北奥法律事務所

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盛岡広域圏など

追憶の欧州とドイツ料理

高1の夏、入試の褒美として、母に「欧州中央(独墺瑞仏)10日間弾丸格安?ツアー」に連れて行って貰ったことがあります(私を口実に本人が欧州旅行をしたかっただけかもですが)。

当然ながら、成人前に海外に行ったのは後にも先にもそのときだけです。

最後に2日だけ滞在したパリも素晴らしかったですが、私は最初の3日間を過ごしたドイツの方が性格(民族気質)的に親近感があり、高校時代は「そこそこの外語系大学に進学→ドイツ留学→中堅商社の現地駐在員→日本と縁を切り独語圏に骨を埋める」という人生に憧れがありました。

残念ながら?憧れは幻に終わる人生になりましたが、そんな事情もあり、いずれはドイツ料理のお店で当時を懐かしむ時間が持てれば・・と思っていたものの、その機会に恵まれないまま、この歳になってしまいました。

というわけで、ゴー券の御利益もあり、先日、現在の盛岡では唯一と思われるドイツ料理のお店に初めて伺い、ようやく年来の希望を叶えることができました。

旅行の際は、中世の宝石箱とも言われるローテンブルグのレストランで昼にいただいた極太のソーセージなどが大変美味しかったことを覚えています。

可能なら、またドイツなど欧州方面に旅行できればと思いますが、時間云々もさることながら、これから十年ほどは「そんなの絶対無理」と感じる綱渡りのカネ負担の日々が続くので、夢のまた夢というのが残念な実情です。

余談ながら、訪問したお店は一皿あたりのボリュームが割と大きく、3~4人で伺うには丁度良いのですが、相応の年齢の夫婦2人だけだと種類をこなすのが厳しいと感じました。

可能なら、量も単価も控えめな小盛りメニューも作っていただければ幸いです。

盛岡北RCと岩手女子高IAとの懇談会と「RCのきほんのき」

以前にも投稿したことがありますが、私が所属する盛岡北ロータリークラブは「インターアクトクラブ(IA)」という形で岩手女子高のJRCクラブさんと協力関係にあります。

ただ、詳細は存じないものの、私が入会した10年近く前の時点で、すでに相互の交流は希薄になっており、毎年12月の当クラブのクリスマス会に部員さんと顧問の先生をご招待して手話を用いた歌唱を披露いただくこと以外には、特段の関わりはない状態が続いています(今は、ウィルス禍のせいで、それも絶えています)。

私は3年ほど前に2年間だけIA等の担当委員長を務めましたが、そうした経緯や私自身の多忙さもあり、名ばかりの状態が続きました。

ただ、何もしないのもどうかということで(ある年の会長さんから、活性化を促されていたこともあり)、一度、IAにアンケート調査を行うと共に、その結果を踏まえて会員5名ほどで岩手女子高にお邪魔し懇談会を行ったことがあります。

その際にIA(高校生)向けに作成、配布したレジュメを、折角なので本ブログでも載せることにしました。

うわべだけの綺麗事は好みませんので、「どうしてロータリーには金持ちが多いのか」「バブル崩壊で人数が減った」など、敢えて「本音トーク」的なものも書いていますが、反面、ロータリーの本部?から「こいつは問題児だから懲らしめろ」などというお達しが出ないか、少し不安に思わないこともありません(笑?)。

当日は、敢えてレジュメの棒読みはせず、「宮澤賢治の思想とロータリー運動との関係」について話をしたのですが、それよりも、当方の会長さんが紹介した海外留学支援の説明の方が好評を博していました。

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(目次)
第1 ロータリーとは何か、どのような活動をしているか
第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

※ 本レジュメには、ロータリーなどの「公式見解」ではない個人的な見解が多数含まれていますので、取扱にはご注意ください。

第1 ロータリー(RC)とは何か、どのような活動をしているか
 1 RCの発祥と発展など

1905年に米国シカゴ(ミシガン湖畔の大都市)で執務するポール・ハリス氏(弁護士)が、仕事上の付き合いのある友人同士の相互交流(親睦グループ)として計4人で結成したのが発祥。

その後、1920年代頃から「単なる親睦ではなく、団体または構成員個人として社会への奉仕を実践すべき」と掲げたことが契機になって賛同者が増えて戦前戦後の米国の躍進なども相俟って世界中に広がり、現在は200カ国以上の国々に3万以上のクラブが存在し、120万人以上の会員が所属している。

 2 国際RC(世界全体)や各地RCの活動や実情

RCは、会員内部の懇親や相互扶助(クラブ奉仕)のほか、対外的な活動として、地域社会や青少年、国際社会などへの奉仕を理念に掲げ、その一貫として様々な活動を行っている。

典型的な例では、地域の若者(高校生など)の海外留学を支援(費用補助)したり海外の有為な若者の留学を支援するなどの活動を行うほか「大がかりではないが地域の美観・景観などを良くするための小規模な設備」などの設置(北上河畔の花壇など)といったものを行っている。

国際RCが世界的に行っている取り組みとしては、かつて深刻な難病として数十年前の日本をはじめ世界中に蔓延していた「ポリオ(小児麻痺)」の撲滅のための活動などが行われている。

 3 日本のRCの活動や実情(どうしてロータリーは「お金持ち」が多いのか)

もともとRCは事業活動を行う者同士の親睦を目的として始まったが、日本で最初にRCの結成を提唱したのが三井物産(日本を代表する総合商社の一つ)の経営者(米山梅吉氏)であり、地域を代表する大物経営者(要するに、お金持ち)を中心に広がったことに基づく。

そのため、現在も日本のRCは、企業経営者や高度専門家(医師等)、地域内の大企業の幹部社員など、いわゆる地元の名士さんが会員となっていることが多く、一般庶民(私を含む)から見れば、敷居の高さを感じる面がないとは言えない。

しかし、これは世界共通のこと(RCが前提としていること)では全くなく、海外では、ごく普通の企業のごく普通の立場の従業者が、男女を問わず会員として多く参加する例も多いそうであり、日本のRCのあり方が「当たり前」と考えるのは正しいことではない。

そうしたことも含めて、RCのあり方は次世代に託されている面がある。

第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
 1 盛岡北RCの発祥と現状など

盛岡では、1939年(昭和14年)に盛岡ロータリークラブが結成され、1958年(昭和33年)に盛岡RCの一部会員が脱退(分裂?)するなどの形で盛岡北RCが結成された。

その後も、数十年間は、盛岡RCや盛岡北RCから分かれる形で新たなRCが幾つか結成され、現在、市内(盛岡広域圏内)で計8個のRCが存在している。

なお、喧嘩別れ等の話は特には聞いておらず、親睦団体という性質上、1個の大規模団体よりは、親しい仲間が個別に結成する複数のRCが地域内に並立する方が望ましいとの考え方がとられたものと思われる(ちなみに、東京に3つの弁護士会が存在するのは会長選挙を巡って昔々に喧嘩別れしたからと言われている)。

盛岡北RCは最盛期(平成元年頃?)には80名以上?の会員がいたものの、現在(5年ほど前頃から)は36名前後(40名弱)の会員数に止まっている。

これは全国的な傾向であり、30年前は、バブル経済などの影響で地域の有力・著名企業の経営者や役員などがこぞって加入したものの、バブル崩壊後にそれらが撤退したため、本気でRCが好きな人達(とバブル崩壊後も会費支払が可能だった人達)が残ったという面は強い。

ともあれ、盛岡北RCでは、より多くの会員の加入を望んでいる状態である。なお、現在の会員は各種の事業を営む会社の経営者や幹部社員、専門職(医師など)が多い状態である。

 2 盛岡北RCの「奉仕活動」について

盛岡北RCでは平成18年頃から令和元年頃まで、盛岡市のこども科学館の近くにあった原野(市有地)を借りて「どんぐりの森」と称する植樹・整備事業を行った。

これは、「盛岡は市内に緑が少なく、子供達が地域で自然に触れあう機会が乏しいので、そのきっかけ作りにしたい」などという理念のもと行われた事業であった。

「どんぐりの森」は令和元年頃に終了し市に返還され、一部が現在も活用されている。

第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
 1 インターアクトクラブとは何か、インターアクトとローターアクト

RCでは、「ロータリーの理念(社会奉仕など)を若い世代に伝え、理解を得ると共に将来のRC或いは社会全般の担い手として育成する」ことを目的に、各地RCに、若年者を構成員とする関連団体を設置することを推奨している。

インターアクトクラブは、そのうち12~18歳まで(中高生)を対象とするもので、他に18~30歳までを対象とする「ローターアクトクラブ(の制度)」も存在する。

ローターアクトは、将来のRC会員候補になりうる社会人との親睦を深めることが目的とされやすいが、インターアクトクラブは「奉仕活動を目的とする活動を行っている生徒(学校のクラブ等)の支援」を目的に結成されることが多いようである。

 2 岩手女子高インターアクトクラブについて(掲載は割愛)

 3 日本各地(及び、岩手・宮城地区)のインターアクトクラブの活動など

回覧資料のとおり、①子供やお年寄り、留学生などとの交流・支援事業(RC側も設営等で協力)、②各種の募金活動(同?)、③その他、地域内の様々な慈善活動(同?)、などが行われている(ようである)。

 4 ライラ(RYLA)について

ライラは、RCの各地区(盛岡の場合、岩手・宮城のRC全部で構成される地区)ごとに年1回の頻度で行う「インターアクトクラブ及びローターアクトクラブのための1泊2日の研修大会」であり、岩手又は宮城県内の研修施設を借りて行っている。講演を聴いてグループ討論などをすることなどを内容とし、交流行事(身体を動かすもの。スポーツ的な?)も行われるようである。

岩手・宮城のRC内に、「IA・RAに特に力を入れているクラブ」が幾つかあり、そうしたクラブが中心となって運営がなされている(ようである)。

第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

既述のとおり、インターアクトクラブには、ロータリークラブという資源を生かした様々な活動を行う可能性がありうるところではあるが、現時点でそれがなされていると言えるとは必ずしも言い難い。

学業優先など、時間の確保に困難が伴うことはやむを得ないところではあるが、ぜひ、この機会・資源を生かして「関わってよかった、自分ひいては社会のためになることができた」と思える何かに繋げていただければ幸いである。(以上)

 

「街もりおか」から田中舘秀三教授の顕彰と映画化を目指して

先般、盛岡市のタウン誌「街もりおか」(2022年9月号)に、下記の文章を掲載いただきました。

数年前にも寄稿したことがありますが、一度、田中舘秀三教授の物語で投稿できればと思って運営の方に相談したところ、快諾をいただいた次第です。

このテーマで文章を書くのも最後の機会になるかもしれず、関心のある方はご覧いただければ幸いです。

【忘れられた盛岡出身の偉人・田中舘秀三の顕彰と映画化を目指して】

皆さんは、明治初めに二戸で生まれ、旧制盛岡中学を経て東京帝大に進み、大戦前後に地理学などの分野で活躍した田中舘秀三・東北帝大教授のことは知っていますか。

ミマツダイヤグラムで世界に名を轟かせた三松正夫氏に火山観測の方法などを指南し、昭和新山の名付け親になった学者さんと言えば、ご存知の方もおられるかもしれません。

しかし、秀三氏が歴史に果たした役割はそれだけに止まらず、太平洋戦争の開戦直後、旧日本軍の侵攻により陥落したシンガポールに突如、単身で現れ、大英帝国が長期に亘り築いた貴重な学術資産や当時の先端的産業研究施設としての植物園(同国唯一の世界遺産である、現在のシンガポール植物園)などを戦争の混乱に伴う散逸や消失の危機から守り抜いた功績があることは、一部の歴史愛好家を除いて、ほとんど知られていません。

この物語は、同国到着直後の秀三氏が、欠かすべからざる相棒として軍に直談判し釈放させ、秀三氏と共に奔走した英国人研究者(コーナー博士)が執筆した、「思い出の昭南博物館」(中公新書)にも詳しく描かれています。

私は平成29年に3日だけ同国に旅行したことがありますが、その少し前に偶然その話を知り、この功績は多くの人々に知られるべきと感じるようになりました。そして、何を血迷ったか?帰国便の中で、突如、「顕彰のための物語を作って映画化を目指したい」と思い立ち、長文のあらすじ案を作成して、当事務所のブログで連載しました。

もちろん、中公新書の内容をなぞっても仕方ありませんので、公知の史実と反しない限度?で壮大感動巨編に仕上げるべく、様々な工夫をしています。

例えば、シンガポール華人大虐殺を行った張本人であり、旧軍の「悪の?カリスマ」としても名高い辻政信参謀との対決や、若きリー・クアンユー(建国の父)との邂逅など、幾つかの見せ場を考えました。また、他作品の真似と言われそうですが、導入部では現代パートを設けて、主人公が秀三氏の物語を偶然知り・・・という展開にしています。

今も、あらすじ案は事務所ブログに載せていますので、興味のある方は、「田中舘秀三物語」などと検索してみて下さい。また、ご希望の方は当事務所Webサイトからメールを送信いただければ、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

といっても、「田舎の町弁として地域社会と人々に全力で尽くす」との旗印?のもと、多数の赤字仕事に追われ事務所の運転資金を稼ぐのに汲々とした日々を送る私には、小説を執筆する能力も余力もありませんので、作成したものは「映画化を目指すあらすじ案」に過ぎませんし、残念ながら、5年を経た現在もWebの片隅に埋もれるだけの有様です。

可能でしたら、読者諸氏や本誌の発行などに携わっておられる本職の方々に本格小説を執筆いただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
                    
弁護士・北奥法律事務所代表 小保内義和

【備考】

掲載された文章には、秀三教授のお名前に「しゅうぞう」というフリガナが振られていますが、一般的な読み方は「ひでぞう」と思われますので、ご留意下さい。

 

帰ってきた?田中舘秀三物語と「街もりおか」

昔から私の投稿をご覧いただいている方なら、私が5年前に、

世界遺産・シンガポール植物園と同国の多数の学術資産を大戦の混乱から救った、田中舘秀三・東北帝大教授(二戸・盛岡出身)の物語(映画化を目指すあらすじ案)

を掲載したことを覚えておられるかもしれません。

この件では、盛岡北RCや二戸RCの卓話でお話しさせていただいたこともありますが、その後はWebの片隅に消えるだけの残念な状態が続いています。

数年前、某映画の制作時にプロデューサーの方が盛岡北RCで寄付募集をしていたので、せめてもの悪あがきということで、ささやかな(私には小さくない)額の寄付を行い、その代わり、「あらすじ案」を監督にお渡し下さいね、とお願いしたものの、当然ながら?何のレスポンスもなかった・・ということもあり(渡して下さったことは間違いないそうですが)、懐かしい思い出です。

私も、半ば忘却の彼方だったのですが、少し前、盛岡のご出身で長年、他県の大学で教鞭を執られていたという元大学教授(ご専門は東南アジア文化研究とのこと)の方から、

この話をこのまま埋もれさせるのは勿体ない、また運動してはどうか

との激励のメールを頂戴しました。

私も、このまま終わるのは残念という気持ちもあり、先日、タウン誌「街もりおか」の運営に関与されている方が執筆者募集をしているのを見かけたため、投稿させて欲しいと申し出たところ、了解を受け、先ほど、原稿を提出しました。

恐らく、7月か8月の「街もりおか」に、掲載されるのではと思います。

当時、作成した「あらすじ案」は、PDFで保存していますので、ご希望の方は、Eメール(当サイトの「お問い合わせ」コーナーからも送信可能)でお申し出があれば、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

これが最後の悪あがきになるかもしれませんが、可能でしたら、メディア?等の業界関係者と面識のある方は、「こんなネタもある」と伝えていただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

 

薄く延ばした卵とじの「ひっつみ」が世に出る日を求めて

半年ほど前にFB投稿した記事の掲載も、ようやく最後です。この日(半年前のある日)は、昼に裁判所に所用があり、近くの北ホテルのレストラン窯で「ひっつみ定食」を美味しくいただきました。

ただ、大事なことなので何度でも言いますが、私の実家では「卵とじ」のひっつみを長年、愛食してきましたので、市内等のどこにも卵とじのひっつみを提供して下さるお店がない光景は、とても残念に思っています。

盛岡の方々は卵とじに馴染みがないのかもしれませんが(津軽の貝焼き味噌のように、卵とじは青森の文化かもしれません)、ひっつみは卵とじをした方が何倍も美味しいので、市内の飲食店関係者の皆さんにおかれては、プラス100円等で「卵とじサービス」を前向きにご検討いただければ幸いです。

あと、欲を言えば、キノコも椎茸ではなくナラタケ(二戸等ではカックイ。盛岡ではボリと呼ぶそうですが、カックイの方が音がいいと思います)にしていただければ、なお有り難いです(ナラタケ+鶏肉の組み合わせは、ひっつみ・蕎麦・雑煮など、どれにも抜群に相性が良いです)。

関連して、昔々に書いたこちらの記事もご覧いただければ幸いです。
「ひっつみ」に関する照会とお願い | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

***

以上のFB投稿に、地元の先輩でもある二戸の著名人Kさんから「うちも昔は卵とじのひっつみだった(が、今は、見かけなくなった)」とのコメントをいただきました。

苦節四十数年、私の実家以外で、卵とじのひっつみを食べたことがあるという方に初めてお目にかかり、感動するばかりでした(笑)。やはり、二戸には、そのような食文化があるのかもしれません。

ともあれ、ぜひKさんの影響力で二戸や盛岡などの飲食店の方々に勧めていただければとお願いしました。

また、ひっつみは巨大な鍋に、ひっつみを可能な限り薄くのばし、グツグツした状態でひっつみを投入

→その後、グツグツ鍋に卵とじを投入

→共に極薄のひっつみと卵とじのハーモニーを、鶏肉等のダシの利いたツユで味わい至福のひととき、

というのが王道と認識しています。

というわけで、ウイルス禍明けにでも、Kさん?の仕切りで、パークホテルか馬淵川公園?等で

「南東北の芋煮に負けるな!北東北にはこれがある!」

とでも題して、自分たちで大鍋にひっつみ(と溶き卵)を入れて食べる一大パーティを開催いただき、それを皮切り?に、二戸の古くて新しい名物として売り出していただけないかと、願わずにはいられません。

今年の石割桜の裏側と、春を惜しむ白鳥

今年の盛岡も4月中旬に次々と桜が開花し、現在はすでに葉桜が舞い散る状態となっています。

当事務所の近所には桜城小学校では様々な種類の桜が植栽され、この時期に華やかな姿を見せてくれます。

桜城小の名称は、敷地となった南部藩の乗馬訓練場が桜の名所だったことに由来するそうですが、「人は城、人は石垣」の格言のように、桜を愛でる人々の心を束ねて社会を守る礎とせんと宣言しているかのような、美しい響きを感じます。

ここから巣立ち、受験戦争など様々な困難に立ち向かうであろう若者たちも、戦場でも花を愛でる心を失うことなく、努力を重ねてよりよい社会を築いていただければと願っています。

数日前には仕事のついでに石割桜も見てきました。

例年、この時期は遠方から来盛した相手方代理人に「今日、期日で良かったですね」と心温まるトークをお贈りしています。

が、今年は裁判所が厳戒態勢を敷いたガチガチの債権者集会しか期日がなく、破産会社に敵意や不信を抱いている方々に向かって、申立代理人が「いやぁ~良かったですね」などとニコニコできるはずもありません。

というわけで、マトリックス風の黒衣を纏った強面の某氏が繰り出す質問に粛々と回答するのが精一杯、というのが「今年の石割桜の裏側で繰り広げられた一幕」となりました。

まあ、東京の企業法務専門の強面弁護士さんに「お前は何を言っているんだ」と言わんばかりに黙殺されたこともありますので、それよりはマシかもですが・・

週末(つい先日)は、土曜が弁護士会の相談担当で、昼に岩手公園に行ってきました。盛岡城の石垣の上はもう葉桜ですが、麓の枝垂れ桜は十分見応えがありました。

日曜は、高松の池に赴いたところ、驚いたことに、まだ白鳥が悠悠と池にたたずんでいました。

というわけで、久しぶりの一首。

この花を見ずに卒業できぬぞと
春の別れを惜しむ白鳥(しらとり)

余勢を駆って、もう一句。

花吹雪 勘違いして発ちそびれ

写真をご覧になりたい方は、facebookでどうぞ。

玉山区渋民に作る道の駅を「もりおか」と命名してよいのか

先日、国道4号線渋民バイパスに2年後に開業する道の駅の名称が「道の駅もりおか(仮称)」となっているとの報道を拝見しました。
https://www.navitabi.jp/article/4086
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/tamayama_office/oshirase/1018577/1028793/index.html

しかし、建設予定地は旧渋民村であって本来の意味(地名)の盛岡(不来方)とは遠く離れています。本来の盛岡とは、盛岡バイパスと北上川に囲まれた、盛岡城を中心とする地域を指すと理解しており、この地に建設する道の駅に相応しい名称ではありません

これまで盛岡市に道の駅が存在せず記念すべき第一号だから、というのが命名の理由なのでしょうが、これでは、千葉県所在の東京ディズニーランドや東京ドイツ村の劣化コピーと言うほかありません。

民営企業ならまだしも行政主導でそうした名称が選択されたのでは、多くの旧玉山村民の郷土愛を傷つけるのではと危惧します。

とりわけ、この道の駅は旧玉山村では主要な公共施設の一つになるでしょうから、その名称が地域固有の地名ではなく合併相手である都市名が付されること自体、植民地化を見せつけられているような印象を受けます。

旧玉山村は、合併直後から岩手町との境に遙か遠く離れた盛岡城を象る境界標識が設けられ、それまで玉山牛と呼ばれていた特産牛が「もりおか短角牛」と呼ばれるようになるなど、合併以来、地域のアイデンティティの育成よりも喪失を来すような同化政策が進んでいるように感じます

日本弁護士連合会・公害対策環境保全委員会では、数年前から「広域合併により過疎地域の衰退が激化した」と警鐘を鳴らしていますが、両市村の合併も、その一例と見るべき余地があるのかもしれません。

近年の盛岡市の観光政策は、県民統合の象徴とも言える城址公園を筆頭に、様々な事柄に「もりおか」と名付けることを「ブランド化」として推進しているようにも感じますが、生物多様性ならぬ「個別地域ごとの様々な物語」を大切にして世間に問う方が、結果的に「大・盛岡市」の発展に繋がるのではと残念に思います。

仮称はさておき新施設の正式名称は「道の駅しぶたみ」又は、岩手町に倣い「啄木望郷の丘」などと名付けた方がよいのではと思いますし、地元の方々にこそ、そのような声を挙げていただければと願うところです。

広域合併論議が盛んなりし頃、当時の滝沢村や矢巾町も選択の岐路に立っていたと思いますが、こうした光景を目にする都度「やっぱり合併しなくて良かった、自分達の名前を失わずに済んだ」と感じているのかもしれません。

***

仮に、関東や西日本など遙か遠くの方々に新施設の認知度を獲得することを新たな道の駅の目的とするなら、盛岡の名称を何らかの形で用いるべきとの意見は、相応に正しいことになるのだろうと思います。

その考え方からは、折衷案で「道の駅もりおか渋民」などという落としどころになりそうな気もします。

正式名称は、いっそ

道の駅もりおか渋民
啄木の今もなつかし故郷の丘

などと、日本一長い?名称を付していただいても良いかもしれません。

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ともあれ、合併前の玉山村民・旧盛岡市民に限らず、県民など新施設の所在地の基本的な地名を理解している人からすれば、なんでココが盛岡、という違和感はあるところで、どちらを重視するかは価値観の違いが出そうな気がします(さすがに「道の駅もりおか」があるので、そこが中心部だと勘違いして来ました、という人はいないかもしれませんが)。

少なくとも、あの場所を「もりおか」とするのは、道の駅区界高原や「やまびこ館」を、合併を理由に「道の駅宮古第二・第三に改称しました」と言うようなもので、それって誰のためにもならんのじゃないか、と感じます。

また「道の駅もりおか」を作りたいなら盛岡バイパス付近にこそ作って欲しいですし、盛岡市民にとっては、その場所のためにこそ「大切にとっておくべき名称」だと思います。

ご承知のとおり、盛岡バイパス南側(455線以東南)や岩山周辺は、他エリアと比較しても極端に飲食施設などが少なく「まち」としても残念な(再開発があって良い)エリアだと思いますので、可能なら岩山直下の山林エリア(附属中と新庄浄水場の間)または旧市営球場などを候補地として開発するというのも、考えてよいのではと思います。

前者なら、すぐそばにある休眠中の旧橋本美術館の再始動などに繋がりそうな気もしますし。

 

中央通三丁目の黄金樹(ゴールデンバウム)は倒れた

啄木新婚の家やバス停に立ち寄ったことのある方なら、その北側(岩手山側)に、スギの一種とみられる一本の巨木が屹立する光景をご覧になったことがあるかもしれません。

この巨木は、啄木新婚の家と岩手山の間で両者の光景を引き締める役割を担っており、私は、当事務所を開設した直後から、この威風堂々たる巨木が好きで、「中央通三丁目のマザーツリー」と呼んできました。

この巨木が生えている場所は、中央通三丁目から長田町界隈の中では、最も古い歴史のある(らしい)邸宅であり、啄木新婚の家の往時の貸主だった(現在は同所は盛岡市が所有しているはずです)ほか、昔々は、この界隈の大半の土地を所有する大地主であり名家だったとも聞いています。

しかし、数年前、この邸宅の最後のご当主が亡くなり、相続人もなく家が絶えてしまい、様々な経過を経て、先般、ついに邸宅は人手(不動産業者)に渡りました。

そして、この巨木も、昨年末に邸宅と共に歴史の彼方に消えてしまいました。

どうして、そのようなこと(この木の持ち主のこと)を私が知っているかと言えば、その話に本業で少しだけ関わったことによるものです。

ですので、あまりペラペラと書いてよい話でもないのですが、この巨木へのレクイエムとして、ご容赦いただければと思います。

長寿の末に老衰で亡くなられた最後のご当主は、某英伝の(実質)最後の皇帝と異なり、放蕩には全くご縁のない生き方を何十年も続けていましたが、様々な残念な事情が重なり、後継者を得ることなく旅立たれたそうです。

私は、何年も前、ご当主が亡くなられた直後に、ご当主と一定の関わりがあり、この邸宅を何とか残したいという気持ちを持った方(現在は遠方にお住まいの方)から相談を受け、少しだけその件に関わりました。

その方は、何年ないし何十年も前に、ご当主などと相応の協議をなさっていれば、或いは、邸宅などの管理を引き継ぐこともあり得たのではと思われましたが(相応の事情のある方でした)、現行法の壁が大きく、その方のご希望に沿うことはできませんでした(或いは、旧民法なら、私の主張が認められる余地がありえたかもしれません)。

私自身、当事務所を開設した(盛岡に戻ってきた)ばかりの頃=15年ほど前、最後のご当主に一度だけお目にかかったことがあり(一時的な駐車場として短期間借りた区画が、ご当主が所有する土地だったようで、玄関で挨拶させていただきました)、そうしたことも含め、この界隈を代表する一族が、後継者を得られずこの地から絶えてしまったことに、寂しさを禁じ得ない面があります。

そうしたこともあり、この巨木の最期を垣間見た際、銀英伝を訳も無く思い出し、「あぁ、この地の黄金樹(ゴールデンバウム)がついに倒れた」と思わざるを得ませんでした。

もしかすると、この巨木は、この一族と共に当地の守り神のような役割を果たしていたのかもしれません。

別に、呪詛を唱えたいわけではありませんが、半月ほど前に撮影した在りし日の巨木の最期の姿を眺めつつ、せめて、このマザーツリーが成仏してくれることを願わずにはいられません。

今冬、盛岡は数年以上ぶりに、度重なる大寒波の猛吹雪を浴びています。降雪は、この巨木の死後間もない頃から始まりました。

或いは、この雪は、この巨木と一族の涙が、形を変えた姿なのかもしれません。

啄木新婚の家前バス停のベンチに、板一枚の愛の手を

1週間ほど前、岩手日報にも掲載されていましたが、当事務所の目と鼻の先にある「啄木新婚の家前バス停」にかつて設置されていた木製?ベンチは、数年前に破損し、着座困難な状態で長期間放置された挙げ句、昨年頃に撤去され、現在は無残な赤コーン姿を晒しています。

このバス停、例年なら「新婚の家」に来た全国の修学旅行生が押し寄せるほか、ご年配の方の利用も多く、赤コーンのため待機スペースが狭くなり歩行者と自転車の接触リスクも増えるなど、このような状態が続くのは、地域住民としては残念というほかありません。

いっそ、市内の有閑オヤズの皆さんが、平らな板に赤コーンにピタリ嵌まるように穴を二つ空けて人知れず「板一枚で可能なお手軽ベンチ」を設置し、「けっこう仮面(又はパンクシー)参上」などと書いた張り紙を付していただければ、ワイドショーのネタにもなって良いかもしれません。

或いは、市内のRCクラブがベンチを寄贈していただければ・・・と思わないでもありませんが、関係者の皆さんの迷惑そうな顔が浮かんできそうなので、余計なことを言うのはやめておきます。

以下、余談の令和こちょこちょ話。

2ヶ月ほど前、同居家族が突如、鬼切りアニメの視聴を開始

当方は「数年前から某ピースも深夜に見てるのに、これ以上ノルマを増やせるか」と無視

毎度の「お前も一緒に見ろ」のお達し

やむなく深夜閲覧の日々

なんだ、これってジョジョとディオじゃないか、ウリィ~(今ココ)

(R02.11.27追記)
いつの間にか(11月上旬頃?)、ベンチが復旧していました。岩手日報の記事によれば、先代のベンチを設置された業者さんが対応なさったのだそうです。

それ自体は有り難いのですが、もともと狭い通路の真ん中近くにベンチがあるため設置箇所だけ通路がかなり狭くなっており、復旧の際には、ベンチをもっと道路側に寄せて作っていただければ、なお有り難かったなと思いました。

大物首相たちの国葬と、それを拒否した原敬の矜持から「税と葬儀のいま」を考える

1週間ほど前、中曽根首相の葬儀に税金から9000万円も拠出する(さらに、自民党も9000万円出して、計2億弱の葬儀を行う)とのニュースが出ており、反自民の立場の方が「中曽根首相は国鉄は民営化したのに自分(の葬儀)は国営化するのか」と批判しているを目にしました。

で、政権側は、「大物首相経験者は同等の葬儀を税金で行っていた(ので前例を踏襲しただけだ)」と説明(反論)しているようで(引用の記事などを参照)、前例に照らせば、特別な取扱をしたわけではないということにはなりそうです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/tarobando/20200928-00200496/

ただ、岩手県民としては、

原敬って、暗殺直後に盛岡に運ばれて大慈寺で葬儀をしており、国の世話に一切ならなかったのでは?

と思って、wikiなどで「国葬」について少し調べてみました。

で、それらの記載によれば、古代云々を別とすれば、皇族以外の者(臣下)を国葬=多額の税金を投じて葬儀するようになったのは維新時の薩長藩主が始まりで、その後は、いわゆる明治の元勲や元帥など=大半は薩長関係者(軍人などを含む)となっており、原敬に限らず、薩長以外の戦前の首相で「国葬」された方はいないようです。

それが、戦後になると、吉田首相を皮切りに、なぜか?大物首相を「国葬」する風習が生じており、出身県で見ると、上州(群馬)が中曽根首相を加えると3名(福田、小渕)でトップで、2位が岸・佐藤兄弟の長州(山口)となっており、特定の地域に集中しているわけではなさそうです。

ともあれ、戦前に首相を「国葬」する習慣が(基本的には)無かったことと比べると、どうして戦後になって生じたのか少し不思議な感じがします。

見方によっては、形式的には天皇、実質的には軍部などとの関係で、戦前の首相には、形式上も実質上も、戦後ほどの力は与えられていなかったことを示すものなのかもしれませんし、そうであればこそ、戦後社会は「国葬」という儀式を通じて首相など(民主主義社会における国家運営の責任者)の権威を高めようとした、というのが「大物首相の国葬」のきっかけだったのかもしれません。

ただ、それはそれとして、現代の庶民感覚からすれば、いかに戦後最大級の大物政治家とはいえ、葬儀に1億も2億もかけるなんて・・(とりわけ税金で)と疑問を感じる面は否めません。

戦後間もない頃はともかく、現代では「大がかりな葬儀をせずとも、首相の権威は国民は十分理解している。それよりも、ここ十数年、社会内で葬儀の簡素化が模索されている(その方がよいと、国民の多くが考えつつある)実情に照らし、大物の葬儀ほど簡素化を追及すべきだ(功労の顕彰云々は、より税金を使わない、別の形で行うべきだ)」という議論はあってしかるべきではと思います。

とりわけ、菅政権は「脱ハンコ化(による行政の効率化=税金節約)」のキャンペーンを掲げたり、日本学術会議の件でも「年間10億が投入される→任命拒否に文句があるなら民営化せよ」との主張が政権寄りの方からなされるなどしており、「税金節減(他分野への配分)のため、従前、当然に税金が使われていた分野にも大ナタを振るう」姿勢を打ち出しているように見受けられます。

それだけに、大型葬儀のようにカットしても(葬儀業者・ホテル関係者以外は)誰も困らなそうな話から先に断行する姿勢を見せないと、ハンコ業者や(産地の)山梨県知事、或いは学者さん達だけでなく、やがて国民一般の「反抗」を招いて、せっかく有意な改革をしようとしても、つまらないところで頓挫してしまうことも危惧されるのかもしれません。

それこそ、菅首相であれ安倍首相などであれ「今回は前例などを尊重した形にしたが、今後は簡素化したい。少なくとも、自分には税金は一切無用」と表明していただければ、支持率アップにつながるのでは?などと、余計なことを思わないでもありません。

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ところで、先日、「原敬首相と田中舘愛橘博士(二戸出身で戦前の日本物理学の構築者の一人)の対話という形で、明治・大正の社会が何を目指そうとしていたのか(目指すべきだったのか)を描いた本」を読んでいました。
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5863-1.htm

この本は色々と学ぶところが多く、ぜひ皆さんにもご覧いただきたいのですが(後日、改めて取り上げたいと思っています)、終盤、原敬の暗殺直後に、遺体を官邸に運ぼうとした立憲政友会の面々に対し、夫人が

「死ねば、もはや私人」

と述べて公の行事を拒み、自宅に連れ帰ったと述べられています。そして、暗殺に備えて生前に準備されていた遺言により葬儀が盛岡で営まれ、氏名のみ表示した墓碑が建立されたことなどは、広く知られているとおりです。

歴史をきちんと勉強した方ならご存知かと思いますが、原敬首相は、明治政権(薩長閥など)の威光に依らぬ政党政治家として、最初に首相に上り詰めた御仁であり、日本の政党政治=民主政治の創設者(原点)の一人と評しても過言ではありません。

そして、原敬の政治手法には様々な議論があるにせよ、米国との対立の回避を重視した政権運営や私益を一切図ろうとしなかった生涯なども相俟って、引用の書籍などに限らず、様々な場で再評価がされており、「彼が暗殺されなければ、あの戦争は回避されたのかもしれない」と論じられることもあるようです。

その御仁が、生前はもとより死後にも位階勲等を拒否し、郷土に強い誇りを抱いた一人の地域人(盛岡人)としてのみ葬られることを望んだことの意義や価値について、いま改めて、現代日本人は学ぶべき点が多々あるのではないかと思っています。

或いは、彼は今も大慈寺から「白河以南の奴らは死んだ後も税金ばかり欲しがってダメだなぁ」と述べているのかもしれません。

まあ、そんなことを言うと、「鈴木善幸首相だって国葬されてるよ」と言い返されるかもしれませんが・・

(R04.8.1追記)

この文章では、「国葬」という言葉を、国(政府)が関与し公費=税金が使用される葬儀という程度の意味で用いていますが、現在の安倍首相を巡る論議によれば、戦後の国葬は吉田首相だけで、他の方々は「内閣・自民党合同葬」などの形をとっているので国葬ではない(官民混葬?)、ということになるのだそうです。

この両者を区別する意味がどれほどあるか分かりかねますが、「亡くなったあとは、夫を国家という軛(権力や栄華と引き替えに滅私奉公を強いる存在)から解放してやりたい、自分だけの家族として死後の世界で一緒に平穏に暮らしたい」という原敬の浅夫人の思いの方に、親近感を感じざるを得ません。