北奥法律事務所

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個別の法的問題等

岩手県庁の桜と大地の涙

1ヶ月前の石割桜の時期に、受任事件の閉廷後に盛岡東警察署に赴いた際、折角ということで、途中にある盛岡城址・亀が池周辺の桜を拝見しました。

岩手県庁をバックに桜が美しい姿を見せていますが、私は現在、岩手県庁を被告とする訴訟(旧県立K病院が借地である敷地内に埋めた膨大なゴミの撤去費用等を請求する訴訟)の原告代理人を務めており、ちょうど、県側の主張への反論書面に悪戦苦闘していました。

というわけで、折角の桜を見ても、庁舎が目に入ると、恨み言のように?余計な一首しか浮かんできません。

花愛でる言葉の裏で地の底に
ゴミ捨て片付けせぬ岩手県

この恥を県民なにも言わずとも
天が大地が花が見ている

ガン、ガン、ガン、ガンラ~イザ~♪(苦笑)

この頃はまさに締切に負われている最中で、先方が

「当時の病棟をK町(基礎自治体)が作って県立病院に運営委託しており、町は県に業務報告を求めることができるので、病院(受託者)のゴミの埋設を町(委託者)が知っていたと擬制される(ので、土地の買主たるK町は県に責任追及ができない)」

などと主張書面に書いているのを見ると

「その理屈なら、県知事自身が、報告徴収権を有する各種事業者(廃棄物処理業者、病院など)の違法行為に対し、何ら責任追及できなくなってしまうじゃないか。そんな主張を県庁が自らするなんて、正気か?」

などと(言葉を選んで)書かずにはいられないのですが、県政を巡る重大事件であることは間違いなく、こうしたやりとりに限らず、事件の内容について報道等で県民に伝えられるべきでは・・と思ったりもします。

報道対象になる事件を受任する都度、記者さん達の長時間に亘る取材要請に応じて精根尽きるほど?説明することが何度もありましたが、記事を見ると「この人、訴状提出してました」程度のことしか書いてくれず、何のために当方を消耗させるほどあれこれ聞いてきたのだろう、と残念に思うことが多いのです。

それはさておき、このエリア(亀が池)の景観自体は、病院廃棄物・・・ではなく周囲の電線を地中に埋めた方が、もっと映えるかもしれません。

(以下、次号)

憲法記念日が来るたび、万物の尊厳を掲げる憲法を願って

本日は憲法記念日です。憲法のおかげで司法試験に合格できた私に限らず、皆さんも憲法について何か考えていただければと思っています。

平成後期から現在まで10年以上、世論調査では「憲法改正を経験してみたいが自民党案は支持しない」という状態が続いています。

現下の厳しい国際情勢から、自民党案(自衛隊や緊急事態条項)を諦めのように?受容する比率も増えたようにも見えますが、国民が積極的に望んでいるものとは到底言えず、安全保障であれ災害対策であれ、憲法ではなくまずは個別の政策や政治家等の努力での善処を期待するのが国民世論かと思います。

言い換えれば、国民が歓迎・希望し世界に誇れるような憲法改正案は、今も国民世論には示されていません。

私は、5年ほど前から「憲法の頂点である『尊厳』は、人類(憲法13条)だけのものではない、人にあらざる存在にも個々の特性に応じた尊厳が守られるべきとの規定(万物の尊厳。憲法13条の2)を創設すべきだ」と考え、1年前に述べたものをはじめ、時折、それに関する投稿をしています。

いつの日か、国民世論に改正案を呼びかける書籍を出版したいと思いつつ、毎年のように、今年も余力ありませんでしたと書く有様が続いてはいますが。

過去に何度も書いていますが、日本国憲法が辿った歴史に照らせば、我々が最初に経験すべき憲法改正は、

・日本や世界が希求すべきであるのに現行憲法には定められていない価値に関するものであること

・日本人や日本社会が辿った長い道のりに照らしても、違和感のない価値を掲げるものであること

・判例実務の単なる追認であるとか戦争の備えのような後ろ向きのものではなく、国民や世界人類に向かって日本がよりよい社会を築こうとする姿勢を表明するものであること

言い換えれば、皆が『いいね!』と歓迎し祝福できるような前向きな規定こそが最初に行われるべき憲法改正であり、それを実現するのが、曲がりなりにも戦争を経験せずに済む幸福な時代を生きることができた、我々の責務ではと思っています。

そして、現在の人類が置かれた状況や日本(列島)の歴史風土等に照らしても、万物の尊厳こそが、この付託に応えうる改正案だと確信しています。

宮澤賢治の言葉を殊更に真似ずとも、人類の幸福もまた万物の尊厳のもとでしか成り立たないというのは自明なのですから。

当方は限られた受任費用で膨大な作業を余儀なくされる仕事ばかりが続き、書籍出版など夢のまた夢となっていますが、この言葉を、日本そして世界に、いつの日か広く伝えることができればと願っています。

自転車のヘルメット未着用に伴う過失相殺の相場観と各人の役割

本日のモーニングショーで、自転車のヘルメット着用の努力義務化が取り上げられており、交通事故に詳しいという弁護士さんの「過失相殺の可能性あり、最大で2割」とのフリップが表示され、玉川さんがそれに同調する形で、ヘルメットは義務化すべきだ!と高らかに仰っていました。

が、膨大な交通事故事案に従事してきた弁護士として、この「弁護士さんのコメント」が一人歩きすることに疑義を感じざるを得ません。

ヘルメットの着用は、要するに、被害者が事故に遭った際に自身に生じる被害を軽減するための措置であり、シートベルト着用に類するものと言えます。

この点、被害者がシートベルト不着用という事案は昔からあり(近時はほとんど聞かなくなりましたが)私が東京時代に経験した例も含め、多くの事案では過失割合を1割とし、特殊な事情があれば増減させるのが通例と認識しています(さきほどWeb検索しましたが、他の弁護士さん達も裁判例を引用するなどして同様の認識を示しています)。

シートベルトの着用は道路交通法上の義務であり、上記の議論も、当時から明確に義務化されていた運転席や助手席の不着用を前提とした議論で間違いないはずです。

よって、法律上の義務を遵守していなかった場合でさえ原則1割の過失相殺とされているのに、現時点で努力義務に止まるヘルメット不着用が、それ(1割)を超える過失相殺を裁判所が認めるはずもなく、一般的な自転車でごく通常の走行態様であったのなら、現時点ではゼロ割とする可能性も高いと思います(せいぜい5%ではないか、というのが私の感覚です)。

というわけで、この番組に便乗して加害者損保から過大な割合を主張された被害者の方は、ぜひ当事務所までご相談下さい(笑?)。

また、任意保険の被保険者であれば、2割(最大4割?)程度までなら、過失相殺部分は人身傷害補償保険で大半がカバーされるはずですので、その点もご留意・ご安心下さい。

***

ただ、何年も前から通常とは異なる事故リスクが指摘され現にヘルメット着用が当然視されているツーリング等に用いるスポーツタイプの自転車や、転倒時の被害等が大きくなりやすい電気自動車なら、通常とは異なる防護義務(損害拡大防止義務)が認められるべきとして、1~2割の過失相殺もありうるとは思います。

そもそも、それらの自転車については、現時点で基本的に着用を義務化しても国民から不満の声はあがらないと思いますし。

私は現時点でヘルメット着用の必要性をほとんど感じておらず、少なくとも強制は望ましくないと感じている立場ですが(高齢等になれば必要と感じるのでしょう)、どうしても義務化させたいというのなら、自転車の類型や事故態様・年齢など様々な要素に即して現在の実情(事故リスクや着用の必要性)について実証的な議論を行った上で、国民の判断を求めていただきたいです。

でないと憲法訴訟になるでしょうし、それだけに、権力抑止的なスタンスの?玉川さんが義務ありきと声高に仰るのには少し残念な感じもします。

というわけで、法律が絡む話題を取り上げるときは、さりげなくでも構いませんので実情に即した丁寧な説明をしていただきたいなぁと思いますし、こうした番組展開を見ていると、「ジャニーズ会見の件をワイドショーが無視するのは間違いじゃないか(そちら=性被害問題を真剣に取り上げるべきでは)」という2nnの記事に共感せざるを得ないと思ってしまいます。

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以上の内容をFBで投稿したところ、他の方から「自転車の運転を免許制にして欲しい、危険運転を処罰して欲しい」とのコメントをいただきました。

自転車一律の免許制は難しいと思いますが、走行態様規制などに関しては、処罰云々はさておき、県や市で地域ごとのルールを条例で決めることが、ある程度、自由にできてよいのではと思われます。

有志の皆さんで議論いただき、今度の県市双方の首長選や県市議選などで候補者の方々に働きかけていただければ幸いです。

ガーシー議員問題で関係者に責任を取らせたい人が希望する法律案について、憲法適合性を論ぜよ

NHK党のガーシー議員問題については、いよいよ参議院で謝罪文読み上げ等を求める懲罰決議がされ、恐らくは不履行→除名決議という展開が濃厚になっています。
ガーシー議員の処分 3番目に重い「議場での陳謝」で決定 参院 | NHK | 参院選

この問題を巡っては「除名だけでは不十分だ、歳費を返納等させるべきだ」「NHK党や、投票した者の責任も問われるべきだ」という声がマスコミやWeb上を賑わせていますが、「ここまでやれば再発防止に繋がるのでは」と思わせるような具体的な提案(制裁案?)は拝見していません。

私は、こんな議員が誕生すること自体、国会(立法府)の様々な機能不全や政治不信が底流にあり、その解決(究極的には政治部門の憲法改正等?)こそが必要ではと思っているので、モンダイ議員個人の制裁にはさほど関心がないというのが正直なところです。

ただ、徹底した責任追及を求めるのであれば、どのような制度が考えうるのか・憲法上どこまで許されるか、という思考実験自体は関心が湧いたので、半ば戯言感覚で、次のような法律案?を考えてみました。

どうせなら、どこかのホンモノの政党で、真面目に検討いただいても良いかもしれません。

それ以前に、この御仁への投票のような「あらぬ方向」に陥らぬよう、真っ当な方法で庶民の政治不信を受け止め政治作用や諸制度の改善に活かしていく営みが、政治家にも国民にも求められているとは思いますが・・

【次年度司法試験・憲法予想問題集より】

国会への欠席を続けるG議員問題に対する国民の非難を受けて、国会に以下の内容を含む法律案が提出され、可決の見込みとなっている。以下の法律案に関する憲法上の問題について論じなさい。

(1) 各議院は、懲罰の対象となった議員を除名(憲法58条2項)する際、併せて、過去に支給した歳費の全部又は一部の返納を求めると共に、相当額の過料(秩序罰)の支払を命ずることができる。これらの金員には年利14.6%の延滞税を付すものとする。

(2) 対象議員が比例代表制により選出されているときは、前項の決議の際に、前項の支払を担保するため、選挙実施時の対象議員の所属政党及び選挙時の党代表者個人にも連帯支払責任を課すことができる。この場合、その履行がなければ今後の政党交付金から相殺できるものとする。

(3) 前項(比例代表)の場合には、各議院は第1項の決議にあたり、除名後に所属政党から繰上当選するのは不可とし、次回選挙まで欠員を続けるものとすることができる。

(4) 対象議員が除名決議に先立ち議員辞職した場合において、その議員が本条に定める処分を免れる目的で不相当な時期に辞職したと認めたときは、各議院は、対象議員及び政党などに対し、除名決議と同じ要件で本条に定めるものと同様の措置を講ずることができる。

(5) 各議院は、第1項の決議にあたり、選挙管理委員会に対し、対象議員を選出した選挙に関する各投票所での当該議員(選挙区)又は当該政党(比例代表)の得票率を公表すると共に、国に対し、特に得票率の高い地域には地方交付金の配分を減少させるなど、当該地域への施策に一定の考慮を行うよう求めることができる。

なお、本項については、附帯決議に「除名対象になることが当初から見込まれる候補者について投票した者の責任も問うべきだとの国民の強い声が寄せられたこと、他方、投票者を調査・特定し個人に不利益を課す制度が憲法では認められないことも踏まえ、許容される限界的な制度として、得票率の多い地域への一定の不利益措置を講ずるのが相当と判断したことに基づく」と記載されている。

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参考答案は、オボ塾刊行の「受験虚報」次回号に掲載予定・・・かも。

 

管財人口座を巡る膨大な資源と手間の無駄遣いの改善を求めて

前回、破産に伴う管財事件とりわけ個人を対象に短期間での終了を予定している少額管財事件について書きましたが、少額管財に関しては、長年に亘り実務で非常に残念な慣行(決まり)があります。

管財事件では、破産者の換価対象財産が、破産者から切り離され「破産財団」なる法人を構成するものとされており、破産財団に属する財産を管理・換価(現金集約)するため管財人が銀行口座を開設すべきものとされています。

これは少額管財でも代わりがないのですが、多数・多様な財産の管理換価が伴う企業管財(通常管財)と異なり、個人の免責調査とか所定の財産の自由財産拡張(非換価処理)の手続のみを目的とした少額管財では、商品や売掛金のような破産者の財産を処分・回収して専用口座に入金させる手続がありません。

そのため、管財人報酬として予定された予納金(20万円前後)の入金と報酬決定後の払戻という「たった2行の取引」のためだけに、毎回、銀行口座を開設しては解約するという作業が繰り返されることになります。

管財事件は、Web上でも確認できる統計データでは毎年三千件ほどですので、概算で年間二千件以上の「2行の履歴のためだけの通帳」が生じては消えていく光景が繰り返されていることになります。

私は、10年以上前は少額管財事件(通常管財も)を多数受任していましたが、予納金の入出金だけで通帳廃棄を繰り返すのが資源の無駄として余りに酷いと嫌気がさし、5~10年ほど前、裁判所に

「①少額管財は通常の預かり金口座で予納金を受け入れて良いのでは、②少額管財事件だけでも、使い回し可能な管財人口座(破産者名義を付さないもの?)を開設して再利用したい、③せめて通帳発行が不要なWeb口座を開設する方法でもダメか」

と何度か申し入れたことがあります。が、全く相手にされず、最後の照会時に

「仙台高裁にも照会したが、管内に認めた例がなかった」

との理由で却下され、今は4~5年ほど管財事件にご縁がなく、口座開設に関する現在の実情は存じておりません(その照会で裁判所に嫌われたのか、若手激増の影響か、他の理由で切られたのか、あまりにも管財事件が減ったのか、原因は分かりません)。

近年、管財人口座の開設に1万円などの手数料を求める銀行が発生・増加しているのだそうで、弁護士向けのFBグループ内で、不満等が述べられているのを見たことがあります。

私自身は、銀行側のニーズとして、口座開設の有料化自体は(上記のような資源と労力の浪費が繰り返されてきたことに照らしても)相応の理由があるのだろうと思っており、それだけに、これを機に、全国の同業の方々が口座開設等を巡る業務の合理化・無用な手間や経費の節減について裁判所に働きかけていただければと思っています。

先日、少し手が空いた際に上記の内容をそのFBグループに書いて投稿したところ、東京地裁では、③=web通帳が認められているとのコメントを頂戴しました。

そこで、折角なのでと思って、盛岡地裁の担当書記官に問い合わせたところ、盛岡は今も紙のみ(Web口座は不可)とのことで、東京を見習えないか、内部で検討いただきたいとお伝えしました。

また、某県の先生からは、次のようなコメントもいただきました。

「自分は②=破産者名義を付さない『管財人○○』名義の通帳を開設し、事件ごとに入金・払戻を繰り返している。裁判所に事前照会=公式見解を求めれば、どうせ不可だと言われると思い、何も聞かず敢えてそのようにした。(管財実務の通例で)通帳のコピーを提出した際も裁判所からクレームは受けておらず、黙認されていると認識している。なお、その県の個人再生の実務(再生委員)ではそのような扱いが問題なく認められており、それとの均衡に照らしても、②の方法が認められるべきだ」

①=通常預かり金口座での受け入れについては、冒頭に記載した「破産財団は独自の法人格があるので予納金は独立口座で受け入れるべきだ」との理由から、その先生を含め、実務では困難だろうとコメントされている方が多くありました。

私は、それ(財団帰属財産を当然に管財人個人の資産に混入させられない)を前提とするにせよ、少なくとも、管財人報酬以外に財団形成の見込みがない事案(少額管財など)では、口座開設を不可欠とする必要はなく、「破産財団が、管財人個人に対し、予納金を預けている」ものとして、管財人の預かり金口座で受領し管理することを認めること=①の方法も可能(法人格が別だ云々の法律論と両立する)と考えます。

この場合も、報酬決定までは破産財団が管財人個人に対し予納金(預託金)の返還請求権=債権を有していることに代わりませんし、巨額の配当原資ならともかく、短期間で終了する少額管財等の管財人報酬の予定額だけなら、管財人が事前に預かっておくことに問題があるとは思えません(本当に横領等する輩なら、管財人口座だって払い戻すでしょうし・・)。

裁判所自身が、家事事件などで膨大な事件の予納金(相続財産管理人の報酬予定額など)を自ら受領し管理しているのに、弁護士には罷りならんというのも違和感があります。

今流行りの「生産性」の見地からも、最も簡便であり、資源・労力いずれの無駄のない、①=通常預かり金の受入が望ましいはずです。

口座有料化の動きを機に、これまでの資源や労力の無駄遣いを直視し反省して、無用な口座開設をさせない(弊害防止の措置を講じた上で簡略に済ませる)方向で、議論が進むことを願っています。

破産管財を巡る都会と岩手の落差と債務整理に関する地方搾取?の光景

先日、弁護士向けの情報交換用FBグループ内で、東京で執務する先生が「岩手では免責調査型の少額管財が原則10万円と聞いて驚いた。この金額ではやっていけない」とコメントされており、東京?の弁護士さん達が、次々と「安すぎる」と声をあげていたのを拝見しました。

前提知識を補足しておくと、少額管財とは自己破産(破産手続)のうち、裁判所が破産管財人の選任が必要だと判断したもの=管財事件の一類型で、企業倒産(通常管財)ほど管財人の作業が重く(多く)はないため通常管財よりも少額の費用(管財人報酬。申立債務者が事前に調達する必要あり)で実施することが予定されている手続です。

免責調査型の少額管財は、破産者(申立債務者)に何らかの免責不許可事由(浪費など)が認められるものの裁判所の裁量で免責相当と判断される見込みが高い場合に、浪費の再発防止や生活の改善などを管財人が調査し裁判所に報告することを目的として運用されています。

東京地裁などでは、少額管財の予納金(事前準備額)は20万円を原則としており、冒頭の先生は東京を本拠とする弁護士法人の経営者で、岩手にも支店があり、裁判所から「10万円で管財人を引き受けて欲しい」と言われたので、それに対する不満を述べたもののようです。

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しかし、貧乏県こと岩手で法テラス案件(所得・資産の少ない方の破産事案)ばかり受任している申立代理人の立場からは、10万円の捻出すら困難な方が多いのが実情で、20万円と裁判所から言われた場合でも、本人の事情をあれこれ述べて10万円に止めて貰うことも珍しくありません。

昔に比べて管財指定される割合が圧倒的に高くなった現在では、指定可能性が高いと思われる案件では、事前に10万円の目処を立てて貰うか、「裁判所は半年以内に予納金を用意しろと言ってくるので、事前に5~6万円は積み立てて下さい。指定されたときは、1ヶ月1万円等のペースで、半年以内に残金を捻出できるよう頑張って下さい」と伝えています。

が、親族援助等のない方は、その準備だけで1年以上を要することも珍しくなく、長期化で代理人側の疲弊も累積するのが現実です。

現在の免責調査型管財人の業務がどの程度なのか存じませんが(ここ何年も裁判所から配点がないので)、10万円で採算がとれる程度の業務を本則とすれば足りるのではと思っています(昔々に配点を受けた際は、下記の事案を除き、10万円で足りる程度の仕事で済んだと記憶しています)。

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債務整理を巡る弁護士の報酬の問題に冠しては、任意整理=リスケジュールを(軽々しく)推奨する東京などのWeb広告弁護士・司法書士が、当事務所の数倍の費用で、実際には督促を止めるだけの作業しかしない光景の方が、遙かに問題だと思っています。

彼らは、(その程度の業務しかしていないという意味で)サービスに比して高額すぎるカネを支払わせた後、債権者との交渉や支払が始まる頃になって、債務者本人から「返済は無理だ」と申告がなされて、弁済すらまともに開始することなく破綻する(もともと無理な計画になっている)例を何度も見てきました。

そして、破産・再生するしかない→高額な委任費用の支払能力ありません→法テラスで地元弁護士=私ほか、というパターンを、5年以上前から何度も拝見しているので、貧乏県の弁護士としては、そちらの方を何とかすべきでは?と日々感じています。

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ただ、それとは別に、私自身も、少額管財人として「10万円じゃ仕事にならないよ」という経験をしたことが無いわけではありません。

10年近く前、免責調査型で管財人の配点を受けた事案で、後日に巨額の返戻金のある生命保険が発覚し、本人や代理人に伝えたところ、「母の名義借りでした」と膨大な資料が提出されたことがありました。

そのため、提出資料や文献を散々検討し名義借り(破産財団不構成=換価しない)を認めるべきとの報告書を提出し、裁判所も認めて不換価で終了したのですが、膨大な労力を費やしたため、10万円では時給換算で余りに不採算でした(このような論点を伴う事件では、予納金は20万円以上とするのが通例と理解しています)。

そこで、裁判所への報告書の末尾に「できれば、(不換価の代償として)本人側から10万円くらいを支払って貰う(事前の10万円と併せて管財人報酬を20万円とする)和解か何かをしたいですぅ~」と泣き言を書いたのですが、裁判官からは無慈悲に無視され、10万円で終わったという経験をしたことがあります。

ですので、そうした事案に限っては、「安すぎる!そんな価格でやってられるか」との声を全国の弁護士さん達から裁判所にお伝えいただければ幸いです。

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冒頭の先生によれば、県内の他の支部から少額管財の打診があったものの、裁判所への往復だけで3時間を要するため、さすがにそれで10万円は採算が合わないと感じた、というもので、その支部の管内の弁護士さん達が断ったので、(遠方にある)その先生の事務所に打診があったとのことでした。

詳細は分かりませんが、申立代理人は、地元の弁護士さんではなく、東京の「債務整理専門」を掲げて大々的に広告する弁護士等で、当事務所の通常価格(岩手の弁護士の相場)よりも遙かに高額な代理人費用を本人に支払わせて申立をしているとのことでした。

そのため、「こちら(管財人)に10万円で大赤字仕事を強いているのだから、代理人報酬に対し否認権を行使して、一部を(代理人弁護士から)取り上げてしまいたい」と息巻いていました。

当事務所は、債務整理のWeb広告等が咲き乱れるようになった10年ほど前から、通常価格での自己破産の依頼が来なくなり、近年の自己破産の受任は法テラス基準内の収入しか存しない方ばかりとなりました。

恐らく、債務整理需用者の大半がWeb広告に誘導され、支払能力のある方は高額な(恐らく東京等の)弁護士等に依頼し、そうでない方は、彼らの「ウチではやらないよ」等を経由して地元弁護士(法テラス、無料相談会等)に流れてくるのかな・・と感じています。

というわけで、高額な受任費用で申し立ててきた代理人には、冒頭の先生のような強者の弁護士さんからゲシゲシ報酬否認をして管財人報酬を稼いでいただくと共に、10万円じゃやりたくないという恵まれた弁護士さんばかりの支部の方々は、書記官に「小保内、管財人やるってよ」とお伝えいただければ、当方にてお引き取りさせていただきます(笑?)。

ちょうど、つい先日も、管内の司法書士・弁護士が全員辞退したという成年後見の関係で、記録閲覧や関係者との協議のため、往復3時間以上をかけて、某市に行ってきたばかりでした、というのが、同業者が逃げた?案件ばかり拾い続けてどうにか生き残ってきた、当方のお恥ずかしい現実です。

ともあれ、隣の芝生ばかり羨んでも仕方ありませんので、まずは手持ちの仕事を地味にこなし続けたいと思います。

 

大雪に伴う交通事故の解決のために

ここ最近、盛岡及び岩手県内は大雪に見舞われ、それに伴い残念な事故も幾つか発生しているものと思われますが、私がここ数年内に扱った案件でも、大雪の影響で生じた交通事故の賠償問題は何件かありました。

例えば、大雪の影響で幅員が通常より狭くなった道路での車両同士のすれ違い時に生じたミラー接触事故で、どちらが悪い(はみ出した)のか争いになり(信号対決ならぬセンターオーバー対決事案)、当方でお引き受けして色々と調べ、先方側のはみ出しと認定される可能性が高い証拠を得たところ、先方が降参して解決した事件もありました。

既に多くの方が弁護士費用特約付きの任意保険に加入されているかと思いますが、遭遇の確率の高い小規模な事故(大雪の日には生じやすいです)ほど、費用特約に加入していなければ、費用対効果の点で事実上、被害回復を断念(いわゆる泣き寝入り)せざるを得ない事態になりやすいと思います。

未だに費用特約の対応のない任意保険(共済)も存在しているようですが、安全運転もさることながら、ご家族を含む万一の備えに、任意保険と費用特約の加入を各々ぬかりなく対応いただければと思います。

近年では、弁護士費用特約の普及もあり、事故後間もない時点でご相談・ご依頼を受けることが多くなっています。

業務実績欄などに表示のとおり、当方は長期に亘り膨大な数の交通事故事案の解決実績がありますので、万一の際は、当事務所へお問い合わせいただければ幸いです。

また、交通事故(の費用特約・慰謝料など)に限らず、法律実務に関する身近な知識で、事前に知っておけば良かったと後で後悔しやすい話は昔も今も色々とあります。

地域の何らかの会合・団体さんなどで、講師のお話などお声がけいただければ、事故のほか債務整理とか婚姻費用など、ネタを整理してみたいと思いますので、ぜひご検討下さい。

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第4回)

安倍首相の国葬について、前例との違いや天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の最終回であり、今回の国葬実施の背景に天皇制(現行憲法スキーム)の存続に関する国民の不安があり、それがオルタナティブな権威の渇望という形で具現化されたのでは、という仮説を述べて締めくくっています。

5 それでも今回、国葬が大過なく実施できた、もう一つの理由

今回、国葬が決定された理由は、死去直後には衝撃的な事件内容を理由に、自民党・政権中枢や支持者からの強い希望があり、その時点では統一教会を巡る一連の問題への世論の批判もさほど大きくなく、国民の支持が得られると岸田首相が判断したためとされています。

そして、その後、統一教会問題を巡る膨大な報道を通じて批判・反対の声が強くなりましたが、国民的な反対運動や倒閣運動などが生じることはなく、国葬の実施後、国民の関心も急速に萎んだと思います。

要するに、国民一般の多数派は「安倍首相への哀悼自体は当然でも、今回の件で国葬をするのは違和感あり」と感じつつ、「それは国家・国民への重大な背信とまでは言えない(政治家が行う数多の失策?の一つに過ぎない)」という感覚なのだろうと思います。

ただ、相応の反対の声が出た一方で、つつがなく国葬が行われ、批判の声が続いているわけでもない、という現象を見ると、国民の多くは、国葬に違和感を持ちつつも、敢えて、それを許容せざるを得ない理由・事情も感じているのではないか、という気もするのです。

それも、安倍政権への評価や統一協会問題などという、今回だけの、誤解を恐れずに言えば表層的な話だけではなく、国葬という儀式・制度・システムの本質に関わる問題として、天皇以外の存在への国葬を模索せざるを得ないと感じる国民が一定程度存在するのではないか、そのことが違和感を感じながらも今回の国葬を国民が受け入れたもう一つの理由なのではないか、というのが本項の主題です。

すなわち、皇室の権威力(国民統合を実現する力)が以前より弱まり、天皇家・天皇制自体の継続の危機すらも語られるようになった社会で、国民の側も、国体存続への不安から天皇に代わりうる国民統合の象徴的存在(大統領など)を無意識下?で模索する希望があるのではないか、そのことも、本来なら国葬の対象にならなかったかもしれない安倍首相を「国葬される地位」=権威的存在に押し上げた理由の一つではないか、というのが私の見解です。

***

既述のとおり、国葬には、対象者を特別な存在・みだりに批判すべきでない偉い存在として祀るための儀式・装置たる機能があります。戦前のような「軍神○○神社」が創建されるかはともかく、被葬者は一般の国民とは違う特別な存在(身分)なのだと位置づける機能があることは否定し難いはずです。

それは、本来の対象者たる天皇が、まさに特別な存在(現人神=神の依代)だと認識されていることに基づくもので、日本では、上記3=連載第2回の第2・第3類型としての国葬は、本来は天皇に対して行われる儀式(第1類型たる国葬)に連なる儀式を特別に付与するもので、いわば、天皇が独占する国家の権威を多少とも対象者に分けてあげるような性質を持つと言えます(だからこそ、国葬の濫用は、天皇に専属する国家の権威の濫用に該当することになります)。

ただ、肝心の天皇の権威(国民の統合力)そのものが低下した場合はどうか。

国家(という人民の統合装置)を存続させるために、天皇の代わりになる新たな権威(統合の象徴的存在)を求める動きが生じるはずであり、すでにそれは「現行天皇家が皇統を引き継げなくなった場合の旧皇族の皇籍復帰(養子ほか)の議論」などの形で、すでに始まっていると言えます。

今上天皇陛下の人徳や権威力(国民統合の力)に対し疑義を挟む国民はほとんどいないでしょうが、次世代の天皇家はどうなってしまうのだろう、という不安もまた、女性・女系天皇などを巡る議論の賛否に関係なく、多くの国民が感じていることは否定できないでしょう。

今上天皇の即位式の実況中継を拝見した際、天皇とは現人神(神の依代)であり、敢えて誤解を恐れずに言えば人柱でもあるのだろうと、神々しさと気の毒さを強く感じましたが、日本国民が、そのような存在としての天皇を必要としなくなる(天皇に頼らなくとも国家としてやっていける)には、まだ数百年以上の時間を必要とするのでは?と感じないでもありません。

私自身は、天皇承継などを巡る議論に関しては、現行天皇家(現皇室一門)の方々の気持ちや尊厳がなるべく尊重されるべきとのスタンスですが、ともあれ、仮に、現皇室一門で天皇制を維持することが困難となり皇籍離脱した旧皇族が養子などの方法で新たな天皇・皇族を形成する展開になった場合には、果たしてその方々が「国民統合の象徴」の認知を国民から受けることができるか等、天皇制ひいては国家体制の存続に重大な危機が生じることは間違いありません。

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仮に、天皇制が継続できないのであれば(天皇の担い手が現れず、或いは旧皇族を含めた一族全体が国家運営からの総撤退を希望する事態になれば)、大統領制などの検討もしなければならないのでしょうが、それこそ二千年も続いた国家体制の抜本的変更になり、国民的議論などという生易しいものではない、長期内乱や国家消滅(他国併呑)なども含む、凄まじいリスクが避けて通れないでしょう。

そのため、これからの数十年間の日本では、大きな変化・動きが生じるのに先立ち、天皇など権威部門(国民統合部門)に関する、幾つかの実験的な試みが生じるかもしれないと感じています。

大統領制はさておき、例えば、首相公選制に関する議論は復活するかもしれませんし、議院内閣制や国会など統治機構の主要部門も、一定の影響を受けて改革すべきとの議論も力を持ちそうな気もします。

今回の安倍首相の事件で、国葬の議論を最初に目にしたとき私が抱いた感想は「国葬って大統領に対して行うもんじゃないのか、それって天皇制をとる日本では大丈夫なのか」というものでした。

安倍首相に「国葬」という儀式が選ばれたのは、或いは、現皇室(天皇制も?)終焉の可能性を人々が感じているから、それに代わる権威を求める国家・国民の不安感や依存心が、安倍首相の国葬(国家の威光を用いた顕彰)へと人々(支持者)を駆り立てた面もあるのでは(今回の国葬は、ある種の実験だったのでは)と述べたら、それは言い過ぎでしょうか。

私は、生前の安倍首相を一部の「ネトウヨ」などが礼賛する光景は彼らの政治家への依存心のようなもので、それを引き受けていた安倍首相・自民党側にも共依存のような関係性があると感じていました。

が、国家(人民統合装置)自体への依存心は、天皇であれ五輪やW杯などの類であれ、私を含む他の人々も、さほど違いはないのかもしれません。

6 天皇制(権威・権力分立社会)の終わりの始まりか、再構築の入口か

安倍首相の「国葬」は、最高権力者であった同氏に国家による権威を付与するという意味で、あたかも大統領に祭り上げるような面があります。皇室の藩屏という役割がなくなった戦後日本では、なおのこと、国葬を通じた有力政治家の権威化は大統領制に通じる道というニュアンスを帯びそうな気がします。

権威と権力を分立する社会を望むなら、権力者の権威化は避ける(天皇の名のもとですらない国葬はしない)のでしょうし、権威と権力が一体化となる社会(戦前日本や大統領制)では、権力者の権威化(それに国民が信服し統合=団結させる)装置としての国葬は活用されやすい、と言えます。

このような「権威と権力を分立させる社会・させない社会」という視点で今回の国葬問題を語る視点・議論は、あって良いのではと思います。

ともあれ「国葬とは原則として天皇にしか許されないというのが戦後日本人の感覚ではないか」との私の見解(推論)からは、有力政治家の国葬が多用され、それを国民が支持するようになった場合、天皇に専属していたはずの国家の権威者たる地位が分散・分属されるようになり、やがて天皇制の終焉(国民が天皇を必要としない社会)にも繋がりうるのではないか、という印象を受けます。

別な観点で言えば、現行皇室の(男系?)血筋が存続できず、国民が直ちに権威を認めることが難しいかもしれない皇籍離脱者などが「新たな天皇家」になった場合、国民は、有力な首相などを天皇(国民統合の象徴)の代替として権威化しようと欲するのではと思いますし、その傾向が強くなると、やがて国家組織(国民統合装置)としての天皇制の不要論に行き着くこともありうるように思います。

そして、象徴天皇を奉じつつ有力政治家などにも国家存立・統合のシンボルとしての権威性を認めていく社会になれば、それは権威の分属・分立であり、それこそ内乱の火種になるか、そうでなくとも日本の国家制度・統治機構のあり方を大きく変える端緒になりうるような気がします。

日本国は、天皇のもと権威と権力が分立する社会を続けるのか、続けることができるのか。それとも、双方の分立(役割分担)を定めた天皇制を廃し、国家の権威と権力の双方を具有する大統領を国民の支持などにより擁立する社会に切り替えるのか。

それとも、第三の道があるのか。それは良好な道か、悲惨な道か。

今回の安倍首相の国葬は、いつの日か、そのプロローグとして歴史家に語られる日もあるかもしれません。

 

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第3回)

安倍首相の国葬について、各種前例との異同や天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の第3回目であり、今回は、主として戦後日本のスキーム(象徴天皇制や現行憲法に基づく「権威と権力の分立」)との関係性について述べます。

4 現代日本で国葬が行いにくい(盛り上がらない)固有の原因

ともあれ、今回の国葬は粛々と行われ、当日は故人を慕う多くの人々の参集もあったようですが、国民全体として見れば、国葬への社会的支持は乏しく、「盛り上がらない国葬」「自民党や支持者・関係者の人々だけの国葬」という面は否めなかったと思います。

ただ、吉田首相の国葬の実施状況を巡るWeb記事によれば、吉田首相の国葬もさほど盛り上がらず、尻すぼみに終わった(ので、その後、国葬が慣行として行われない状態が延々続いた)のだそうです。

そのため、現在の日本社会では、国葬という儀式そのものが、国民の支持を受けることが難しいのではないかと感じる面があります。

その原因は、国葬という手続が、性質上、被葬者を何らかの形で権威化する(死後も国家・社会を支えるものとしての権威ある存在、批判を避けるべき存在として祀る)ことを目的とすることに由来しているように感じます。

そのため、そのような儀式(国葬)は、現代日本(戦後日本)では、国家を代表する者・国家が掲げる価値観などの体現者だと国家・国民が認めることができる者(存在)=国葬を通じてその者を「権威ある=一般国民とは身分が違う特別な存在」と位置づけるのが許される唯一の存在である、天皇(及びそれに準ずる皇族)にしか認められるべきではないという国民感情が、社会の底流にあるのではないか。

これが、安倍首相であれ吉田首相であれ、現代日本で国葬が盛り上がらない根本的な理由ではないか、というのが私の見解です。

言い換えれば、誰であれ天皇と特別な皇族以外の者を「国葬」という形で祭る=権威化するのを、現行憲法・社会は想定していないのかもしれません。

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そもそも、象徴天皇制とは、天皇に一切の権力を認めない代わり国民統合のための権威としての役割・機能を徹底的に認めるものと言えます。裏を返せば、権力機関たる三権の長などには権威者(批判を許さない存在)としての役割を認めず、権威の機能は天皇に独占させることが予定されています。

権威者たる天皇は、権力を持たないからこそ国家運営(権力行使)に携わることがなく、それゆえ国家運営の失敗に責任を取ることがありません(天皇の無答責)。

国家機構の一部門という観点からは、この無答責(退位など、責任をとる制度がないこと)こそが、他の国家部門と比べた天皇の最大の特色と言ってよいと思われます(裁判官にも強力な身分保障がありますが、定年と熾烈な能力審査のほか、再任審査も一応あります)。

戦前=明治憲法でも天皇の無答責が定められていましたが、それは、天皇が神聖=無謬=誤るはずのない存在との前提に立っていたからで、前提自体はひっくり返りましたが(憲法学では、8月革命などと呼びます)、無答責という結論自体は全く変わりません。

そして、理屈(前提)のひっくり返りこそあれ、戦前も戦後も、国家運営に失敗があれば、天皇はその責任を負わず、権力機構の運営者≒政治家が負う(べきとされている)点は同じと言えます。

言い換えれば、日本の政治家には権威がないからこそ責任を迅速に取らせることが可能であり、戦前・前後問わず日本の首相の大半が短命なのは、「権威がないので地位の継続性の担保が弱く、世間の不満に伴う責任を取らされやすい=地位を追われやすい」ことが根底にあると思います。

ともあれ、戦後日本の国家体制は、天皇から一切の権力を剥奪した上で権威の頂点(拮抗する権威者がいないという点では唯一無二の権威)とし、それと対をなすように、権力を行使する国家組織(立法・行政・司法の三権=議会とお役所)は、国民に対する権威(威光・信頼)という点で、天皇に遠く及びません。

司法(裁判官)は、政治部門に比べて一定の信頼はされているでしょうが、それと同時、或いはそれ以上に、畏怖・嫌悪されている面があります。

司法には一定の権威が認められていますが、その権威は、情ではなく理屈を基盤とし、「この理屈(裁判官の判断)が通じない奴、言うこと聞かぬ奴は黙って従え」という高圧的な面(エリート支配の負の側面)も見え隠れするため、「国民との感情的な信頼関係・共感(天皇家が「国民の本家」のようなイエ意識)」を存立の基盤とする天皇の権威とは、かなり性質が異なるように思います。

もちろん、今の社会で最高裁長官その他の司法関係者を国葬したいなどと言い出す人は誰もいないでしょう。

結局、象徴天皇制を基礎とする現在の社会体制が盤石なものとして永続する限り、「この国では国葬とは天皇に行われるべきものだ。それ以外の人間の特別扱いは不要だ」という天皇のもとの平等思想が国民の総意として今後も存続し、よほどの事情がない限り、国葬をやろうとする人は出て来ないのではと思われます。

(井沢元彦氏の「逆説の日本史」でも、天皇が平等化推進体としての役割を果たしてきたとの視点が述べられており、これは日本の社会思想史ではよく語られていることだと認識しています)。

(以下、次号)

 

安倍首相の国葬を巡る「天皇制の終わりと権威分立社会の始まり」(第2回)

安倍首相の国葬について、各種前例との異同や天皇制との関係性という観点から事象の本質と課題を検討した論考の第2回目であり、今回は、主として世界における様々な国葬との比較を述べます。

3 国葬を実施してきた類型と、安倍首相の国葬理由の違和感

冒頭でも述べたとおり、現代の社会(とりわけ民主主義国家)では、国葬は元首や国家の功臣(有力政治家)に限らず、フランスなどでは「国家統合の象徴的な役割を担った」と社会内で広く認められた一般人にも行われるなどしており、その実施される類型は多様化しています。

ただ、概括的にまとめれば、国葬は、以下の3つの人物(場合)に行われてきたと言えるように思われます。

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①国家そのものを体現すると国家・国民が広く認めた人物。

王制・帝制なら国王・皇帝(日本では天皇=神の依代)、共和制なら大統領だが、形式的には該当しても、「国家の体現者」だという認知が国家・国民から得られない場合は、国葬は否定されたり後者(大統領)では本人が辞退する例もある。

②本来は(肩書=国家組織上の地位自体は)対象者とは言えないが、国家への功績が極めて大きく、果たした役割の重大さから国家の体現者にあたると国家・国民が広く認めた人物。

国家存亡などに多大な貢献をした政治家など=チャーチル首相が典型で、吉田首相(壊滅的敗戦後の国の立て直しと憲法等を通じ戦後体制を確立した功労者としての位置づけ)もこの類型か。

③第2類型ほどの貢献は認めないが、国家の掲げる政策・価値・理念などの体現者として、顕彰が特に必要とされた人物。

この類型では、存命中の功績の軽重のほか現国民(存命者)の動員などの政策的効果が重視されやすく、大戦中の山本元帥が典型。西欧で民主主義の体現者として認められた一般人に国葬がなされるのも、この例に含まれる。

また、国家自体が形成途上にある場合には、国家形成・機構整備などに特に貢献したと認められた者(建国の功臣)にも行われ、戦前の元老の国葬や近代の各国の国葬はその典型。

「靖国合祀」は狭義の国葬ではないが、広義にはこの一種と言える(アーリントン墓地なども同様か)。

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こう整理すると、各類型には次の特徴・傾向があるように思われます。

①は国家それ自体の権威の補強のため行われ、③は国家が掲げる特定の政策・価値観の権威化を目的とした面が強く、②は双方の性質(中間的性格)を持つ。

②は、国家存立の大きな事態が生じて特に貢献した政治家を輩出した場合に行われ、格式は①に劣らないものとなることが多い。

形成途上の国家(特に戦時中の国家)では③が行われやすい。建国の功臣の顕彰(国葬)はその典型。③類型は、国家(元首)・国民総意が「与える」ものとして、格式は①や②に劣るとされるのが通常。

国家(国民統合)の維持に何らかの不安要素を抱えた国家でも、国民統合の儀式(象徴的存在を新たな権威に追加する儀式)として③が行われやすい。

逆に言えば、国家組織・社会が成熟・安定すれば(特定人の葬儀を通じた国家・国民の統合の必要性が乏しい又は葬儀という装置が現在の社会的課題の解決策として役に立つわけではないとの認識が広まれば)、①以外の国葬は、行われなく(行われにくく)なりやすい。

ウクライナ戦争が適切に終結し復興が進めば、ゼレンスキー大統領は救国の英雄ないし象徴として没後に国葬に付される可能性が濃厚だが、今後の業績次第で、②③のいずれになるかは現時点で予測不能。

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このように国葬を整理した場合、安倍首相は、①に該当しないことは議論の余地がありません。

長期の在任や外交での活躍を理由に安倍首相が②に該当すると主張する論者もいますが、「世界大戦の勝利の牽引」「無条件降伏からの奇跡的復興の土台作り」に匹敵するとの評価は無理でしょ、というのが一般の感覚だと思います。

では、③はどうか。長期在任それ自体は国家による顕彰の対象とは言えないでしょうし、外交云々も、国家による特別の顕彰に値するほどの功績かと言えば、少なくとも現時点でそのような評価が確立したとは言えないでしょう。

安倍首相の在任中に政治的権力闘争による社会の混乱があまり見られず社会が安定し経済が相応に繁栄したことは確かですが、それ自体、歴史の評価が定まっていません(成長戦略や痛みを伴う改革が実践されず、日銀を利用しツケを先送りしただけでは、との批判が根強くあると思います)。

また、③類型は、既述のとおり特定の政策や理念の推進のため行われるのが通例ですが、安倍首相を顕彰することで特定の政策や理念を牽引したい、というメッセージ性は実施前後はもちろん現在までほとんど見えてきません。

首相を長期歴任し現在も政界に強い影響力を持つ現役の有力政治家が凶弾に斃れたというショッキングな事件のため、「テロに負けない」とのメッセージも当初は掲げられました。

しかし、加害者の凶行の原因となった統一教会による凄まじい被害と、岸・安倍家三代の長年に亘る統一教会との蜜月関係、それに起因するとみられる清和会・自民党を中心とする多数の議員が統一教会に選挙運動などで依存していた光景などから、「凶行は是認しないが、背景となった統一教会による社会悪を放置することは許されない」という世論の方が遙かに強くなり、「テロに負けない」というメッセージは萎みました。

敢えて言えば、統一教会に関する現在の政府の対応(質問権行使など解散命令請求を視野に入れた行政権行使と、異常献金等に対する予防や救済に関する特別立法など)に見られるように、事件後の社会には、「現代を代表する大物政治家たる安倍首相を暗殺に追いやる原因となった統一教会には、相応の落とし前を付けさせるべき」という国民合意が相応に形成されていると思います。

そして、その合意形成の方法の一つとして国葬という儀式が活用されたという見方はできると思います(岸田首相にとっては、それ自体が目的というだけでなく、それを掲げることで自身の政権存続の糧にしたいのかもしれませんが)。

少なくとも、支持率が低下し続ける岸田内閣ですが、法律案の中身や実行力の問題はさておき、「統一教会に落とし前をつけさせるべき(そのための権力行使をすべき)」という政策の方向性自体は、今も広く支持されていると思います。

ただ、それ(統一教会をぶっ潰す、アベ政治ならぬ統一教会による社会悪を許さない)は、他ならぬ被葬者の殺害犯人が求めてきたことであり、ある意味、「テロを許さない」という表層的な言葉からは、真逆の話でもあります。

ですので、被葬者自身が生前に現在の光景を求めていたのかという点も含め、そうした「ねじれ感」が、この国葬は特定の政策の推進のためのものなのか?という違和感或いはヘンテコ感(居心地の悪さ)を感じさせるような気がします。

それこそ、大戦回避や早期収束を望んでいたとされる山本元帥の戦死による国葬が、国民総動員という真逆の政策目的のため用いられたとされることと似ている面があるのかもしれません。

或いは、色々とややこしいことを考えるよりは、「存命なら令和の妖怪として政界に隠然たる力を行使したであろう安倍首相の無念の斃死に起因する現実世界への祟り(怨霊化)を恐れた人々による鎮魂」と考えた方が、分かりやすいのかもしれませんが。

(以下、次号)