、やむなく提訴に至ったものです。

訴訟では、出土時まで放置したことへの県の責任も論点となっていますが、同種事件は平成20年前後に少なくとも3箇所の旧県立病院で発覚しており、本件は、いわば4件目(但し、借地案件では唯一)となります。

これまで、県庁(医療局)は他の3件では全て県費で埋設物撤去や費用支払をしており、本件に限って対応を拒否しているのは、他の案件が県の所有地だった(ので売買時に瑕疵担保責任を負う)のに対し、本件は借地なので瑕疵担保責任がないから埋設行為に法的責任がない、との主張に基づくものです。

埋設行為は廃棄物処理法の制定前(旧清掃法)で、県は「当時は埋設しても清掃法違反でないから原状回復義務がない(埋めて放置しても貸主に対し責任は生じない)」と主張しており、そのこと(清掃法違反の当否や公法と私法の区別など)も大きな争点となっています。

当方=貸主から土地を買い受けた者(地元自治体)は「撤去だけで数千万円を要する膨大な廃棄物を埋設した借主は当時であっても民法上の原状回復責任を負うはずだ、自分の土地(県有地)に埋設したときは撤去するのに、借地なら放置しても良いというのは非常識だ」などと主張し、大きく3つの法的構成に基づき撤去費用等の支払を県庁に求めています。

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以上が前置きで、ここからが本題なのですが、本件で埋設行為が行われたとみられる昭和20~40年代前半頃の時点で、岩手県には現在と同じく20箇所以上の県立病院があったようです。

現時点で、埋設問題が発覚したのが本件を含む4件(うち1件は小規模?で、他の3件は億規模の諸費用を要した事案)ですが、果たして、二十数箇所の旧病院のうち、埋設問題があるのは「この4件だけ」と言えるでしょうか?

ほかならぬ県庁自身が「当時は、敷地内に埋設するのが当然だ(その結果、数千万円の撤去費用を要する結果を借地に生じさせ3年前に発覚するまで放置し続けても、知ったことか)」と主張しているのに、です。

実際、近年も一関や山田町の県立病院跡地で、県の負担で土壌汚染対策工事がなされているようです(K病院だけが、借地だからという理由で負担拒否の姿勢が続いています)。

オガール紫波の岡崎さんは、本件で訴訟提起した際の私の投稿をご覧になり、「県知事選の争点にしても良い問題だ」と仰っていました。

これは、本件裁判の当否などという(誤解を恐れずに言えば)小さな話ではなく、二十数カ所の旧県立病院の跡地の大半で、森友学園もビックリの医療系廃棄物の大規模埋設問題が未解決となっている可能性はないか、その危険を放置して次の世代に押しつけてよいのか(むしろ、それを適切に対処した上で土地の価値を高める開発をすべきだ)、と提起されたものと認識しています。

とりわけ、この問題が本格的に発覚した(他の大事件が判明した)平成20年代半ばの時点で県庁が全件の埋設調査などに取り組んでいれば、本件で撤去費用以外に生じた多くの損害の発生が回避できたはずで、そのことは訴訟で問題提起し、裁判所も関心を示しています。

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私はこの裁判の期日のたび、地元記者達の囲み取材を受けており、これまで何度かその話を記者達に伝え、他の旧県立病院跡地群の実情がどうなっているか、調べたり記事で問題提起いただけないかとお願いしました。

が、残念ながら、今のところ、その問題が取り上げられた報道を見たことがありません。県議会の記事などで取り上げられているのも見たことがなく、残念に感じています(本件に触れたNHKの特集番組の制作者の方は問題意識を共有いただいたものの、番組で取り上げられるには至りませんでした)。

本日の期日で提出した当方の書面では、他の病院跡地への対応がどうなっているか回答して欲しいと県に要請しており、そのことは自身の選挙区に旧病院跡地を抱えている県議や県民の方々にも関心を持っていただければと思っています。

また、県立病院だけでなく、県内で昭和20年代~40年代前半頃に操業していた別の大規模な病院でも、同種の土壌汚染が発見された例があります。

そして「数十年前に借地上に大規模事業所が設けられ、人体に危険を及ぼすリスクのある物質を扱っていた」例は、病院に限らず岩手に限らず幾らでもありうると思います。

「廃掃法制定前(清掃法の時代)なら、借地には、どんな危険なゴミでも、どれほど膨大な量でも捨て放題(埋設者の責任は一切問えない)」との主張が罷り通るのでは、膨大な撤去費用という貧乏くじを引かされる現在の所有者は浄化を諦めて放置せざるを得ないでしょうし、本件のように何らかの事情で税金の負担により浄化せざるを得なくなった場合も、納税者=住民・国民等は納得できないはずです。

私は訴状などで「自ら汚染した者が法の不備を理由に責任を免れ、率先して大地の浄化に尽力する者が酷い目に遭う社会は絶対に間違っている。何より、県庁自身が、その気持ちで県境不法投棄事件の解決に取り組んでいたはずだ」と書きました。

この気持ちを、裁判所は言うに及ばず、県庁の方々も共有いただけることを願って、被害者(請求者)側代理人の立場で今後もできることに努めていきたいと思います。

 

憲法記念日が来るたび、万物の尊厳を掲げる憲法を願って

本日は憲法記念日です。憲法のおかげで司法試験に合格できた私に限らず、皆さんも憲法について何か考えていただければと思っています。

平成後期から現在まで10年以上、世論調査では「憲法改正を経験してみたいが自民党案は支持しない」という状態が続いています。

現下の厳しい国際情勢から、自民党案(自衛隊や緊急事態条項)を諦めのように?受容する比率も増えたようにも見えますが、国民が積極的に望んでいるものとは到底言えず、安全保障であれ災害対策であれ、憲法ではなくまずは個別の政策や政治家等の努力での善処を期待するのが国民世論かと思います。

言い換えれば、国民が歓迎・希望し世界に誇れるような憲法改正案は、今も国民世論には示されていません。

私は、5年ほど前から「憲法の頂点である『尊厳』は、人類(憲法13条)だけのものではない、人にあらざる存在にも個々の特性に応じた尊厳が守られるべきとの規定(万物の尊厳。憲法13条の2)を創設すべきだ」と考え、1年前に述べたものをはじめ、時折、それに関する投稿をしています。

いつの日か、国民世論に改正案を呼びかける書籍を出版したいと思いつつ、毎年のように、今年も余力ありませんでしたと書く有様が続いてはいますが。

過去に何度も書いていますが、日本国憲法が辿った歴史に照らせば、我々が最初に経験すべき憲法改正は、

・日本や世界が希求すべきであるのに現行憲法には定められていない価値に関するものであること

・日本人や日本社会が辿った長い道のりに照らしても、違和感のない価値を掲げるものであること

・判例実務の単なる追認であるとか戦争の備えのような後ろ向きのものではなく、国民や世界人類に向かって日本がよりよい社会を築こうとする姿勢を表明するものであること

言い換えれば、皆が『いいね!』と歓迎し祝福できるような前向きな規定こそが最初に行われるべき憲法改正であり、それを実現するのが、曲がりなりにも戦争を経験せずに済む幸福な時代を生きることができた、我々の責務ではと思っています。

そして、現在の人類が置かれた状況や日本(列島)の歴史風土等に照らしても、万物の尊厳こそが、この付託に応えうる改正案だと確信しています。

宮澤賢治の言葉を殊更に真似ずとも、人類の幸福もまた万物の尊厳のもとでしか成り立たないというのは自明なのですから。

当方は限られた受任費用で膨大な作業を余儀なくされる仕事ばかりが続き、書籍出版など夢のまた夢となっていますが、この言葉を、日本そして世界に、いつの日か広く伝えることができればと願っています。

鎌倉長谷寺にて、カトリック的仏教とプロテスタント的仏教の歴史と異同に思いを馳せる

鎌倉編のおまけに、長谷寺に赴いた際に考えたことについて書きます。

鎌倉長谷寺は紫陽花の名所として有名であり、どうして文化財指定を受けていないのだろうと感じる、巨大な十一面観音像が本尊となっています。

御仏も鎌倉殿に馳せ参じ
競えど殺さぬ世を導けり

長谷寺の創建時期は不明(伝承では天平期)ですが、一般的理解では鎌倉期から幕府関係者を中心とする時の権力者・有力者の庇護のもとで発展した寺院であり、奈良・平安仏教などと共に、広義の「鎮護国家系仏教」と言えるでしょう。

建物や敷地内には多くの日本の寺院と同様に様々な種類の仏像・地蔵像などが多数入り乱れ、いかにも多神教的な印象を受けます。

ただ、有力者の庇護を受けた寺院に様々な「ランキング」化された仏像などが並べられるのは、それが、貴人(支配階級)の序列社会の光景に馴染む面があるからなのかもしれません。

カネ主たる有力者にとっては、色々な仏様から多様な御利益を受けたいとのニーズもさることながら、偉い仏が沢山いて序列化されている光景を眷属(配下・庶民)に見せて「それが当たり前」とすること(権威化)で、自分達=支配階級の序列社会への服属心を高める効果(ひいては自身の安心感)を期待できたでしょうから。

そう考えると、仏達の序列社会的な表現を伴う鎮護国家系仏教はカトリックに、阿弥陀仏とか妙法蓮華経など特定の如来等を唯一神化する一向宗や日蓮宗などは、プロテスタントに似ているように感じます。

日本のキリシタンも、渡来したのはカトリックですが、この文脈からは、プロテスタント的なものと位置づけられるでしょう。

一向宗などの「プロテスタント的仏教」は一神教的で拝む対象も限られ、排他的傾向がある(あった)のに対し、それ以外(以前)の「カトリック的仏教」の方が多様で寛容な傾向があるようにも感じますが、それは、既存の権威秩序を尊重することが条件である(そのような意味で保守的である)と言えるのかもしれません。

だからこそ、プロテスタント的仏教には、既存秩序を転覆する革命志向的な側面があり、それが一向一揆や同時期の法華宗、キリシタンの弾圧は、弾圧側の担い手たる武家勢力が基本的には旧教(カトリック的仏教)の庇護者であることに照らしても、日本版の宗教戦争にあたるようにも思われます。

日本では新教側が米国のような独立国を作ることはできず、武力闘争としては旧教側が勝利したものの、旧教側も比叡山焼討をはじめ固有武力や政治への制度的な影響力を失い、幕府に庇護された一定の利権を別とすれば、政教分離に近い光景が出現しました。

新教側も、あたかも敗戦後の日本のように、武力(主権)放棄と引き替えに宗教活動の自由を得て、江戸期には戦国期以上に発展したと言えるでしょう。

それらの光景は、基本的にカトリック国であるものの革命時に政教分離が極端に進んだフランスに、似ているようにも見えます(当時、暴力的な教会弾圧もあったのだそうで、宗教利権への反発を含んだ日本の廃仏毀釈や中国の文革に近い面があるかもしれません)。

他方で、かつてプロテスタント的仏教の人々が抱いたであろう「革命の夢」は、我が国では地下深く(人々の抑圧された深層)に眠り、ごく稀に、例えば、オウム真理教のような形で露出することになったのかもしれませんが。

現代日本人が仏像群を拝見しながら宗教心をかき立てることは難しいかとは思いますが、こうした形で社会のありようを考える機会として活かしていただければと思います。

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(後編)

昨年末の鎌倉来訪に関する記事の後編です。

源氏山を東側から下山し、寿福寺に立ち寄った後、しばらく南下して鶴岡八幡宮に着きました。

鶴岡八幡宮は今回の主要目的地ということで、宝物殿を含め、可能な範囲で神社内を色々と拝見しました(が、話題の大河館は2時間待ちで諦め、国宝館は休館中で残念でした)。

鎌倉の象徴であり武家の守り神とも称されるこの神社は、源頼義により創建され頼朝の手で現在の姿となったもので、蝦夷の末裔たる東北人にとって仇敵の神殿という面があることも、忘れてはいけません。

と同時に、源氏(河内源氏)宗家はこの地で無惨な最期を迎えたわけで、そのこともまた、この神社の業の深さを感じさせるものと言えます。

ともあれ、千年前に時代に翻弄された人々の鎮魂を祈って一句

しめなわに禍福あざなす鶴ヶ岡

また、源実朝が落命した八幡宮の階段にて、山形県鶴岡市で先日生じた雪害事故も脳裏をよぎって一句。

この坂はまさかの雪が仇となり


その後、私にとっては今回の主要目的地にあたる「頼朝と義時の墓所」(法華堂跡)に行きました。

事前に勉強せず行きましたので、最初に上った頼朝の墓の区画に義時の墓もあるのかと右往左往しましたが、ほどなく、双方は別の場所に設けられており、それぞれ別の階段から上る必要があることが分かりました。

鬱蒼とした頼朝の墓(江戸期に整備されたもの)に比べて義時の墓所(跡地)の方が広々としており、また、頼朝は狭い区画に一人だけの墓となっているのに対し、義時の墓所の奥は三浦一族の供養墓があり、区画上部にも大江広元らの供養墓があるなど様々な施設で賑わっており、ここでも「頼朝のドス黒い孤独」を感じざるをえませんでした。

ともあれ、大河ドラマの様々な場面を思いつつ、鎮魂の丘にて義時が義和に囁く一句

その時は義を以て為し報い待て

***

その後、丘を下りて、鎌倉幕府の終焉の地に向かいました。

北条氏の天下は頼朝の死と義時の権力闘争(勝利)から始まり、東勝寺での高時一族の自刃にて終わる。もって盛者必衰の理をあらはす。

近時の研究(中公新書・亀田俊和「観応の擾乱」など)によれば、鎌倉幕府の倒壊(主要武士群からの支持喪失)は、土地利権をはじめとする武士同士の紛争を解決する役割(訴訟処理機能)を幕府=鎌倉政権が果たしていない(ので政権担当能力がない)と評価された点が大きかったのだそうです。

翻って現代はどうか。

この仕事をしていると、現在の司法制度の残念な部分を否応なしに感じさせられ、当事者の不満や失望を垣間見ることは多々あります。

高時の自刃跡とされる光景は、或いは、裁判所や司法関係者、ひいては立法のための努力をしない国民全体の近未来の姿なのかもしれません。

***

最後に鶴岡八幡宮の小町通り商店街に戻り、通り奥のカフェ・ミルクホールにて名物のプリンを頂戴しながら一服した後、ほどなく帰宅しました。

商店街には「神社のあとはジンジャーで」なるキャッチコピーを付した幟があり、どうせなら、寅さんの口上のように、こんな感じで言葉を並べた方が面白いと思いました。

神社のあとはジンジャーで
お寺で御法度ジントニック
天ぷらアタればテンプルへ
モスクで食べたやモクズガニ

そしてプリンはプリンシプル。

24年前、私が所属していた司法修習52期6組では、地元ご出身のTさんによる「魅惑の日帰り鎌倉ツアー」が開催されました。

Tさんは、数年前から研修所の刑事弁護教官として熱血指導に邁進されつつ、オウム真理教の末端著名信者を巡る刑事事件で無罪判決(実行者との共謀関係を否定)を勝ち取るなどの輝かしい活躍をなさっています。

かたや、当方は今や田舎の片隅で数多の名も無い赤字仕事に追われつつ事務所の運転資金に喘ぐ日々。まさに日暮れて道遠しというほかありません。

湘南の海が眩しく見えるのは、或いは、誰もが可能性に満ちあふれていたのかもしれない、あの日々への執着への裏返しなのかもしれません。

あたかも、この街がかつて武士の都であったように。

皆さんは鎌倉で、何を感じましたか?

ブログでは割愛した写真をご希望の方はFBへどうぞ。

マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(前編)

昨年末の話で恐縮ですが、大河ドラマで注目された鎌倉に帰省先から日帰りで行ってきました。

9時半頃に稲村ヶ崎の駐車場でパークアンドライドを利用し、最初に長谷駅で下車→鎌倉大仏と長谷寺(鎌倉長谷寺)に行きました。

私は司法修習生だった平成10年の夏に鎌倉に日帰り観光をしたことがあり、それ以来、24年ぶりに鎌倉大仏に来ましたが、街の雰囲気も含め、当時とあまり変化がなく古い街並みが保全されている様子に感心しました。

長谷寺は初めて来ましたが、多数の立派な仏像などを拝見しながら、仏教とキリスト教の異同などをあれこれ考えたので、この点は次回のブログに載せます。

その後、鎌倉駅に移動し、同行者の強い希望で西側の銭洗弁天に向かいました。駅から歩いて行ける距離ですが、相応に長い上り坂となっているため、運動不足で根性のない同行者は「タクシーで行きたかった」と不満顔を浮かべていました。

銭洗う前に銭取る弁財天
急坂で銭より手汗を洗う人
この道が嫌なら麓で芋洗え

その後、坂を上って源氏山公園に向かいました。

鎌倉の頂点たる源氏山公園の山頂には、鎌倉の創設者というべき源頼朝像が鎮座しています。

多くの武士達の力添えで偉業を成し遂げたにもかかわらず、ここには彼一人の銅像しかなく、その上、当時を偲ばせる構造物は何一つないため、かえって寒々しく、頼朝の悲哀を強調するような空間になっています。

引き替えに たったひとりの玉座かな
上に立つ者の孤独はドス黒く


源氏山の頼朝像は何年も前から一度は来てみたい場所でしたが、実際に来てみると、その空間ならではのものを感じることができるような気がします。

昨年の大河は北条家のホームドラマ(家族の物語)とも称されますが、その一方で、身内同士で疑い、憎み、殺し合い、そして血族が誰もいなくなった、頼朝すなわち河内源氏宗家の悲惨な家族の物語であることにも目を向けるべきかもしれません。

その後、源氏山を下山して鶴岡八幡宮に向かいました。

途中、実朝と政子が眠る、源氏山の麓の寿福寺に立ち寄り、修善寺の頼家にも思いを馳せつつ一首。

さむらいの魂喰らいて実る世に 寄る辺なき身の家いずこにか

以下、次回の後編に続きます。

今年の石割桜と、あの日の花びらを偲んで

全国の盛岡地裁ファンの皆様へお届けする、今週月曜の石割桜です。

昔は、遠方からの相手方代理人に「今日が期日で良かったですね」とお伝えするのがささやかな楽しみでしたが、今年はそのような機会がなく、この日は刑事事件の判決言渡でした。

今週、司法研修所の同級生だった方のFB投稿などを通じて、同級生の方がお二人、亡くなられたとのお知らせに接しました。

遠方のご葬儀などに伺うことはできませんが、この桜の散りゆく花びらを、ご冥福のお祈りと共に捧げたいと思います。

これをFBに投稿した日は雨天でしたが、他の方から、散った花びらが雨で裏側の岩に付着し風情があったとのコメントをいただきました。

ぜひ、次の一句を添えていただければと思いました。

散りてなお桜を偲ぶ巖かな

自転車のヘルメット未着用に伴う過失相殺の相場観と各人の役割

本日のモーニングショーで、自転車のヘルメット着用の努力義務化が取り上げられており、交通事故に詳しいという弁護士さんの「過失相殺の可能性あり、最大で2割」とのフリップが表示され、玉川さんがそれに同調する形で、ヘルメットは義務化すべきだ!と高らかに仰っていました。

が、膨大な交通事故事案に従事してきた弁護士として、この「弁護士さんのコメント」が一人歩きすることに疑義を感じざるを得ません。

ヘルメットの着用は、要するに、被害者が事故に遭った際に自身に生じる被害を軽減するための措置であり、シートベルト着用に類するものと言えます。

この点、被害者がシートベルト不着用という事案は昔からあり(近時はほとんど聞かなくなりましたが)私が東京時代に経験した例も含め、多くの事案では過失割合を1割とし、特殊な事情があれば増減させるのが通例と認識しています(さきほどWeb検索しましたが、他の弁護士さん達も裁判例を引用するなどして同様の認識を示しています)。

シートベルトの着用は道路交通法上の義務であり、上記の議論も、当時から明確に義務化されていた運転席や助手席の不着用を前提とした議論で間違いないはずです。

よって、法律上の義務を遵守していなかった場合でさえ原則1割の過失相殺とされているのに、現時点で努力義務に止まるヘルメット不着用が、それ(1割)を超える過失相殺を裁判所が認めるはずもなく、一般的な自転車でごく通常の走行態様であったのなら、現時点ではゼロ割とする可能性も高いと思います(せいぜい5%ではないか、というのが私の感覚です)。

というわけで、この番組に便乗して加害者損保から過大な割合を主張された被害者の方は、ぜひ当事務所までご相談下さい(笑?)。

また、任意保険の被保険者であれば、2割(最大4割?)程度までなら、過失相殺部分は人身傷害補償保険で大半がカバーされるはずですので、その点もご留意・ご安心下さい。

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ただ、何年も前から通常とは異なる事故リスクが指摘され現にヘルメット着用が当然視されているツーリング等に用いるスポーツタイプの自転車や、転倒時の被害等が大きくなりやすい電気自動車なら、通常とは異なる防護義務(損害拡大防止義務)が認められるべきとして、1~2割の過失相殺もありうるとは思います。

そもそも、それらの自転車については、現時点で基本的に着用を義務化しても国民から不満の声はあがらないと思いますし。

私は現時点でヘルメット着用の必要性をほとんど感じておらず、少なくとも強制は望ましくないと感じている立場ですが(高齢等になれば必要と感じるのでしょう)、どうしても義務化させたいというのなら、自転車の類型や事故態様・年齢など様々な要素に即して現在の実情(事故リスクや着用の必要性)について実証的な議論を行った上で、国民の判断を求めていただきたいです。

でないと憲法訴訟になるでしょうし、それだけに、権力抑止的なスタンスの?玉川さんが義務ありきと声高に仰るのには少し残念な感じもします。

というわけで、法律が絡む話題を取り上げるときは、さりげなくでも構いませんので実情に即した丁寧な説明をしていただきたいなぁと思いますし、こうした番組展開を見ていると、「ジャニーズ会見の件をワイドショーが無視するのは間違いじゃないか(そちら=性被害問題を真剣に取り上げるべきでは)」という2nnの記事に共感せざるを得ないと思ってしまいます。

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以上の内容をFBで投稿したところ、他の方から「自転車の運転を免許制にして欲しい、危険運転を処罰して欲しい」とのコメントをいただきました。

自転車一律の免許制は難しいと思いますが、走行態様規制などに関しては、処罰云々はさておき、県や市で地域ごとのルールを条例で決めることが、ある程度、自由にできてよいのではと思われます。

有志の皆さんで議論いただき、今度の県市双方の首長選や県市議選などで候補者の方々に働きかけていただければ幸いです。

帰ってきた宮古の法律相談と早春のエセ歌人

今年から宮古市役所の無料法律相談の担当(の一人)になり、先日の木曜が初日でした。

盛岡の河川敷などが満開近くになったので、宮古はすでにピークを過ぎたのかと思いきや、メインの長沢川堤は大半が蕾状態で、満開まであと10日は要しそうでした。

念のため浄土ヶ浜の近くまで赴いたところ、そこそこ桜が咲いていたのがせめてもの救いでした。

帰路は雨天でしたが、岩手に限らず、この国では、それまで晴天続き(で花粉地獄)だったのが、桜が咲き出した途端に曇天や悪天候になることが多いような気がします(翌日の盛岡はその最たるものでした)。

或いは、他の山川草木が、桜に嫉妬しているのかもしれません。

花咲くと空に雲湧き乱るるは 我も愛でよと雨風の声

震災後、数年前まで何度も赴き、毎回ガラガラで内職ばかりしていた県庁(宮古振興局)震災相談と異なり、市役所は満員御礼(予約)になっていました。

当時、何人かの方に、市役所への「満員後はこっちに廻して要請」をはじめ、宣伝努力をしないと制度の意味がないじゃないかとお伝えしたことがありますが、宮古の先生の1人からレスポンスがあっただけで、ほとんど善処が得られなかったことを懐かしく思いました。

長沢川堤の入口の道路では、接触事故を起こした車両同士が離れた位置で互いに誰かに電話をしており、ほどなくパトカーが到着していました。

市役所では受任相当の案件がなかったので(無料相談あるある)、この方々に名刺を渡して「じゃんけんで勝った方(或いは、被害者かつ弁護士費用特約に加入している方)が依頼して下さいね」と営業活動したい衝動に少しだけかられましたが、遺憾ながら自粛しました。

新規加入弁護士等の募集について

平成25年春から加入していた辻弁護士がご夫君の転勤のため遠方に転居することとなり、残念ながら3月末で退所することとなりました。

これまで辻弁護士への事件依頼等を通じてお世話になりました皆様には、心より御礼申し上げます。辻弁護士は家事事件などを中心に、熱意をもって受任事件に取り組んでくれましたが、辻弁護士の離脱後も、リーガルサービスの質を落とすことがないよう、引き続き、全力を尽くしていきたいと思います。

ともあれ、辻弁護士の離職により、弁護士の執務席が空きますので、現在、新たに加入いただける弁護士を募集しています。現在の業界の状況や私自身の力不足もあり、勤務弁護士(給与制)ではなく準パートナー形態での加入をお願いすることになりますが、岩手で自分の力を発揮し地域社会に貢献したいと考える若い弁護士の方には、ぜひ門を叩いていただければと思っています。
https://www.bengoshikai.jp/kyujin/search_lawyer_office_detail.php?id=3968

一緒にやっていける方であれば、弁護士以外の他士業の方の加入も前向きに考えたいと思っていますので、関心のある方は、ご遠慮なくご連絡下さい。

最後の代表的二戸人

1月4日に父が亡くなり、13日の葬場祭まで色々と対応に追われました。葬儀の段取りなど大半の実務は喪主である兄に任せきりで、私は多少の手伝いをした程度ですが、10日間ほど毎日のように自動車で二戸に往復し、心身ともに多少は疲労を感じています。

ともあれ、ご参列、弔電、供花など、父の弔いにご配慮を賜りました皆様には、改めて御礼申し上げます。

この間、HPの更新等も差し控えていましたが、50日間(神道の忌中期間)も差し控えるのもいかがかと思いますので、本日以後、更新を再開させていただくつもりです。

父は、癌のほか、かなり以前から糖尿病や心筋梗塞など様々な病気を患い、生死の境を行き来するようなことも一度ならずありましたので、私達家族にとっては「突然の訃報」ではなく、ここまで生き続けることができたことの方が奇跡的なことであると、私自身は淡々と受け止めているというのが正直なところです。闘病生活に関しては、遠方で生活する私はほとんど役に立つことはなく、兄と母に任せきりでしたので、父への弔いに劣らず、兄と母に感謝の言葉を述べなければならないと思っています。

私の実家は今は昔日の勢いはありませんが、曾祖父が商人として成功し、少なくとも数十年前は二戸でも有数の商家と目されてきました。父も、先代までに築かれたものを引き継ぎ、流通業に押し寄せた荒波から家業を守り抜くと共に、地域社会や所属業界等の様々な役職等をお引き受けし、その責任を全うしてきたことは間違いありません。

その点では、誰にも恥じることなく往生を遂げたものと、遺族としては理解しています。

父は昨年末頃、やり残したことが幾つかあるので、あと3年は生きたいと申していましたが、心はともかく身体が燃え尽きてしまったというほかなく、その点は致し方ないものと認識しています。

父をご存知の方なら共感いただけると思いますが、父は、単に地域の小企業の経営者であっただけでなく、朴訥・愚直な性格であると共に、里山の枯れ木に話の花を咲かせるような「田舎の気さくな好々爺」という一面もあり、様々な意味で、「質実剛健」などの言葉に代表される二戸の気風を体現する人でもありました。

以前、某社の二戸支社にお勤めの方と親しくなった際、「二戸の三悪」という言葉があると教えて貰ったことがあります。いわく、①福岡高校出身者、②野球部出身者、そして、③「だんなさま」(地域の有力者)が地域に隠然たる力を持ち、それが北東北の田舎にありがちなある種の閉鎖的体質と相俟って、様々な弊害を地域に生じさせている、というものでした。

「悪」かどうかはさておき、地元で著名な商家の後継者であると共に、旧制福岡中学の最後?の入学者にして発足間もない新制福岡高校野球部のレギュラー選手でもあり、長期間に亘って福高野球部のOB会長を務めていた父は、二戸のキーワードというべき上記の三大要素のすべてを強く備えた人であったことは確かです。

そして、数十年前、福高・野球部そして二戸の社会が、恐らく今よりも強い輝きを放っていた「古き良き二戸」の時代をよく知る者の一人として、その誇りと価値を守り、ささやかながらも次代に語り継ぐ役割を懸命に果たしてきたと思います。

反面、幼少期の私の実家は昼夜とも多くの人が出入りする特殊な家であり、私達家族はそうした「普通の家庭にはない光景」と否応なく向き合わなければならなかった上(母をはじめ家の者の負荷も決して軽いものではありませんでした)、当時の父は多忙等を理由に家族を顧みることがほとんどなかったことなどから、少年時代の私は、正直なところ父とは良い関係を持つことはできませんでした。

父が背負うものが「古き良き二戸」であればこそ、光には影が伴い、光強ければ影もまた濃しというように、私自身は古い商家には避けがたく生じる光と影の双方に時に翻弄され、複雑な感情を抱きながら育った面もありました。

とりわけ、中学卒業後に郷里を遠く離れ、運動能力に極端に恵まれず、家業とも無縁の道を歩んだ私にとっては、未熟なまま郷里を遠く離れて生きる身の支えとして郷土の様々なものに強い執着を持ちつつ、他方で、それと対をなすように、自分は郷土で生きることができず故郷に居場所を持てなかった人間だという屈折した思いもあり、郷里に対するそうした愛憎のような思いが父への感情と重なる部分があったことは確かだと思います。

幸い、私も成人した頃には父とは良い関係を持つことができるようになり、また、父も新旧の価値観の挾間で時に悩み、父なりに色々と犠牲も払って家業と郷土を支えてきたことも多少は理解できるようになりましたが、私も自分のことで精一杯の日々が続いたこともあり、結局、子供の頃の断片的な思い出とは別に、大人同士としての父子の交流や共に何かを作り上げるような機会を持つことはほとんどできませんでした。

ただ、1月2日、私の出身中学(二戸市立福岡中)の歳祝いの会(同窓会)があったため、2日と3日に帰郷し、昨年末に病院から帰宅した父も含め、家族4人だけの時間を過ごすことができ、その点は私にとっては最後の良い思い出になりました。

3日には、朝に盛岡に戻るつもりでしたが居間で寝付いてしまい、気が付くと居間に敷いた布団で寝ている父を含む家族4人が居間で一緒に雑魚寝するような状態になり、小学生の頃、親子4人で夜に麻雀をした頃のような懐かしさを感じることができました。私には、恐らくそれで十分なのだと思っています。

ともあれ、私にとって、父は故郷を象徴するような存在であり、現に、身内が申すのも恐縮ながら、父が二戸に多くの足跡を残してきたことは確かだと思います。それと共に、私が幼い頃に憧憬と反感を抱いた、様々な方が絶えず集まってくる古い我が家、それは、多くの方が、家業の名称でもあり、曾祖父以来、祖父と父が襲名した名前をもとに「小岩」と呼んできた場ですが、私の知る「古き良き小岩」は、父の死により、名実ともに終焉を迎えたのだとも思っています。

しかし、「古き良き小岩」が終わっても、家業と私の実家が終わったわけではありません。兄は些か出不精(引っ込み思案?)なところがあるものの、相応の商才と父の持つ地域のリーダーとしての将才(器)を受け継いでおり、父の遺志を踏まえつつ、兄なりの方法で実家と家業を盛り立ててくれるものと信じています。

実家の家業に関わっておられる皆様や二戸の皆様におかれては、末永く兄と家業をご支援下さるよう、深くお願い申し上げます。

私は、次男という、ある意味、家にとっては「出番が来ないことが幸せ」というべき立場に生まれ育ちました。そんな自分が、法律家という、これもある意味、「(弁護士が必死に主張立証を尽くさなければならない深刻な法的紛争という)出番が来ないことこそが社会にとっての幸せ」というべき仕事に就いたのですから、不思議なものを感じますし、それが自分らしいのではないかと思っています。

私にとっては実家の円満な存続と精神的なものを含めた次代への継承こそが実家に対する最後の望みですので、今後も私の出番が来ないことを祈って、私なりに公のためにできることを模索しながら、遠くから静かに実家と二戸の社会を見つめ続けたいと思っています。

明治の思想家・内村鑑三の著作に「代表的日本人(Representative Man of Japan)」という作品があります。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人などの人物とその思想を海外に紹介する内容となっており、明治期の日本が、海外(欧米)に対し、日本の伝統的な精神文化の積み重ねと価値(キリスト教の精神文化に劣らぬ深さを持っていること)を理解して欲しいとの思いで書かれた作品と言われています。

諸説あるものの、ケネディ大統領が、この本を読んで「自分が尊敬する政治家は上杉鷹山である」と述べたとの逸話があり、同時代に記された新渡戸稲造の「武士道」と同様に、多くの影響を当時の欧米社会に与え、新参者たる明治日本が当時の国際社会に加わっていく上で、大いに資するところがあったと考えられます。

仮に現代の我々が「代表的二戸人」という本を作るとすれば、多くの方が、九戸政実、田中舘愛橘、国分謙吉、相馬大作といった方々を挙げるでしょう。二戸の歴史をきちんと勉強した方なら、私達の本家が維新期に輩出した偉人である、小保内定身氏も入れてくれるかもしれません。

しかし、私にとっては、父こそが、その本の締めくくりを飾るに相応しい、最後の代表的二戸人です。

今、その大きな星が天に召されました。しかし、その光は最後に弾け、身内に限らず二戸を愛する多くの方々の胸に、光の欠片が届いているはずです。

ぜひ、その光を手にとって受け継いでいただき、それを踏まえた新たな価値を二戸の社会に届けていただければというのが、郷土愛を支えに生きてきた父を知る、遺族としての願いです。

大変な長文になりましたが、最後までご覧いただいた方に御礼申し上げます。