北奥法律事務所

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03月

盛岡を取り囲むユニークなダム湖たちとリアル紅の豚

岩洞湖(盛岡市の北東のダム湖)の形を見ていると、龍のような馬のような不思議な神獣っぽい姿を感じさせ、想像力をかき立てる面があります。

この点は、グーグル地図で見ていただくか岩洞湖レストハウスさんのHPの左上の図を見ていただければ分かりやすいと思います。
http://gandouko.wixsite.com/gandouko-resthouse

盛岡は多数のダム湖に囲まれていますが、グーグル地図で見ると、南部片富士湖(四十四田ダム湖。市北部)は胃腸の類をイメージさせますし、御所湖(市西部)は失礼ながら諸国の原住民の男性が着用する某ケースに似ていると思います(形や角度が生々し過ぎるんじゃないかといった話はさておき)。

「ユニークな形のダム湖ランキング」などというサイトがないのか少し検索して見ましたが、それらしいものは見当たりませんでした。そのうち、どこかのTV番組で取り上げてくれれば、盛岡周辺のダム湖が脚光を浴びる日も来るかもしれません。

折角なら、綱取ダムの湖も何かに喩えることができればよいのですが、ちょっと思い当たりません(そもそも、このダム湖には名称すら付されていないようで、不遇感が気の毒です)。せめて、建設中の簗川ダム湖は見応えのある形状になってくれればと思いますが。

ところで、これらの湖を見ていて残念に感じるのは、岩洞湖のワカサギ釣りを除き、観光面で全くといって良いほど活用されていないという点です。

最近、瀬戸内には飛行艇による遊覧ビジネスに取り組んでいる方がおられるそうですが、盛岡でも北上川を出発しそれらのダム湖を上空から見物、着陸するような商売が成り立つようなら面白いと思ったりもします。
http://toyokeizai.net/articles/-/151881
https://setouchi-seaplanes.com/

北上川に関しては舟運を復活させたいと運動なさっている方がいるようですが、いっそ、真っ赤な飛行艇が開運橋や不来方橋、旭橋などをくぐって湖に向かって飛び立つ光景が出現すれば、リアル紅の豚という感じで、話題性も抜群ではないでしょうか。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20170201_7

北上川から岩洞湖へのルートなら、氷上に着陸→ワカサギ釣りを体験して盛岡に帰るなんてことができれば、非日常体験のオンパレードで面白いのではと思いますが、どうなんでしょう。天候の問題に加え氷の強度がないと難しいのかもしれませんが、ぜひ考えていただければと思います。

天母山と賢治の魂

例年、正月には妻の実家がある遠方の某県に帰省し、義父の車両を拝借して自動車で行動可能な圏内に小旅行をするのが通例になっています。今回は平成24年に富士宮市の天母山公園を訪ねた件に触れたいと思います。

富士宮市の北部(富士山麓)に「天母山(あんもやま)公園」という地元民の憩いスポットがあります。公園自体は丘の上にある桜が植樹された広場と遊具群といった一般的な公園なのですが、この公園に隣接して「天母山法華道場」なる法華宗の一流派の寺院があり、溶岩が固まったゴツゴツした石で作った仏像や灯籠、狛犬?などが並んでいます。

写真を添付できないのが残念ですが、溶岩石で出来た石灯籠などは一見すると、おどろおどろしい風情があり、それだけを見ると恐怖寺院のような印象です(関心のある方は「天母山」で検索して写真をご覧下さい)。

無論、他の庭園や寺院の建物は至って普通・簡素なもので幽霊屋敷の類ではありませんが、溶岩石の石灯籠などはオバケ屋敷を作りたい方には参考価値が大きいと思われます。

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天母山の山頂付近に、奇石博物館という奇石や鉱物をテーマとするユニークな私設博物館があります。館内では様々な鉱物のほか糞の化石などが展示、販売されているのですが、「石っこ賢さん」こと宮沢賢治の業績を展示するコーナーがあり、賢治が採取した岩手県内の鉱物も多く展示されています。
http://www.kiseki-jp.com/

岩手県民なら「下の畑に居ります」は聞き飽きた?セリフですが、ここでは同じような看板に「イギリス海岸に石を採りに行ってます」と専門的な言葉で書かれたものが掲示されています。賢治ファンに限らず、岩手人には一見の価値があると思います。

ところで、冒頭の「天母山法華道場」について検索したところ、国柱会という法華宗の在家宗徒団体が、明治期に建立したという記事が出てきたのですが、この国柱会という団体(宗教・政治結社)は石原完爾ら国粋主義のエリート陸軍軍人に影響を与えたことのほか、宮沢賢治が会員となっていたことで有名です。

ちなみに、「天母山」という地名(山名?)も、もともと富士宮市にあった地名ではなく、法華宗の教義(国立戒壇=祭政一致国家思想)が関わっているようです。ウィキペディア等であれこれ調べていくと、法華宗の教義の中に国立戒壇の聖地(祭政一致国家の総本山とでも言う意味?)を富士山麓の天母山に建立すべきだという説があるようで(通説ではないようですが)、これが、この山の命名に関係していると推測されます。

天母山公園の成り立ちを説明するサイト(公的なものではない)を見ると、創価学会が周辺地を買い占めていたものの、ある時期にそれを断念?して、市に寄付したと記しているものがありました。

創価学会は国立戒壇思想を巡って過去に批判(他勢力からの攻撃)を受け、国立戒壇思想を放棄したという類の記事も見受けられるため、もしかすると、創価学会はその思想に基づき一旦は天母山周辺の土地の買収を図ったが途中でその思想を放棄し、その証として買収地を市に寄付したということなのかもしれません。

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もちろん、実際の(現在の)天母山公園の周辺には宗教論争の類を感じさせる光景は微塵もなく、丘の上に植樹された桜や遊具が並んでいる、ごくありふれた公園の様相を呈しています。

また、奇石博物館は法華宗とは何の関係もなく、別の経緯でこの場所に建設されており(館員の方に「天母山」の由来をお尋ねした際も、まったく不明とのことでした)、賢治が取り上げられていたのも賢治が鉱物の専門家であったことによるもので、宗教的な事柄とは何の関係もありません(奇石博物館自体、何らの宗教色も見受けられません)。

ただ、天母山という富士宮市でも対外的知名度の高くはないスポットの中に「法華宗(国柱会)」と「鉱物」という賢治が短い生涯の中で大きく関わりを持った事柄に縁のある施設が複数存在していることについては、岩手人としては感慨深いものを抱かずにはいられません。

或いは、天母山には「世界全体の平和と幸福(軍国主義者が悪用する以前の本来の意味での「八紘一宇」)」を求めた賢治の魂の一部が眠っているのかもしれません。

富士宮市と言えば、多くの日本人には焼きそばと白糸の滝等の著名な観光スポットが連想されるのでしょうが、ガイドブックでは触れられない意外なところに深い話が潜んでいるということで、関心をお持ちの方は、ぜひ訪ねていただいたり、これを機に、岩手と富士宮市との交流を図っていただければと思っています。

蛇足ですが、天母山のことを最初に妻に聞いた際「昔、天母という鉱物が採れたから、そこに博物館を作ったのか?」と思ったので、館員の方に質問したところ、「何を言っているのか?」と怪訝な反応されました。

そのため帰宅後に検索したところ「天母」と「雲母」を取り違えていたことが判明し、天母の由来を知りたくて色々と調べたところ上記の話が分かってきたという次第です。

ただ、wikiや個人の方が開設したサイトなどが元ネタになっており、正確性には多少のリスクがあるかもしれませんので、その点はご留意下さい。

(今回の投稿はH24に旧HPに掲載したものの再掲です)

交通事故の裁判で被害者が加害者に謝罪の認識を尋ねるのは異議の対象になるのか?

交通事故に基づく損害賠償請求の裁判に関する当事者双方の尋問の際のことについて、狭義の法律論とは違ったところで、少し考えさせられたことがありましたので、そのことについて書きたいと思います。

その件は、交差点内の直進車(当方=原告)と右折車(先方=被告)の事故で、先方には人身被害がなく当方は神経症状を中心に大怪我を負ったため、当方が訴訟提起したという事案です。

この種の事故態様の過失割合は「2:8」が原則(基本割合)ですが、特殊な事情から当方は過失ゼロ(0:10)だと主張していました。

そして、私の主張立証の賜物かどうかはさておき、裁判官からも幸いに同様の和解勧告を受けていたのですが、先方(被告代理人ないし被告側損保)が基本割合でないとイヤだと拒否したため、判決のため尋問を行うこととなったものです。

で、先に原告本人の尋問を行い、休憩を挟んで被告本人の尋問を行ったのですが、主尋問や尋問までの休憩時間などの際、被告から原告に対しお詫びの言葉(挨拶)をするやりとりが全くなかった(休憩中も被告は自身の代理人と談笑し続けていた)ので、それでいいのだろうか、何か被害者の気持ちが置き去りにされていないだろうかという気持ちが涌き上がり、最後に、「改めて原告に詫びる考えはないのですか」と質問しました。

原告から「被告と会ったのは事故の10日後の双方立会の実況見分の場のみで、その後に接触はない(謝罪等は受けていない)」と聞いたこと、被告自身の主尋問の様子でも殊更に原告に敵意を持っているわけではなく自身の不注意のみを淡々と述べているに止まっていた(そのため過失相殺の主張も加害者本人でなく損保側の方針に過ぎないと感じられた)ことも、そうした質問をすべきではと感じた理由の一つでした。

すると、被告代理人が、間髪入れずに「意見を求める質問だからダメだ」と猛然と異議を述べてきました(尋問のルールを知らない方は民事訴訟規則115条を参照)。

私が「現在の謝罪姿勢の有無も慰謝料の斟酌事由にはなるでしょう」と実務家としては今イチな反論を述べると「そんなことはない」などと強烈に抵抗し、こちらも納得いかないので代理人同士はギャーギャー言い合う非常に険悪な雰囲気になったのですが、裁判官が「言いたくなければ言わなくてもいい」と答えたところ、ごく一般的な(悪く言えば通り一遍の)お詫びの言葉があり、私もそれ以上の質問はせず、そこで終了となりました。

結局、結審後に当方が退席する際も被告が当方を呼び止めて挨拶するということはなく、1年半以上を経て再会した加害者が被害者に対しお詫びの言葉を向けるというやりとりは、その一言だけとなりました。

被告代理人が猛然と異議を述べてきた理由は、被告側が過失相殺を主張しているため、「本人が詫びる=当方の無過失を認めたことになる」というイメージがあったのかもしれません(それとも、単純に異議が好きだとか、私個人に含むところがあったのか等、他の理由の有無は分かりません)。

ただ、被告がその場で原告に対し通り一遍のお詫びの言葉を述べたからといって、そのことで過失の有無や程度が定まるわけではなく、争点との関係では、自分で言うのもなんですが、慰謝料額も含めて判決の結果には影響しない、ほとんど意味の無い質問だと思います(だからこそ、相手方代理人はこの種の尋問は放置するのが通例でしょう)。

それでも質問せずにはいられないと思ったのは、1年半以上を経て久しぶりに会った加害者が、長期の入通院などの相応に深刻な損害を与えた被害者に対し、一言のお詫びもする場のないまま法廷(参集の機会)が終わって良いのか、それは、裁判云々以前に人として間違っているのではないか?という気持ちが昂ぶったからでした。

もちろん、私も殊更に被告を糾弾したかったわけではなく、たとえ通り一遍のものでもお詫びの言葉があれば、それだけで被害者としては救われた気持ちになるのではないか(そうした質問を被告や原告の代理人が行って謝罪の場を設けるのは、地味ながらも一種の修復的司法の営みというべきではないのか)という考えに基づくものです。

とりわけ、少なくとも刑事法廷であれば、(通常は被害者が在廷していませんが)加害者=被告人が被害者への謝罪を述べるでしょうから、なおのこと被害者が在廷する場で加害者が一切のお詫びを述べないというのは異様としか思えません(私が加害者代理人なら主尋問の最後に謝罪の認識を簡潔に求める質問をすると思います)。

だからこそ、「謝る気持ちはないのですか(その気持ちがあれば、簡単でも構わないので一言述べて欲しい)」という質問に被告代理人が最初から強硬に拒否的態度を示してきたことに、私としては、加害者代理人が加害者本人に謝るなと言いたいのか?それって人として間違っていないか?と、思わざるを得ませんでした。

もちろん、そうした事柄で糾弾ありきの執拗な質問になった場合は異議の対象になることは当然だと思いますが、私の質問がそのようなものでなかったことは前述のとおりです。

被告代理人としては、ご自身の立場・職責を全うしたということになるのかもしれませんが、東京の修業時代に加害者代理人(某共済の顧問事務所)として多くの事案に携わっていた際、尊敬する先輩に「被害者救済と適正な損害算定のあるべき姿を踏まえて、よりよい負け方をするのが加害者代理人の仕事の仕方だ」と教えられて育った身としては、本件のような「当事者同士は敵対的・感情的な姿勢は示しておらず損保の立場などからこじれたタイプの事件」で被告代理人から上記のような対応があったことに、いささか残念な思いを禁じ得ませんでした。

ともあれ、華々しい法廷技術は優れた弁護士さんに及ばないかもしれませんが、今後も、代理人としての職責をわきまえつつ、そうした地味なところで当事者や事件のあるべき解決の姿について気遣いのできる実務家でありたいと思っています。

ちなみに、その裁判(1審)では尋問後も被告側が和解案を拒否して判決となり、和解案と同じく当方の過失をゼロとし認容額も和解勧告より若干の上乗せになっていました。

考えないビジネスパーソンより考えるケムール人

最近、ビジネスパーソンとかオンブズパーソンとか、「なんとかパーソン」が日本語でも浸透していますが、どうしても長ったらしいというか、簡にして要を得た言葉を好む日本人の感覚からすれば、使い勝手が悪い感じがします。

特に「ビジネスマン(ビジネスパーソン)」については、昔は経営者などに限って用いられていたようですが、今や「サラリーマン」を含めた就業者の全体を指す言葉として使われるのが当たり前になっていると思いますので余計に目にする機会が多く、「長ったらしくて音が心地よくない」という感覚を抱く機会が増えているような気がします。

「マン」を使いたくないというコンセプト(男女の区別をしないこと)自体は理解できるのですが、そうであれば、いっそ、ビジネス人とかオンブズ人などと、漢字化=短い音で言葉を表記する方法をとって欲しいと思います。

ビジネス人だとケムール人みたいで嫌だというなら、言葉の本質に適合する他の漢字を考えてもよいでしょうから、ビジネス家とかオンブズ民、或いは明治期に倣って「就業者(実務家)」とか「監察者(監察員)」などと新たな訳語を世に問うて普及させても良いはずです。

英語学習の必要性を否定する発想は微塵もありませんが「物事の意味を手短な音で一挙に表現する言葉」としての漢字文化ひいては概念の本質に即した言葉の創造を実践する知的訓練を大切にする文化を保持・再興すべきだと思います。

「パーソン」に限らず、ここ十数年の日本社会に氾濫する他のカタカナ言葉たちも含め、多くの外国語(新たな概念)を学ぶと共に、それを自分達の言葉で咀嚼すること=概念の本質を検討・理解して会得する手段としての翻訳の試み、ひいてはその基盤としての外国語と日本語の両用的な言語文化が盛んになって欲しいと願っています。

人が関わる生き物の尊厳ともう一つの憲法改正論

震災に伴う原発事故の際は、多くの動物が現地に置き去りにされ飢餓など残酷な態様で命を奪われたという報道が当時からありましたが、さきほども、そうした事情で飼っていた牛達を悲惨な目に遭わせてしまい辛い思いをしたという方のニュースが出ていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170313-00000023-mai-soci

申すまでもなく非難されるべきは原発事故を防ぐことができなかった人(ひいては原発の電力に依存する大都市をはじめとする現代社会そのもの)ですので、自分だけが過酷な現場を一方的に押しつけられたというべきこの酪農家の方を非難するつもりは微塵もありません。

ただ、人間には生きるため必要やむを得ない殺生を超えて他の生物を苦しめる権利などはないのですから、同じような避難云々の事態が生じたときのため、こうした事態を防ぐための措置を今のうちから講じておくべきだと思います。

例えば、搬送や安楽死など社会通念上の適切な措置を講じることができない場合は、ライオンなどはともかく、家畜などを解き放っても違法でない(生命尊重の見地から推奨ないし義務づける)ことを明示する規定を作ってよいのではと思いますが、どうなんでしょう。

動物愛護法にそのような定めがあるのか条文をチラ見した限りでは分かりませんでしたが、そのような考え方は同法2条が定める動物愛護の基本原則が要請するところでしょうし、とりわけ、野生動物ならまだしも「家畜」と呼ばれる生き物は人間が自分達の都合のため動物の様々な自由を奪い便益を享受しているのですから、「人と共に生きる存在」としての尊厳を最後まで守るべき責任があることは明らかだと思います。

この種の記事を見ていると、数年前に大阪で起きた「親が育児放棄して室内に放置され凄惨な飢餓の末に死亡した気の毒な子供達の事件」を引き合いに出すまでもなく、いずれ多くの人間が同じ目に遭うのではと感じざるを得ません。

日本国憲法は人間の個人としての尊厳を最高原理としていますが(13条)、万物に神が宿るとの思想を持ち、自然に畏怖と感謝を持って生きてきたのが日本人のメンタリティだと思いますので、人間だけでなく万物の尊厳を守るという理念のもとで社会のあるべき姿を問い直し、再構築していただきたいと願っています。

人からコンクリートへ、被災地から刑務所へ?

すでに報道などで目にした方も多いでしょうが、現在、沿岸被災地の各地では防潮堤建設が大きく進んでおり、海岸線に沿って長大な壁に囲まれた状態になっている街も珍しくありません。

1月の法テラス気仙の担当日に大船渡で撮影した写真を末尾に貼り付けますが、率直に言って刑務所の壁を想起せざるを得ず、収容所群島などとマイナスな言葉ばかり浮かんでしまいます。

せめて、人目につくところは都会の打ちっ放しのコンクリート建物のようにデザイン性を意識した作りにしようなどと提言する方はおられなかったのでしょうか?

さすがに近年ではこうした防潮堤のあり方に批判の声が多く上がっていますが、今さら撤去しても誰が喜ぶのか、何が失われるのかを考えると、そのようなお気持ちがあるなら着工前にもっと声を上げていただきたかったと思わないでもありません。

言うなれば、

震災直後→人命を守るため防潮堤を作れ!→景観・自然破壊の懸念は少数派のため相手にされず

着工決定=大手建設業者ワー→財政悪化?福祉カット?

数年後、防潮堤の完成に目処が立つ=大手建設業者の仕事がなくなりそう・・

与党サイドの有力者「やっぱり防潮堤は景観破壊で良くない!」(今ココ?)

できて間もなく撤去工事=大手建設業者ワー→財政悪化?福祉カット?

作れと言った人の責任は問われないの?→たぶん・・(原資は国税だし政権交代の見込もないし着工決めたの民主党政権だし?住民訴訟ならぬ国民訴訟もないし)

なんて展開になったりするんでしょうかね・・・せめて、これを教訓に沿岸の自然景観などや政策決定過程や税金の使用に関する責任のあり方について議論が深まればと思いますが。

ちょうど、何かと話題の安倍首相夫人が防潮堤反対の発言をされている記事を拝見しましたが、昭恵夫人ご自身のお気持ちは真っ当なものだろうと思う反面(今に始まったことではなく以前からそうした発言はなさっていたようですし)、上記の理由から利権的なものに利用されてしまうのではないかなどと残念な印象を感じてしまう面もあります。
http://jp.reuters.com/article/idJP2017031201001189

この記事の昭恵夫人の写真は、例の件で心労が溜まっておられるのか、とても疲れ気味に感じられ、講演先が西和賀町というのも総選挙対策で関係者に頼まれてということなのかもしれませんが、ご自身の健康を第一にしていただければと思います。

ともあれ、今後、防潮堤問題については、撤去等を掲げる声が高まることが予測される反面、本日の岩手日報でも「防潮堤の整備が終われば建設業者の仕事は減るだろう」との国交省幹部の発言なるものが掲載されており、誰がどのような立場・動機から撤去等を求めているのか、見定める必要があるのではと思われます。

防潮堤を単純に悪者視するつもりはありませんが、人(特に若者)が海を見るとき、遠く離れた先に自分の可能性が広がっているように感じるのでは無いかと思いますが、壁に囲まれた暮らしをしていると、自分が閉じ込められ、限られた人生の選択肢しか与えられていないような閉塞感に囚われるのではないかと思います。

景観や自然破壊云々もさることながら、そうした形で「被災地はろくでもないところ(だからさっさと離れた方がよい)」というメッセージをこの光景が地域の若者や全世界に発信することにならないか危惧しますし、それだけに「地域住民が秀でたものとして愛し、世界の人が見に来たくなるような防潮堤のあり方」について、災害先進国?に相応しい叡智を結集していただきたいと思わずにはいられません。

ちなみに、岩手弁護士会・公害対策環境保全委員会は、防潮堤問題について何かせねばとは思いつつ諸般の理由から何もやっていないと言わざるを得ない状態ですが、仙台弁護士会では視察調査などを行っているそうです。

先般それに関する記事を頂戴したので、その種の問題に取り組んでいる県内の方などがご覧になりたいとのことでしたら、ご遠慮なくお申し出下さい。

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養子制度から見た空家大国の近未来と震災

先ほど、日本国内に大量の空家が発生して深刻な社会問題になるはずだと述べた藻谷浩介氏の対談記事を拝見しましたが、私も、「遠方の被相続人(両親やきょうだい、叔父等)の死去等により、相続人が廃墟化した空家の対処(解体など)を余儀なくされたり、相続放棄等により第三者がその必要に迫られる事案」のご相談等を多く受けてきましたので、それが今後ますます増えるだろうということも含め、記事には共感できる面があります。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51118

ところで、「人口減少で家を継ぐ人が減って空家が増える」という点については、昔の日本(特に、多産が奨励された大戦前後の時代)なら、養子縁組で家を継ぐ(いわば空家化を防ぐ)ことが多く行われていたようです。

そうした話は去年読んだ「きょうだいリスク」という朝日新書の本に詳しく書かれていたのですが、現代では、そうした風潮ないし社会慣行は廃れたのでしょうし(金持ちが税金対策で養子との話を日経新聞で見かける程度です)、私の知る限り「養子の慣行を再興して空家対策をしよう」などと呼びかけている人がいるなどという話は聞いたことがありません。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17778

私の存じている同世代の方々も、単身生活を続けている方もいればお子さんが3人という方も相応に多くあり、昔なら養子云々という話になったのではないか、どうして今はそうならないのか、それは社会にとって悪いことなのか良いことなのか、以前と比べて社会の仕組みや人々の意識などの何がどう変化し、それはどのように評価すべきなのだろうなどと、色々と考えさせられる面があります。

それもまた、現代が良くも悪くも地域や個々人のつながりを分断させる方向にばかり社会インフラの舵を切ってきたことの帰結なのかもしれませんが、養子以外の形も含めて、「跡継ぎ・墓守」などという精神的な負担感を軽減した方法で空家の管理や所有を相応の個人や法人に移譲させる仕組み(空家承継)を検討・試行する機運が高まってくれればと思います。

本日は「震災の日」ですが、数年前に沿岸被災地で多くの方から相談を受けていた頃、養子縁組が絡んだご相談(例えば、遠方在住の養子が弔慰金を受け取ったのに葬儀もお墓の面倒も見ないので憤慨しているといった類のもの)を受ける機会が多くあり、盛岡など内陸部の方からは養子絡みのお話を聞くことがほとんどなかったので、不思議に思ったことがあります。

かつては、沿岸の方が内陸に比べて多産多死(なので養子の必要が生じやすい)社会だったのか、震災のため、そうしたご相談がたまたま多く寄せられただけなのか(実は内陸にも養子は沢山いるのか)、分かりませんが、そうしたことも含めて、学者さんなどに幅広い視野をもって地域社会の実像を解き明かしていただき良質な対策につながってくれればと思っています。

余談ながら、住宅業界に限らず弁護士業界も15年ほど前に、藻谷氏が述べるような「供給を増やせば市場価値も上がるという、市場経済原理とは真逆の、謎の信念」を唱えて増員と法科大学院の導入等を推進(狂奔?)してきた方が多くいましたので、そうした観点からも、現場で様々な苦労や忍耐に直面せざるを得ない身としては、色々と考えさせられる対談だと思います。

まあ、えせ老骨が価値の暴落ばかり嘆いても仕方ありませんので、せめて、それをバネにして「若い人ばかりという現代日本とは真逆の人口構成になっている弁護士業界」が、上記の問題の対策に関する実働なども含め社会に良質な価値をもたらす原動力になってくれればと願わないこともありません。

政治家・公務員の責任追及制度に見る「国と自治体の格差」と是正への道

住民訴訟で自治体の首長に巨額賠償が課された場合(例えば、豊洲市場問題で都民が石原知事に対し「都の損失を補填せよ」と訴えて勝訴した場合をイメージして下さい)において、近年、地方議会が「首長の過失の程度は重くないのに、巨額の損失を肩代わりさせられるのは気の毒だ」として免責(自治体の首長に対する賠償請求権の放棄)の議決をすることが増えているとされ、平成24年には一定の場合に放棄を容認した最高裁判決なども出されています。

そうした事情を踏まえ、政府が地方議会による免責の議決に一定の歯止めをかける制度を設けるとの報道が出ていますが、政府=国が住民訴訟を強化する制度を推進する光景自体は私も特に異論ありませんし、至極まっとうなもののように見える一方、妙な滑稽感を抱く面があります。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20170309-OYT1T50058.html?from=ytop_top

というのは、民が官に対し公金の使途の是正を求める制度について勉強している方ならご存知だと思いますが、自治体による公金濫用(公用財産の毀損)に対しては住民が首長など関係者の賠償責任を問う制度(住民訴訟)はあるものの、国による公金濫用等に対しては、そのような制度(国民訴訟)は我国には設けられていません(外国はどうなんでしょうね)。

いわば、石原知事や当時の東京都の担当者などは豊洲問題で訴えられるリスクを負っているのに対し、例えば、森友学園事件で「埋設廃棄物の撤去費用8億円の見積が虚偽と判明し、公有財産を不当に廉価に売却したものであることが確定した上、そのことについて安倍首相や麻生財務相、担当のお役人さんなどに任務懈怠責任が認められる場合」でも、国民が賠償責任の追及を求めて提訴することはできません。

ですので、このような報道には「安全な場所に身を置く者(国関係者)が、自分がリスクを取らない状態を続けつつ、危険な場所に身を置く者(自治体関係者)にばかり、「ちゃんとやれ」と言い続けている」ようなアンフェアな印象を感じる面があるのです。

もちろん、そうした制度に消極的な見解の方からは、濫訴防止など法技術的な様々なご主張をなさるのではと思いますが、根本的には、この国の地方と中央(国家)の関係がどのようなものとして統治機構が構築されているのかという問題に行き着くのではと思わないこともありません。

ちなみに、日弁連は10年以上前から、そうした公金是正訴訟制度の導入を求めていますが、およそ世間の話題になった記憶もありません。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2005_41.pdf

いっそ、石原知事であれ他の知事さんや市町村長さんなどが「俺たちばっかリスクを負うのは嫌だ」と世間に向かって導入の声を上げていただくとか、日弁連も、本気で導入したい気持ちがあるなら、そうした「敵の敵」と連帯する努力をするとか、考えてもよいのでは?などと野次馬的に思ったりもします。

それこそ、野党系知事の雄?というべき達増知事は、前任者と異なり全国では全く知名度がないのではと残念に思いますが、「レガシー」として?そうした運動も考えていただきたいものです。

ともあれ、お人好しの身としては、国のお偉いさんの方々も住民訴訟制度を強化、拡充することを通じて最終的に国民訴訟の導入への機運の醸成(国任せではなく国民自身の力で導入を成し遂げる努力をすること)をはじめとする内実ある国民主権の実現に繋げたいという遠大なお気持ちがあるのだと善解したいものです。

20年前に日本を去った音楽家がNYから戻ってくるとき(某少女漫画から)

10日ほど前に音楽業界で話題になったニュースに関し、私と同世代の日本各地のご家庭(夫婦)で、次のような会話がなされたのではないでしょうか。

妻:NY在住の小沢健二が20年ぶりに新曲を出し日本で活動再開だって。

夫:剣道と模試で全国1位になった生き別れの息子を魔の手から救うために来日したのか。

妻:あたしの漫画を読んでる暇があったら、今すぐテーブルを拭き食器と洗濯物を片付けて風呂を洗って。

何のことか分からなかった方は、「有馬怜司」と検索してみて下さい。私が全巻読んだのも10年以上前のことですが、色々と考えたり感じさせるものがある良質な作品だと思います。

あなたの街の森友学園事件(後編)~全国に潜在する「購入した土地に潜み、いつか誰かが気づく埋設廃棄物」というババ抜き問題と対処策~

森友学園問題を通じて廃棄物処理法制のあり方を考える投稿の後編です。

この事件では一連の報道などを通じて様々な問題が世間に明らかになりましたが、仮に、これらの問題が露見しないまま校舎が建設され、その後、同学園が経営に行き詰まって倒産し、土地が競売となった場合を考えてみて下さい。

森友学園(競売の申立を受けた所有者)が「実は、この土地の地中に大量の埋設物があり撤去に本来は8億円も要するのに、1億円程度の工事しか実施しませんでした。今も7億円を要する廃棄物があります」などと裁判所の執行官(競売手続の主宰者)に申告すると思いますか?

また、旧所有者たる国の担当者が、その競売手続を聞きつけて、「その土地にはかつて大量の廃棄物が埋設されていた。森友はそれを全量撤去したか疑わしいので、きちんと調査して欲しい」などと執行官に通報すると思いますか?

そんなことが期待できるのなら、彼らは売買の際に原状回復をしているはずでしょう。特に後者(国の通報)については、当時の担当者の責任問題に直結する話ですので、自主的な対応が期待できるはずもありません。

かくして、競売手続では埋設の事実が露見しないまま、「不法投棄などの問題がない当たり前の土地の値段」で売却され、買受人が購入後に建物の建設のため土地を掘ってみたところ、あぁぁ、という事態が生じる可能性が十分にあるのです。

私は、昨年まで約2年半ほど、そのような展開を辿り、深刻な紛争に至った事件に携わっていました。

具体的には、10年以上前に大量の廃棄物が埋設された土地を事情を知らずに購入して撤去を余儀なくされたXが、その廃棄物を土地に埋めたと目される旧所有者Yらに賠償請求した訴訟を、X代理人として従事しました。

その件では、10年以上前に対象土地の所有者であったYが既存建物を解体し、Yが土地をAに売却→AがBに転売→Bが倒産して土地が競売→不動産業者Cが競落してXがCから購入→自宅の建築工事を開始したところ、最初に着手した地盤改良工事の際に地中の埋設が発覚→工事業者が調査し、Y側の埋設の疑いが濃厚と判明、という経過を辿りました。

廃棄物処理法の一般原則もさることながら、Xは自宅建築のための土地購入である上、地盤の問題などもありましたので、確認された埋設物(地中2.0~2.5m程度に埋められていました)の全量撤去を余儀なくされ、多額の工事費の負担を負う羽目になりました。

その後の調査で、Y社が建物の撤去を委託した地元の解体業者(既に倒産)が土地に不法投棄しYはそのことを知らずにAに売却したのではないかと推測され(知っていたら大問題ですが)、AもBも埋設の事実を知らず、当然ながら競売記録にも埋設の事実は表示されていませんでした。

以上を前提に、当方(X側)は、「本件埋設物はYが委託した解体業者が解体工事の際に埋設(不法投棄)したものである、Yは、解体業者に不法投棄をさせない監督義務(民法716条)を負っていたのに、それを果たさなかったのだから、不法投棄のためXが負った被害に対し、賠償責任を負う」と主張しました。

なお、埋設からは10年以上も経ていますが、被害者Xに発覚したのは最近ですので、時効(被害及び加害者を知ったときから3年)には該当せず、その点は争点にもなっていません。

Yは「当該埋設物はYの建物ではない(それ以前の所有者が埋設したものだ)」とか「仮にY建物の解体物を業者が埋設したのだとしても自分に賠償責任はない」、「X(が依頼した業者)が見積もった費用も過大だ」などと主張して徹底抗戦したため、様々な事情もあって裁判は長期化し、立証のため苦心惨憺の目に遭いましたが、裁判所から「まずまずの勝訴的和解」の勧告を受けてYも応諾し決着しました。

この件では、不法投棄の原因者(実行者)と目される者が倒産していましたが、委託者Yが大手企業でしたので「責任を負うべき者の全員が倒産し賠償金を回収できない」事態に陥ることは回避できました。

これに対し、その事件とは別に何年も前に相談を受けた例で、競売で某建設業者が使用していた土地を取得した一般の方が落札後に地中の調査をしたところ地中に大量の建築廃棄物の埋設があるのが判明したという相談を受けたことがあり、その件では、実行者が倒産していることなどから、上記のように賠償請求をするのは困難ではないかとお伝えしたことがあります。

また、私自身が管財人を担当した土木工事関係の企業で、会社の敷地建物を他社に売却できたものの、敷地内にコンクリート類を埋設していたという話があり、幸い、管財業務中に元従業員の方からその申告を受け、相応の調査を行って買主にも説明し、相当な調整をして売却したということもあります(10年ほど前の話なので記憶が判然としませんが、撤去を実施するなどして売却したはずで、放置した状態で委ねてはいないはずです)。

このような事案は、何も岩手に限った話ではなく、全国に膨大な件数が存在するはずです。その原因は、すでに述べたとおり、廃棄物処理法がかつてザル法と呼ばれ、建設関係や危険物・有害物質などを取り扱う事業者が、自社所有地への埋設をはじめ、かつて多くの不法投棄・不適正処理を行ってきた(それを阻止するだけの法制度ないし実務体制が整備されていなかった)点にこそ求められると思います。

根源的には、大地の尊厳を守るという我国の美点というべき基本的な意識が国民や企業に共有されていなかったことが強調されるべきなのかもしれませんし、それだけに、日本の伝統云々を強調する教育を標榜する学校が、廃棄物の埋設を平然と放置していることは、彼らの本質を言い当てているのではと思わざるを得ません。

以上を踏まえて、冒頭に述べたとおり、仮に、森友学園が校庭?に埋もれた大量の廃棄物について、埋設の事実を伏せて他者に売却した場合とか、撤去しない状態を続けたまま倒産→埋設の事実を報告せずに競売が行われた場合などを想定すれば、その後の取得者が撤去等の負担を不当に強いられることは優に予測されますし、その際に埋設の原因を作出した譲渡人=国が責任を回避できるのかという問題もあります。

とりわけ、前回も述べたとおり廃棄物は処理施設で法の基準に基づき適正処理を行うべきことが廃棄物処理法制により厳しく定められていますので、適正処理を行うべきことを知りながら完遂せずに放置した者は根こそぎ、その責任が問われてもおかしくありません

現在、問題の小学校が大阪府の認可を受けることができるのかという論点が生じているようですが、教育内容云々という点もさることながら、廃棄物の適正処理をしていない場所を教育の場として用いて良いのかという観点から問題提起をしていただければと思っていますし、直近の報道では、そうした理由で不認可などの対応がなされる可能性が高まっているように思われます。

だからこそ、こうした特異な事件で世間が騒いでおしまい、ではなく、前回に述べたような様々な論点を適切に対処したり同様の事態を繰り返さないための法制度が構築されるべきで、その点に関する認識や議論が深まればと願っています。