北奥法律事務所

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盛岡広域圏など

玉山区渋民に作る道の駅を「もりおか」と命名してよいのか

先日、国道4号線渋民バイパスに2年後に開業する道の駅の名称が「道の駅もりおか(仮称)」となっているとの報道を拝見しました。
https://www.navitabi.jp/article/4086
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/tamayama_office/oshirase/1018577/1028793/index.html

しかし、建設予定地は旧渋民村であって本来の意味(地名)の盛岡(不来方)とは遠く離れています。本来の盛岡とは、盛岡バイパスと北上川に囲まれた、盛岡城を中心とする地域を指すと理解しており、この地に建設する道の駅に相応しい名称ではありません

これまで盛岡市に道の駅が存在せず記念すべき第一号だから、というのが命名の理由なのでしょうが、これでは、千葉県所在の東京ディズニーランドや東京ドイツ村の劣化コピーと言うほかありません。

民営企業ならまだしも行政主導でそうした名称が選択されたのでは、多くの旧玉山村民の郷土愛を傷つけるのではと危惧します。

とりわけ、この道の駅は旧玉山村では主要な公共施設の一つになるでしょうから、その名称が地域固有の地名ではなく合併相手である都市名が付されること自体、植民地化を見せつけられているような印象を受けます。

旧玉山村は、合併直後から岩手町との境に遙か遠く離れた盛岡城を象る境界標識が設けられ、それまで玉山牛と呼ばれていた特産牛が「もりおか短角牛」と呼ばれるようになるなど、合併以来、地域のアイデンティティの育成よりも喪失を来すような同化政策が進んでいるように感じます

日本弁護士連合会・公害対策環境保全委員会では、数年前から「広域合併により過疎地域の衰退が激化した」と警鐘を鳴らしていますが、両市村の合併も、その一例と見るべき余地があるのかもしれません。

近年の盛岡市の観光政策は、県民統合の象徴とも言える城址公園を筆頭に、様々な事柄に「もりおか」と名付けることを「ブランド化」として推進しているようにも感じますが、生物多様性ならぬ「個別地域ごとの様々な物語」を大切にして世間に問う方が、結果的に「大・盛岡市」の発展に繋がるのではと残念に思います。

仮称はさておき新施設の正式名称は「道の駅しぶたみ」又は、岩手町に倣い「啄木望郷の丘」などと名付けた方がよいのではと思いますし、地元の方々にこそ、そのような声を挙げていただければと願うところです。

広域合併論議が盛んなりし頃、当時の滝沢村や矢巾町も選択の岐路に立っていたと思いますが、こうした光景を目にする都度「やっぱり合併しなくて良かった、自分達の名前を失わずに済んだ」と感じているのかもしれません。

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仮に、関東や西日本など遙か遠くの方々に新施設の認知度を獲得することを新たな道の駅の目的とするなら、盛岡の名称を何らかの形で用いるべきとの意見は、相応に正しいことになるのだろうと思います。

その考え方からは、折衷案で「道の駅もりおか渋民」などという落としどころになりそうな気もします。

正式名称は、いっそ

道の駅もりおか渋民
啄木の今もなつかし故郷の丘

などと、日本一長い?名称を付していただいても良いかもしれません。

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ともあれ、合併前の玉山村民・旧盛岡市民に限らず、県民など新施設の所在地の基本的な地名を理解している人からすれば、なんでココが盛岡、という違和感はあるところで、どちらを重視するかは価値観の違いが出そうな気がします(さすがに「道の駅もりおか」があるので、そこが中心部だと勘違いして来ました、という人はいないかもしれませんが)。

少なくとも、あの場所を「もりおか」とするのは、道の駅区界高原や「やまびこ館」を、合併を理由に「道の駅宮古第二・第三に改称しました」と言うようなもので、それって誰のためにもならんのじゃないか、と感じます。

また「道の駅もりおか」を作りたいなら盛岡バイパス付近にこそ作って欲しいですし、盛岡市民にとっては、その場所のためにこそ「大切にとっておくべき名称」だと思います。

ご承知のとおり、盛岡バイパス南側(455線以東南)や岩山周辺は、他エリアと比較しても極端に飲食施設などが少なく「まち」としても残念な(再開発があって良い)エリアだと思いますので、可能なら岩山直下の山林エリア(附属中と新庄浄水場の間)または旧市営球場などを候補地として開発するというのも、考えてよいのではと思います。

前者なら、すぐそばにある休眠中の旧橋本美術館の再始動などに繋がりそうな気もしますし。

 

中央通三丁目の黄金樹(ゴールデンバウム)は倒れた

啄木新婚の家やバス停に立ち寄ったことのある方なら、その北側(岩手山側)に、スギの一種とみられる一本の巨木が屹立する光景をご覧になったことがあるかもしれません。

この巨木は、啄木新婚の家と岩手山の間で両者の光景を引き締める役割を担っており、私は、当事務所を開設した直後から、この威風堂々たる巨木が好きで、「中央通三丁目のマザーツリー」と呼んできました。

この巨木が生えている場所は、中央通三丁目から長田町界隈の中では、最も古い歴史のある(らしい)邸宅であり、啄木新婚の家の往時の貸主だった(現在は同所は盛岡市が所有しているはずです)ほか、昔々は、この界隈の大半の土地を所有する大地主であり名家だったとも聞いています。

しかし、数年前、この邸宅の最後のご当主が亡くなり、相続人もなく家が絶えてしまい、様々な経過を経て、先般、ついに邸宅は人手(不動産業者)に渡りました。

そして、この巨木も、昨年末に邸宅と共に歴史の彼方に消えてしまいました。

どうして、そのようなこと(この木の持ち主のこと)を私が知っているかと言えば、その話に本業で少しだけ関わったことによるものです。

ですので、あまりペラペラと書いてよい話でもないのですが、この巨木へのレクイエムとして、ご容赦いただければと思います。

長寿の末に老衰で亡くなられた最後のご当主は、某英伝の(実質)最後の皇帝と異なり、放蕩には全くご縁のない生き方を何十年も続けていましたが、様々な残念な事情が重なり、後継者を得ることなく旅立たれたそうです。

私は、何年も前、ご当主が亡くなられた直後に、ご当主と一定の関わりがあり、この邸宅を何とか残したいという気持ちを持った方(現在は遠方にお住まいの方)から相談を受け、少しだけその件に関わりました。

その方は、何年ないし何十年も前に、ご当主などと相応の協議をなさっていれば、或いは、邸宅などの管理を引き継ぐこともあり得たのではと思われましたが(相応の事情のある方でした)、現行法の壁が大きく、その方のご希望に沿うことはできませんでした(或いは、旧民法なら、私の主張が認められる余地がありえたかもしれません)。

私自身、当事務所を開設した(盛岡に戻ってきた)ばかりの頃=15年ほど前、最後のご当主に一度だけお目にかかったことがあり(一時的な駐車場として短期間借りた区画が、ご当主が所有する土地だったようで、玄関で挨拶させていただきました)、そうしたことも含め、この界隈を代表する一族が、後継者を得られずこの地から絶えてしまったことに、寂しさを禁じ得ない面があります。

そうしたこともあり、この巨木の最期を垣間見た際、銀英伝を訳も無く思い出し、「あぁ、この地の黄金樹(ゴールデンバウム)がついに倒れた」と思わざるを得ませんでした。

もしかすると、この巨木は、この一族と共に当地の守り神のような役割を果たしていたのかもしれません。

別に、呪詛を唱えたいわけではありませんが、半月ほど前に撮影した在りし日の巨木の最期の姿を眺めつつ、せめて、このマザーツリーが成仏してくれることを願わずにはいられません。

今冬、盛岡は数年以上ぶりに、度重なる大寒波の猛吹雪を浴びています。降雪は、この巨木の死後間もない頃から始まりました。

或いは、この雪は、この巨木と一族の涙が、形を変えた姿なのかもしれません。

啄木新婚の家前バス停のベンチに、板一枚の愛の手を

1週間ほど前、岩手日報にも掲載されていましたが、当事務所の目と鼻の先にある「啄木新婚の家前バス停」にかつて設置されていた木製?ベンチは、数年前に破損し、着座困難な状態で長期間放置された挙げ句、昨年頃に撤去され、現在は無残な赤コーン姿を晒しています。

このバス停、例年なら「新婚の家」に来た全国の修学旅行生が押し寄せるほか、ご年配の方の利用も多く、赤コーンのため待機スペースが狭くなり歩行者と自転車の接触リスクも増えるなど、このような状態が続くのは、地域住民としては残念というほかありません。

いっそ、市内の有閑オヤズの皆さんが、平らな板に赤コーンにピタリ嵌まるように穴を二つ空けて人知れず「板一枚で可能なお手軽ベンチ」を設置し、「けっこう仮面(又はパンクシー)参上」などと書いた張り紙を付していただければ、ワイドショーのネタにもなって良いかもしれません。

或いは、市内のRCクラブがベンチを寄贈していただければ・・・と思わないでもありませんが、関係者の皆さんの迷惑そうな顔が浮かんできそうなので、余計なことを言うのはやめておきます。

以下、余談の令和こちょこちょ話。

2ヶ月ほど前、同居家族が突如、鬼切りアニメの視聴を開始

当方は「数年前から某ピースも深夜に見てるのに、これ以上ノルマを増やせるか」と無視

毎度の「お前も一緒に見ろ」のお達し

やむなく深夜閲覧の日々

なんだ、これってジョジョとディオじゃないか、ウリィ~(今ココ)

(R02.11.27追記)
いつの間にか(11月上旬頃?)、ベンチが復旧していました。岩手日報の記事によれば、先代のベンチを設置された業者さんが対応なさったのだそうです。

それ自体は有り難いのですが、もともと狭い通路の真ん中近くにベンチがあるため設置箇所だけ通路がかなり狭くなっており、復旧の際には、ベンチをもっと道路側に寄せて作っていただければ、なお有り難かったなと思いました。

大物首相たちの国葬と、それを拒否した原敬の矜持から「税と葬儀のいま」を考える

1週間ほど前、中曽根首相の葬儀に税金から9000万円も拠出する(さらに、自民党も9000万円出して、計2億弱の葬儀を行う)とのニュースが出ており、反自民の立場の方が「中曽根首相は国鉄は民営化したのに自分(の葬儀)は国営化するのか」と批判しているを目にしました。

で、政権側は、「大物首相経験者は同等の葬儀を税金で行っていた(ので前例を踏襲しただけだ)」と説明(反論)しているようで(引用の記事などを参照)、前例に照らせば、特別な取扱をしたわけではないということにはなりそうです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/tarobando/20200928-00200496/

ただ、岩手県民としては、

原敬って、暗殺直後に盛岡に運ばれて大慈寺で葬儀をしており、国の世話に一切ならなかったのでは?

と思って、wikiなどで「国葬」について少し調べてみました。

で、それらの記載によれば、古代云々を別とすれば、皇族以外の者(臣下)を国葬=多額の税金を投じて葬儀するようになったのは維新時の薩長藩主が始まりで、その後は、いわゆる明治の元勲や元帥など=大半は薩長関係者(軍人などを含む)となっており、原敬に限らず、薩長以外の戦前の首相で「国葬」された方はいないようです。

それが、戦後になると、吉田首相を皮切りに、なぜか?大物首相を「国葬」する風習が生じており、出身県で見ると、上州(群馬)が中曽根首相を加えると3名(福田、小渕)でトップで、2位が岸・佐藤兄弟の長州(山口)となっており、特定の地域に集中しているわけではなさそうです。

ともあれ、戦前に首相を「国葬」する習慣が(基本的には)無かったことと比べると、どうして戦後になって生じたのか少し不思議な感じがします。

見方によっては、形式的には天皇、実質的には軍部などとの関係で、戦前の首相には、形式上も実質上も、戦後ほどの力は与えられていなかったことを示すものなのかもしれませんし、そうであればこそ、戦後社会は「国葬」という儀式を通じて首相など(民主主義社会における国家運営の責任者)の権威を高めようとした、というのが「大物首相の国葬」のきっかけだったのかもしれません。

ただ、それはそれとして、現代の庶民感覚からすれば、いかに戦後最大級の大物政治家とはいえ、葬儀に1億も2億もかけるなんて・・(とりわけ税金で)と疑問を感じる面は否めません。

戦後間もない頃はともかく、現代では「大がかりな葬儀をせずとも、首相の権威は国民は十分理解している。それよりも、ここ十数年、社会内で葬儀の簡素化が模索されている(その方がよいと、国民の多くが考えつつある)実情に照らし、大物の葬儀ほど簡素化を追及すべきだ(功労の顕彰云々は、より税金を使わない、別の形で行うべきだ)」という議論はあってしかるべきではと思います。

とりわけ、菅政権は「脱ハンコ化(による行政の効率化=税金節約)」のキャンペーンを掲げたり、日本学術会議の件でも「年間10億が投入される→任命拒否に文句があるなら民営化せよ」との主張が政権寄りの方からなされるなどしており、「税金節減(他分野への配分)のため、従前、当然に税金が使われていた分野にも大ナタを振るう」姿勢を打ち出しているように見受けられます。

それだけに、大型葬儀のようにカットしても(葬儀業者・ホテル関係者以外は)誰も困らなそうな話から先に断行する姿勢を見せないと、ハンコ業者や(産地の)山梨県知事、或いは学者さん達だけでなく、やがて国民一般の「反抗」を招いて、せっかく有意な改革をしようとしても、つまらないところで頓挫してしまうことも危惧されるのかもしれません。

それこそ、菅首相であれ安倍首相などであれ「今回は前例などを尊重した形にしたが、今後は簡素化したい。少なくとも、自分には税金は一切無用」と表明していただければ、支持率アップにつながるのでは?などと、余計なことを思わないでもありません。

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ところで、先日、「原敬首相と田中舘愛橘博士(二戸出身で戦前の日本物理学の構築者の一人)の対話という形で、明治・大正の社会が何を目指そうとしていたのか(目指すべきだったのか)を描いた本」を読んでいました。
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5863-1.htm

この本は色々と学ぶところが多く、ぜひ皆さんにもご覧いただきたいのですが(後日、改めて取り上げたいと思っています)、終盤、原敬の暗殺直後に、遺体を官邸に運ぼうとした立憲政友会の面々に対し、夫人が

「死ねば、もはや私人」

と述べて公の行事を拒み、自宅に連れ帰ったと述べられています。そして、暗殺に備えて生前に準備されていた遺言により葬儀が盛岡で営まれ、氏名のみ表示した墓碑が建立されたことなどは、広く知られているとおりです。

歴史をきちんと勉強した方ならご存知かと思いますが、原敬首相は、明治政権(薩長閥など)の威光に依らぬ政党政治家として、最初に首相に上り詰めた御仁であり、日本の政党政治=民主政治の創設者(原点)の一人と評しても過言ではありません。

そして、原敬の政治手法には様々な議論があるにせよ、米国との対立の回避を重視した政権運営や私益を一切図ろうとしなかった生涯なども相俟って、引用の書籍などに限らず、様々な場で再評価がされており、「彼が暗殺されなければ、あの戦争は回避されたのかもしれない」と論じられることもあるようです。

その御仁が、生前はもとより死後にも位階勲等を拒否し、郷土に強い誇りを抱いた一人の地域人(盛岡人)としてのみ葬られることを望んだことの意義や価値について、いま改めて、現代日本人は学ぶべき点が多々あるのではないかと思っています。

或いは、彼は今も大慈寺から「白河以南の奴らは死んだ後も税金ばかり欲しがってダメだなぁ」と述べているのかもしれません。

まあ、そんなことを言うと、「鈴木善幸首相だって国葬されてるよ」と言い返されるかもしれませんが・・

芥川賞受賞作「影裏」の映画試写会の感想と、現代に甦る三島文学の世界?(改)

昨日、芥川賞受賞作を原作とする大友啓史監督の映画「影裏」の完成披露試写会が盛岡市内で行われ、とある事情により招待券をいただいたので、拝見してきました。司会の方によれば、一般向けの試写会はこれが初めてとのことです。
https://eiri-movie.com/

冒頭に主演のお二人と監督のご挨拶もあり、ご本人達のオーラもさることながら、職人気質の優等生的な綾野氏と不思議ちゃんキャラの龍平氏が対照的というか、作品とも通じる面があり、興味深く感じました。

作品の説明は省略しますが、純文学そのものという印象の原作を忠実に映画化した作品という感があり、(見たことがありませんので何となくですが)昔でいうところの小津映画のような作品なのだろうと思います。

言い換えれば、ブンガクの世界に浸ることができる人には見応えがあり、そうでない人にはとっつきにくい面はあるかもしれません。

ただ、(ネタバレは避けますが)冒頭の主人公の自宅の描写(映像)にやや面食らうところがあり(作品のテーマを暗示しているわけですが)、綾野氏ファンの方や「筋肉体操の方々よりも細身の男の生々しいカラダが見たい」という方(おばちゃんとか?)にとっては、必見の作品ということになるかもしれません。

全くそうではない私のような者には冒頭は少ししんどいですが、目のやり場に困ったときは、カルバンクラインの文字だけご覧ください。

この作品では主人公が抱えた特殊な事情が重要なテーマになっていますが(原作を読む前からWEB上で散々見ていたせいか、初稿では自明の話と思ってストレートに書きましたが、同行者から「それこそネタバレだ」とクレームを受けましたので、一応伏せることとしました)、小説よりもその点が生々しく描かれているというか、主人公のキャラクターや振る舞いは、流行りのアルファベットよりも、その点について日本で昔から使われている言葉に馴染むような気がしました。

と同時に、もう一つの軸は、震災というより、相方である龍平氏演じる男性の特異なキャラと生き様であり、それを一言で表現すれば、「虚無(又は滅びへの憧憬ないし回帰)」ということになるかと思われます(この点も書きたいことは山ほどありますが、一旦差し控えます)。

で、それらのテーマからは、かの三島由紀夫が思い浮かぶわけで、小説版ではその点を意識しませんでしたが(そもそも、私は三島作品を読んだことがほとんどありません)、映画の方が「三島文学ちっく」なものを感じました。

とりわけ、本作が「主人公たちが無邪気に楽しむ岩手の自然や街並みの風景」を美しく描くことにこだわっているだけに、「文学的な美」という観点も含めて、この映画は、意図的かそうでないか存じませんが、「生きにくさを抱えた美しいものたちと、それらが交錯する中で生まれる何か」といった?三島文学的な世界観を表現しようとしているのではないかと思う面はありました。

もちろん、「若者は、本当に好きな人とは結ばれず、折り合いがつく相手と一緒になるだけ」というオーソドックスな(ありふれた?)恋愛映画との見方も成り立つでしょうから、そうした感覚で気軽に楽しんでもよいのではと思います。

私は昨年に原作を読みましたので、原作との細かい異同を垣間見ながら拝見しましたが、同行者は全く原作を読んでおらず、「一回で理解しようとすると疲れる映画」と評していました。この御仁が「ここはカットしても(した方が)よい」と述べたシーンが幾つかあり、それが悉く原作にはない映画オリジナルのシーンでしたので、その点は、同行者の感性を含めて興味をそそられました。

個人的に1点だけ不満を感じた点を述べるとすれば、龍平氏(日浅)にとってのクライマックスシーンで、「あれ」を全面的に描かないのは、ストーリーの性質上やむを得ないとは思うのですが、できれば、直前ギリギリまで、言い換えれば、引き波が姿を現す光景までは、主人公の想像という形で構わないので、描いて欲しかったと思いました。

原作には、主人公が、日浅の根底にあるメンタリティ(倒木の場面で交わされた言葉と思索)を根拠に、日浅は「その瞬間を自らの目で見たいと思うはずだ」と語り、その瞬間を目にした(直に接したのかもしれない)日浅が浮かべたであろう恍惚の表情を想像したシーンがあったと記憶しています。

私は、巨大な虚無を抱えた日浅が圧倒的な光景の前で恍惚の表情を浮かべる光景(そこには虚無の救済という三島文学論で語られていたテーマが潜んでいるはずです)こそが本作のクライマックスではないかと思っていましたので、その点が映画の中でストレートに描かれていないように感じたことには、映像化に難しい面があるのだとしても、少し残念に思いました(日浅の思想自体は、映画のオリジナルシーンで、ある人物が代弁しています)。

とはいえ、「性的な面が意識的に描かれる主人公と、全く性の臭いを感じない日浅」という点も含め、作品全体を通じて不穏・不調和な雰囲気が漂う本作は、通常の社会内では品行方正に生きているのであろう主人公が抱えた「本当はこの社会が自分には居心地の悪い世界だということ」、そして、主人公にとっての平穏ないし救いもまた、社会の側(映画を見る側の多数派)にとって、どこか居心地が悪く感じるものなのだろうということを、主人公のコインの裏側のような存在であるもう一人の人物(本当は社会と不調和を起こしている主人公の代弁者のような役割を担っているように見えます)にとってのそれも含めて映像として描いている作品であることは間違いなく、大人向けの純文学の映画としては、十分に見応えがあるのではないかと思います。

ちなみに、この映画は、とある理由で、中央大学法学部のご出身の方には、ぜひご覧いただきたいと思っています。そして、この大学(学部)のカラーが「やるべきことを地味に地道に積み上げて、あるべき場所に辿り着く職人」だということを知っている人には、この映画のあるシーンを見たとき、敢えてウチの看板が使われたことの記号的意味に想像を巡らせながら、苦笑せざるを得ないものを感じるのではと思います。

原作では、大学名が出ず法学部政治学科とだけ書かれていましたが(映画では学科の表示があったか覚えていません)、それだけに、中央大学法学部政治学科卒で、しかも心に何らかの虚無を抱えて生きるのを余儀なくされている?ホンモノの岩手人としては、余計なことをあれこれ考えさせられる面があったように思います。

あと、せっかくなので、ご覧になる際は、エンドロールを最後の方まで目を凝らしてご覧くださいね、というのが当事務所からのお願いです。

余談ながら、試写会なるものに参加したのは初めてですが、終了時に関係者の方から「これで終了です。ご来場ありがとうございました」のアナウンスがあった方がよいのでは?と思いました(終了後も何かあるのか、そうでないのか分からず、帰って良いかそうでないのか判別しかねますし、試写会なので、最後に関係者の一言で皆で拍手する?といったやりとりもあった方がよいでしょうから)。

最後に、私の密かな野望である「大戦の戦渦からシンガポール植物園等を救った田中舘秀三教授の物語」の映画化は、いつになったら実現できるのやらという有様ですが、大きな代償と引き換えに?、某プロデューサーさんによれば、企画案自体は監督にも伝わったとのことです。願わくば、「男達の熱い物語」の作り手として現代日本に並ぶ者がないであろう大友監督の作品として、いつか世に出る日が来ればと、今も岩手の片隅で願っています。

木伏緑地の華々しい新装開店と、歴史の彼方に消えた?先人達の魂

先日、所用のついでに、先日に全面改装された北上河畔にある「木伏緑地」に立ち寄ってきました。

木伏緑地は以前から小さな公園(後記参照)でしたが、Park-PFIという手法により、多数の民間店舗を公園内で営業させ、その営業利益を元手に公園の整備を行ったのだそうで、オープン時に盛んに報道されたとおり、横浜ベイエリアあたりから飛び出てきたようなお洒落な飲食店が立ち並び、江戸期(京文化移植)以来、都会が大好きな盛岡市民の方々には好評を得ているようです。

が、これから寒くなる一方なので、紺屋町あたりにありそうな、イケてないおじさんなども気軽に立ち寄れる「おでんと熱燗のお店」も配置した方がよいのでは、と余計なことも思ったりしました。

ところで、この界隈(緑地)の北側には「谷藤翁顕彰碑」なるものが建立されています。谷藤翁といっても現職の盛岡市長さんではありませんが、谷藤市長の直系のご先祖さんであることは間違いないはずです。

碑文によれば、明治の初期に盛岡駅が開設された際、当時は夕顔瀬橋以南に道路がなく、北側の往来は「盛岡駅→開運橋→材木町→夕顔瀬橋」という迂回を強いられるなどしていたため、盛岡駅北面の大地主で実業家でもある谷藤家の当主が、私費を投じて盛岡駅(開運橋西袂?)から夕顔瀬橋までの道路を開設したので、それを顕彰するのだと書いてありました。

そして、その際、その道路が「木伏街道」と呼ばれたのだそうで、これが木伏緑地の名称のもとになったようです。

この「木伏」という字、これまで、てっきり「きぶせ」だと思っており、今回初めて「きっぷし」という呼び方だと知ったのですが、聞いた瞬間、それってアイヌ語由来なのでは、と思って調べたところ、やっぱりそうだ(そして、このエリアの元々の地名だった)ということが分かりました(下記引用の「もりおか歴史散歩」の記事を参照)。
https://blogs.yahoo.co.jp/fiwayama/12270884.html

余談ながら、FB上で「盛岡駅に勤務する人達が住んでいたから、切符士が転じて木伏になったと聞いた」と投稿されている方を見かけたのですが、「切符士」で検索しても、そのような言葉自体が出ませんでしたので、恐らくは噂話の類かと思われます。

ともあれ「木伏緑地」なる名称を誰が付けたのか分かりませんが、アイヌ語(きっぷし)と漢語(りょくち)の相性が良くないというか、実に言いにくい(音のつながりが悪い)ので「きぶせ(りょくち)」に読み替えた方が楽だというのが正直なところではあります。

が、盛岡市内にはアイヌ語=古代からの地名がほとんど残存していないので「きっぷし」なる地名は貴重で、味気ない「緑地」の方を他の言葉に代えるべきと思われます。

「きっぷしひろば」など、和語とくっつけるのが手っ取り早そうですが、広場などというありふれた言葉では有り難みがないので、いっそ、アイヌ語で、この場所に相応しい名称(河畔の台地にあたるような言葉)があれば、それを拝借するのが良いのでは、と思ったりします。

wikiによれば小さな集落をアイヌ語で「ポンコタン」というのだそうで、例えば「キップシ・ポンコタン」などと改名?するのも良いかもしれません。

ところで、この場所は少し前まで「啄木であい道」と称され啄木とその関係者の歌碑群が設置されていましたが(引用サイト等を参照。検索すれば同種記事は多数出てきます)、現在それらは全て姿を消しているようで、「であい道」の面影は全くありません。
http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/takudeaimiti.html?fbclid=IwAR0FsQP_DkO4L3Nxe3G09ugrEQ_E-Uw1kZCOSF8GJCkyi9NZYXIKEhSfJaU

歌碑群はどこかに移設されたのか、それとも無残に廃棄されてしまったとでもいうのか、少し検索した限りでは該当記事が見つからず全く分かりませんが、これを撤去したのは、早計だったのではと感じます。

というのは、「緑地」の飲食店群はそれなりに「都会のオサレ感」が満載ではあるものの、その周囲には、悠々と流れる北上川や少し離れて望む開運橋などを別とすれば、殺伐というか、お店しかオサレ感を出すものがなく、芸術云々など他のオサレ装置がない(言い換えれば、空間全体のオサレ設計が足りない)ため、オサレ感目当てに来た人にとっては物足りないというか、実に寂しい感じがします。

例えば、飲食店群が並んでいる通り(緑地の本体)の下にある河川敷の草原部分に、それら石碑をセンスよく再配置(移設)すれば、階段を降りて歌碑を見に行かなくとも、店舗群(丘の上)から歌碑群を見てオサレ感を相応に満足させることができるのではないか(ちょっとした石碑公園=プチ石神の丘感が出るのでは)という感じがします。

もちろん、(増水時を別とすれば)時間のある人はついでに降りて歌碑群を見に行けばよいでしょうし、岩手公園まで行かなくとも、北を眺めさえすれば「ふるさとの山に向かいて言うこと無し」と勝手に呟いても様になりますので「ここでしか得られないナッタ鬼感」を味わえるのではと思われます。

さらに言えば、この草原(河川敷)部分は夜間は真っ暗ですので、土日など盛況の際はLEDで歌碑群や川面などを照らせば、夜も華やかな雰囲気が多少は出るのではと思います。

啄木であい道は、盛岡市内(中心部)には、啄木新婚の家(と盛岡城の歌碑)しか啄木遺産(ゆかりの場所)がないという点を踏まえて、住民と来訪者に「啄木ワールドをもっと伝えたい」との思いで作られたのではないかと思われます。

それだけに、緑地がオサレ改装すること自体には何の異議もないものの、「啄木であい道」の姿を抹殺してしまうことには疑問を感じざるを得ません。

啄木であれ、さらに古い先人達であれ、その息づかいを何らかの形で残しておくことが今回の改装の際に留意されるべきではなかったか(それが十分になさず、都会的なものの移植に止まっていることが、上記の「物足りなさ」の背景にあるのでは)などと感じないこともありません。

もし、今も歌碑が残っている(どこかに保管されている)のであれば、そのような「歌碑の生かし方」を関係者の方々には考えていただきたいところです。

ふたつの「もりおか」と地域のアイデンティティ

盛岡には「杜稜」と称する施設や団体などが幾つかあり、この古めかしい中国語は訓読みで「もりおか」になるため、盛岡を表す雅語として古くから親しまれており、企業名などを含め、市内で多く使われています。

他方で、先日の地元のネット記事で初めて知ったのですが、中ノ橋・肴町周辺のエリアは「杜稜地区」と称されているのだそうで、その地区に杜稜小学校もありますので、定義が混乱しているというか(「河南地区」とどう違うのでしょう?)、遠方出身のヨソ者には内実が非常に分かりにくい言葉だと感じています。

肴町周辺エリアが杜稜なる名乗りの発祥だという歴史でもあるのでしたら、ぜひご教示いただきたいのですが、或いは、過去の一時期に、そうした「流行り雅語」に飛びついた方々が市内にいて、それぞれが勝手に「杜稜」を名乗った状態が続いて現在に至っただけなのではと想像しないこともありません。

ちなみに、岩手県庁の公務員の方など(外郭団体を含む)が住宅ローン等の際に利用する公務員の互助組織たる金融機関は「杜稜信用組合」というのですが、これは盛岡信用組合と名乗っているものに他ならないので、盛岡以外の出身の県職員等の方々は、名称変更運動をしなくてもよいのかなぁ(アイデンティティを考えれば、岩手公園などよりも遙かに名称変更の必要があるのでは?)と感じないでもありません。

個人的には、「岩手信用組合」だとつまらないので、当県が南部と伊達の混成県であることを踏まえて「ナンダ信用組合」とでも名乗っていただければ、全国の皆さんの関心を惹きつけることができそうな気がします。

かなり前のことですが「杜稜地区」に関する記事を見つけたので、毎度ながら下らないことを考えて投稿させていただいた次第です。
http://www.morioka-times.com/news/2018/1809/28/18092801.htm

盛岡を舞台とした映画を制作する方々の光景と、その影裏で?盛岡出身の偉人の物語の映画化を目指す男

先日の盛岡北RCの例会は、当クラブきっての顔の広さ(社交力の凄さ)を誇るTさんのご紹介で、大友啓史監督とタッグを組み同監督の映画作品などのプロデューサーを務めておられる五十嵐真志さんという方(引用サイトの運営企業の役員さん)がゲストとして卓話をして下さいました。

主として、来年上映予定の芥川賞作品「影裏」(綾野剛・松田龍平の共演作品。沼田真佑原作)の制作過程や作り手の方針などに関する説明があり、若干のマル秘話のほか、市内各地のロケや大友監督の作品にかける思いなどを説明されていました。

昨年頃、盛岡の方が近所でロケが行われていたのを発見したとfacebookで投稿されていたのを拝見していますが、ロケ地の写真などもプロジェクターで紹介されていました。

で、スピーチの最後に、この映画は大企業のみがスポンサーとなっていた過去の大友作品と異なり協賛を広く募っており、とりわけ「オール岩手ロケで、岩手の作品として世に送り出したい」とのコンセプトから、盛岡をはじめ岩手県内の企業さんに対応可能な金額で協賛者になって欲しいとの呼びかけがありました。

基本となるコースは、相応の規模の企業や資産家の方でないと気軽にイエスと言える額ではないようですが、エンドロール等に出るだけでなく自社商品に「影裏」の文言を用いて販売等することも了解するほか(すでに県内の某著名酒造メーカーが特製日本酒を販売する方向で準備中とのこと)、大友監督との対談などの特典も付いてくるのだそうです。

そんな額は無理という方でも、多少無理をすればどうにか賄える程度?の協賛口があり、詳細は忘れましたが、そちらもエンドロールで名前が出るほか試写会招待などの特典もあると聞いたような気がします。

というわけで、同作品を応援したいとか、商品展開も含めた宣伝に乗り出したいという方は、ぜひ、五十嵐さんまでお問い合わせ下さい、というか、連絡先知らんぞという方は、名刺をいただきましたので、ご遠慮なく私にお申し出下さい。

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・・と、ここまで、どうして頼まれたわけでもないのに、協賛などの類にはご縁のない「運転資金の調達に日々追われる田舎町弁」の私がこんなことを書いているかというと、そこには一つ、重大な下心がありました。

皆さんお忘れかもしれませんが、3年ほど前「太平洋戦争下のシンガポールに二戸生まれで盛岡出身の変人学者さん(田中舘秀三・後の東北帝大教授)が突如現れ、世界遺産・シンガポール植物園と大英帝国が有する東南アジアの貴重な学術資産群を陥落に伴う戦火や略奪から守った物語(あらすじ案)」を本ブログで延々と連載し、いつか映画化を目指したい!などと恥も外聞もなく途方もないことを書いたことがありました。

もちろん、戦時下に重要な役割を果たした同郷の方を顕彰したいというだけの気持ちからのことでしたが、その後は、何をすることもなく(一度、本格的な研究者らしき方からDMをいただき大変驚いたことはあります)、無為のまま現在に至っていました。

そこで「このあらすじ案を大友監督に渡して映画化して下さい」などと馬鹿なことを申すつもりはありませんが、沼田氏であれどなたであれ、五十嵐さんの人脈に連なる方で、この秀三先生の物語に関心を持っていただける方がいれば、それをとっかかりに、本物の小説家による新たな小説完成→いつかは大友作品へ、という野望もありうるのでは・・との儚い夢を抱かないではありませんでした。

が、さすがに、手ぶらで「あらすじ案」を渡しただけでは「なんだこの変な奴は」の一言でおしまいというか、少年ジャンプの編集者に駄作を持ち込み封も開けてもらえず突っ返されてトボトボ田舎に帰る哀れな高校生並みの話になるでしょうから、せめて、誰か協賛金のお力になって下さる方がおられれば、それを手土産に・・という他力本願なことを思いついた、というのが本投稿の率直な動機です。

というわけで、(私のことはさておき)大友監督作品のエンドロールに載りたい、いや、対談もしたい(かなりお金はかかるけど・・)という方がおられば、ご遠慮なく私までご連絡下さるようお願い申し上げます。

盛岡市長選に関するJCアンケートと問われるべきこと

先日、facebook上で「盛岡JC(青年会議所)が盛岡市長選の公開討論会(本年8月予定)の準備として市政に関するアンケート調査を行っている」との投稿が流れていました。

この「盛岡JCが行う政治絡みのアンケート調査」は、私の認識違いでなければ、平成19年に盛岡JC(JC岩手ブロック)が増田寛也知事の要請に応えて「マニフェスト検証大会」を行った際、担当委員長さんの発案で始まったものですが、私も委員会の下っ端としてアンケートの作成に関わっており、後年には分析レポートまで作成したこともありました。

今回のアンケートは、回答者の属性に関する質問のほか、「重要だと思う政策課題を多数の選択肢から選ぶ」質問と自身の見解を問う個別の質問が2つという構成になっていますが、平成19年のアンケートの形式もほぼ同様であり、色々と懐かしさを禁じ得ません。

というわけで、折角なので、アンケート調査に回答することにしました。で、最後まで書いたところで、当時は無かった「1万円ギフトカードプレゼント」という告知を見つけたので、「ひょっとして俺もあたるかも、いや、こんなに立派なこと(自称)を書いたんだから、きっと当たるに違いない」とネジの外れた感覚に浸りつつ住所氏名も書いて送信ボタンを送りました。

が、そのあと、アンケート案内のページを見たところ・・

「アンケート調査期間 4月1日~4月30日」

と書いてあるではありませんか。

まさか、5月以後に送信した奴はギフトカードの(集計も)対象外??

がーん(?)

というわけで、悔しまぎれに、設問4、5で書いたことを載せましたので、候補者の方々とお話しする機会のある方は、ぜひ、質問等の参考にしていただければ幸いです。

【盛岡の魅力とは】

古代から近世まで、時には中央政権の広域支配の拠点、時には衝突の舞台となり、近代は政府要人を輩出するなど、北日本固有の精神(続縄文文化)と中央政権の国策(弥生)が交わる最前線ないし結節点としての色合い(二面性)とそれに起因する成果を生じさせた歴史を持っていること

【盛岡市長立候予定者に聞きたいことは】

明治期から戦前頃まで、原敬や新渡戸稲造、旧制盛岡中学関係者をはじめ盛岡出身又は縁のある多くの人材が政・官・財・学・文の各界で活躍し勇名を轟かせましたが、戦後から現在まで、そのような話を聞くことは少なくなり、文化・スポーツ等では一定の著名人を輩出しているものの、とりわけ政官財の世界では盛岡出身者の際だった活躍を聞くことがあまりありません。

そのことに対して、時代の違いと理解するほかないのか、市長として、日本や世界で活躍できる人材の育成や支援について特に検討されていることがあるか、現に活躍されている方々と現在の市民(とりわけ若年世代)との架橋や市民への還元のあり方なども含め、ご自身のお考えをお知らせ下さい。

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と書いて送信・投稿した後になって「こうした、何とでも言える主尋問型の質問よりも、意地の悪い反対尋問型の質問を考えた方がよかったのかも」と少し思ったりもしましたが、どうなんでしょうね・・

 

啄木の未完の志とふるさとへの宿題

今年のGWは遠出ができなかったので、せめてものということで啄木記念館に行ってきました。

館内は啄木の生涯を簡潔に説明しつつ関連する様々な資料や写真を展示しており、啄木に対する一定以上の事前知識や関心の深い人にとっては相応に見応えがあるのでしょうが、「啄木とは、どのような人間で、社会に対してどのように意義のある関わり(貢献)をしたのか」についての一般向けの説明をほとんど見かけません。

そのため「ほとんど何の予備知識もなく啄木の名前と歌人であること程度しか知らない人」にとっては、見ても何だかよく分からないものばかり展示しているだけの施設という印象しか受けないのではと感じました。

私の理解では、啄木の意義(功績)は、明治という曲がりなりにも四民平等(身分制とそれに伴う様々な社会的桎梏からの解放)の理念が掲げられた社会において、一般の人々が自分自身の様々な感情(心象風景)を自分の言葉で伝えることの意義・価値を社会に広めた、言い換えれば、そのような営みを、皆がしていこうじゃないかと働きかけたという点だと考えます。

そして、啄木の歌が今なお多くの人に愛されているとおり、啄木が、平易でありながらセンスのよい言葉(言い回し)を用いた短歌を多く残したことは、聞き手に対し、そのような言葉(表現)の心地よさを感じさせ「自分の言葉で自分の気持ちを語る」ことの意義や価値(人々の心の解放)を、社会に浸透させてきたと言えるのではないかと思います。

現代は短歌という文化自体は当時より廃れたかもしれませんが「自分の気持ちを平易な言葉でセンス良く語る」という文化は、この100年以上の期間においてポップミュージックの気の利いた歌詞など様々な形で社会に浸透したとも言えるわけで、そのような意味では、啄木の歌はそれらの源流の一つと位置づけても過言ではないのではと思われます。

記念館の敷地内には与謝野晶子の歌碑もあったのですが、現代人の感覚からみれば、いかにも古めかしいというか、啄木の歌ほどの「現代人から見てもセンスがいい感じ」を受けず、そうした意味でも「100年以上先に残る仕事」を啄木がしたことは間違いないと思います。

このように考えているのは私だけでなく、以前に少し調べたところ、NHK盛岡放送局が同趣旨のことを述べた番組を放送していたようです(引用の記事は、現在は閲覧できない状態になっており、NHKは引用記事を復活させて記念館に掲示するよう働きかけていただきたいものです)。
http://www.nhk.or.jp/morioka/obandesu/newsnohatena/130430/index.html

しかし、以上に述べたようなことを伝える掲示などはこの記念館には全く見受けられません。それゆえ、意地の悪いことを申せば、この施設を運営する人々(お役所?)は、啄木の意義や価値を社会に伝えよう、多くの人に知って貰おうという考えを本当に持っているのだろうかと疑念を感じざるを得ません。

振り返ると、啄木の人生自体、金田一京助や宮崎郁雨など幾人かの理解者に恵まれたものの、自身や父の生活上の至らなさもあって?故郷の人々に「石もて追はるる」ように渋民を去り流浪の人生を送ったわけで、その本質的な意義が地域の大多数の人々に理解されない状態にあるのは、今も昔も同じということなのかもしれません。

先駆者であると共に成功の果実に接することなく貧困の中で無念の死を遂げた啄木は、渋民そして盛岡に余人には代え難い不朽の香気を遺しつつ、自身は「100年後に生まれたかった、そうすればイケメンの俺様はポップアーティスト(シンガーソングライター)として財を築くこともできたのに」などと不満を述べているかもしれません。そんなことを思いつつ一首。

ふるさとの桜となりし啄木鳥は 春を告げるも春生きられず

ご承知のとおり、私はこのブログで「短歌(や川柳)のまがいものらしきもの」を時々作って掲載しています。これは、静岡県富士市の「ふじのくに田子の浦みなと公園」で山部赤人の歌碑を見て、蝦夷の末裔として返歌を作ってみたくなったというのがきっかけなのですが、「岩手の県北に生まれて、盛岡・函館・東京の3ヶ所を転々とした人間」の一人として、前述した啄木の意義・価値を、私なりの悪あがきで現代の人々に問い続けたいという気持ちの表れかもしれません。

私が訪問したときは、記念館では啄木が「一握の砂」の中で執筆した「林中の譚」と題された寓話をもとに作られた紙芝居が上映されていました。

土木文明に狂奔し乱開発による富貴自慢に明け暮れる人類をサルが嘲笑うという類の話で、現代人にとってはさほどの新鮮味はありませんが、当時そうした問題意識を持っていたのは足尾鉱山事件に関わった田中正造くらいでしょうから、晩年に見られた人民主権的(自由尊重)的な政治姿勢も含め、当時なら先駆的な知見ということになるのではと思われます。

と同時に、そのこと(自然尊重と畏敬)は、北東北の片田舎で育った我々にとっては当たり前の事柄でもあり、そうであればこそ、それらの根底にあるもの=縄文あるいは蝦夷のアイデンティティを何らかの形で再興させていく責任を我々は負っているのではと思わずにはいられませんでした。