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国内政治・経済など

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第4回)

安倍首相の国葬について、前例との違いや天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の最終回であり、今回の国葬実施の背景に天皇制(現行憲法スキーム)の存続に関する国民の不安があり、それがオルタナティブな権威の渇望という形で具現化されたのでは、という仮説を述べて締めくくっています。

5 それでも今回、国葬が大過なく実施できた、もう一つの理由

今回、国葬が決定された理由は、死去直後には衝撃的な事件内容を理由に、自民党・政権中枢や支持者からの強い希望があり、その時点では統一教会を巡る一連の問題への世論の批判もさほど大きくなく、国民の支持が得られると岸田首相が判断したためとされています。

そして、その後、統一教会問題を巡る膨大な報道を通じて批判・反対の声が強くなりましたが、国民的な反対運動や倒閣運動などが生じることはなく、国葬の実施後、国民の関心も急速に萎んだと思います。

要するに、国民一般の多数派は「安倍首相への哀悼自体は当然でも、今回の件で国葬をするのは違和感あり」と感じつつ、「それは国家・国民への重大な背信とまでは言えない(政治家が行う数多の失策?の一つに過ぎない)」という感覚なのだろうと思います。

ただ、相応の反対の声が出た一方で、つつがなく国葬が行われ、批判の声が続いているわけでもない、という現象を見ると、国民の多くは、国葬に違和感を持ちつつも、敢えて、それを許容せざるを得ない理由・事情も感じているのではないか、という気もするのです。

それも、安倍政権への評価や統一協会問題などという、今回だけの、誤解を恐れずに言えば表層的な話だけではなく、国葬という儀式・制度・システムの本質に関わる問題として、天皇以外の存在への国葬を模索せざるを得ないと感じる国民が一定程度存在するのではないか、そのことが違和感を感じながらも今回の国葬を国民が受け入れたもう一つの理由なのではないか、というのが本項の主題です。

すなわち、皇室の権威力(国民統合を実現する力)が以前より弱まり、天皇家・天皇制自体の継続の危機すらも語られるようになった社会で、国民の側も、国体存続への不安から天皇に代わりうる国民統合の象徴的存在(大統領など)を無意識下?で模索する希望があるのではないか、そのことも、本来なら国葬の対象にならなかったかもしれない安倍首相を「国葬される地位」=権威的存在に押し上げた理由の一つではないか、というのが私の見解です。

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既述のとおり、国葬には、対象者を特別な存在・みだりに批判すべきでない偉い存在として祀るための儀式・装置たる機能があります。戦前のような「軍神○○神社」が創建されるかはともかく、被葬者は一般の国民とは違う特別な存在(身分)なのだと位置づける機能があることは否定し難いはずです。

それは、本来の対象者たる天皇が、まさに特別な存在(現人神=神の依代)だと認識されていることに基づくもので、日本では、上記3=連載第2回の第2・第3類型としての国葬は、本来は天皇に対して行われる儀式(第1類型たる国葬)に連なる儀式を特別に付与するもので、いわば、天皇が独占する国家の権威を多少とも対象者に分けてあげるような性質を持つと言えます(だからこそ、国葬の濫用は、天皇に専属する国家の権威の濫用に該当することになります)。

ただ、肝心の天皇の権威(国民の統合力)そのものが低下した場合はどうか。

国家(という人民の統合装置)を存続させるために、天皇の代わりになる新たな権威(統合の象徴的存在)を求める動きが生じるはずであり、すでにそれは「現行天皇家が皇統を引き継げなくなった場合の旧皇族の皇籍復帰(養子ほか)の議論」などの形で、すでに始まっていると言えます。

今上天皇陛下の人徳や権威力(国民統合の力)に対し疑義を挟む国民はほとんどいないでしょうが、次世代の天皇家はどうなってしまうのだろう、という不安もまた、女性・女系天皇などを巡る議論の賛否に関係なく、多くの国民が感じていることは否定できないでしょう。

今上天皇の即位式の実況中継を拝見した際、天皇とは現人神(神の依代)であり、敢えて誤解を恐れずに言えば人柱でもあるのだろうと、神々しさと気の毒さを強く感じましたが、日本国民が、そのような存在としての天皇を必要としなくなる(天皇に頼らなくとも国家としてやっていける)には、まだ数百年以上の時間を必要とするのでは?と感じないでもありません。

私自身は、天皇承継などを巡る議論に関しては、現行天皇家(現皇室一門)の方々の気持ちや尊厳がなるべく尊重されるべきとのスタンスですが、ともあれ、仮に、現皇室一門で天皇制を維持することが困難となり皇籍離脱した旧皇族が養子などの方法で新たな天皇・皇族を形成する展開になった場合には、果たしてその方々が「国民統合の象徴」の認知を国民から受けることができるか等、天皇制ひいては国家体制の存続に重大な危機が生じることは間違いありません。

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仮に、天皇制が継続できないのであれば(天皇の担い手が現れず、或いは旧皇族を含めた一族全体が国家運営からの総撤退を希望する事態になれば)、大統領制などの検討もしなければならないのでしょうが、それこそ二千年も続いた国家体制の抜本的変更になり、国民的議論などという生易しいものではない、長期内乱や国家消滅(他国併呑)なども含む、凄まじいリスクが避けて通れないでしょう。

そのため、これからの数十年間の日本では、大きな変化・動きが生じるのに先立ち、天皇など権威部門(国民統合部門)に関する、幾つかの実験的な試みが生じるかもしれないと感じています。

大統領制はさておき、例えば、首相公選制に関する議論は復活するかもしれませんし、議院内閣制や国会など統治機構の主要部門も、一定の影響を受けて改革すべきとの議論も力を持ちそうな気もします。

今回の安倍首相の事件で、国葬の議論を最初に目にしたとき私が抱いた感想は「国葬って大統領に対して行うもんじゃないのか、それって天皇制をとる日本では大丈夫なのか」というものでした。

安倍首相に「国葬」という儀式が選ばれたのは、或いは、現皇室(天皇制も?)終焉の可能性を人々が感じているから、それに代わる権威を求める国家・国民の不安感や依存心が、安倍首相の国葬(国家の威光を用いた顕彰)へと人々(支持者)を駆り立てた面もあるのでは(今回の国葬は、ある種の実験だったのでは)と述べたら、それは言い過ぎでしょうか。

私は、生前の安倍首相を一部の「ネトウヨ」などが礼賛する光景は彼らの政治家への依存心のようなもので、それを引き受けていた安倍首相・自民党側にも共依存のような関係性があると感じていました。

が、国家(人民統合装置)自体への依存心は、天皇であれ五輪やW杯などの類であれ、私を含む他の人々も、さほど違いはないのかもしれません。

6 天皇制(権威・権力分立社会)の終わりの始まりか、再構築の入口か

安倍首相の「国葬」は、最高権力者であった同氏に国家による権威を付与するという意味で、あたかも大統領に祭り上げるような面があります。皇室の藩屏という役割がなくなった戦後日本では、なおのこと、国葬を通じた有力政治家の権威化は大統領制に通じる道というニュアンスを帯びそうな気がします。

権威と権力を分立する社会を望むなら、権力者の権威化は避ける(天皇の名のもとですらない国葬はしない)のでしょうし、権威と権力が一体化となる社会(戦前日本や大統領制)では、権力者の権威化(それに国民が信服し統合=団結させる)装置としての国葬は活用されやすい、と言えます。

このような「権威と権力を分立させる社会・させない社会」という視点で今回の国葬問題を語る視点・議論は、あって良いのではと思います。

ともあれ「国葬とは原則として天皇にしか許されないというのが戦後日本人の感覚ではないか」との私の見解(推論)からは、有力政治家の国葬が多用され、それを国民が支持するようになった場合、天皇に専属していたはずの国家の権威者たる地位が分散・分属されるようになり、やがて天皇制の終焉(国民が天皇を必要としない社会)にも繋がりうるのではないか、という印象を受けます。

別な観点で言えば、現行皇室の(男系?血筋)が存続できず、国民が直ちに権威を認めることが難しいかもしれない皇籍離脱者などが「新たな天皇家」になった場合、国民は、有力な首相などを天皇(国民統合の象徴)の代替として権威化しようと欲するのではと思いますし、その傾向が強くなると、やがて国家組織(国民統合装置)としての天皇制の不要論に行き着くこともありうるように思います。

そして、象徴天皇を奉じつつ有力政治家などにも国家存立・統合のシンボルとしての権威性を認めていく社会になれば、それは権威の分属・分立であり、それこそ内乱の火種になるか、そうでなくとも日本の国家制度・統治機構のあり方を大きく変える端緒になりうるような気がします。

日本国は、天皇のもと権威と権力が分立する社会を続けるのか、続けることができるのか。それとも、双方の分立(役割分担)を定めた天皇制を廃し、国家の権威と権力の双方を具有する大統領を国民の支持などにより擁立する社会に切り替えるのか。

それとも、第三の道があるのか。それは良好な道か、悲惨な道か。

今回の安倍首相の国葬は、いつの日か、そのプロローグとして歴史家に語られる日もあるかもしれません。

 

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第3回)

安倍首相の国葬について、各種前例との異同や天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の第3回目であり、今回は、主として戦後日本のスキーム(象徴天皇制や現行憲法に基づく「権威と権力の分立」)との関係性について述べます。

4 現代日本で国葬が行いにくい(盛り上がらない)固有の原因

ともあれ、今回の国葬は粛々と行われ、当日は故人を慕う多くの人々の参集もあったようですが、国民全体として見れば、国葬への社会的支持は乏しく、「盛り上がらない国葬」「自民党や支持者・関係者の人々だけの国葬」という面は否めなかったと思います。

ただ、吉田首相の国葬の実施状況を巡るWeb記事によれば、吉田首相の国葬もさほど盛り上がらず、尻すぼみに終わった(ので、その後、国葬が慣行として行われない状態が延々続いた)のだそうです。

そのため、現在の日本社会では、国葬という儀式そのものが、国民の支持を受けることが難しいのではないかと感じる面があります。

その原因は、国葬という手続が、性質上、被葬者を何らかの形で権威化する(死後も国家・社会を支えるものとしての権威ある存在、批判を避けるべき存在として祀る)ことを目的とすることに由来しているように感じます。

そのため、そのような儀式(国葬)は、現代日本(戦後日本)では、国家を代表する者・国家が掲げる価値観などの体現者だと国家・国民が認めることができる者(存在)=国葬を通じてその者を「権威ある=一般国民とは身分が違う特別な存在」と位置づけるのが許される唯一の存在である、天皇(及びそれに準ずる皇族)にしか認められるべきではないという国民感情が、社会の底流にあるのではないか。

これが、安倍首相であれ吉田首相であれ、現代日本で国葬が盛り上がらない根本的な理由ではないか、というのが私の見解です。

言い換えれば、誰であれ天皇と特別な皇族以外の者を「国葬」という形で祭る=権威化するのを、現行憲法・社会は想定していないのかもしれません。

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そもそも、象徴天皇制とは、天皇に一切の権力を認めない代わり国民統合のための権威としての役割・機能を徹底的に認めるものと言えます。裏を返せば、権力機関たる三権の長などには権威者(批判を許さない存在)としての役割を認めず、権威の機能は天皇に独占させることが予定されています。

権威者たる天皇は、権力を持たないからこそ国家運営(権力行使)に携わることがなく、それゆえ国家運営の失敗に責任を取ることがありません(天皇の無答責)。

国家機構の一部門という観点からは、この無答責(退位など、責任をとる制度がないこと)こそが、他の国家部門と比べた天皇の最大の特色と言ってよいと思われます(裁判官にも強力な身分保障がありますが、定年と熾烈な能力審査のほか、再任審査も一応あります)。

戦前=明治憲法でも天皇の無答責が定められていましたが、それは、天皇が神聖=無謬=誤るはずのない存在との前提に立っていたからで、前提自体はひっくり返りましたが(憲法学では、8月革命などと呼びます)、無答責という結論自体は全く変わりません。

そして、理屈(前提)のひっくり返りこそあれ、戦前も戦後も、国家運営に失敗があれば、天皇はその責任を負わず、権力機構の運営者≒政治家が負う(べきとされている)点は同じと言えます。

言い換えれば、日本の政治家には権威がないからこそ責任を迅速に取らせることが可能であり、戦前・前後問わず日本の首相の大半が短命なのは、「権威がないので地位の継続性の担保が弱く、世間の不満に伴う責任を取らされやすい=地位を追われやすい」ことが根底にあると思います。

ともあれ、戦後日本の国家体制は、天皇から一切の権力を剥奪した上で権威の頂点(拮抗する権威者がいないという点では唯一無二の権威)とし、それと対をなすように、権力を行使する国家組織(立法・行政・司法の三権=議会とお役所)は、国民に対する権威(威光・信頼)という点で、天皇に遠く及びません。

司法(裁判官)は、政治部門に比べて一定の信頼はされているでしょうが、それと同時、或いはそれ以上に、畏怖・嫌悪されている面があります。

司法には一定の権威が認められていますが、その権威は、情ではなく理屈を基盤とし、「この理屈(裁判官の判断)が通じない奴、言うこと聞かぬ奴は黙って従え」という高圧的な面(エリート支配の負の側面)も見え隠れするため、「国民との感情的な信頼関係・共感(天皇家が「国民の本家」のようなイエ意識)」を存立の基盤とする天皇の権威とは、かなり性質が異なるように思います。

もちろん、今の社会で最高裁長官その他の司法関係者を国葬したいなどと言い出す人は誰もいないでしょう。

結局、象徴天皇制を基礎とする現在の社会体制が盤石なものとして永続する限り、「この国では国葬とは天皇に行われるべきものだ。それ以外の人間の特別扱いは不要だ」という天皇のもとの平等思想が国民の総意として今後も存続し、よほどの事情がない限り、国葬をやろうとする人は出て来ないのではと思われます。

(井沢元彦氏の「逆説の日本史」でも、天皇が平等化推進体としての役割を果たしてきたとの視点が述べられており、これは日本の社会思想史ではよく語られていることだと認識しています)。

(以下、次号)

 

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第2回)

安倍首相の国葬について、各種前例との異同や天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の第2回目であり、今回は、主として世界における様々な国葬との比較を述べます。

3 国葬を実施してきた類型と、安倍首相の国葬理由の違和感

冒頭でも述べたとおり、現代の社会(とりわけ民主主義国家)では、国葬は元首や国家の功臣(有力政治家)に限らず、フランスなどでは「国家統合の象徴的な役割を担った」と社会内で広く認められた一般人にも行われるなどしており、その実施される類型は多様化しています。

ただ、概括的にまとめれば、国葬は、以下の3つの人物(場合)に行われてきたと言えるように思われます。

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①国家そのものを体現すると国家・国民が広く認めた人物。

王制・帝制なら国王・皇帝(日本では天皇=神の依代)、共和制なら大統領だが、形式的には該当しても、「国家の体現者」だという認知が国家・国民から得られない場合は、国葬は否定されたり後者(大統領)では本人が辞退する例もある。

②本来は(肩書=国家組織上の地位自体は)対象者とは言えないが、国家への功績が極めて大きく、果たした役割の重大さから国家の体現者にあたると国家・国民が広く認めた人物。

国家存亡などに多大な貢献をした政治家など=チャーチル首相が典型で、吉田首相(壊滅的敗戦後の国の立て直しと憲法等を通じ戦後体制を確立した功労者としての位置づけ)もこの類型か。

③第2類型ほどの貢献は認めないが、国家の掲げる政策・価値・理念などの体現者として、顕彰が特に必要とされた人物。

この類型では、存命中の功績の軽重のほか現国民(存命者)の動員などの政策的効果が重視されやすく、大戦中の山本元帥が典型。西欧で民主主義の体現者として認められた一般人に国葬がなされるのも、この例に含まれる。

また、国家自体が形成途上にある場合には、国家形成・機構整備などに特に貢献したと認められた者(建国の功臣)にも行われ、戦前の元老の国葬や近代の各国の国葬はその典型。

「靖国合祀」は狭義の国葬ではないが、広義にはこの一種と言える(アーリントン墓地なども同様か)。

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こう整理すると、各類型には次の特徴・傾向があるように思われます。

①は国家それ自体の権威の補強のため行われ、③は国家が掲げる特定の政策・価値観の権威化を目的とした面が強く、②は双方の性質(中間的性格)を持つ。

②は、国家存立の大きな事態が生じて特に貢献した政治家を輩出した場合に行われ、格式は①に劣らないものとなることが多い。

形成途上の国家(特に戦時中の国家)では③が行われやすい。建国の功臣の顕彰(国葬)はその典型。③類型は、国家(元首)・国民総意が「与える」ものとして、格式は①や②に劣るとされるのが通常。

国家(国民統合)の維持に何らかの不安要素を抱えた国家でも、国民統合の儀式(象徴的存在を新たな権威に追加する儀式)として③が行われやすい。

逆に言えば、国家組織・社会が成熟・安定すれば(特定人の葬儀を通じた国家・国民の統合の必要性が乏しい又は葬儀という装置が現在の社会的課題の解決策として役に立つわけではないとの認識が広まれば)、①以外の国葬は、行われなく(行われにくく)なりやすい。

ウクライナ戦争が適切に終結し復興が進めば、ゼレンスキー大統領は救国の英雄ないし象徴として没後に国葬に付される可能性が濃厚だが、今後の業績次第で、②③のいずれになるかは現時点で予測不能。

***

このように国葬を整理した場合、安倍首相は、①に該当しないことは議論の余地がありません。

長期の在任や外交での活躍を理由に安倍首相が②に該当すると主張する論者もいますが、「世界大戦の勝利の牽引」「無条件降伏からの奇跡的復興の土台作り」に匹敵するとの評価は無理でしょ、というのが一般の感覚だと思います。

では、③はどうか。長期在任それ自体は国家による顕彰の対象とは言えないでしょうし、外交云々も、国家による特別の顕彰に値するほどの功績かと言えば、少なくとも現時点でそのような評価が確立したとは言えないでしょう。

安倍首相の在任中に政治的権力闘争による社会の混乱があまり見られず社会が安定し経済が相応に繁栄したことは確かですが、それ自体、歴史の評価が定まっていません(成長戦略や痛みを伴う改革が実践されず、日銀を利用しツケを先送りしただけでは、との批判が根強くあると思います)。

また、③類型は、既述のとおり特定の政策や理念の推進のため行われるのが通例ですが、安倍首相を顕彰することで特定の政策や理念を牽引したい、というメッセージ性は実施前後はもちろん現在までほとんど見えてきません。

首相を長期歴任し現在も政界に強い影響力を持つ現役の有力政治家が凶弾に斃れたというショッキングな事件のため、「テロに負けない」とのメッセージも当初は掲げられました。

しかし、加害者の凶行の原因となった統一教会による凄まじい被害と、岸・安倍家三代の長年に亘る統一教会との蜜月関係、それに起因するとみられる清和会・自民党を中心とする多数の議員が統一教会に選挙運動などで依存していた光景などから、「凶行は是認しないが、背景となった統一教会による社会悪を放置することは許されない」という世論の方が遙かに強くなり、「テロに負けない」というメッセージは萎みました。

敢えて言えば、統一教会に関する現在の政府の対応(質問権行使など解散命令請求を視野に入れた行政権行使と、異常献金等に対する予防や救済に関する特別立法など)に見られるように、事件後の社会には、「現代を代表する大物政治家たる安倍首相を暗殺に追いやる原因となった統一教会には、相応の落とし前を付けさせるべき」という国民合意が相応に形成されていると思います。

そして、その合意形成の方法の一つとして国葬という儀式が活用されたという見方はできると思います(岸田首相にとっては、それ自体が目的というだけでなく、それを掲げることで自身の政権存続の糧にしたいのかもしれませんが)。

少なくとも、支持率が低下し続ける岸田内閣ですが、法律案の中身や実行力の問題はさておき、「統一教会に落とし前をつけさせるべき(そのための権力行使をすべき)」という政策の方向性自体は、今も広く支持されていると思います。

ただ、それ(統一教会をぶっ潰す、アベ政治ならぬ統一教会による社会悪を許さない)は、他ならぬ被葬者の殺害犯人が求めてきたことであり、ある意味、「テロを許さない」という表層的な言葉からは、真逆の話でもあります。

ですので、被葬者自身が生前に現在の光景を求めていたのかという点も含め、そうした「ねじれ感」が、この国葬は特定の政策の推進のためのものなのか?という違和感或いはヘンテコ感(居心地の悪さ)を感じさせるような気がします。

それこそ、大戦回避や早期収束を望んでいたとされる山本元帥の戦死による国葬が、国民総動員という真逆の政策目的のため用いられたとされることと似ている面があるのかもしれません。

或いは、色々とややこしいことを考えるよりは、「存命なら令和の妖怪として政界に隠然たる力を行使したであろう安倍首相の無念の斃死に起因する現実世界への祟り(怨霊化)を恐れた人々による鎮魂」と考えた方が、分かりやすいのかもしれませんが。

(以下、次号)

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第1回)

安倍首相の国葬に関し、主に天皇制との関係で感じたことを幾つか述べます。長文になりましたので、全4回に分けて掲載しますが、骨子は

Ⅰ 今回は過去に国葬の対象とされた典型・類型に当てはまらないやや特殊な例であり、前例や国葬の趣旨・目的という点からは違和感を持つものである。

Ⅱ それにもかかわらず、国葬という形式で葬儀が行われたのは、岸田首相らの思惑もさることながら、国葬の本来の対象者(元首など)の社会的影響力の低下が影響しているのではないか。

Ⅲ さらに言えば、現皇室(ひいては天皇制も?)の終焉の可能性を人々が感じているから、それに代わる権威を求める国家・国民の不安感や依存心が、安倍首相の国葬(国家の威光を用いた顕彰)へと人々・支持者を駆り立てた面もあるのではないか

Ⅳ 今後も、国家統合の象徴としての天皇制の存続への不安・懸念から、有力な首相などを天皇(国民統合の象徴)の代替として権威化しようとする試み(大統領制の議論など?)が生じるかもしれない。

というものです。以下、次の項立てにより詳細を述べます。

1 安倍首相の国葬を巡る論点の整理(第1回)
2 国葬とは何か、何のために行われてきたのか(第1回)
3 国葬を実施してきた類型と、安倍首相の国葬理由の違和感(第2回)
4 現代日本で国葬が行いにくい(盛り上がらない)固有の原因(第3回)
5 それでも今回、国葬が大過なく実施できた、もう一つの理由(第4回)
6 天皇制(権威・権力分立社会)の終わりの始まりか、再構築の入口か(第4回)

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1 安倍首相の国葬を巡る論点の整理

今回の国葬に関する論点は、大まかに言えば、次のように理解しています。

①安倍首相への評価(国葬に値するか。政権一般の評価のほか統一教会との関係性を含む)や規模(カネ)の相当性

②法的な正当性や根拠があるか(閣議決定だけで可能か等。人権云々を含む)

③国体=天皇制との関係を含む、現代日本で国葬という儀式を行うこと自体の意味・当否・あり方

開催前は、①の議論は盛んにあり、②も訴訟を起こす方がいるなどしたため一定の議論がありましたが(各地の弁護士会で表明された国葬への反対声明も、これを理由としています)、最も肝心というべきはずの③は、当時も今もあまり語られていません。

①は、詰まるところ価値観と多数決の問題でしょうし、それに対する評価は岸田内閣の存続や次回の総選挙の結果などの形で問われるでしょう。

②は、一般的な法律家の感覚からは、内閣府設置法は根拠にならないというべきだと思いますが、国民世論を動かす論点にはなりませんでした(所詮、議院内閣制ですし)。

③に関して、7月頃、反対派の学者さんが国葬自体が民主主義に反するなどと述べるものを見たことがあります。そこでは批判の理由として、山本元帥の国葬のように、戦前の皇族以外の著名人(権力者など)の国葬が政府の世論形成に活用(濫用?)されたことが挙げられていました。

しかし、米国など大統領制の国々では大統領=国家元首が亡くなると国葬が行われているほか、西洋諸国の中には、ごく普通の一般人でも、国の歴史の中で重大又は象徴的な役割を果たしたと認めれ国葬がなされる例もありますので、中身の検討もせずに、儀式としての国葬それ自体が民主主義に反するなどと言えるはずもありません。

そのように思っているうちに色々と考えが浮かんできたのが本稿のきっかけであり、以下では、その「中身」をテーマとして検討していきます。

2 国葬とは何か、何のために行われてきたのか

国葬とは、

国家を代表する者や国家が掲げる価値観などを体現する人物と国家・国民が認めた人間が亡くなった場合に、その者を追悼・顕彰することで、その者が存命中に体現した価値観を承継するよう国民に促し、ひいては国民統合や国家継続の糧としようとする儀式

だと認識しています。

先般のエリザベス女王は言うに及ばず、天皇の葬儀(大喪の礼)もいわゆる国葬にあたることは異論がないと思います。

そもそも、現代日本(戦後憲法下の社会)では、天皇は国家・国民の統合の象徴という価値を体現した存在とされています。

これ=統合の象徴としての機能は、戦後になって始まったものというより、古代から天皇が担っていた役割の核心部分であり、千数百年もの長きに亘り国家・国民に支持されてきた、強固な基盤を持った役割と言えるでしょう。

大喪の礼は、亡くなった天皇への厳粛な追悼を通じて、「象徴としての価値・役割に敬意を表し、各人に色々と意見や事情はあっても最後は天皇のもとで国民がまとまることができる社会(象徴天皇制)を後世の日本人も継承して欲しい」というメッセージが込められていると理解しています。

象徴天皇制が圧倒的に支持されている現行日本で大喪の礼(という形式で行われる国葬)に異論を唱える人はほとんどいないでしょうし、そのことは、大喪の礼が担う意味が以上のようなものであり、それを大多数の日本人が得心していることに基づくものと思われます。

他方、大日本帝国下の山本元帥や元老などについては、国家中枢が「陛下の股肱の臣であり国家運営の礎」と認定した御仁を臣下の鏡=国家目標の体現者として顕彰することを通じて、その御仁が推進し、又は否応なく担わされた政策(富国強兵であれ対米英戦争であれ)を今後も推奨する目的で、国葬が行われたように見受けられます。

国民=臣下全体がこれを範とし追従・実践させることが目的であり、だからこそ、敗色濃厚の戦時下で、山本元帥の死が、戦争継続のため利用されたと言えます(元老らに関しては、政策推進よりも単純に国家の功労への顕彰の意味合いが強いでしょうが)。

言い換えれば、国家体制の如何にかかわらず、国葬は、国家が掲げる価値観の体現者(求道者)であり代表者として国家・国民に広く認められ、かつ、その者の追悼を通じ、その者が掲げていた(であろう)価値観を、後世の国民も範として実践して欲しいと国家中枢・国民多数が感じる者に対してなされるべきものです。

そうでなければ、国家組織や国民の支持・共感が得られず、儀式として失敗に終わるはずです。

(以下、次号)

福田家三代の言葉たちと政治家にとっての他人事・自分事

福田康夫首相のことは忘れても「あなたと(は)違うんです」なら覚えている、という方は珍しくないかもしれません。

今回の福田総務会長の不用意?な「何が問題か分からない」発言を聞いた際、お父さんは記者会見で数々の名台詞を残し、「フフンの人」と揶揄されながらも世間に結構愛されていたことを思いだしました。

祖父の赳夫首相は宮沢首相と並んで戦後の秀才首相の双璧と言われている方ですが、この方も言葉の達人で、「人の命は地球より重い」など、多数の名言を歴史に残しています。

お孫さんは、自身が(安倍家と違って?)統一教会と公私とも関わりがないとか、俺達はそんな奴らに左右されるほどヤワじゃないと言いたかっただけなのかもしれませんが、言葉の使い方が悪くて、傲岸不遜な印象を与えてしまったように見えます。

冒頭の康夫首相の名ゼリフ?は、「他人事のように政治を語っている」との記者発言への反論として、自分は物事を客観的に見ているのだとの意図で発したそうですが、DNAを感じさせる面はあるのかもしれません。

小沢一郎氏は陸山会事件の公判で「自分の関心は天下国家のことだ(だから、こんな話に自分は関わりがない)」と述べたと報じられましたが、政治家の自負心が、かえって自分の足元を支えている人達・物事への無関心・無責任を印象づける面があり、その後の小沢氏勢力の退潮にも繋がるように見えました。

そういえば、康夫首相も官房長官時代、北朝鮮との国交樹立等?を優先させ、拉致被害者家族への対応が冷淡だったと批判されたことがありました。

福田家三代も、高い知的能力を有し自負心の強い一族だろうと拝察しますが、天下国家のことばかりでなく、あたかもその養分として吸い取られたかのように、政治に関わろうとする様々な周辺勢力(統一教会に限らず)の活動を通じて辛酸を嘗めるなどした庶民の思いも代弁できる言葉を紡いでいただければと思います。

赳夫首相ひいては清和会の政敵であった田中首相は、曲がりなりにも、自身が貧しい戦後庶民の「豊かになりたい」との思いを代弁する存在だと印象づけたことが、強固な政治力の根底にあったのではと思いますし。

 

安倍もと首相のご冥福を祈りつつ、原敬首相殺害事件や戦前社会との比較を考える

安倍もと首相の突然の悲報に対し、心より哀悼申し上げると共に、事件の全容解明と適切な法執行・責任追及を願っています。

私がこの報道を聞いた直後に感じたのは、戦前で言えば、原敬首相の襲撃(殺害)事件に似ているのではないか、という点でした。

原敬ファン(特にアンチ安倍氏)の方からはお叱りを受けそうな気もしますし、安倍政権の功罪については様々な見解があろうかと思いますが、安倍首相が現代日本で最も存在感のある政治家であること自体は衆目の一致するところでしょうから、存在感=被害者ご本人のインパクトの大きさという点では、戦前に殺害された少なからぬ首相・政治家の中では、原敬首相に準えることは、あながち間違っていないと思います。

今回の犯人の動機や背景の解明は捜査の進展を待つほかないのでしょうが、原敬殺害事件は、背後関係に様々な憶測があるものの、事実としての解明ができず、公式には、一介の駅員の暴発的犯行と認定されています。

今回も、仮に、背後関係が存在しない(解明できない)展開になった場合は、組織犯罪である五・一五事件や二・二六事件などよりも、原敬殺害事件に似ていると形容する余地は十分あろうかと思います。

戦後の事件との比較でも、今回の凶行が純個人的なものなのであれば(背後関係が存在しない・解明できない展開になったときは)、テロという形容よりも、秋葉原事件などのような「不遇感を抱えた個人による通り魔的な暴発」の系譜に位置づけられるように思われます。

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ところで、安倍首相(主に政権奪回後の第2次安倍政権)については「偉大な功績を残した」という発言が政府与党・経済界などから溢れていますが、アベノミクス(による経済成長・株高等)で財をなした首都圏や大企業などの方々はともかく、そうした恩恵に浴することのなかった田舎の庶民には、必ずしもピンとこない面はあります(故人を殊更に非難したいわけではありませんので、その点はご容赦下さい)。

言い換えれば、安倍政権下(民主党政権壊滅後)の約10年間に庶民の世界で主として生じたことは、富裕層と貧困層の二極化、勝ち組・負け組、上級国民・下級国民、或いはリア充・非リアなどという言葉に象徴される、国民の経済・生活の格差や意識の分断の進行ではなかったかと感じます(発端自体は、小泉政権期ないしそれ以前に求められるのかもしれませんし、民主党政権が解決に貢献したとも特段感じていませんが)。

今回の犯人も、まだ解明されていない点が多々あるにせよ、「リア充」からは遠くかけ離れた生活を送っていた御仁であることは間違いないように思われ、その点で、原敬首相の殺害犯人と似ている面はあります。

報道によれば、犯人は「自分は特定の宗教団体(現時点では実名が徹底的に伏されていますが、従前の報道からは、アレだろうと推測している方は多いだろうと思います)に個人的な恨みがあり、安倍首相が団体と繋がりが深いと思って犯行に及んだ」と述べている、とのことですが、それ自体が安倍首相に凶行に及ぶ理由になるのか?という違和感も含め、犯人の主観・意識とは別のところで、事件を生じさせた「見えざる力」があるのではという印象を受けてしまいます。

(この点は、直近の報道で、家族が宗教団体に搾取され家庭崩壊したことへの復讐として、団体と繋がりが深いとされる安倍首相を狙ったと犯人が供述していると述べられており、なるほどと思う面もありますが、その動機だけでこのような犯行を容易に実現できるとは思えず、その点でも見えざる力のようなものを感じざるを得ません。そうしたことも含め、政治家という職業ないし地位の恐ろしさ、難しさということに尽きるのかもしれませんが)。

安倍首相も、政権の主な功績が「政治や経済の長期安定」と評され、ご自身も岸信介首相の国家社会主義(政府が経済を統制して国民全体の福利を実現し、その求心力を足がかりにして国家目的の実現のため国民を動員する思想)に親和性を持っていたのではと感じられること、「働き方改革」など労働者保護・弱者保護の政策も行われていたことなどから、恐らくご本人の主観では「富裕層の優遇」は本意でなく、国民各層の福利を目指していたこと自体は間違いないのだろうとは思います。

(余談ながら、原敬首相も政友会の政策としての富裕層優遇との批判を強く受けましたが、ご本人は「国民各層の結集を通じた藩閥政治=明治レジームからの脱却」を目指していたのでしょうから、在任中にそれを果たすことができなかった点を含め、両者は似ている面はあります)

しかし、社会経済の実情ないし国民側の意識として、中流層の没落(分断)に伴い「負け組感」を強めている人々が増えたことは否めず、「そのような社会を生じさせたのに、今も強い影響力・存在感を放っている」ものを象徴する存在としての安倍首相に、結果として怨嗟の矛先が向かわれやすい状況にあったのかもしれない(そのような意味で、見えざる力が働いたのかもしれない)と感じる面はあります。

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ともあれ、私は安倍首相の悲報は原敬殺害事件に似ていると感じた直後から、今後、何が起こるのか、それは、原敬首相の死後に戦前社会に生じた出来事と類似することがあるのだろうか?という点に関心を持つようになり、昨晩は、wikiなどで、大正後期や昭和初期のことについて若干調べていました。

ご承知のとおり、その時代に日本で起きた最大の事件は昭和恐慌(世界恐慌)であり、それが、満州事変に始まる転落(暗い時代)の最大の原因と言われています。昭和恐慌の最大の被害地が東北などの農村とされていることも、忘れてはいけません。

また、この時期に政府が取り組んだことの一つに軍縮強化があり、当時の状況からは、それ自体は間違っていないと思いますが、結果として軍人の社会的没落をはじめ軍関係者の強い恨みを買ったと言われています。

そして、それが、昭和恐慌により没落した各層の恨み(社会変革=没落からの回復の期待など)と相俟って、回復期待(幻想?)を国民に抱かせることに成功した軍部への支持(戦争の時代)に繋がったというのが一般的な理解かと思います。

もちろん、今は「軍部」はありませんし、現在の自衛隊を当時の旧軍と同一視するのは適切でなければ現実的とも言えないと思います。

他方、軍縮ならぬ「国費からの支出の大幅な抑制が長年期待されている項目(これを放置すれば国家財政が破綻すると言われている事項)」は、現代社会にも間違いなく存在しています。

言うまでもなく、年金・医療など社会保障関係の財政支出です。また、アベノミクスは「国土強靱化」の名目のもと公共事業の復活という面も多分に持っていたかと思いますが、これを続けることができるのか?という局面も、これから生じてきそうな気がします。また、現在の日銀が抱えている状況も、金融に関する何らかの危機の導火線になるのかもしれません(金融は完全素人なので偉そうなことは言えませんが)。

ですので、仮に「昭和恐慌のような経済危機」と「社会保障費や各種の公共事業などの圧縮(現代の軍縮)」という二つの事象が今後、同時に生じることがあれば(政府が取り組まざるを得なくなれば)、不平勢力による大きな社会の混乱・動乱に繋がるかもしれない、という危惧は、持っておいてよいのではと感じています。

ともあれ、生者には自身の現場でできることがあること、形だけの追悼言葉をメディアやFBなどで延々と並べ立てるよりも国民各自がその危機に立ち向かうことこそが、安倍首相が望んでいることは、間違いないはずです。

長文になりましたが、故人のご冥福をお祈りしつつ、今後もできる限りのことはしていきたいと思います。

かの「アベノマスク」は今も手元にありますが、今後も、出番がくるまで大切にとっておこうと思います。

 

石川知裕候補の参院選(北海道選挙区)当選を願って

本日の安倍もと首相の突然の悲報に対し、心より哀悼申し上げます。この件については、考えたことを改めて投稿したいと思っています。

ところで、来る参院選の北海道選挙区には、高校1年次の同級生で当時すぐ近くの席に座っていた石川知裕君が、立憲民主党の公認候補として出馬しています。

私は万年窓際系ノンポリ無党派層なので、立憲党であれ自公その他であれ「支持者」ではありませんが、石川候補に関しては、ぜひ当選を成し遂げていただきたいと、遠くから応援しています。

数年前に彼が北海道知事選に立候補した際、「北海道独立宣言」なるスローガンを掲げていたため、そのことに触発され、引用の記事を掲載したことがあります。
石川知裕君の健闘と北海道知事選の先にある「道民の魂」の深化を願って | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

今回は、このスローガンは使われていないようですが、引用記事で述べた「都市(札幌圏)と田舎(それ以外)の分断」や「東北以上に東京(日本の中枢)の植民地のように見える光景」などという北海道が抱えた論点は、今も変わりがないと思われます。

左右の路線を問わず「北海道の田舎的なるもの」の利益や心情を代弁する立場にあると思われる石川候補の選挙戦を通じて、そうした論点への問題意識が改めて喚起されて欲しいと思っています。

今回の参院選では、岸田政権を支持するか否か(或いは、物価高騰などの不満を投票行動としてぶつけるか否か)だけがクローズアップされ、社会内で議論されるべき多くの論点について、政党や候補者、メディア等から内実の伴う話、或いは「社会が本当に良くなるのではとワクワクするような話」が聞こえてきません。

岩手も広瀬氏・木戸口氏の両陣営が拮抗し、無党派層(や階猛議員?)の動向次第で当落が決すると見られている一方、無党派層を熱狂させ投票行動に駆り立てるようなメッセージが、いずれの陣営からも発せられていない(双方とも組織票固め=身内づくりばかり奔走している)ように感じ、残念に思っています。

残り少ない期間となった上、本日の出来事もあり、これ以上の論戦はあまり期待できないかもしれませんが、選挙後も含め、国民にとってより有意義な政治論議や政治闘争が繰り広げられることを期待したいものです。

「河野首相」と「岸田首相」が過去に辿った道と政界大乱の予兆?

前回「菅義偉首相(菅政権)は、政治家としての来歴から政権の誕生経過まで鈴木善幸政権に酷似している。世界規模の論点に苦しんだ末に解散総選挙ができないまま政権運営に行き詰まり退陣した終幕まで、鈴木首相にそっくりだ。このまま河野行革相が首相に上り詰めれば、鈴木退陣→中曽根政権誕生の再現になる」と述べました(退陣表明の直後に、FBで述べたのが初出です)。

ただ、鈴木首相は「解散しようとしてできなかった」のではなく、それ以前に力尽きた感がありましたので、そこは相違点と言えます。

そして、首相が衆院解散を模索して色々ともがいた末に政争に屈して行使を封じられ退陣に至った光景は、「重大な決意」が流行語にもなった海部俊樹首相に近いように思います。

同世代又は少し上の方は覚えておられるかと思いますが、海部首相の退陣後は、宮澤喜一氏、渡辺美智雄氏、三塚博氏の三者が名乗りを上げ、当時、権力の絶頂にあった小沢一郎氏による「竹下派面接」を経て、同派の支持を得た宮澤首相が誕生しました。

で、その後の展開はと言えば、ご承知のとおり、政治改革(選挙制度改革=小選挙区等の導入)と竹下派の主導権を巡る抗争が勃発し、自民分裂と宮澤政権の倒壊→非自民8勢力による細川連立政権の誕生→そして政権が長続きしない(が、小沢氏が政争の中心であり続けた)混乱の時代が続きました。

若い世代は日本の政治に対し小泉首相と安倍首相の長期政権の印象が強いかもしれませんが、我々の世代は、この2政権と中曽根政権だけが例外で、あとは、首相がコロコロ代わる政争期の方が大半、というイメージを持っているのではと思います。

で、なんでこの話をしたかと言えば、私は菅政権の発足時に、ブログで

「三角大福混乱期→ひと呼吸の鈴木内閣→中曽根安定期」という流れと対照的に、「安倍安定期→ひと呼吸の菅内閣→政界大混乱へ」との展開もありうるかも

と書いたことがあり、案外、こうした展開(混乱の時代)になるかもしれない、という感じもしています。

言い換えれば、現時点で世間の人気の高い河野氏が首相になり、辣腕を振るって実績を出し高支持率を維持できれば、「中曽根首相の再来」のような再安定期になるのかもしれませんが、そうでなければ、大政争が控えているのかもしれません。

そう考えると、ご本人にとっては不本意かもしれませんが?岸田氏と宮澤首相は、共に「宏池会のプリンス」である(ご出身も共に広島で当然ハト派)だけでなく、温和そうな人柄や政策には相応に通暁しつつ権力闘争を勝ち抜く嗅覚や決断力、国民の統率力などに不安を感じないこともない、などの点で、よく似ているような感じがします。

ですので、岸田氏が「ベテラン(老骨)世代」の大物政治家たちの支持により首相となった場合に、世代交代の対決であるとか憲法云々とか何らかの重大論点を巡り自民党内に深刻な対立が起きたときは、自民分裂など大政争がありうるのかもしれません。

まあ「岸田首相になれば自民分裂になる」などと予言されても、岸田氏にとっては大迷惑この上ないでしょうから、宮沢首相が果たせなかった大宰相の道を目指して頑張っていただければと思います。

ところで、現時点でもう一人の候補者・高市早苗氏ですが、ご自身は無派閥ながら安倍首相=清和会の支持を受け(ように見える)、党内の強硬右派?が信奉する主張を掲げておられるところは、「小沢面接」の総裁選に即して言えば、三塚博氏に似ています。

若い人には通じない話でしょうが、三塚氏は、議員時代の石原知事などが立ち上げタカ派的な主張で知られた若手グループ「青嵐会」に所属しており、その点でも若手時代からタカ派の論客で知られた高市氏と共通点があります。

これに対し、世間の人気のある河野太郎氏は、上記の例ならミッチーこと渡辺美智雄氏に重なって見えます。

ですので、今回の総裁選は「鈴木退陣の再現」なら河野首相となり、「海部退陣の再現」なら岸田首相となると言えます。

さすがに、どちらになるかの予言までは私にはできませんが、昔の政治抗争史を多少とも勉強すれば、今回の政治抗争もより深みのある見方ができることは、ご理解いただけるのではないかと思います。

私も社会に何事もなさぬまま無為に老骨組に片足突っ込んだ状態になりましたが、できることなら、若い世代の方々にこうした話をお伝えし、政治や社会に思索を深めていただくお手伝いができればなぁ、と遠い目をしているところです。

まあ、私、FB友達に若い世代の人、ほとんどいないんですけどね・・(ブルック風に)

あと、ここで書いたことは全て菅首相の退陣直後に脳裏に浮かんでいましたが、これまで本業で余裕がなく、今日まで投稿できませんでした。

同じような見解を披瀝された方の記事をまだ拝見したことがありませんが、Web等で、このような見解を述べている記事などは存在するのでしょうか?

 

菅政権の幕引きと、またしても鈴木善幸内閣の既視感

菅総裁の誕生時に、首相の来歴や政権の成立過程は鈴木善幸内閣によく似ていると投稿したことを覚えている方もおられるかもしれません。

鈴木首相は自ら総選挙の陣頭に立つことなく幕引きとなりましたが、このまま菅首相が辞任となれば、

内部調整は得意だが対外問題に慣れていない方が、世界規模の問題(当時は冷戦と外交、現在はウィルス等)に翻弄され、力尽きて解散もできず終幕を迎えた

という点でも、鈴木内閣と共通点を持つことになります。

もし、来る総裁選で河野太郎行革相が勝ち上がる展開になったときは、後継という点でも、鈴木内閣の完全な再現となります(引用ブログの次の回を参照)。

ともあれ、野次馬(ノンポリ無党派)の立場では見応えのある?展開になってきたのかもしれません。

個人的には、懲りることなく、上記の引用記事のとおり、次期内閣では山下貴司外相→いずれは総理、に期待しています(笑?)。

TVで拝見する限り、ここ数ヶ月の菅首相は、かなり疲労が蓄積されているように見えました。色々と批判もあろうかとは思いますが、隣県人として、お疲れさまでしたと申し上げたいと思います。

社会に必要な小規模企業が消えゆく光景を繰り返させないために

先日の岩手日報に、紫波町の特産品である洋梨「ラ・フランス」をほぼ一手に生産する企業(紫波農園)が、人手不足や後継者難などを理由に閉園し、果樹も伐採される予定との記事が出ていました。

ラ・フランスは県内でも果物類の生産が盛んな紫波町を象徴する果物として認知されてきたと理解していますので、誰か承継できなかったのだろうかと、非常に残念に思います。

近年、小規模企業が同様の理由で廃業する例が非常に多く生じており、倒産を余儀なくされる例も少なくないようです。

反面、ここ10年ほど、裁判所に申し立てられる破産事件はごく限られた件数に止まっており、債務超過でも、銀行債務などを残したまま法的手続をせず放置する例が多数生じているのかもしれません。

昔と違って「いわゆるサラ金・商工ローンによる恫喝的な取立」をほとんど聞かなくなったことも、影響しているかもしれませんが。

後継者難については、近年、事業承継支援の動きが色々ありますが、報道や巷の光景を拝見する限り、実際に有益な対応がなされているのは膨大な需要のごく一部に止まるように見受けられます。

根本的な原因は、承継支援(マッチング支援、条件整備支援、事業維持支援など)の担い手不足もさることながら、事業承継の文化(ひらたく言えば、自分の家族以外に、企業を引き継がせる文化)そのものが根付いておらず、客観的には事業承継等の支援が必要でも、需要側(現在の経営者側)が必要性を認識・自覚したり、承継を求めて自ら動いたり第三者の支援を受けたいと考え、動き出すこと自体が、滅多になされていないことではないかと思います。

誤解を恐れずに申せば、病を患っている人が手の施しようのない状態になるまで医師の診察を受けないという話に似ているかもしれませんし、根本的には、日本人の「イエ意識」が、最大の壁になっているのかもしれません。

そのような意味では、ドラマや映画などで小規模事業の承継をテーマ・内容とする作品を取り上げるなどして第三者への承継を身近なものにすると共に承継後の「ハッピーリタイヤ」(とリスク対処)も視覚化して、「文化を変える」ような営みが、もっと盛んになればと思っています。

ともあれ、小規模従事者のための事業承継については、弁護士も本来であれば法務デューデリジェンス(法的資産査定)などの形でお役に立てる場面が多々あると思っており、制度の整備や利用の推進が、もっと盛んになればと感じています。

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ところで、県内で新聞販売店を営んでおられる経営者の方が、FBで上記の記事を紹介すると共に、我が業界も人手不足で大変だ、と嘆いておられるのを拝見し、若干の意見交換をさせていただきました。

人手不足一般に関しては、機械化云々や生産性=収益・賃金向上による就労希望者の獲得以外に対処法がないかもしれませんが、新聞配達の場合、毎朝3時~6時に就労することが必要で、機械化なども難しいことなどから、人員確保には、かなりのご苦労があるようです。

新聞も、10年か15年もすれば、ドローン配達もありうるのかもしれませんし、従事者の減少が、結果としてWeb利用での新聞購読(現在のPC・携帯での購読)を促進するのかもしれません。

ただ、個人的には、それとは別に、近未来には、新聞配達を全面的に不要とする仕組み・慣行が作られるかもしれないと思っています。

例えば「新聞紙のような形状・質感・軽量のデバイスにWeb上で新聞社が利用者に新聞データを電送し、利用者は都度、DLした新聞データ(チラシ広告を含む)を閲覧する方法」です。

これなら、PCや携帯で見るのと異なり紙面を広げて読むなど新聞本来の閲覧方法が可能で、デバイスが壊れない限り、延々と再使用できますし、データ保存も可能なので切り抜きを保存する必要もありません。データ整理も容易でしょう。

デバイスが主要紙の全部(海外含め)に対応すれば、1個のデバイスに各社の新聞データをDLして閲覧することもできます。

私は新聞は紙媒体派で、Webニュースは無料記事しか見ていませんが、上記のデバイスができたときは、利用しそうな気もします。

仮に、そのようなデバイスが作られ普及した(紙媒体に全面的に取って代わった)ときは、新聞販売店という企業(配達員という業態)自体が不要となる(貴社も業態転換を迫られる)ことになるのかもしれません。

まあ、妄想ないしミニSFの類と一蹴されるだけかもしれませんが。

また、配達員の確保困難を理由に販売店の業務継続が困難となった場合、郵便事業と何らかの形で融合させることは、解決策になるかと思います。

具体的には、朝刊の毎朝配達を諦め、郵便局が、郵便物の配達時間と一緒に(午前中などの配達時間に)対象地域を巡回して、郵便物と一緒に(その日は郵便物がない家にも)新聞を投函する、という方法です。

県内の販売店の方々も、中心部市街地のみ自社で対応し、山間地などは郵便局に対応して貰う(購読者も、やむを得ないものとして了解して貰う)形にすれば、現下の情勢でも、やりくりできるのかもしれません。

・・と思って「新聞配達 郵便」で検索したところ、すでに、かなり実施されているようです
今後は中心市街地以外は郵便などで新聞を配達するのが当たり前になるのかもしれません。

ともあれ、事業者の方々から、現在の事業経営上の問題点を伺ったり、法律問題に限らず、何か役立てることがないか調べたり考えたりするのも、色々と有意義が面があるように感じています。

さして地縁もない身で田舎のマチ弁をしていると、地元の事業者の方々から依頼等を受ける機会はさほど多くはありませんが、もっとお役に立つ機会があればと思いつつ、皆さんのご健闘を祈念しております。